現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2012年 9月 共有資源を分かち合う

共有資源を分かち合う

人類の共同遺産(パート1)
ジェームス・キリガン氏へのインタビュー
ジェイソン・フランシス

ジェームス・キリガン氏は1975年以降、国際開発の分野でアナリストと行政官を務めてきた。彼は、前西ドイツ首相のウィリー・ブラント氏が創設した国際開発委員会であるブラント委員会の政策顧問と報道担当官であった。キリガン氏はその後、ジミー・カーター、ピエール・トルードー、フランソワ・ミッテラン、エル・ハッサン・ビン・タラール王子殿下を含む多くの政治家と指導者の政策顧問と執筆者を務めてきた。彼はまた、国際共有資源問題に関する国際開発組織だけではなく、幾つかの国連機関と協力し、26カ国の政府機関の経済顧問としても働いてきた。キリガン氏は現在、国際交渉センターの常務理事とグローバル・コモンズ・トラストの会長である。また、ロンドンのスクール・オブ・コモニングとアメリカの出版社コスモス・ジャーナルの役員でもある。ジェイソン・フランシスが『シェア・インターナショナル誌』のためにジェームス・キリガン氏にインタビューを行った。

シェア・インターナショナル(以下SI):あなたはこれまでほとんど国際開発に関する仕事をされてきましたが、ここ数年、共有資源と呼ばれる新しい分野に切り替えられましたが、それはなぜですか。

ジェームス・キリガン:国際開発は私にとって世界の問題とそれらをどのようにして解決したらよいかを理解する一つの方法でした。私は開発に精通していました。しかし、それは本当だったのでしょうか。私は最初ずっとメタレベルから開発問題を見てきましたが、次第に見当違いなことをしているのではないかと思い始めました。貿易、財政、金銭――これは、私が何十年も専門にしてきた分野ですが――に見られる多くの不均衡について再考し、景気刺激のようなケインズ政策が経済の構造的な問題を解決することはないということに気づきました。私はまた、増大する国際的な危機についても再考しました。つまり、飢餓や栄養失調、飲料水の入手や衛生設備の減少、教育と雇用の不足、生物兵器や通常兵器や核兵器の問題、難民や移民や人身売買の問題などです。
そして、地球温暖化を伴う環境状況、深刻な汚染、大気と水と土壌と森林の悪化もあります。多くの研究が次のようなことを示しています。もし地球温暖化が摂氏2度以上気温を上昇させるならば、水が不足し、農地が砂漠になり、食料不足が起こり、多くの種が絶滅し、島や沿岸部が水没し、何百万人もの人たちが移住しなければならなくなり、世界的な紛争が起こるかもしれないと。南北の接近(つまり、先進国が開発途上国を貧困から助け出すことで、世界経済を刺激すること)は、こうした問題のほとんどの解決策にはならないでしょう。裕福な国々の生産と消費、そして貧しい国々の貧困と産業化の努力は、両方とも地球温暖化を助長します。これは南北モデルを協力と持続性のための打開策ではなく、資源を巡る競争的交渉に変えるでしょう。


SI:そのために、あなたはこうした主要な世界的問題を最も解決できる方法についての見解を変えられたのですか。

キリガン:国連ミレニアム開発目標が1998年から2000年に作成されたとき、私は政治と経済の現状の下でそれらに到達することは無益だということを認識しました。実際に投資と援助がこれらの問題の原因を解決できないときには、開発の分野が世界の危機を解消するために外国からの投資と援助を常に期待してきたという結論に達しました。実際、開発への標準的な取り組みは現実にはこうしたジレンマを助長し、それらを悪化させることになりました。経済的な将来についての人々の期待を膨らませてきた人間として、私はそのとき、世界の現在の状態を考えると、これが非現実的であることを認識しました。なので、私は問題の一部でした。これは私の正念場でした。
私は開発問題の枠組みをつくり直さなければならないことを理解しました。これらの問題は実際には、こうした集団行動問題の原因を国境を越えたものと見たときに初めて対処できる「共有資源の」問題なのです。それほどの難問ですので、誰が管轄し、誰にこうした紛争と不均衡を解決する責任があるのでしょう。貿易と経済のグローバル化によって相互依存性が増大しているにもかかわらず、所有権と主権国境を定めることが、世界の人々と国々の意識的なエネルギーの流入を妨げているのです。所有と国境が私たちの間に共感と相互主観性が流れるのを阻止し、分離を生み出しているのです。国境の独断的な限定が人類の集合の文化を抑制し、共同体関係の構造を破壊し、環境を悪化させているのです――そのすべてが社会的な不平等、性的優位、商業的な競争、戦争を引き起こしています。

SI:あなたはどのようにして、こうした世界的な問題に対処できるアプローチとして共有資源に行きついたのですか。

キリガン:私は最初に、エリノア・オストロム(注1)の著作を通して共有資源に気づき、次にこの分野における他の多くのことに気づきました。共有資源は私には国際開発におけるミッシングリンク(類人猿と人間との中間にあったと仮想される動物)のように思え、それは草の根で働いている人たちしか実際には理解できないものでした。私の仲間と私は常に、地域の人たちが自らに力を与えるために自分自身で開発しなければならないと言ってきました――共有資源運動がこの原理に専心するだけではなく、それがどのように行われるかを実際に示しているのはこの点でした。実際、協力を実践する伝統的社会は、資源の分配という彼ら自身の難問に対処する道を常に見つけ出してきました。人々は常に地域で自らの資源を生み出し、管理し、分かち合ってきました。こうした伝統的な共有資源には、河川、牧草地、森林、固有の文化も含まれ、今は地域通貨、共有財産、ソーシャルメディア、インターネットも新興の共有資源になっています。これらすべてを一つにしているのは、地域が自分たちと将来の世代のためにこうした資源を保持するために行動を起こしていることにあります。実際、私が開発から共有資源へと移ったのはこのような理由からです。私は、それが世界の資源を分かち合うもっと効果的な方法であることに気づきました。

SI:こうした様々な共有資源の例を幾つか挙げていただけませんか。共有資源を天然資源と考える人もいますが、この言葉は自然やもっと多くのものを含んでいるように思えます。

キリガン:多くの人たちは天然資源について考えます。私たちのほとんどが共有資源というと、そのように考えさせられてきたからです。それは良いスタートです。しかし、このレベルでは共有資源はまだ、構造原理というよりもむしろ比喩的なもののように思えます。より広い見方から見れば、共有資源とは人類の共同遺産です。それらは、私たちが相続し、創造し、使用している自然と社会の共有資源です。共有資源とは、自然のもの、遺伝資源的、知的、社会的、文化的、デジタル的なものと言うことができます。これらはすべて、私たちが生き残りと福利のために必要としている資源です。私の見解として、これらの共有資源すべてを一つにまとめているのは、社会的な一体性、生活と福利の質の向上、個人的な表現と目的、そしてもちろん私たちの持続性と暮らしもそれに依存しているからです。そのため、それらが非常に重要なのです。
興味深いことは、実際にはそうであるにもかかわらず、私たちがすぐにはこうしたことすべてが共有資源であると認識しないことです。しかし、これらを共有資源と認めれば認めるほど、私たちは「共有資源の悲劇」が起こるのを防ぐことができます。このジレンマは『サイエンス』という雑誌に1968年に掲載された有名な記事でギャレット・ハーディン(注2)によって明確にされています。簡潔に言うと、それは、個人は協力して、共有資源を分かち合うよりもそれらを搾取することを望むため、地域の人たちにはそれらを管理する能力はないというものです。不幸にも、この論拠は、人間の性質は生まれつき貪欲で競争的であるため、社会環境を人間の利己性に委ねることはできないことを示すために使われています。この「共有資源の悲劇」という考えは、地域の共有資源の管理への政府や民間企業の介入を正当化するためにしばしば使われます。その意味合いは政府や企業は専門家であり、人々は自らの資源を管理しつくり出すにはあまりにも愚かだというものです。しかし、もちろんのことながら、人々はこれに何千年も成功してきたのです。それなのに、今になってなぜ共有資源を政府や民間企業に外部委託しなければならないのでしょうか。
共有資源に対する私たちの権限を再主張するために、様々な種類の共有資源を区別することは重要です。一方には、社会的、文化的、知的、デジタル的な共有資源があり、それらはどちらかと言えば補充できます。これらは自己再生する資源です。これらには固有の文化や伝統、創造的な作品、言語、祝日、考え、インターネットも含まれます。それは広範囲に及ぶものです。街路、歩道、広場、公共空間、国立公園は補充できる共有資源です。
もう一方に、自然のもの、遺伝資源的、物質的な共有資源があり、それらはどちらかと言えば使い果たされるものです。これらは、もし私たちが保護しなければ、絶滅が危ぶまれる資源です(もちろん、それが枯渇するかどうかは、特定の資源とそれを支える生態系によって決まります。動物や樹木のような多くの自然の共有資源は自ら再生するかもしれず、また再生しないかもしれませんが、石や銅のようなものは間違いなく再生しません)。漁業、農業、森林、湿原、公園、庭園は自然の共有資源に含まれると思います。自然の共有資源の中には、遺伝資源的な共有資源として認識される明確な範疇のものがあります――種、食用作物、DNA、生命体などです。これらはすべて、岩、科学技術のハードウェア、建造物、大気のような物質的な共有資源とは違っています。

SI:何が共有資源かを理解することの重要性は何ですか。

キリガン:共有資源を理解する真髄は、それらの多くがなぜ囲い込まれているかを認識することです。過去数世紀にわたって、私たちの物理的な空間が数量化され、商業化されるにつれて、社会は私たちの共有資源の周囲に柵や他の制限を設けて、これらの領域を法的に強要し始めました。共有資源が私的財産と公的(もしくは政府が与える)財産へと商品化されました。こうした囲い込みは今も進んでいます。今日、例えばおとぎ話や民謡の著作権を企業が取得し、人々がそれらの使用料の請求を受けるとき、私たちの共同遺産の一部が盗まれます。あるいは、ネスレが地中帯水層から最低経費で水をポンプで汲み上げるために地域に入り、それを瓶詰めにし、地域の店で高い利幅で私たちに売るとき、地域は価値ある財産を失うことになるのです。あるいは、政府が国立公園や他の公有地にある石油や鉱物を開発する権利を企業に与えるとき、人々は彼らのものである価値ある資源を失うことになるのです。
囲い込みの過程は共有資源を人々の手から取り上げ、それらの生産と管理を民間企業や政府に与えます。これは私たちの共有資源の劣化と別の多くの種類の問題につながります。土地からの人々の排除、難民、植民地化政策、戦争などです。こうした様々な共有資源を識別することの重要性は、それぞれを別々に対処しなければならないことを認識することです。そしてこれは、多くの場合においてそれらは効果的に管理されておらず、またそれらは重要な価値の源を提供しており、それが搾取されつつあることを認めるということを意味します。

競争と大量消費

SI:競争と大量消費は共有資源に対してどのような影響を与えていますか。

キリガン:それはとても大きな衝撃を与えています。民間企業と国の両方が人々の共有資源に介入することで、資源を分かち合う人々の機会を減少させてきました。共有資源の囲い込みと所有権はかつては主に人々の土地に属するものとされてきました。不幸にも、囲い込み、植民地化政策、民営化、グローバル化の結果として、今日では生活のすべての様相が囲い込まれつつあります。土地、知識、文化、科学技術、水、遺伝的性質、種の多様性、そしてインフラや健康や教育のような公共サービスなどです。すべての存在と資源が実質的な商品にされています。私たちの労働力、考え、創造性を含めたすべてのものがマーケットで買われ、売られることができます。競争とは実際には、富裕者による所有権が、経済的、政治的、文化的に共有資源の私有化と貧困者からの強奪に基づいていることを意味します。これは人々と種から、生態的、文化的、政治的、経済的な空間を分かち合う私たちの権利を力ずくで奪います。そして、私たちすべてが共有空間を持たない使い捨ての存在になったとき、私たちは生き残るために戦わなければなりません。ですから、私たちを取り巻く環境が分かち合いを促進しないときに、私たちはどのようにして分かち合うことができるのかと私は問うているのです。

SI:経済制度と政治制度は、人々と共有資源の商品化によって経済的な奴隷状態、つまり現代の契約奴隷を生み出しているのでしょうか。

キリガン:私たちはときどき、現在の世界的な制度を新自由主義として性格づけますが、この言葉は誤解を招くものだと思います。それは、私たちが何らかの形で自由主義の起源に戻ることができることを暗に意味しています。それは、自由と平等がまだ現在の制度において私たちの手の届くところにあることを示唆しています。残念ながら、私たちは今ではそれを遥かに越えており、私たちが生きている世界に気づかなければならないのです。私たちの言語と政治認識は、現在起こっていることの現実性から遥かに遅れをとっています。著作家のフィリップ・ボビット(注3)が「マーケット・ステート(市場国家)」と呼んだ新興の社会秩序の対象に人々がなりつつあるように私には思えます。このマーケット・ステートは、消費者としての私たちの経済的機会を高めることによって市場の自由と選択の増大を見込んでいます。これは、人々の利益のためという想定の下に、ほとんどすべてものを私有化することを意味します。
一方では、民間企業と銀行が政府を急速に飲み込み、国家構造を自分たちの有利なほうに向け、政府の役割を縮小し、市民としての私たちの政治的権利を制限しつつあります。政府が国民の利益ではなく、大企業の利益を支えることを約束しているため、投票や民衆代表制は意味のないものになりつつあります。マーケット・ステートの計画は、政府は国家防衛、財産の保護、ビジネスへの障壁の解体以外は何の責任も負わないというものです。
切迫しているのは政治的経済的な全体主義です――国家統制主義ではなく、歴史上全く特異なものです。それはローマ帝国のようですが、完全に商業主義化され、コンピューター化され、兵器化され、全世界的なものです。大規模な経済統合は惑星の進化的運命での一つの段階かもしれないとは思いますが、世界の人々は同様にこうした途方もない市場の力を抑制するための相殺する強力な力として団結するように駆り立てられるとも信じています。世界の人々は、私たちの共有資源を保護し、私たちの生活から急速に消えつつある自由と平等の約束を復興させるために、新しい政治的な責任構造をつくらなければなりません。

SI:資本主義と社会主義は、分かち合いに基づいた将来において何らかの役割があるとお考えですか。

キリガン:あります。しかし、私たちが今、資本主義や社会主義と呼んでいるものと同じものとしてそれらを考えるとは思いません。私たちはさらなるイデオロギー、さらなる「イズム」を必要としていません。将来の統合された経済は、個人と集団の動機のバランスになるでしょう。現在のところ、私たちは私的な動機を重視する極端な方向に向かってきましたが、両方とも必要なのです。資本主義と社会主義を包含しながらも、それらを超越した新しい統合を通してそれらを一つにすることが重要です。それらを融合する触媒の一つはコモンズ・トラストです。

さらなる情報をお求めの方は:www.globalcommonstrust.org とwww.global-negotiations.org

(注1)エリノア・オストロム(1922-2012)はアメリカの政治経済学者である。彼女の著作は、資源の長期的な持続性を維持するための人間と生態系の相互作用を強調した。彼女は2012年にタイムズ誌の「世界で最も影響力のある100人」の一人に指名された。2009年にオストロムは、経済統治、特に共有資源に関する分析により2009年ノーベル経済学賞の二人の受賞者の一人になった。

(注2)ギャレット・ハーディン(1915-2003)は、人口過剰の危険を警告したアメリカの生態学者である。「共有資源の悲劇」という彼の概念は「個人による無邪気な行動が環境に与えうる害」に注目させた。

(注3)フィリップ・ボビットはコロンビア大学の政治学教授であり、『アキレスの盾(Shield of Achilles)』と『テロと同意(Terror and Consent)』の著者である。彼は憲法、法理論、軍事戦略の専門家である。

●社会的、文化的、知的な共有資源:固有の文化と伝統、地域支援制度、隣近所、社会的連結性、ボランティアの交流、労使関係、女性と子供の権利、家庭生活、健康、教育、神聖さ、宗教、民族性、民族の価値観、休養、沈黙、創造活動。言語、言葉、数、象徴、祝日、カレンダー、人間の知識と知恵の蓄積、科学知識、伝承民族植物学的な知識、考え、知的財産、データ、情報、コミュニケーションの流れ、放送電波、インターネット、自由文化、スポーツ、ゲーム、遊び場、道路、街路、歩道、広場、公共空間、国立公園、史跡、博物館、図書館、大学、音楽、ダンス、芸術、工芸、金銭、購買力。

●太陽と自然の、そして遺伝資源的な共有資源:太陽エネルギー、風力エネルギー、潮流、水力エネルギー、海洋、湖水、泉、小川、岸辺、漁業、農業、森林、湿原、生態系、流域、帯水層、土地、牧草地、公園、庭園、植物、種、藻、表土、食用作物、光合成、受粉、DNA、生命体、種(しゅ)、生き物。

●物質的な共有資源:元素、岩、鉱物、炭化水素、科学技術のハードウェア、建造物、無機質エネルギー、大気、オゾン層、成層圏。
(出展:グローバル・コモンズ・トラスト)