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廃墟の全景
カイ・ヴァンデンホーファー氏へのインタビュー アンドレア・ビストリッヒ
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崩れかけた廃墟と傷ついた市民――ドイツ人写真家、カイ・ヴァンデンホーファー氏は最新作品の中に、2009年の戦争から1年が経過したガザの荒れ果てた状況を記録した。20年以上にわたってヴァンデンホーファー氏は中東の写真を撮り続け、占領下のパレスチナ人居住区に関する本を3冊出版してきた。その3冊とは、『完全な平和(Perfect Peace)』(2003年)、『壁(Wall)』(2007年)、そして最近出版された『破壊の書(The Book of Destruction)』(2010年)である。ベルリンに拠点を置くこの写真家は、文化の理解と世界平和のためのアレクシア助成金、ゲッティ助成金、2002年と2004年の世界報道写真大賞を含む数々の賞の受賞者である。アンドレア・ビストリッヒが最近、シェア・インターナショナル誌のためにカイ・ヴァンデンホーファー氏にインタビューを行った。
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シェア・インターナショナル(以後SI):あなたは今年、『破壊の書』という写真集を出版しました。そのタイトルは印象的で、聖書のような響きがあると言う人も多いことでしょう。なぜそのようなタイトルにしたのですか。
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カイ・ヴァンデンホーファー:このタイトルは、オブザーバー紙の写真家をしている親友の提案でした。仲間たちとガザで働いていたとき、彼らは、2008年から2009年にかけて見られた破壊の度合いを国連が分類した1冊の本を見つけました。国連の共働者たちがガザに行き、自分たちが青い参照番号札をつけた崩壊した建物を一つずつ写真に撮ったものです。私の友人たちはいつもその本を「破壊の書」と呼んでいました。
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SI:あなたの『破壊の書』には何を載せたのですか。
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ヴァンデンホーファー:『破壊の書』には2009年に起こった戦争の1年後のガザの被害状況が示されています。それは、破壊された建物と傷ついた人々の二つの部分からなっています。ガザ地区で写真を撮ったのは、2009年11月から2010年5月までの3カ月間でした。写真の制作、展示、それらを載せた本の出版が、2009年カルミナック・ジャスティオン写真報道賞としてカルミナック・ジャスティオン財団から提供された資金によって実現可能になりました。
当初の目的は、爆撃された建物と戦争が残した荒れ果てた景観を記録することだけでしたが、それではあまりにも不公平で偏狭なもののように感じました。そのため、私は人々の写真も撮り始めました。パリのカルミナック・ジャスティオン投資会社の創立者であり社長でもあるエドゥアール・ジャスティオン氏は、私が傷ついた男女や子供たちの写真を見せたとき喜びませんでした。彼はすぐに「このような写真には全く何の希望もない」と大声で言いました。
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SI:ガザに関する資料作成から他に何を期待できるのでしょうか。絶望がそこでは支配的な要素なのではないでしょうか。
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ヴァンデンホーファー:そうです。それがまさに重要な点です。しかし、ここでは異なる世界が衝突しており、ジャスティオン氏は銀行家で彼の世界に住み、ガザの人々は彼らの世界に住んでいます。銀行家として彼は彼なりの方法で「希望」を売っているのです。人は、もっと増やしてくれることを期待して彼に100ユーロを渡すのです。
しかし、ガザに常にあるもの、それは絶望です。私は1990年に初めてガザに行きました。行くたびに、状況はさら悪化していきました。以前は13シュケルでエルサレムのダマスカス・ゲートからガザのパレスチナ・スクエアに1時間半で行くことができましたが、今日では最もうまくいったときで、しかもイスラエルから報道認定を受けたときでも、同じ道程をたどるのに少なくとも3倍の時間がかかります。
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SI:あなたの本に写真を載せる人たちをどのようにして見つけたのですか。彼らは写真を撮ることにすぐに同意しましたか。
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ヴァンデンホーファー:赤新月社などの支援組織から人々の名前と電話番号が書かれたリストをもらいました。私は彼らに電話をし、私がドイツから来た写真家で、フランスの財団から奨励金を受けており、本の制作や展示のために戦争で傷ついた人々の写真を撮ることを望んでいると説明しました。すぐに断られたのは一度だけでした。16歳の少女に関係する別のケースでは、最初は電話で承諾を得たのですが、家族に会ったときに彼らは気持ちを変えました。
心理的に人々はとても悪い状態で、完全に打ちのめされています。カメラの前で泣き始めた人もいました。彼らが暮らしている心理的な重圧は、途方もないものです。ガザでの戦争から2年たった今でも、多くの人がまだ心理的な援助と医療支援を必要としています。
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SI:本のためにあなたは、ゴールドストーン・リポートに述べられている家族も訪問しました。特に悲惨なのはサバ・アドュ・ハリマさんの家族です。
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ヴァンデンホーファー:はい、45歳のサバ・アドュ・ハリマさんは、2009年1月4日にベイトラヒヤにある家を攻撃した3発の白リン弾でひどい火傷を負いました。この地域は後にイスラエル軍によって占領されました。彼女の夫のサイード・アラーさん45歳と彼女の子供のうちの4人――シャヒード君14カ月、ザイン君12歳、ハムザ君8歳、アブドゥール・ラーマン君15歳――は焼き殺されました。息子のヨウシフ君16歳、アリ君5歳は傷を負い、ファラーちゃん4歳は身体の65%に火傷を負い、今もアメリカで治療を受けていますが、今は落ち着いた状態です。サバさんの息子オマル君18歳は農場でトラクターに乗って仕事をしているときに銃で打たれ、上腕を怪我しました。家族全員がこの地域で農業に従事していました。彼らは遺体を共同墓地に運ぶのをイスラエル軍に阻止され、遺体は暫定的に軍によって砂で覆われましたが、かなりひどいやり方でしたので、シャヒード君の遺体は野犬に掘り返され、一部は食べられてしまいました。サバさんはシファー病院で4カ月、エジプトで2週間、そしてさらにシファーで4カ月手当を受けました。そして、娘のファラーちゃんと一緒に2カ月間アメリカに行きました。その後、(リンが原因の)癌と診断され、エジプトに戻ってさらに4カ月間治療を受けました。
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SI:『破壊の書』はアフガニスタンやイラク、そしてチェチェンでもできるのではないでしょうか。
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ヴァンデンホーファー:確かにそうです。それは、今日戦争がどのように「包装されている」か、そして私たちがニュースでは見ていないもの、つまり犠牲者に関するものだからです。私たちは戦争を肉体では経験しておらず、傷を負った人の悲惨さに気づいていません。私たちは迫撃砲が火を噴き、煙や炎が空を満たす様子は見ているかもしれませんが、それは映画のようなお決まりのものです。今日のイラクやアフガニスタンでの映像は、すべてアメリカ軍やイギリス軍が見たものです。もし犠牲者の焼かれた身体を人々が目にするならば、おそらく民衆の激しい抗議につながるでしょう。
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SI:人々の苦しみ、悲惨さ、惨状を毎日常に目にしたとき、どのような感情が湧き起こりましたか。
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ヴァンデンホーファー:この計画が終了したとき、様々な感情だけが浮かび上がりました。写真を撮っている間、私は仕事に集中しなければならず、実際、感情に左右されないようにしました。
ガザは、私が毎日5万ユーロを持って家を出て、夜にはポケットを空にして戻ることができる場所です。戦争の犠牲者の悲惨さはそれほど大きいのです。ほとんどすべての人が医療ケアを必要としており、看護と手術を受けることが必要ですが、彼らはそれを受けることができません。私は見てきたことに非常に関心を抱いています。そのため、私の役割は次第に変わってきています。私はただ単に写真家であり続けるべきなのか、それとも直接的に助けるべきなのかと。
このことすべてを考えると、人々が寄付をしようとしないことが理解できません。例えば、ロンドンの裕福な地域であるケンジントンでの慈善展示会で、写真に写っている犠牲者のために集まった寄付は13,000ポンド(約169万円)だけでしたが、それは実際にはとても少ない額です。そのうち10,000ポンドはノルウェー人のディレクターからのものでしたので。
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SI:2010年11月4日から12月5日まで初めてパリの近代美術館で何点かの写真が展示されましたが、不愉快な事件が起こりました。何が起こったのですか。
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ヴァンデンホーファー:展示会のオープニング前からユダヤ人組織によってパリ市に途方もない圧力がかけられました。そのため、美術館は展示会の広報を広告板ではせず、後にウェブサイトからも削除されました。約1週間後、バイクのヘルメットを被った二人の男性が展示会に乱入し、写真を破ろうとしました。しかし、彼らは警備員たちに取り押さえられました。彼らが過激なユダヤ人同盟に属していることが明らかになりましたが、このユダヤ人同盟はアメリカでは非合法で、テロ組織に分類されています。
この事件のため、美術館は1日閉館しなければなりませんでした。しかし、その後数日間、展示会を見たいという多くの訪問者が突然訪れるようになりました。写真は多くの人に深い持続する印象を残しました。展示中に涙を流した方もおり、一人の女性は感情を抑えることがとてもできませんでした。私は彼女を説得し、パリに住むフランス人女性としてこの戦争に対して何の罪もないということを何度も確信させなければなりませんでした。
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SI:あなたは約四半世紀にわたってガザに関わってきました。次は何をされるのですか。
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ヴァンデンホーファー:2006年から進めている新しい計画で、全世界にある分離壁を記録しています。メキシコとアメリカとの分離壁、誤って「平和の線」と名付けられているベルファストにあるカソリックとプロテスタントの住居の間にある何キロにもわたる壁、モロッコにあるスペイン人居住地セウタとメリリヤにある分離フェンス、キプロスの壁、パレスチナ居住区でのイスラエルによる境界設備、鉄のカーテンの残物、そして秋には、バグダッドに行き、スンニー派とシーア派の間にある分離壁「バグダッドの壁」を撮影してきました。『コンフロンティアーズ(Confrontiers)』というタイトルの新しい写真集を来年出版する予定です。
私は1986年にベルリンの壁にいましたが、そのときの一般的な結論は、分離壁は政治的な道具としての有用性を失ったというものでした。しかし、私たちは過去数年間にわたって見てきましたが、実際には全く逆です。世界中でさらに多くの壁が築かれています。壁を築くことによって宗教的、政治的、経済的な衝突を解決できると信じることは間違った仮説です。これは絶対に時代錯誤の考え方で、私たちの時代にもはや通用するものではありません。イスラエルの分離壁のすぐ近くで暮らしているパレスチナ人の年金受給者が言うように、「9メートルの壁を越えては握手することもできない」のです。
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SI:ベルリンの壁は結局のところ、人々によって取り壊されたために、希望の根拠になっていますが……。
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ヴァンデンホーファー:そうです。新しい本ではそれをテーマにしました。ベルリンの壁が平和のうちに打開されたことを。私はこれを私たちの遺産として、そして模範としての役割を果たしたものと見ています。歴史を見ると、壁が長期にわたって役に立ったことはありません。ドイツの人々を分割する象徴としてのベルリンの壁が崩壊したというこの事実は、まさに私たちに希望を与えるものであり、世界の他の衝突も平和のうちに解決できるのです。
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カイ・ヴァンデンホーファー著『破壊の書(The Book of Destruction)』、Steidl, London, 2011。ISBN 978-3-86930-207-2