「創造力と余暇」 ― 選集 (“Creativity and Leisure”―a compilation)
『創造力と余暇』というテーマに関する引用文の選集を掲載する。これはマイトレーヤのメッセージ(『いのちの水を運ぶ者』)と教え(Maitreya’s Teachings)、ベンジャミン・クレームの師の言葉(『覚者は語る』)、およびベンジャミン・クレームの著書から抜粋したものである。
近い将来、人々の主な関心事は余暇の問題に集まるでしょう。人類が暇を持つようになると、その時間をどのように使うか。今日、世界の労働事情のゆえに、非常に多くの人間が終わりなき暇を持っています。それを望むわけではなく、失業していたくないのですが、暇を持っています。しかしながら、彼らはほとんどが、その暇を正しく使うように教育されてきていないのです。来るべき時代に、徐々に、(一夜のうちに起こるというのではなく、やがて)今日、人類の大半が携わっている仕事を代わりに行うことのできる機械を、人間は造り出すでしょう。そして、人類は余暇を持ち、その機会に、自己の内的特性を探求し、自分が本当に何であるかを知り、己が素晴らしい神性なる存在であることを悟り、そして、その特質を具現するようになるでしょう。
(『世界大師と覚者方の降臨』p.251-252)
マイトレーヤはその初期のメッセージの中で次のように述べられています。「わたしに手伝わせてください。道を示させてください――誰も窮乏することのない、より簡素な生活に至る道を。そこでは、同じ日が二度と繰り返されることなく、同胞愛の喜びがすべての人間を通して顕されるのである」。(マイトレーヤからのメッセージ第3信)
「同じ日が二度と繰り返されない」というのは、途方もない発言です。同じ日が二度と繰り返されないような人々というのは小さな子供たちか、十分なお金と暇があって、何でも好きなことができ、人生の瞬間ごとを創造的に満たし、単調な骨折り仕事をしなくていいようなまれな人々だけでしょう。退屈さと単調さは同じことの繰り返しから来ます。和合の中では同じことはありません。それは同じようなアイディアを退屈するまで何度も繰り返すことではありません。それは人生を創造的に見て、生活のすべての様相、すべての動きを、瞬間ごとに新しく創造的に見ることです。あなたが覚者の言われる和合の状態にいるとき、それは時間のない状態であり、私たちすべてにとって存在する創造的な存在でしょう。
(『協力の術』p.312-313)
一人ひとりが人類の織りなす複雑なパターンの中に演ずべき役を持つ。一つ一つの貢献がユニークな価値あるもので、総体にとって必要なものである。いかにまた輝きが鈍かろうとも、裡に創造力の火が灯されない者はいない。生きる技とは、その創造力の火に表現を与える技であり、潜在する神としての人間の特性を顕すことである。
すべての人間がこの経験を分かち合い、生きる技を学ぶことが非常に重要である。今までは真に創造的な人生を送ることは、少数の人間の特典であった。来るべき時には、何百万の人間の未開発の創造性が人類の業績に新しい光輝を添えるだろう。搾取と恐怖の闇から抜け出て、真の正しい関係の中で、生きることの目的と歓びを自分の中に発見するだろう。
(『覚者は語る』―生きる技、p.75)
余暇とは、あなたが本来やりたいことをやることです。それは創造的です。それは創造的になる機会です。人々は、創造性とは必ずしも芸術に関することではない、ということを忘れています。「もしあなたが芸術家でないならば、どのようにして人生を多少なりとも創造的にすることができるのですか?」というような質問を受けます。創造的になるためには、必ずしも、画家、音楽家、ダンサー、または俳優のような芸術家である必要はありません。それは一つの活動分野にすぎません。何であれ、あらゆる分野において創造的であり得るのです。一流の科学者は、原子の性質、例えば宇宙のエネルギー質量に関して、それがどうして彼らの指先からすり抜けて急に存在しなくなるように見えるのか、ということに関して途方もない発見をします。物質に何が起こったのか? そのような科学者は偉大な発見をしたのです。それが創造性です。絵を描く画家または詩に音の高低を与える音楽家と同じ創造性です。創造性は神の子なる一人ひとりの裡に存在します。それは神に賦与されている特質です。創造的な活動は、いのちの法則の下で生きる人生の特質です。生きる術(アート)とは創造的に生きることです。それは人生のすべての様相に必然的に伴います。
(『生きる術』p.111-112)
時間に支配されているという感覚は消えるでしょう。私たちは生活を全く新しい方法でつくります。例えば、人々はより一層、自宅で仕事をするようになります。人々はより多くのレクリエーションの時間を持つようになるでしょう。今日押さえつけられている何百万の人間のエネルギーが解放されるでしょう。とてつもない創造性が世界中の人類から流れ出るでしょう。世界の人口の3分の2が住んでいながら、現在、人類の創造的な活動に対してほんのわずかしか貢献できていない第三世界の人々が、退屈で骨の折れる作業から解放され、正常に食べることができ、人間らしい生活ができるようになる時に、放出されるだろう創造的な力を想像してください。
(『マイトレーヤの使命 第3巻』p.558-559)
……今は、まだわたしを兄弟たちの中に居る一人の兄弟として、あなたがたと変わらない一人の男として見るであろう。大宣言の日が来れば、この兄は、これまでに何度もあなたがたに教えを説き、神への道を示し、神の真理の教えを伝えた者であることを知るであろう。我が友よ、その真理をさらに拡大する時が来た。神を識ることは、創造的行為であることを、神を識ることは、神そのものの中に入り込むことであることを、あなたがたに示す時が来たのである。このようにしてのみ、われわれの存在の真理を知ることができる。来たるべき時には、この知識はあなたがたのものとなるであろう。
(『いのちの水を運ぶ者』第112信、p.336)
製造部門におけるテクノロジーの発達を通して(今すでに起こっていますが)失業の増加に伴って、余暇についての教育がますます必要になるでしょう。人々はより多くの余暇を持つようになり、今日われわれの持つ文化や知識の富を探検する可能性を利用することができます。すべての者が基本的には創造的であるという意味において、人々はもっと創造的にならなければなりません。しかし、比較的少数の人々のみが創造力を発揮し開発する可能性を持っています。これには余暇が非常に大切です。ほとんどの人は毎日の活動の単調な生気のない繰り返しによって全く活気をなくしており、創造性など期待できないのです。余暇のための教育によって、現在想像もできないようなかたちで、内在する才能や技術や潜在力の開発のための可能性が、人々の裡に解き放たれるでしょう。それとは全く別に、将来の教育の焦点は魂の意図と目的の成就に向かって行われるでしょう。個人の光線の構造とその構造の提供する可能性と制限についての知識が主な関心になるでしょう。子供は、魂が特定の目的を持って生誕している存在として見られるようになるでしょう。教育はこれらの目的が遂行されるための手段になるでしょう。
(『マイトレーヤの使命 第Ⅰ巻』p.140-141)
余暇は何もしないということではありません。余暇とは、やりたいことをやり、肉体やマインドやハートを休ませることをやり、あるいは共同体のための仕事以外にあなた自身のために何かをやる時間を提供するものです。現在、時間は、あなたが住んでいる国つまり全体としての共同体のために、毎週5日間だけ提供されます。先進国の人間の大部分は、土曜日と日曜日には余暇があります。私は、個人的には、それで十分だとは思いません。3日もしくは3日半以上も完璧に集中して働き、私が余暇と称しているもののために3日もしくは3日半しか取れないようなことを誰も要求されるべきではないと思います。
余暇は1週間のうちでも最も努力を必要とする時かもしれません。登山者にとっては1週間の中で余暇は確かに最もきつい時でしょう。もし彼らが長距離ランナーであれば、その3日と半日は最もつらい時でしょう。もし車を部品に分解して再び組み立てる仕事をやっているならば、それは困難な集中を要する仕事でしょう。しかし、部品が戻る位置の視覚的な記憶を持ったある種のメンタリティーを持つ人には、純粋な歓びを与えるかもしれません! 様々な種類の余暇と余暇の用い方があるのです。時間と余暇は対照的なものではありません。互いを支持するものです。
(『生きる術』p.108-109)
‘人間’に対する新しい誇りが、人々の余暇と社会活動に対して同じく関心を起こさせ、徐々に人間の本質的な必要についての新しい理解へとつながるだろう。新しいテクノロジー(科学技術)が数え切れない大勢の人々を退屈で骨の折れる繰り返しの作業から解放するだろう。すべての分野における知識への要求が大学や工場や農場の扉を大きく開き、そして学ぶことへの新しい熱意が世界中に顕現するだろう。かくして、人々は転生体験の底に横たわる目的をより良く理解し、そうしてわれわれの肉体、アストラル体、メンタル体に対する必要なコントロールが増大するだろう。これが人間をイニシエーションの扉へ、そしてそのようにして完成へと導くだろう。
(『シェア・インターナショナル』2010年10月号「覚者より」―蘇る地球―)
お金によって増幅したお金が近代生活のストレスを助長している。お金は優先されるべきものではない。充足ということが優先されるべきである。充足が優先されるときに、それは社会を異なった秩序に整え、安定をつくり出す。これに関連して、分かち合いは道徳的価値でもあり、実施方法でもある。これがより平和な環境をつくり、人々は巨額の富をつくるために苦闘することはないだろう。自分たちの義務を果たし、家族の面倒を見、そして子供たちは進化することができるだろう。
(『いのちの法則』p.43)
何千万の人間にとって初めて入手できる余暇が、それまで彼らに否定されていた地域社会や国家の出来事や組織に、より密接に関与する機会を提供するだろう。参加する暇が持てるようになると、現在、彼らを取り巻く問題――派閥的憎しみや分裂、不正義や貧困、犯罪や戦争などの間題――に対する解答を彼らの裡に見いだすだろう。
(『覚者は語る』―新しい機構の創造―p.52)
私たちが人類の真の一体性を示現する機構を作り始めるや否や、人類がマイトレーヤの教えを受け入れ、その助言を是認して、世界に分かち合いと正義と平和をつくりだすや否や、そこから調和が流れ出るでしょう。残念ながら現在は全く調和はありません。外界と内界の問の調和の状態が、時間を消失させる条件をつくります。その調和、その自由が創造的なマインドであり、創造的な状態です。心(マインド)に調和の状態をつくるために、すべての画家が、詩人が、あらゆる種類の創造的な人間が道を求めます。創造性に滞りがあるならば、それは調和の状態が存在しないからです。もちろん、再生の期間が、繰り返し、繰り返し創造の火を蓄積する期間が必要であり、それが不活動の期間です。
画家として、私はこの流れを、創造的な活動とその後に続いてくる不活動という休閑期を非常に意識しています。不活動の時期には美術館に行って、見たり、吸収したり、何か他のことをしなければなりません。そうすると、それについて考えることなしに、また次の創造的活動の周期に入っていきます。
(『マイトレーヤの使命 第3巻』p.551)
神よりも単純なるものは存在しない、なぜなら、すべてのものの背後にその聖なる原理があるのだから。人がこれに気づくとき、真に偉大となる。そしてその人から、創造的エネルギーが流れ出づる。わたしの計画は、その聖なる原理を顕す道を一歩一歩あなたがたに示し、あなたがたを本源へと導くことである。もしわたしを受け入れるならば、人は神の真理の中に入り、その真理の輝かしい衣の中で、あなたがたの神としての本性が明かされる。?? ?
(『いのちの水を運ぶ者』第54信、p.162-163)
新しい時代の時間の概念
『覚者は語る』p.17-19(ベンジャミン・クレーム著)
時間についての概念が変わるとき、人類の生活に非常に必要とされる変化が起こるだろう。今日、ほとんどの人間は時間を、進行中のプロセス(過程)であり、行動の瞬間と瞬間をつなぐものであると考える。しかるに、実は時間はプロセスではなく、心(マインド)の状態である。これに気がつくとき、われわれは生活を変容させ、現実(リアリティー)に関して総じてより正確な理解を持つことができるだろう。そして、素晴らしい新しい自由が人間のものとなり、もはや時間という制約につきまとわれることなく、人間の生まれながらの権利へとはばたくだろう。
いかにしてこれを成し遂げるか。現在ほとんどの人間が、日常生活の固定した枠組みに縛られている――生活の糧を稼がねばならず、他の人々の必要を考慮しながら、様々な決定をせねばならず、時計との、そして容赦なき「時間の経過」との、戦いが絶えず続く。今の生活様式の中では、時間についての理解に根本的な変化を期待することはできない。歴史上いま初めて、この現象について全く新しい体験を得る可能性が起こっている。この望ましい出来事をもたらす鍵は社会的変容である。人類が名実ともに一つとなるとき、時間は消え去るだろう。人間が内的創造的観点から人生に対処するとき時間はわれわれの心を支配する力を失い、われわれはその圧制から解放されるだろう。このすべては、宇宙における人間の位置について新しい評価を行い、われわれの存在の根源とのよりいっそう真の和合を確立することを必要とする。
時間を、通過する事象(イベント)の順番として語ることが慣習となっている。しかし、人間が己の高位我(真我)と整列するためのステップを取るとき、新しいより正確な時間の見方が可能となる。これが達成されると、周期的な活動と不活動について、したがって時間について、よりいっそう真の理解を得る道が開かれる。
そのような正しい理解というものは、人類同胞との正しい関係の中に本来備わっている。なぜなら、分離という感覚がもはや存在しなくなるときにのみ、周期的活動についての真の認識が得られるのであるから。新しい世界秩序――政治的、経済的――が、このより真なるビジョンの重要必要条件である。なぜなら、必要とされる人類の一体性は融和と正義が広まるときにのみ達成されるからである。これが実際に意味することは、すべての次元とすべての分野において人間を歩み寄らせ、そして一体としての観念を創るような機構――政治的、経済的、社会的――の創造である。人間がこれに気づくとき、必要な変化を実施する手段を講じ、正しい人間関係の確立のために道を整えるであろう。人と人との間の新しい関係から、新しい時間の観念が依存するところの条件が生まれるだろう。
覚者の観点からみれば、時間は活動とそれに続く不活動の周期的波の無限の繰り返しという意味でのみ存在する。覚者は三次元世界の人間体験の中で感じられるような時間によって条件づけられることは全くなく、したがって、例えば弟子たちと付き合うときに、覚者の意味することと意図を、いまだ時間の罠にかかっている者の意識の状態に合わせるために、たえず調整しなければならない。
人間の識心(マインド)が、時間に対するアプローチの不適性に気づきはじめている兆しがすでに現れており、この事実についての知的認識がより一般的になるのもあまり遠くないだろう。今日の科学の発見の多くに備わった観念は、時間が二元的であるという仮定である。そしてこれがますます人間の現実観を条件づけるだろう。しかし、人間が統合された総体の中の部分としての自分について直接認識すると、その結果として初めて、時間についての真の認識が人間のものとなる。その統合をなすために欠くことのできない和合と同胞愛に基づいた形態と機構を、人間が自分たちの周りに創るとき、人間はリアリティ(実相)についての全く新しい体験の門口に立つだろう。そこから、この世にそれまで見られたことのないような創造性が間断なく流れ出るだろう。
(『覚者は語る』―新しい時代の時間の概念―p.17-19)
余暇が鍵である
『覚者は語る』p.166-168(ベンジャミン・クレーム著)
人類が直面している多くの問題の中で、失業問題ほど人間の心に不気味にのしかかるものはない。開発途上国では、何百万の人々が規則的に仕事を持ったことがなく、他方、産業国においてさえ、仕事のない者の数は容赦なく毎年増えている。「人間は働かねばならない、さもなくば飢える」と、いにしえの諺にある。しかし、必ずしもそうである必要があるだろうか。
疑いもなく失業増加の主な理由は、新しいテクノロジーの発見と応用である。複雑な製造過程において、ますますロボットが人間に取って代わる。作業のスピードと正確な繰り返し作業において、人間は現在使われている精密な機械の比較にならない。これはそうであるべきである。長い間の見習い修業と訓練を通して勝ち得た人間の技術の喪失を嘆く者は多い。しかし、人間はより高度の、より価値ある達成のために生まれている。なにゆえ、人は単なる機械と競争する必要があろうか。
人間は神へと進化しつつある存在であり、人間の創造的可能性を限定するのは愚かなことであろう。やがて、人間ができないことは何もなくなる。それならばなぜ、完成への長い旅路における一つの段階が過ぎ去るのを嘆くことがあろうか。それは人間に、成長し拡大するための余暇をやっと与えてくれるというのに。
人間は今や自分自身について、目的について、自分の住む世界について、新しい認知の門口に立つ。この新しい認識が、いまだ顕されずにいる夢見たこともないような技能と才能を呼び起こし、人間が神々の居住域に入ることを許す。
本来の己の姿を真に知るとき、人間の聖なる力の顕現を阻むものは何もない。あらゆる側にこの栄光は見られ、最も遠い星に至るまで、その道を照らす。その幸いなる時が来るまで、人間は余暇の中で学び、己自身を訓練しなければならない。余暇なしに、人間が成長する機会はほとんどない。余暇は、すべての生活を変容させるあの創造的思考と行動のための必須条件として考えられなければならない。
競争の時代には、あのいにしえの諺が適用する。仕事のみが、食べる権利を授ける。しかし人間は新しい関係を体験する用意が整っている。新しいそして思いやりある協力が人間を、その兄弟の保護者となり、生活の必需品を得る権利を保護するために、招いている。
ますます機械が、人間を人間たらしめるために、解放してくれるだろう。余暇の確保によって、各人がその人の最高の可能性に到達できるようになるだろう。それは、完成への旅路における各々の段階を反映し、各々の贈り物は総体をさらに豊かにするために加えられる。
このようにして、人間は、今日想像だにし得ないような開花を見るであろう。そしてそれは、いつの日か人間を本来の神としてお互い同士に示すであろう。
余暇が鍵である。そして余暇を確保するために、人は分かち合わねばならない。今日、何百万の人間が飢え、さらに数え切れない大勢の人間が絶望的な貧困の中に生命をすり減らしている。この病を、もはや当たり前のこととして受け入れてはならない。このようにして産み出される緊張を、人類はもはや支持してはならない。機械がすべてのものの必要をまかなう新しい時代に入るとき、人間は兄弟同胞として分かち合い、夜明けに向かって共に歩まなければならない。
(『覚者は語る』―余暇が鍵である―p.166-168)