現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2008年 2月 「言行を一致させる」

「言行を一致させる」

ジル・フライによる並外れたサマリア人、ダイアン・ラング氏へのインタビュー

南アフリカ生まれのダイアン・ラング氏は、母国でのHIV・エイズに関連した医療と教育の改善に尽力するという、人生を左右するような決断を2000年に下す前、心理学者として働いていた。最近出版された本『マンデラの子供たちを救う』の中で、彼女は自分の驚くべき体験について語っている。経済的に困窮している町ミドルバーグでワークショップを開催し介護人を訓練したことを皮切りに、見捨てられた子供たちを救い、子供たちの家をつくり、そうした子供たちの権利のために地方当局と戦った体験が記されている。 「ダイアン・ラング子供の家」は、親に面倒を見てもらえない子供たちのために支えと避難所を提供している。子供たちの多くはHIV・エイズにかかっている。この施設は政府から資金提供を受けておらず、主として個人献金に、特に英国から送られてくる献金に依存しているため、常に存続のための戦いに直面している。ダイアンさんはその業績のゆえに名誉ある賞を獲得すると同時に、崩壊しつつある児童保健制度の腐敗を暴露したせいで、黙っていろという脅迫を受けるようになった。2006年12月、命が危険にさらされたため、彼女は英国に脱出せざるを得なかった。 ジル・フライがシェア・インターナショナル誌のために彼女にインタビューを行った。
シェア・インターナショナル(以下SI):南アフリカではどのように育ったのですか。
ダイアン・ラング:私はトランスケイと呼ばれる南アフリカの一地方で生まれ育ちましたので、部族制度の中で成長したということになります。非常にアフリカ的な世界に片足を入れ、非常に白人的な世界にもう片方の足を入れています。西欧世界に踏み込むこともできますが、アフリカの部族文化も深く理解しています。私が話した最初の言語は、英語ではなくコサ語でした。両親は貿易業者で、私はアフリカ生まれの6代目です。私たちはその近辺で唯一の白人であり、周りはすべて黒人でした。 トランスケイは1964年以来、自治的な部族システムとして自治を行っていましたので、南アフリカのアパルトヘイトには影響を受けませんでした。部族の掟の下で生きるとき、酋長と大首長が権威になります。道を踏み外したとしても、両親は罰を与えません。酋長のところに送られて、自分の悪い行いについて説明すると、酋長がその人の罰を決めます。それは非常に特異であり、私がアパルトヘイトを見たのは、大人になって南アフリカに移住してからです。私はぞっとしました。以前に見たことがなかったため、あまりの分離主義にぞっとしたのです。
SI:どのようにして運動に関わるようになったのですか。
ラング:私はそれまでずっと、常に弱者の世話をしていました。他の人々の苦しみをなくしたいと思っていましたので、その苦しみの中に足を踏み入れたせいで常に問題を抱えていました。どんな形の不正義にも我慢することができませんでした。ですから、アパルトヘイトを見たとき、それが正しくないことを知りました。ですから、様々な運動に参加し、自分の意見を主張し始めました。自分は変化を起こしていると、私は思っていました。 子供たちが体育着を忘れたり、算数の合計値が違っていたり、ちゃんと読むことができなかったりすれば、子供たちは学校でよくたたかれました。ですから、私は「恐怖のない教育のグループ」を結成し、やがて体罰は学校で廃止されました。交通信号のない学校で見張り役を務めたり、樹木を保存しようとしたりしました。私はいつもそんなことをしていました!
SI:アパルトヘイトの終結を見てどう思いましたか。
ラング:この新しい南アフリカが誕生したとき、私たちが欲していたものが今や実現したので、本当に嬉しく思いました。この民主的で自由な国、南アフリカに対しての希望に満ちていました。ネルソン・マンデラが大統領に選出される前、すべての南アフリカ人が憲法の草案作りに何らかの形で関与しました。すべての人が諸権利を享受できるように働きました。私は多くの会議に参加し、様々な考えを徹底的に議論し、人権宣言を検討しました。私たちの憲法は世界で最も優れていると思います。 児童保護法と刑事訴訟法も検討しました。関係者すべてにとって公正な状況をつくるために、非常に多くの法律が改正されました。人々が何の理由もなく投獄されることがないよう、憲法裁判所が国で最高の裁判所となり、すべての下級裁判所が憲法の精神に従わなければならなくなりました。ANC(アフリカ民族会議)が政権を引き継ぐ前は人種差別主義者であった人々も含むすべての人が、憲法のおかげで希望を感じました。選挙では、私たちすべてが一緒に投票し、本当にとても穏やかな日でした。そして1995年6月、スプリングボックスがラグビーの試合に勝つと、南アフリカ全体が歓喜に沸き立ちました。それは、辛酸をなめてきたこの国の一体感を典型的に示していたからです。人々がこの美しい国に対して、そして私たちがやろうとしていることに対して、喜びと希望を感じました。アフリカの他の地域とは違った国になろうとしていたのです。
SI:それでは、南アフリカの新しい出発の後に何が起こったのですか。
ラング:ムベキ氏が大統領になった時、私はこの国を見て、この国はどこへ行こうとしているのだろうと思い始めました。人々がハエのようにばたばたと死んでいくという途方もなく大きなエイズ問題を抱えておりますが、厚生大臣は薬を少しもくれようとしません。ムベキ大統領は、HIVがエイズを引き起こすのではなく、エイズは貧困によって引き起こされると言っていました。厚生大臣はレモン・ジュースとビートの根とニンニクで治療することができると、投薬は病気そのものより悪いと、私たちに教えています。そして今、呪術医たちは「女の子をレイプすればエイズが治る」と言っています。 今では全く仕事がなく、白人を含めたすべての人が路上に立って、手を差し出して食べ物を求めています。もしあなたが白人の男性であるならば、誤った方法で実施されている「差別是正措置」のせいで仕事を得ることができません。今では、かつて恵まれていなかった人々だけが仕事を得ています。政治においては、差別是正措置により、資格のない人々が権力ある立場に就くということが起こっています。大規模な頭脳流出が起こっており、白人と教育を受けた黒人が群れをなして国を出ています。
SI:HIV・エイズ教育にはどのように関与することになりましたか。
ラング:私はエジンバラから飛行機で帰る途中、「帰国したくない」と考えていました。パニックに襲われ、自分がとても素晴らしい時を過ごしていたことに気づきました。叩かれたり、襲われたり、刺されたり、撃たれたりしないか確かめようと肩越しに見るという感覚は二度と味わいたくないと思いました。 それから、私はこう考えました。失業や犯罪については何もできないけれど、HIVとエイズについては何かできる、と。着陸後2週間以内に、友人と私は、「HIV・エイズ=死」というポスターで政府が人々に伝えようとしたことを是正するため、エイズについての認識を深めるワークショップを企画しました。私はこう考えていました。HIV・エイズは死につながらない、この病気にかかっても非常に長い間生き延びることができる、と。 私たちはポートエリザベスでエイズ・ワークショップを始めました。それから、そこにはすでにかなり多くのNGOがあるということ、そして貧困が最悪の状態にあり、誰も行かないようなところに行く必要があるということに気づきました──イースタン・ケープ地区のミドルバーグという場所を見つけました。私は誰からの援助も受けず、私費を投じていました。 私の夢は、その地区のすべての町のすべての通りに在宅介護人を置くことでした。2年以内に、その地区のすべての通りに資格を持った在宅介護人が置かれました。彼らは人々の世話をする能力を十分に備えており、人々が一人きりで、怖がりながら死んでいく必要はありませんでした。子供たちに教えるために学校を回り、劇を通してHIV・エイズについての認識を深めさせようとする人々のグループも訓練しました。私は孤児になったエイズの子供たちのボランティア支援者になるよう学校の仲間たちのグループを訓練したり、他の訓練生たちにトレーニングを行ってきました。
SI:見捨てられた子供たちをどのように世話し始めたのですか。
ラング:私はHIVの訓練生と支援グループが集まれるよう、ミドルバーグに小さな家を購入しました。HIVはまだ使用しづらい言葉でしたので、その家を「ダイアンの友達のグループ」と呼ぶことにしました。ある夜そこに滞在していると、ドアをノックする音が聞こえました。ドアを開けると、3人の幼い子供たちがそこにいました。
ダイアンさんは自著の中で次のように回想している。ストリート・チルドレンを助けているある男性が戸口のところに立ち、「『この3人の子供を鶏囲いの中で見つけましたが、一人が赤ん坊で、他の二人は女の子なので、私には面倒を見ることができません。どうか引き取っていただけますか』と言いました。私が何かを言おうとする前にその男性は去ってしまいました・・・そしてこの3人の幼い子供たちが私を見上げていました・・・私はドアを大きく開けて、『ゲーナ(入りなさい)』と言いました。廊下の明かりに照らして見ると、ぞっとしました。一人の女の子は足にひどいやけどを負っていて、自分の名前や自分が何歳なのかも分かりませんでした。ぼろ服を着て、靴を履かず、寒さで震えていました。どのくらいの間、鶏囲いの中にいたのか思い出せないけれども、ときどき人々が食べ物を投げ入れてくれたと言いました・・・もう一人の幼い女の子は、自分の名前が『ブロウ(青)』で、幼い男の子は自分の弟だと話しました。彼には名前がなかったため、彼を『ボエティー(兄弟)』と呼んでいました」。小さなパンを口にしたとき、子供たちは2日間食べていなかった。女の子は二人とも何度もレイプされていた。3人の子供たち全員がダニとシラミを持っていた。そして全員が栄養不良で、極度のトラウマを負っていた。ダイアンさんは子供たちに食べさせ、入浴させ、自分の服を着せ、その夜は自分のベッドに入れてあげた。事前に計画しなくても、子供たちの家は誕生したのである。
SI:今は何人の子供たちがおりますか。また、他の子供たちはどのようにしてあなたのところに来たのですか。
ラング:42人の子供たちがいます。最年少は2歳の幼児で、最年長は17歳です。その子供たちの大部分を、私は小さな赤ちゃんのときに受け入れました。へその緒がまだ付いた状態で戸口のところに置かれていたり、私が見つけてきたりしました。夜中に通りを歩き、段ボール箱の下や郊外のごみ捨て場を見ることがよくありました。子供たちはごみ捨て場に名前を付けていて、そこを「レストラン」と呼んでいます。
ダイアンさんは自著の中で、「レストラン」を初めて訪問した時のことを描写している。 「子供たちは古い壊れた車の中に住み、体を温めるために火をたき、食べ物を探してごみをあさっていました・・・3歳から16歳までの約20人の子供がいました。全員が1人で生活しており、大人はおりませんでした。彼らの多くが空の牛乳パックの接着剤の臭いをかいでいました。それで寒さや空腹がまぎれるのだと彼らは教えてくれました。突然、古い車の中から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました」。1人の年長の少年が泣き叫んでいる赤ちゃんを連れてきて、その赤ちゃんがどうやってレンガ造りの家から道路に這ってきて、それ以来ずっと、子供たちがいかに面倒を見てきたかを説明した。赤ちゃんは汚いタオルに包まれ、「見たこともないようなもじゃもじゃの黒い髪」をしていた。ダイアンさんは彼を抱き上げ、自分が世話をしてもよいかと子供たちに聞いたという。 ダイアンさんは続けてこう書いている。「夜、よくそこに行きました。目を凝らし、大声を上げ、静かにし、耳をそば立てました。もし音が聞こえれば、私はその音を追って、赤ん坊を見つけました。今4歳になったアネルのようにです。私は彼を、へその緒だけでなく胎盤も付いている状態で、路上の段ボール紙の下で見つけました。私は真夜中にそこにいて、『さて、実際のところ、どうやって切ったらよいのだろう』と考えていました」
SI:南アフリカには見捨てられた子供たちがどのくらいいるのですか。
ラング:面倒を見てもらえず、路上にいる孤児は280万人おります。
SI:あなたが連れてくる子供たちの大部分はHIVにかかっていますか。
ラング:HIVにかかっている子供は、必ずしもその状態で生まれてくるのではなく、レイプされソドミーを行われて感染するのです。地域社会で子供たちにこのようなことが行われるのは、処女をレイプすればエイズが治ると信じていたり、社会のモラルがあまりにも低下していて子供がいずれにしても虐待されたりするからです。そうすれば、子供たちはレイプされることに慣れていき、年を取ると少し賢くなって、「そうね、パンを1個くれればレイプさせてあげるよ」と言います。食べ物がないからです。ですから、彼女たちは性行為と食べ物を交換しているのです。ときどき、そのような年長の子供を引き取ると、大仕事を抱えることになります。彼女たちはみな性の問題を抱えており、それに対処しなければならないからです。 また、子供たちは路上で生活してきたため、一度も社会生活をしたことがなく、歯ブラシやトイレの使い方を知らず、入浴したこともありません。ですから、ダニとシラミで覆われています。2着目の服がないため、服の脱ぎ方や着方も分かりません。ナイフやフォークを使った食べ方も分からず、手で食べることしかできません。
SI:子供たちの家を運営するために、どのように資金のやり繰りをしているのですか。
ラング:状況は絶望的になりました。貯めていたなけなしのお金を使い果たしましたが、世話すべきこのような子供たちがおりましたので、心理学者に戻ることはできませんでした。それで、家を売らなければなりませんでした。それは子供たちを選ぶか家を選ぶか、というコイン投げのようなものでした。それまでとても厳しい人生を送ってきていましたので、この自慢の家以外には何も所有していませんでした。しかし、それを手放したため、数年間はやっていくことができました。何とかやっていこうといまだに悪戦苦闘しています。人々が10ポンドをくれるといつも、どのくらいのパンとミルクが買えるか考えてしまいます。
ダイアンさんの本の補遺には、セーブ・ザ・チルドレンやネルソン・マンデラ基金を含む様々な慈善団体が彼女の仕事を支援するのを断ったことを示す文書や手紙が掲載されている。こうした団体は彼女の資金援助の要請を、「子供たちを施設に収容することには賛成しない」とか「あなたのプロジェクトは若者や児童の保護方針に沿っていない」といった理由で却下してきた。
SI:子供たちは学校に通いますか。
ラング:はい、素晴らしい子供たちなのです。3カ国語を話しますので、あらゆる言語の賞を取ってきます。ある日、私たちが英語を話すと、次の日はアフリカーンス語〔オランダ語から派生した言語〕を話し、その次の日はコサ語を話します。私の幼い2歳の子は、3つすべての言語で100まで数えることができます。才気溢れる子供たちです。素晴らしくて、目を見張るほどで、聡明です。もちろん、私のところに来る前は学校に通っていませんでしたが、私が面倒を見るようになれば、学校に通います。
SI:子供たちは週末、何をして楽しみますか。
ラング:いつも楽しい時を過ごしています。あらゆる種類の活動を行います。劇、合唱、ダンス、編み物、縫い物、生活技能プログラムなどのグループがあります。土曜日には、資金集めのために腕輪を作り、そうやって小遣い銭を稼ぎます。散歩したり、ピクニックに行ったり、パジャマ姿でパーティーを開いたり、真夜中に軽食をとったり、ポップコーンを食べたり、ディスコに行ったり、映画を見て夜を過ごしたりします。
SI:子供たちのために奉仕しようという気持ちにおいて何が鍵となっていますか。
ラング:私にやり続けさせている一つの要素は愛です──行動する愛です。そうした子供たちは愛されていると「感じる」必要があります。そう言っただけではだめです。愛され保護されていると感じなければならないのです。言行を一致させなければなりません。全く正直に考え、話し、行動し、首尾一貫した言動をする勇気を絶えず見いださなければなりません。それは実践するのが最も難しいことの一つです。私は子供たちを救い、守るという目標から決して目を逸らすことができません。目を逸らしてしまえば、障害は乗り越え難いものになるからです。障害は今でも乗り越え難いものですので、私はすべての子供が解放される日に焦点を当てています──苦痛から解放され、虐待から解放され、自由に学校に通い、自由に愛され、安全が脅かされるのを恐れることなく、自分が生を受けた国で喜びと幸せいっぱいに自由に走り回れる日に。ですから私は、自分自身に返ってくる結果を恐れることなく、真実を語り続けます。なぜなら、この人生で永続する唯一のものは真実と愛だからです。
SI:なぜ出国して英国に来たのですか。
ラング:実際のところ、厳しい決断ではありませんでした。脱出するのに12時間しかありませんでした。出国しなければ、明日死ぬことになると警告を受けたのです。2年間そのような脅迫を受け続け、ボディーガードと一緒に暮らしてきました。私の命を狙おうとする試みが何回もありました。
SI:あなたが行っている仕事のせいで迫害を受けてきたとは、とんでもないことのように思えます。
ラング:はい、私はあらゆる種類の罪を着せられてきました。政府資金の流用、麻薬売買、資金洗浄、組織犯罪など、あらゆる種類のことです。彼らは本当に私を恐れさせ、何度も私を殺そうとしました。恐ろしいものでした。
SI:何も持っておらず、ごみ捨て場で死ぬかもしれない子供たちのために非常に多くの良いことをしようとしている人が迫害を受けるとは、狂気の沙汰のように思われます。あなたが汚職と子供の虐待を暴露しようとしていたからでしょうか。
ラング:はい。人々が自分自身と自分の仕事を守ることができる唯一の方法は、告発者の信用を落とすことです。
SI:あなたはときどき孤独を感じるに違いありません。世界中の似たような率先的な取り組みとのつながりはありますか。
ラング:もっと小さな規模ですが、ブラジルで似たような仕事をしている女の子を知っています。他にもたくさんの女性が、私が南アフリカでやっていることを行っていましたが、脅しや嫌がらせを受けたのでやめました。しかし、私はただやり続け、自分が脅しに動揺することを許しませんでした。しかし、彼女たちがなぜやめたかは理解できます。子供や夫がいるからです。
SI:あなたはどうしてやり続けているのですか。あなたにやり続けさせるような霊的な信念があるのですか。
ラング:はい。マハトマ・ガンジーがインスピレーションとなっています。彼は「いつも真実を語りなさい」と言いました。すべての偉大な霊的な書物を見れば、そのような書物はいつも誠実であるようにと教えています。これもまた、実践するのが難しいことです。基本的に、人々は誠実であろうとする勇気を持ちません。 人々にとって最も難しいことの一つは、本来の自分である勇気を持つこと、真実を語ろうという勇気を持つことです。真実を語ることが困難であるといつも感じるのは、人々の感情を害したくないから、居心地がよくないと感じる立場に自分を置きたくないからです。人々が聞きたいだろうと思われることを言うか、結果を恐れているか、あるいは、関与したくないと思っているからです。ですから、見て見ぬふりをしてしまいます。
SI:その点で自分は違うとお考えになるのはなぜですか。
ラング:私は何年も前に、自分は常に真実を語る、という意識的な決断をしました。真実を語ることによって誰かを傷つけるために出ていくのではなく、ただ常に真実を語ろう、と。何かをやるつもりだと言えば、私は必ずそれを行います。私をその道から逸らすものは何もありません。もし私が決断を下せば、極めて困難な状況に置かれようとも、私はそれを行おうとします。これが真実というものです。
SI:あなたはアパルトヘイト時代に警察官を経験していますが、近年受けるようになった不当な扱いには備えていなかったに違いありません。
ラング:恐ろしいのは、アパルトヘイト時代には全世界が背後にあってアパルトヘイトを激しく非難していましたが、今では民主的な「虹の国家」だから、すべてにおいて全く問題がないだろうと考えて、全世界が目を閉ざしていることです。〔私の本を読んだ〕発行者さえも、これは本当であるはずがないと言いました。 〔2007年に〕教員や公務員がストライキを行ったこと、野党は8秒以上話すことができないこと、南アフリカの子供の中には4日に1回しか食べない子供がいること、人権侵害は日ごとに悪化していること、ジンバブエに電力を供給しているため配電が制限されていること(私の子供の家では、1日に最大3回の送電停止があり、1回につき最大3時間停電します)は誰も知りません。しかも、これは全く氷山の一角です。しかし、メディアが報道するのは、ネルソン・マンデラがロンドンのトラファルガー広場で巨大な像の除幕式を行ったというようなことです。
SI:あなたは何を期待していますか。
ラング:英国と米国の一般大衆が、南アフリカについての真実を伝え始めるようメディアに圧力をかけない限り、何も起こらないでしょう。メディアが一般大衆に南アフリカのバラ色の見通しを伝える代わりに真実を伝え始めるとき、一般大衆はアフリカの人権侵害を直視するよう英国と米国の政府に圧力をかけ始めるでしょう。 私はアフリカの子供たちが自由になることを期待しています。なぜなら子供たちこそが、アフリカを腐敗と虐待の暗闇から愛と真実の光の中へと導いていく者たちだからです。
SI:英国で亡命生活を送っていながらも、子供たちの家の運営に関与しているのですか。
ラング:はい。子供たちの家には非常に有能な管理者とスタッフがいます。私が何らかの理由で続けることができなくなった場合、私を引き継いでくれるよう彼らを訓練しているところです。私は電子メールや電話で毎日、絶え間なく彼らと連絡を取り合っています。子供たちすべてに起こっていることを正確に知っています。子供たちと私は定期的にお互いに話しています。子供たちは今年、サンタクロースに手紙を書きました。彼らのほとんどは、たった1日でも、私を家に帰ってこさせてほしいとサンタにお願いしました。その手紙を読んだとき、私の心は張り裂けそうになりました。
SI:あなたは今、もっと楽な生活を送ろうとすることもできますね。なぜやり続けようとするのですか。
ラング:私がやっていることをなぜやるのかと何度も聞かれました。私はいつも「なぜやってはいけないでしょうか」と答えます。私がやらなければ、誰がやるでしょうか。私は子供たちを愛しています。これからもずっと愛するでしょう。もし私が彼らに家を提供しなければ──誰が提供するでしょうか。
詳しくは次のサイトをご覧ください: www.diannelang.com Dianne Lang、 Saving Mandela's Children、 Authorhouse、 UK、 2007.

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