現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2011年 2月 プレイング・フォー・チェンジ

プレイング・フォー・チェンジ

ホイットニー・クロンキー氏へのインタビュー フェリシティー・エリオット

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グラミー賞を獲得したプロデューサー兼エンジニアで、受賞経験もある映画監督マーク・ジョンソン氏は2001年にサンタモニカの通りを歩いているときに、ある閃きが起こった。有名な「スタンド・バイミー」をいう歌を独特な歌い方で歌う素晴らしい声を聞いたのだ。哀愁を帯び感動を与えるその声の主は、いつも毎週土曜日にサンタモニカにいるストリート・ミュージシャン、ロジャー・リドリーだった。アメリカ中のストリート・ミュージシャンの記録映画を作ってみてはどうだろう?
ジョンソン氏はホイットニー・クロンキーさんと自分の考えについて話し合い、その話し合いの中で、後に「プレイング・フォー・チェンジ(PFC)」になる企画が形づくられていった。
常に理想を抱き、世界をこれまでとは違ったものにしようと決意していたホイットニーさんは、舞台と振り付けの経歴を持つ。オフ・ブロードウェイやロンドンで舞台を続けた後、ロサンゼルスに戻り、「積極的な社会変革を支持する進歩的な映画や舞台の制作に集中した」。「プレイング・フォー・チェンジ」が拡大したとき、ホイットニーさんは2007年にプレイング・フォー・チェンジ基金(PFCF)の事務局長になった。フェリシティー・エリオットが『シェア・インターナショナル』誌に代わって彼女にインタビューした。

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シェア・インターナショナル(以降SI):「プレイング・フォー・チェンジ」はわずか10年しか経っていませんが、あなた方は多くのことを成し遂げてきました。共同設立者としてあなたは、当初のアイディアが成長し変化するのを見てこられました。あなたとマーク・ジョンソン氏がおしゃべりしているときにこのアイディアが浮かんだのですね。


ホイットニー・クロンキー:そうです。そのとおりです。実際には、私たちが「プレイング・フォー・チェンジ」を始めてから9年です。出だしはとてもゆっくりでしたが、有機的に成長しました。当時私は23歳で、気楽でした。私は公共の場でのアートや街頭でのパフォーマンスにとても興味がありました。正直に言って、ストリート・ミュージシャンを撮影したドキュメンタリーを作ることだけを考え、それがその後どのようになるのか、私たちが何をすることになるのかについて何の感覚もありませんでした。

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SI:音楽を通して世界中の人たちをつなぐという展開はその後のことだったのですか。


クロンキー:私たちはすべての可能性に対してとてもオープンにし、物事が自然に、有機的に展開し発展するのに任せました。気長に、物事が自然の経緯をたどるのに任せたのです。それが私たちの仕事が人々の共感を得た理由だと思います。大勢の人がPFCに関して連想する仕事は後になってから始まったのです。

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SI:PFCが持つ使命について説明していただませんか。


クロンキー:ご推察のとおり、私たちの第一の目標はドキュメンタリーを作ることからマルチメディア運動へと変わりました。私たちの狙いは、人々をつなぎ、人々を、特に子供たちに刺激を与えることことです。音楽を通して平和を達成できると私たちは信じています。音楽には垣根や境界を取り除く力があると確信しています。音楽は人々を──人々の背景がどのようなものであれ── 一つにします。そして、私たちはこの仕事を通して、音楽が人々の隔たりを克服するのを見てきました。人々の──民族的、政治的、経済的、霊的、イデオロギー的な──背景がどんなに違っていても、音楽はそれを超え、私たちを一つの人類にまとめるということを、私たちは経験してきました。

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SI:そのため、徐々にアイディアを拡大して、アメリカでレコーディングしたりフィルムに撮ったミュージシャンを世界中のミュージシャンとつなげようと考えたのですね。


クロンキー:そうです。音楽を通して人々をつなぐという考えで何かをしたいのです。

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SI:あなた方は南アフリカに行くことを決め、そこで音楽学校をつくるという考えが生まれたということを読みました。それは実行するにはとても大変な大きな一歩のように思えますが。


クロンキー:実際、思ってもみないことでした。マークのところに彼の兄弟から『ア・デイ・イン・ザ・ライフ・オブ・アフリカ』という本に載っている一枚の写真が送られてきました。それは、アパルトヘイト時代に南アフリカのケープタウン近くのタウンシップ(黒人居住区)で屋外で演奏するミュージシャンのグループの写真でした。マークはその写真に魅了され、自宅の壁に掛けました。私たちは、南アフリカのタウンシップの音楽を調べることから始め、これが、彼らの演奏を結びつけることによって、人々をつなぐ素晴らしい方法になると思いました。その写真があったため、そこで始めることに決めたのです。そして実際に、その写真に写っているミュージシャンの一人を見つけたのです。彼の名前はポケイ・クラースと言い、私たちの最初の音楽学校は、ググレチュというタウンシップに彼が所有する土地の一角に建てられました。

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ググレチュは、実際には「貧民街」や「スラム地区」と同意語の「タウンシップ」として南アフリカでは知られている。人種隔離が行われていたアパルトヘイト時代においてこうした地域は、黒人の人々が極めて貧しい状況で暮らしていた居住区であった。ワールドカップ南アフリカ大会後でさえ、ケープタウンに着いた旅行客は真新しい国際空港から一歩出ると、この貧民街を目の当たりにすることになる。
ここでプレイング・フォー・チェンジ基金(PFCF)が子供や若者のための音楽学校を建てる手助けを始めたのは、2008年の春であり、翌年初頭にントンガ音楽学校が開校した。楽器はPFCFが提供し、今では学校帰りの子供たちがこの建物には溢れている。この音楽学校は、貧困と社会的無視がもたらすすべての問題──麻薬、病気、犯罪──と今も戦っている地域に希望と将来への可能性を与えるのを助けていると現地の人々は言う。

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クロンキー:ントンガは音楽学校というだけではありません。それはコミュニティー・センターにもなっており、人々が集まっています。招かれたミュージシャンたちがそこで子供たちや現地の人々のために演奏しています。

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SI:PFCFは今、世界中の約7、8カ所で7つのプログラムを行っており、600人の生徒がいるそうですが、本当ですか。


クロンキー:そうです。7つの違った場所、アフリカ大陸で4カ所──南アフリカ、ガーナ、マリ、ルワンダ──、そしてネパールのパタンとカトマンズにあります。私たちの二番目の学校はガーナのタマレにあります。このビザング音楽学校の建物は2010年2月に完成しました。教師たちを雇い、2カ月後に150人の生徒が入学し、授業が始まりました。子供たちは、ドラム、ダンス、サックス、ゴンジョ(一弦琴)、歌を教えてもらっています。ビザング音楽ダンス学校の多くの生徒たちにとって、このような学校に行くのは初めてのことです。現在、ガーナ北部には授業料が無料の学校は他にありません。

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SI:学校を設立した様々な場所でどのように接触を取ったのですか。


クロンキー:あの有機的なやり方に戻ったのです。それはただ、私たちが出会った多くのミュージシャンを通してただ自然に起こったのです。ネパールでは、政治情勢が変わったときに、私たちは手持ちの資金を配分することができ、3つのプログラムを始めることができたのです。

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SI:2011年の計画はどのようなものですか。今開発中の幾つかの学校を持続可能なものにするために、PFCFはこの仕事を拡大し続けようと欲しておられるのですね。


クロンキー:私たちの第一の目標は現在のプログラムを維持することです。しかし、究極的な目標は様々な学校をつなぐことです。

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SI:どのようにして達成するのですか。コンピューターを使ってですか。


クロンキー:そうです。最初の技術テストが終わったところです。非常に幸運なことに、NASAで働いている方の助けを借りることができました。彼は、例えば兵士を非常に辺鄙な地域に上陸させて、即座に通信の確立を可能にするといった技術的な仕事を数多くしてきています。彼はまた、国連のためにテレビ会議を開き、ヒラリー・クリントン氏を難民キャンプにいたアンジェリーナ・ジョリーさんや難民とつないだこともあります。彼は私たちの仕事に熱心で、時間と技術を自発的に提供することで私たちを助けてくれています。私たちが最近行ったテストは、私たちPFCFのバンドを二つの学校── 一つはボストン、もう一つはググレチェ──とつないだことです。そのため、両方の学校の生徒たちがお互いに見聞きし、話し合ったり質問したりできました。また、彼らみんなが一緒に音楽を演奏しました。その模様はすべて、ボストンのマサチューセッツ工科大学からライブで放送されました。私たちはこの方針に沿ってもっと多くのことをしようと努力しています。つまり、できる限り子供たちをつないでいこうという方針に沿って。

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SI:では、次はどこに行くのですか。


クロンキー:ジャマイカのキングストン、そして南アメリカの主にブラジルとコロンビアでできないかを調査しているところです。もちろん、どこにでも行くことができます。例えば、ネパールでの私たちのプログラムの一つ、ティンタレ学校は車で12時間、さらに歩いて2時間のところにありますが、彼らは実際に成長し、音楽教育が役に立っています。

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SI:地域の人々への反響はどうですか。その地方の地域社会に影響を与えていますか。あなた方の仕事は子供たちにどのような影響を及ぼしているのですか。


クロンキー:私たちはいつも、その国や地域の伝統と物事の進め方を尊重してきました。現地の人たちがやり方を決めなければならないのです。そのため、どうするかは彼らに任せています。ある日、彼らが楽器を村に運び込みました。そして、どの子供たちが学校で授業を受けるかを決めなければなりませんでした。決めるために、子供たちに楽器の周りに集まるよう言い、近くに寄って試しに演奏してみるようすべての子供たちに言いました。小さな男の子たちが次々と来ましたが、女の子は来ませんでした。ロンドンで学んだことのあるカトマンズから来た若い女性が、なぜ女の子はいないのと聞きました。現地の人々は、女の子は全く楽器が演奏できないと思い込んでいました。「女の子は演奏できないのです」。「いいえ、女の子だって演奏できるわ」と、その若い女性は女の子たちにも試させてあげるよう提案しました。小さな女の子が近づいてきて、フルートを吹き始めました。とても上手で、そのことが、他の女の子たちにも試させてあげようという気に人々をさせました。「なんだ、女の子が楽器を演奏できるとは知らなかった」と彼らは言いました。このようなたった一つの経験が物事を変えることができるということは、素晴らしいことではありませんか。
私たちは人々をつなぎ、子供たちをつなぎたいのです。テレビを見たこともないネパールの辺鄙なところに住む人が、別のところに住む全く違った子供たちを見ることができたなら、何と素晴らしいことでしょう。彼らはお互いの言葉を話すことはできなくても、同じ音楽を一緒に演奏することはできます。

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SI:世界中の人々をつなぐこのような技術が今あることはすごいことです。


クロンキー:本当にエキサイティングです。私たちはいつもそのような夢を抱いていましたが、今ではそれをサポートする技術があるのです。私たちはいつも、勤勉に我慢強く働き続けていさえすれば、機会は開けるということをすでに知っています。この場合は技術が現われたのです。私たちが始めたとき、ユーチューブはなく、人がこのようにして音楽を共有できる方法はありませんでした。私たちの仕事がユーチューブにアップされたのは2年前のことです。同じ歌──スタンド・バイ・ミー ──を歌い演奏する世界中のすべてのミュージシャンをつなごうという私たちの計画がユーチューブにアップされたとき、私たちにとってすべてが変わりました。

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SI:音楽がとても素晴らしいとしても、例えばきれいな水がない人々をどうしたら助けることができるのでしょう。それについてコメントはありますか。


クロンキー:はい。それが私たちが取り組みたいことです。私たちはまず最初に、人々の基本的な必要を満たしたいと思っています。私たちは、水、電気、健康管理など様々な援助のための接点、つまりアクセス・ポイントになりたいのです。マリでは現地の人々と一緒に、水の供給、その地域にある助産院の水の確保、ソーラー・パネルの設置などを手助けするよう努力しています。人々が飲む水がないのに、ただ楽器を届け、配りたいと思っているのではないのです。

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SI:あなたの心を何よりも動かした逸話が他にありますか。


クロンキー:アフリカに行ったことは、私にとって極めて重要なことでした。南アフリカでは悲痛な思いをさせられました。素晴らしく、喜びに満ち、人を疑わない子供たちと一緒にいたときに、彼らがエイズにかかっていることを聞いたのです。しかし、アフリカ中の子供たちに関して最も私の心を打ったことは、彼らの集中力、長時間集中して打ち込む能力でした。演奏は時には一日中続くこともあり、子供たちはただうっとりとして見ていました。
私たちはルワンダのプログラムに戻る予定で、リーフ・インターナショナルと密接に連携して働いています。リーフは、駐車場で寝泊まりしている小さな孤児たちの面倒を見てきました。私たちは今、一つのセンターを建設できるようになっています。このセンターは一部が孤児院で、一部が音楽学校になるでしょう。
子供たち、若者たち、そして厳しい屋外で寝泊まりし何も持たなかった孤児たちが、国連で演奏するまでになっているのを目にでき、そしてその計画が拡大発展するのを見、また人々が力強く成長していることを目にするだけでも、この仕事はとてもやりがいのあるものです。

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さらなる情報は:www.playingforchange.orgとplayingforchange.com


【編注:プレイング・フォー・チェンジが行っている様々なプログラムを物語る多くの感動的ストーリーは他にもある。彼らのウェブサイトを訪問してみれば、感動と高揚と喜びに満ちた経験に出会えるだろう。プレイング・フォー・チェンジ基金は非営利団体であり、その姉妹組織PlayingFor Change.comが一部の物品販売を通して資金創出の手助けを支援しているが、PFCFは主に寄付によって維持されている】