現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2008年 7月 新しい教育 (The New Education)

新しい教育 (The New Education)

本稿には『新しい教育』というテーマに関する引用文の選集を発表する。これはマイトレーヤの教え(『マイトレーヤからのメッセージ』、『いのちの法則』)、ベンジャミン・クレームの師のことば(『覚者は語る』)、およびベンジャミン・クレームの著書から抜粋したものである。

わたしの教えは、もし必要とあれば、この世には人間が成し遂げ得ないものは何も存在しないことを示すであろう。人は神であり、その神性を顕し、栄えさせることのみ必要なのである。これが確かであることを、わたしの存在が保証する、なぜならわたしの兄弟である覚者たちとわたしとが共に、あなたがたの聖なる本性の驚嘆すべき不思議を見せてあげるのだから。このようにして、あなたがたは己の可能性に気づき、光の中に成長するであろう。
(メッセージ No. 71、p.205-206)

世界はもっと光を受け入れる用意ができている。至るところにいる人間は、己自身についての、そして神についての新しい知識に渇いている。
(『覚者は語る』―光あらしめん―p.81)

私にとって、教育とは、男子、女子、または子供にその潜在力を完全に表現させる活動のすべての側面を意味します。彼らは、前の転生から持ち越された一定の発達段階で人生を始めます。魂の表現、知的表現、あるいは肉体の装備、そして何であれこの人生に携えてきた潜在力を持って彼らはスタートするのです。ですから私にとって教育とは、男子、女子、または子供を、どの特定の人生においてであれ、彼または彼女のすべての潜在力を開花させるために、物質界、感情界、メンタル界、および霊的(スピリチュアル)界で適合させることを意味します。
(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 Ⅲ巻』p.245-246)

三重のリアリティ=霊と魂と肉体人間=としての人間の本当の特質について、そして再生誕の法則との関連における原因と結果の法則について、人類を再教育することによってのみ、魂としての人間の本当の表現が可能となる。これがわれわれの新しい機構を条件付ける。
(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 Ⅰ巻』p.119)

私たちは生きる術(アート)を学ばなければなりません。それは芸術形態であり、進んでいくにつれてのみ学んでいくことができるものです。それは教えることができるものではありませんが、その基本原理、法は教えることができます。法――原因と結果の法則、再生誕の法則、無害の法則、犠牲の法則――とそこから派生する規則を教えるならば、人生の基本を教えたことになります。人生はこれらの法の下で進行し、これらの法を生活の本能的な部分とするのが早ければ早いほど、私たちはかなり調整され調和された人生や世界に生きることになるでしょう。
(ベンジャミン・クレーム『生きる術』p.53)

過去と未来

過去の2,000年間に人類が表現したのは、知識のエネルギーです。われわれの科学や教育制度はこれの表現です。次の2,000年間に、われわれは神の愛を表現するでしょう。キリスト・マイトレーヤは、愛よりもさらに高度の相である神の意志の相を持って来られるでしょう。しかし、それは個人において顕されるだけにとどまります。その次の周期(次の2,000年の後にやって来る時代)または、この周期の終わりにかけて、ますます多くの人類が、愛を含めるこの意志の特質を顕示し始めるでしょう。
(ベンジャミン・クレーム『世界大師と覚者方の降臨』p.270)

わたしの覚者たちはいのちの規律を、あなたがたに教えるであろう。わたし自身は人類を招くあのより高度の光を、あなたがたに見せるであろう。わたしの教えは二重である。一つは、人間の物質面にかかわることであり、人生の必要事項である。もう一つは、われわれが神と呼ぶあの聖なる存在と人間との関係についてである。わたしの言語の中では、これらは同じものである。なぜなら人間同士が正しい関係を築いてこそ、神との正しい関係を築くことができるのであるから。わたしの計画は、これをあなたがたに示し、人が己自身の裡に、分かち合い、愛し、信頼する能力を見いだす時、その瞬間から神へ向かう登り道が始まることを教えることである。これは恒に変わらずそうであったし、これからもいつもそうである。
(メッセージNo. 29、p.98-99)

すべての子供たちが成長するための安定した環境を必要とし、母親と父親という模範を成長の過程において必要とする。すべての親がその安定性を、あるいはふさわしい模範を提供するわけではないことは、悲しいかな事実であり、多くの要素がこの嘆かわしい状況に関係している――教育の欠如、貧困、不適切な住宅、病気、そして家族生活の厳しさに不向きで未熟な、無責任で無力な大人たちである。また言えることは、すべての国において、貧困に打ちひしがれ、生活を快適にするあらゆる便宜を奪われている大勢の人々が、雄々しく戦い、非常な困難にもかかわらず、彼らの家族をしっかりと護り、子供たちのために安定した愛ある模範を提供しているということである。彼らは、人類種族の賛美されない英雄である。彼らは不屈の目的意識とやむことのない自己犠牲を通して、人類が示すことのできる最高の美徳を代表する。
新しい教育はこの根本的な問題を取り上げて、社会生活のための訓練と必要条件を設定しなければならない。社会生活の最も基本的なこの面に対して非常にわずかな注目しか向けられず、大部分が気まぐれなチャンスに放置されているということは、奇妙なことではないか。
(『覚者は語る』―家族―p.589-590)

わたしの教えは単純である。分かち合うことの必要と、すべての人間が平等に汲み取ることのできる資源の溜まり場を創ることの必要を、示すであろう。貪欲を協力と信頼に置き換え、人間の裡なる霊性を顕すことの必要を説こう。
(メッセージNo. 64、p.187)

すべての人間の必要は同じである。適切な食糧、住宅、教育と医療は基本的な必要条件であり、それなしには、人間は己の全可能性に達することも、社会にそれを寄与することもできない。今日、非常に多くの人間にこれらの基本的権利が否定されている。
(『覚者は語る』―包括性が鍵―p.490)

教育制度に変化が起こり、物質世界のみならず、心(マインド)や生気(スピリット)をも鼓舞する生存の術が教えられるようになるだろう。将来の教育は、イデオロギーや宗教的偏見から解放されるだろう。それは個人の中に充実感と健全さをつくるものとなろう。
(『いのちの法則』p.303)

おそらく今日何処にも完全な教育は存在しないでしょう。多かれ少なかれ制約された、場合によっては有害な教育です。創造的な想像力を損ない、個人としての表現を阻止し、恐怖感――教師に対する恐怖感、試験に対する恐怖感、お互いに対する恐怖感――を募らせるような教育であり、それはまた有害な競争心を過剰に刺激します。
……すべての人間は魂として見られるべきであるということです。教育全体がそのことに差し向けられねばなりません。さらに、どの子供もユニークであり、過去の転生の経験の結果である個人の光線構造と、この世における魂の目的を持つ人間として認められる必要があります。なぜなら、魂が様々な体に光線を提供するのですから。ですから真の教育は、そして未来の教育は、個人個人に合わせたものになるように、必然的に光線構造を考慮に入れなければなりません。
(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 Ⅱ巻』p.591)

若い人々のためのセンターの開設――英国において、マイトレーヤは様々な方法で、宗教的、政治的指導者たちに、御自身を知らされた。社会の中には深い亀裂が存在するが、それが表に出て来ない限り、癒されないだろう。英国が体験している社会的、経済的、政治的激動はやがて資本主義の緩和を生み出し、社会主義と資本主義の均衡の取れた混合になるだろう。英国におけるマイトレーヤの仕事の中に、特定のセンターを開くことが含まれ、若い人々や家族を引き付けるだろう。その目標は、まず最初に、それらの若者たちを治療して、彼らが自己を尊び、信頼を培えるようにすることである。このようにして用意を整え、彼らが職を見つけるのを助ける。やがて金融銀行部門が援助を申し出て、教師や医者や政治家がこれらのセンターを訪れ、手引きを得るために研究するだろう。
(『いのちの法則』p.291-292)

教師がクラスルームをコントロールすることができないのは、リーダーたち自身が人生とは何かについて理解できないからである。彼らは市場フォースを解き放ち、人間を工場のロボットのようにしてしまうことに巧みなだけである。人生の生き方を知らずに投票箱とイデオロギーに支配されている者だけではなく、いまや、責任ある知識人が(政治に)進出してくるだろう。
子供を洗脳することは神聖なことではない。いかなる者に対しても、イデオロギーを強いることは神聖なことではない。現在、子供たちの頭は事実や数字で詰め込まれている。真我はいかにして平安と幸せを体験することができようか? しかし、「子供たちの名において、すべてが進化するだろう」。
(『いのちの法則』p.302)

毎日世界に強烈に注がれている新しいエネルギーが若い人々の意識を含め人間の意識を変容させています。若い人々は敏感です。彼らは自分が魂の転生した存在だということを(直観的に)感じるのに、彼らが家庭で、学校で、街で経験することは完全に物質的なものばかりです。それは魂の特質とは反対のものです。魂は一体であり、総体であり、人類をひとつと見ます。しかるに子供は学校に行くと、他の子供たちと競争することを、一番になることを、つまり魂の特質とは全く逆のことをするように教えられます。学校は子供たちにとって人生を生きるために準備するところではなく、ビジネスのために準備する場になってしまっているのです。ビジネスがすべての生活を乗っ取ったのです。ですから子供たちは学校に行きたがらないのです。それは商業至上主義と呼ばれるものです。
(ベンジャミン・クレーム『大いなる接近』p.180)

わたしが世界に向かって宣言するとき、すべての人間に次のようなことを語るだろう。「あなたがた自身を神として見る覚悟をしなさい。光の中に掲げられる覚悟をしなさい。人類がすべて兄弟であり、お互いに同じ存在であることに気づく覚悟をしなさい。真理を教える覚悟をしなさい。法を生きる覚悟をしなさい。この法を迎え入れ、神の大計画を復興させなさい。」
(メッセージNo. 34、p.113)

マイトレーヤは宗教の教師そのものではありません。彼は霊的教師であり、言葉の最も広い意味での教育者です。彼は人類にそれ自身の本性について教え、私たちは神であり、すべての個人の裡には私たちを全宇宙と結び付ける神の閃きが宿っていることを示すためにやって来たのです。これは内的なリアリティ(実相)です。彼は人類を鼓舞し、そのリアリティを明かし、覚者方のような、潜在的にだけではなく実際に神聖な存在となるように導くためにやって来ます。
(ベンジャミン・クレーム『大いなる接近』p.45)

教育制度の中にさえ、大きな変化がいま起こっている。子供たちは教科書からではなく、全く未知なものからいろいろなことを提案するだろう。変化は子供たちから生じる。
(『いのちの法則』p.298)

人間の注目を若い人々の特別の必要に向けさせて、彼らのうちに潜在する志向と奉仕への用意を育むだろう。彼は、女性の役割と女性の解放、教育、尊敬の必要を強調するだろう。食糧や仕事や教育や知識に飢えている世界の基本的必要を満たすために、それから先、何年間も、膨大な奉仕者の軍勢が必要であることを、マイトレーヤは示すだろう。彼らの人類愛とより良きものへの希求を実演する機会である。
(『覚者は語る』―前例のない出来事―p.386)

現代教育の悪い点や悲しむべき点は、彼らは悪いとか、それをやってはいけない、行儀が悪い、と言って子供たちを押さえつけるようなやり方です。子供に対して絶えずなされているこの抑圧は、悪いこととは関係ありません。子供は悪いことに関する観念がないのです。子供は欲求、本能、冒険探求の概念しかありません。もし子供が絶えず、それは悪い、それは間違いだと言われることなく、やるがままにさせておかれたら、抑圧や自己尊敬の欠如というものなしに育っていくでしょう。愛されていると感じるでしょう。両親が気にかけており、辛抱強く、聞く姿勢があり、話し相手になってくれると感じるでしょう。このことはすべて、人生が提示する様々な機会を最善に用いる能力に反映される内的な自信のようなものを与えるでしょう。
人々を抑制するのは自信の欠如です。そしてその自信の欠如は、子供を抑圧する両親の絶え問ない小言の結果です。「あぁ、やっぱり子供だね」とか「どうしてそれが分かるっていうの?」という具合に何でも子供の言うことを冷笑したり、貶したりするのです。すべての家族がそうだと言うつもりはありませんが、多くの家族がそうです。知的なある程度教育を受けた中流階級の人々の間でさえも、子供たちに対する抑圧と嘲笑が見られます。子供たちを決して貶してはなりません。子供を抑圧するのは両親の都合のためにすぎません。そうすることによって適当にコントロールできるからです。人々は働き過ぎです。大層疲れており、神経系統は非常に緊張しています。そのために彼らは自分自身の子供たちの存在が耐えられないのです。このことは、彼らにとって、子供たちにとって、そして社会全体にとって悲劇です。
ですから、自己尊敬が実際にすべての人類にとって基本的に必要なことです。その欠如は人々を犯罪、麻薬、すべての悪習、アルコール、生活全般の悪習、自殺に駆り立てます。これはすべて両親の能力の欠如に直接原因します。子供に対して愛と理解の観念を植え付けること、温かさ、忍耐力、援助の心構えなどによって満たすこと、子供の言うことを聞き、子供との関係を持つ、このような基本的な自信を与える能力が両親にないからです。
(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 Ⅲ巻』p.257-258)

今日の教育の殆どは、ある意味では、職業教育です。人々は、外的な商業主義社会での生活を送るために、競争という鞭を当てられて装備を整えています。これは変わるでしょう。競争は協調に変わらなければなりません。とりわけ、競争というのは、人類の重要な表現――その一体性の表現、つまり一つのグループの一部分であるという意識の表現――において、人類を拘束し引き戻す貪欲と恐怖の要素です。これは変わらなければなりません。これが変わると、魂の事実を人々は認識し、覚者方がその模範を示すでしょう。人々は自分たちが魂であることを認識し、魂の方に向きを変えるでしょう。その時、魂のいのちのための教育、そして魂の心理学が、ますます私たちの教育体系の基準となるでしょう。
(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 Ⅲ巻』p.256-257)

それぞれの子供は、どのようなレベルであっても、自分自身の一組の目的を持って生まれてきます。主な目的は、他のすべての人々や彼または彼女が関係を持つすべての人々と平和と調和のうちに生活することを学ぶことです。今日では、これを行う実際の可能性は非常に稀です。魂として人生の目的を成し遂げる必要のあるすべてを皿の上にのせて与えられる環境に、家族に、学校状況に、国家共同体の状況に生まれてくる人は、極めて例外的な人です。しかしそれが必要なことなのです。
私たちは、すべての若者はユニークであることを理解すべきです。彼らは神の子供たちであり、その神聖な特質と神の子としての特性の表現に向かって進化しているのです。どれだけの人が個々の子供をそのように見ているのでしょうか?
(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 Ⅲ巻』p.259)

子供たちは彼らの才能をさらに伸ばすために必要なすべてのことに導かれるべきです。これは子供を魂として尊敬することに関連します。もし私たちが一人ひとりの子供を魂として尊敬するならば、そして彼らがそれらすべてを過去に体験してきていることが分かれば、それらすべてが発揮されるような機会を与えるならば、素晴らしい創造性が生まれてくるでしょう。
(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 Ⅲ巻』p.260)

教育上の努力

この時のための準備の仕事を先導してきた比較的少数の者たちは、彼らに別の奉仕の分野が提供されることを発見するだろう――広大な範囲の教育の仕事である。あらゆるところから質問が出されるだろう。長い間感じられていた知識への渇望は堰を切ったように溢れ出して、その堤防を破るだろう。多くの者がこの出来事の背景と歴史を知りたがるだろう。他の者にとっては、差し迫った将来のことが主な関心事であろう。さらに他の者はすべての説明を分析し、質問する必要を感じ、結局最後にいずれにしても、彼ら自身の信念以外には満足しないだろう。であるから、偏狭と高慢という非難を避けるために、説得と臨機応変の才が日課とならなければならない。
世界的に様々な協会や団体が彼らの役割を果たして、必要な教えの広範囲な配布を保証するだろう。提供される教えはまだたくさんあるが、しかし、すでに授けられた教えで人間の手の中にあって開かれもせず、読まれてもいないものがたくさんある。多くを読む習慣を植え付ける努力をすることを勧告する。系統だった教えの勉強とマイトレーヤの教訓を実際に生きる真摯な努力が、教えるために必要なバランスと権威を与えるだろう。各人が、そのようにして準備を整えて、この新たな奉仕の機会に自分自身を供することができる。
(『覚者は語る』―新たなる奉仕―p.383-384)

……これからは学校や大学において、思考やアイディアがどこから来るかということを、そしてわれわれの真我を体験するのに教典は要らないことを、学ぶようになるだろう。
(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 Ⅱ巻』p.249)

自由と鍛錬

教育の問題は規律の問題ではない。それは自由の問題であり、また子供の新しい価値感覚、すなわち自己表現の必要とその権利の問題である。どの子供も――どの段階であれ――自らの一定の目的を持ってこの世に生まれてくる。主な目的は他のすべての人々と平和に協調して生きること、また自らの環境との正しい関係において生きていくことを学ぶことである。これが起こる可能性は極めて稀だと言わねばならない。機会や教育水準の不備があまりにも大きく、自らの価値や必要が尊重され、また満たされる状況にあると思える者はほとんどいない。
……規律の問題は子供の心理の中でこの危機と結びついており、またすべての若い人々を、(神の子としての)神性の顕現に向けて進化しつつある神のユニークな子として認める必要とも結びついている。今日のすべての教育制度は、例外なく、程度の差こそあれ、移行状態にある。規律の問題が解決される前に、教育理論や実践において必要な調整が起こるのに相当の時間がかかるであろう。
若者はどこでも彼らの自由を必要とし、要求する。そして調理済みの知識を追従的に吸収する者としてではなく、彼らの問題への解決や彼らの夢の実現を求める冒険者としての扱いを受ける権利を必要とし、また要求している。
(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 Ⅱ巻』p.203)

教育制度を通して子供たちに与えられる人生の価値観は、絶対に、伝統とか哲学とか宗教などの名において強いられてはならない。もし強いられるならば、それは人生における足かせとなり、時を経て、それは時限爆弾となる。
(『いのちの法則』p.301)

新しい科学、すなわち魂の科学は、あらゆる未来の教育努力の基礎となり、子供と教師両方の生活を変容させるものとなるであろう。学校や大学は制度的側面を失い、子供のいる社会ともっと融合したものとなろう。従って、学校と仕事の間のより密接な関係が当たり前となって、“壁のない学校”への道を開くであろう。
(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 Ⅱ巻』p.204)

教育においてまず最初に必要なことは、子供たちに自分たちを全体の一部として見るように、様々な国家、肌の色、背景、宗教すべてからなる大きな人間種族の一部として見るよう教えることです。すべてが同じ神性を持ち、同じ道を辿り本源へと向かっているのです。
(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 Ⅲ巻』p.491)

間違った訓練や物質的価値や競争を極端に強調することは、絶望につながる。現在の教育は自己認識を培わない。しかるに、自己(真我)認識こそが、すべての者の運命である真我実現に導くのである。
(『マイトレーヤの教え――いのちの法則』p.43)

現在、転生に入ってきている子供たちは前の世代よりもずっと進化しています。彼らは霊的エネルギーに対してより敏感であり、そしてより直観的です。これは進化の過程の一部です。各時代はその時代の問題に対処する能力を備えた人々を転生させます。彼らの時代の特殊な問題に対して解決法を提供することができます。いま既に、新しい時代のために適応した子供たちがよりたくさん生まれてこれる時期に入っています。彼らは私たちの生活を変革するでしょう。次の25年から30年にかけて、世界は根本的に変わるでしょう。
現在生まれてきている子供たちの多くは既に目覚めた直観を持っているでしょう。(事実、新しい副種族、われわれの第5根本種族の第6副種族、が形成されつつあります。シェア・インターナショナル誌、第1巻9号に載った私の師の書かれた記事『理性と直観』を参照してください)。われわれが低位の合理的マインドの能力を完成させ始めたように――科学とテクノロジーがその表現である――いま転生に入りつつある魂は第6副種族の始まりを形成し、より多くの直観を証明するでしょう。直観は高位マインドの機能です。いまある種の子供たちのなかにそれを見ることができます。それと共に特定の能力、例えば直接的知識とテレパシー(思念伝達)の能力を携えてきます。テレパシーはすべての人のなかに潜在しています。 
(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 Ⅰ巻』p.163)

模範を示すことよりも、より真実に、より即座に、強力な教育的効果をもたらすものはありません。もしあなたが光やいのちの特質について語っていることを模範によって示すことができれば、あなたは良い教育者です。実際にそれを生きれば、それを示顕するでしょう。人々は言うでしょう。「それを(彼の中に)見ることができる、彼の意味することが分かる」と。
覚者方が彼らの存在(本質)を人類に示顕することで行おうとしているのはそのことなのです。彼らはそれが将来の可能性についてとてつもない青写真を示すことを知っています。人々は言うでしょう、「私たちもあのようになれるだろうか? 彼らは素晴らしい、しかし彼らもまた人間なのだ」と。人々は“人間のみ”がマイトレーヤのような覚者になれることを知るでしょう。彼らにできたのなら、私たちにもできます。彼らは異なっているのではなく、より発達しているだけです。私たちが体験してきたことはすべて、彼らも体験してきたのです。もし私たちが実際に、覚者方の持つ完全で無条件の愛、途方もない知恵、信じ難いほどの知性が決して手の届かないものではないことを知れば、これらの特質を目指す人類の志向が目覚めさせられるでしょう。私たちにできることが明らかになるでしょう。
本物の指導者が、真に偉大な教師がいれば、真似をするということではなく、彼が考えるように考え、彼が与えてくれた新しい目覚めた方法で人生を見ることができます。彼が実践するのを見ることでそれができることを知ります。それが模範の美しさです。単なる言葉ではなく、その行動の特質なのです。
(ベンジャミン・クレーム『大いなる接近』p.374-375)

わたしたちの示す模範によって、人間は鼓舞され、超人間的な努力で達成をなし遂げ、光がすべての者の心(ハートとマインド)にもたらされるだろう。そのようになるだろう。
そのようにして、創造の偉大なる秘密は明かされるだろう。そのようにして人間は創造者となり、自分自身の運命の調整者となり、「神のような存在」となり、「人間」の名にふさわしい存在となるだろう。
(『覚者は語る』―光の時代―p.246-247)

新しい教育
新しい時代における教育の方向について洞察するにあたって、教育が果たす基本的な目的を確立し、そうして現在の教育のアプローチの不十分さに光を当てることは有益であろう。
第一に、教育が誰のために存在するのか、そして教育がその機能を果たしていく過程が理解されなければならない。これは見かけほど明白ではないかもしれない。なぜなら、人は長い間自分自身の本性と構成について無知であったし、部分にすぎないものを全体であるとして見、己自身の本質的存在を、大体において無視してきたのであるから。転生している魂としての人間は生まれつつある神である。そして「再生誕の法則」を通して、その神性をまばゆいばかりに実演するためにゆっくりと向上しつつある。教育の本当の意味は、個人が意識的な認識を徐々に拡大していくことを通して、その目的に適うようになり、また自分自身をそれに合わせるようにしていく手段である。この過程を助けるものは、その方法が公式だろうが非公式だろうが、すべて教育である。今日の感覚では、教育はまさに薄弱である。人間の環境を理解し、コントロールするための最小限の必要条件しか請け合わない。人生の意味と目的について初歩的なこと以上を学ぶ者はなく、ほとんどの人間が生存のための日常の闘いに気を取られている。
今日、すべての国家がいまだ文盲以外の何ものでもない。至るところに、事実で詰まったマインド(識心)が意味ある仕事を欠いてぼんやりしている。職業のための教育が人生のための教育に取って代わり、他方そのような不均衡のストレスと緊張がますますあらゆる種類の暴力に爆発する。
教育は内在する神に接触し、これを知り、それに表現を与える手段として理解されるべきである。伝統的には、宗教がこの目的を果たすものとして見られ、宗教教育が今日多くの国においてその防壁として残っている。しかしながら、宗教は神へ通じる幾多の通路の一つにすぎず、すべての人間が己の神性を体験し、それを表現できる手段を見つけなければならない。新しい教育はこの目標に応えるべきである。神の仲介である魂の事実が一般に受け入れられねばならず、この高位の原理に接触をつけるテクニックが一般的に使われるようにならなければならない。
光線構造や進化的発達や魂の目的が知られ、裏付けされるとき、より科学的なアプローチが子供と大人の両方の教育に採り入れられるようになり、その過程に新しい意味が与えられる。それによって、人は神になることを学ぶ。
このすべてが教育の分野で働く人々の熱心な努力を待っている。そのような任務にふさわしい適性を培うことが、若い者たちを教える志向者すべての目指すべきものである。今、われわれすべての前に開かれる新しい時代において、人生のための教育に挑戦しようとする用意のある者にとって、これほど良い奉仕の機会が現れたことはない。人間が分離と分割の問題に取り組むにつれて、新しい可能性の展望が間もなく現れるだろう。これがエネルギーを解き放ち、人間をやがて神の足下に連れていく訓練や教育のテクニックが鼓舞されるだろう。
(『覚者は語る』p.201-203)