スワミ・プレマナンダ:獄中のアバター
観光地図にない南インドの片隅の辺鄙な村で陽気な聖者が、決められた日常の仕事を続けていた。朝の6時から夕方の6時まで、スワミ・プレマナンダは、何百人という聴衆に日々の霊的な講話をし、無数の手紙に返事を書き、周囲の貧しい人たちに毎日面接を行う。そしてその間にも、果樹園の植樹、花の苗床、孤児院、学校、250kmも遠隔の地にあるアシュラムの監督をする。これはとりわけ誠実な聖者の生活のようであるが、スワミ・プレマナンダは11年以上も監獄の中で苦しんできたのであり、そして毎日彼の助言を求めてきたのは、クダロア監獄の仲間の囚人たちであった。
毛髪を頭頂で結わえ、あごヒゲを生やして温和な笑みで訪れ来る人々に応対している柔和なスワミが、凶悪な犯罪者であるとはとても想像できない。しかし2005年4月、インド最高裁判所は、プレマナンダの殺人、レイプ、謀議罪に対する2倍の終身刑は再審なしで、引き続き効力を持つだろうと判断した。インドの新聞やタブロイド雑誌によれば、彼はタミル・ナドゥ州の歴史の中でも最も卑劣な犯罪者である。しかし、インドにおける最も著名な司法関係者を含むプレマナンダの無数の支持者たちによれば、その事件は裁判官の恥ずべき誤審であり、必ずや世界の良心を揺さぶることになるだろう。ある人は、それは最も深刻な両極端の訴訟事例、つまり、悪対善、聖者対罪人の事例であり、正義と真理のための人間の永遠の苦闘の象徴である、と言っている。
デリーの最高裁判所判事たちは、プレマナンダに「悪魔」「怪物」という烙印を押し、これらの権力の範囲を超え、プレマナンダに対する判決にいかなる特赦または恩赦をも禁止するというものであった。しかしながら、彼の国際的な信奉者たちは、正義のために戦い続け、スワミ・プレマナンダは神的存在であり、最高の聖者に等しいアバター、科学的知識を超えるパワーを体現した最高度に純粋な存在であると主張し続けている。彼は逮捕された後に、「私もまた神に試されているのです。その結果、私はすべての人類に知られるようになると確信しています」と語った。プレマナンダの霊的な信望を取り巻くインド内のメディアの暴風とは別に、彼の伝記物語は、全く途方もないものである。アシュラム内で発行された簡単な聖者伝記には、物理学の法則では説明できない奇跡や能力についての報告があり、さらにたくさんの報告が信奉者たちや彼の家族によって証言されている。スリランカのマターレ村に1951年に生まれた彼は、名前をプレム・クマールと名づけられ、聖灰つまりビブーティがしばしば赤ん坊であった彼の周りに現れた。そして、ヨチヨチ歩きになった頃には早くも彼は霊性に関する特異な関心を示した。4歳の時にはすでに、プレムは兄弟姉妹が外で遊んでいる時、祖母と一緒にプジャ(礼拝)を行ったり、部屋の隅の壁の方に向いて深い瞑想をしていた。神的なものまたは聖者の生活について極度に深く考えるときには、無意識状態の歓喜に没入するのであった。
伝記によると、学校に通っていた少年の頃プレムは、どこからともなく甘いお菓子や果物を出現させ友達にあげた。プレムはまた友達のために彼の弁当の食べ物の量を増やしたり、哲学的な主題の深遠な議論をしたり、奇跡的な癒しを行ったりして、学校で名声を博した。彼があらゆる人の問題点をすぐ見抜き、彼らの将来を絶対確実に予見できることを知って、友達の親たちは、彼がまだ青春期に達する以前から彼の信奉者になった。彼のパワーのニュースが広まるにつれて、スリランカの多くの人々が彼の祝福と癒しを求め始めた。それからプレマは、世捨て人としての僧侶、つまりサンヤシン(sannyasin)となって人類に仕えることを決意した。その時以来、彼の家族も彼のことを尊敬の意を込めてスワミ・プレマナンダと呼ぶようになった。プレマナンダというのは、サンスクリット語では、プレマ(純粋な愛)を通して人はアーナンダ(永遠の幸福)に達する、という意味である。
プレマナンダは、祖母の家で礼拝の儀式と面接を数年間続けた後に、16歳の時、彼に会いに集まって来る大勢の人々を歓待するための小さなアシュラムを寄贈された。「すべての宗教のための平和センター」と命名され、あらゆる主要な教義のシンボルが壁に描かれたそのアシュラムは、1983年にスリランカ全土で勃発した宗教的・人種的暴動の餌食となった。そのアシュラムは完全に焼き払われ、その中にあるものはすべてが破壊された。その時まで、プレマナンダは多くの孤児たちと見捨てられた子供たちの面倒を見ていたが、彼らの中の何人かが彼と一緒に南インドに逃れて新しい生活を始めた。
タミル・ナドゥ州にあるトリキー市に数年間住むための臨時の家を建てながら、スワミはもう一つのアシュラムを建設するための土地を選定して人々を驚嘆させた。そこは、イバラなどの棘のある草木に覆われた砂漠のような遠隔の地であったからである。小さなボランティアのグループが徐々にその広大な土地を、長く明るい歩道と手入れの行き届いた花壇のあるオアシスに変えていった。多くの霊的指導者の臨席の下で、プレマナンダのアシュラムが1989年に正式に発足し、スワミの人望は急速に世界中に広まった。彼はヨーロッパやアジアの様々な国を旅行し、そして数回のロンドン訪問の際には、街路に面接を欲する沢山の群衆でしばしば長蛇の列ができた。
アシュラムの長期滞在客は、それらの日々の絶え間ない活動について次のように語っている。週末には何千人もの訪問者がダルシャン(祝福)のために群れをなしてやってきて、各人が必ずプレマナンダから個人的な面接を受けた。今でもそのアシュラムのコミュニティーとしての繁栄ぶりを忘れることはできない。およそ800名の恵まれない子供や孤児たちが保護されて学校教育を受け、毎日千人の人たちに食事が提供されている。印刷機やコンピューター室があり、特別に建造されたバス道路や待機中のタクシーの車輌群、授業を受けるために列を作ってお喋りしながら歩く児童たち。彼らはどの外国人に対しても微笑みながら祈り、「ジャイ・プレマ・シャンティ(神の愛と平和とが勝利しますように!)」と、いつもと変わらぬ挨拶をする。
この快適な環境が粉砕されたのは、1994年11月19日であった。そのとき、マシンガンを持った警察官の大部隊が装甲車に乗ってアシュラムを奇襲したのである。2週間前に19歳の女性と二人の大人がマドラスの異なる二つの国有の新聞社に来て、曖昧ではあるがプレマナンダによる性的虐待という犯罪の告発を行ったのである。スワミに対して明白な証拠は提示されなかった。そして、彼の伯父と兄を含む6名の他の居住者が速やかに拘束され、そして強制収容所に監禁された。
大量の興味本位の記事が、もっと多くの罪状を満載してタミル・ナドゥ州の隅々まで満ち溢れた。その記事は、実態が全く明らかでない「諜報機関」、匿名の情報源、あるいはタブロイド雑誌の単なる中傷好きの風聞に基づいている。プレムスと呼ばれるようになったスワミは公判以前に、銃の密輸、謀議罪、詐欺、マリファナ輸出、および悪名高いスリランカのタミル・タイガーというテロリスト集団のために闘争した廉で有罪と思われた。雑誌の売り上げが急増する一方、レイプに関する最初の告発は何倍にも膨れ上がっていった。ついに33件の告訴が警察署に記録保存されたが、それは全く猥褻なメディアの報告に基づいたものであった。長期の調査と乱暴なメディアの憶測にもかかわらず、証拠の断片さえも全く発見されなかった。
スワミの裁判を擁護したインドで最も敬愛されている擁護者の一人であるラム・ジェスマラニ氏によれば、想定された「レイプの被害者たち」は、個室に不法監禁され、裁判が終わるまで家族や友人に会うことを禁止された上で裸にされて、プレマナンダに関する偽りの証言をするまで拷問にかけられた。彼は、裁判が始まってから2カ月後に追加された殺人の告発は完全に「偽り」であり、「法的ジョーク」である、と主張した。
逮捕からほとんど3年後の1997年8月に下された判事の判決は、インド全体に響き渡った。彼の信奉者や法的支援チームが狼狽したことには、スワミ・プレマナンダは連続婦女暴行と殺人の罪で起訴されたとおりの判決を受けた。彼は2倍の終身刑の判決を受けたのである。その判決は、それ自体に疑問が残る終身刑を2回受けたことに相当する。二つの判決が、別々に取り扱われるのではなく、謀議罪の告発と一緒に処理されたのである。この事もインドでは法律違反である。他に6人の容疑者のほとんどすべてが終身刑を受けた。
1998年以降プレマナンダが住んでいた刑務所は、2004年に津波で荒廃したキュダロールという埃っぽい沿岸地帯の町にあったアシュラムから汽車で5時間の地点にあった。観光客は、特に雨季の終わりの泥濘の頃に、このような地帯に来ることはないが、私は訪問の目的を漏らさないようにと警告を受けていた。それは内密の仕事。レポーターは刑務所に近づくのを禁止されており、またプレマナンダは逮捕以来外国人記者には一度も会っていないからである。それで私の訪問は信奉者の役割ということで行われた。
1950年代のアンバッサダー型タクシー数台に乗り込む前に、私たち少人数の一団は早朝近くの村に集合した。刑務所は200km離れた静かな寂しい森林地帯にあり、荒れた中庭と高い塀に囲まれ、旧式の銃を持った歩哨に監視されていた。誰もがすり足で前進しながらカーキ色の制服を着た警備官の前を通り過ぎ、警備官は無作為にバッグやポケットを調査した。しかし刑務所内の服役者は、私たちにほとんど注意を向けずに新聞を読んでいた。スワミのむき出しの窓のない個室は、10歩ほどの長さで、わずか3歩ほどの幅しかなかった。そしてそれは巨大な鉄格子で囲われていた。
プレマナンダの周りに私たち随行員たちが集合するにつれて、それはますます現実離れしたものとなった。彼は静かに隅の腰掛の上で朝食を取っていた。私たちが群れをなして忙しく興奮状態で小さな廊下を押し合いながら進んで行った時、白衣のイタリア人の婦人がバラと香料とジャスミンの花のネックレスを格子の間から差し入れ始めた。
初めてスワミに会う人は、彼は、通常言われているように、地味な聖人に関する普通の概念から全くかけ離れた人間であり、湾曲したひげを蓄え、いつも白い歯を見せて微笑し、ルンギという腰巻式の衣服を着た全く典型的な賢い歓喜に満たされた導師(グル)である、と言っている。彼は外国人に対しては独学で学んだ英語でカリスマ的に話すのだが、その英語は文節をまとめてしまったり、動詞を省略したりした面白いスタイルなので、もっとその英語に慣れた人が通訳してくれる必要がある。そして彼の精気に満ちた説明には声を出して笑わずにはいられない。
通訳をしてくれたPR担当官は、プレマナンダは白内障の治療をしていないので視力をなくしつつあること、そして糖尿病、高血圧、耳鼻科の病気、慢性の喘息で苦しんでいると説明した。夏のモンスーンの時には、雨が洪水となり刑務所の各個室はひざの深さまで水が溢れてくる、と私は聞かされた。「ここには何の施設もありません。屋根も、扇風機も、灯りも、ベッドも!」と、プレマナンダは眼を細めて含み笑いをしながら鉄格子の中から言った。「私は床に寝なければなりません。食べ物は安全ではありません。時々私の子供たち(信奉者たち)が私のために食事を持ってきてくれます。しかし、それは、実際は法律違反なのです。私は密かに誰にも知られないように食べています!」と、彼はこれらの状況を陽気な歓びに満ちた笑みをたたえながら説明したので、そこがいかにひどい場所であるかを見過ごすほどであった。他の服役者たちにとって状況はどのようなものか、との質問に対して、スワミはインドの刑務所内に充満している不正について、以下のように説明し始めた。「キュダロール刑務所内の3,000人の服役者のうち少なくとも半分は無罪です。金持ちが殺人またはひどい犯罪を行い、そして警官を買収して普通の人が罪人にされるのはよくあることです。しかし、これらの人を助けるにはどのようにしたらよいのでしょうか? 唯一の方法は弁護士を任命することです。政府は個々の服役者に無料の弁護士を任命するのですが、彼は何もしないのです。これまで、私は弁護士にお金を払い、訴訟事件を監督しておよそ200人の人たちを自由にしてあげました。誰かが私にお金を提供すると、そのお金は直接彼らの弁護士に届くのです! 私は私自身のためにはお金を必要としないからです」
プレマナンダと一緒に生活している他の服役者たちは、彼が継続して監獄内で行っている静かな善い仕事について語った。パーバレル氏は、毎日数時間もプレマナンダの独房で過ごし、失明したプレマナンダが絶えることなく口述する手紙への返事を筆写しているのだが、このことはアシュラムの人たちも知らないことである、と教えてくれた。パーバレル氏によれば、毎朝8時ごろ、警備官の特別許可を得て数百人の人たちが中庭に集まり、サナタナ・ダルマ(古代インドの賢人の哲学)のある側面について語るのを聴いた。「私は4年間、毎日この話を聴くためにこの集会に出席しました。そしてその話が確かに私を変えたのです。スワミの講話を聴いている時、わたしたちは刑務所内に居ることを忘れるのです」と、パーバレル氏は言った。
クマラン氏は、穏やかで誠実な若人であり、プレマナンダの独房で雑用の手伝いをしているが、スワミの眼は大きく見開かれ、顔は輝いているように見える、と言って彼を賞賛する。プレマナンダは、何百人という囚人の訪問者に対して、物質的な援助や霊的援助を行っている。その援助には彼らの家族や、出獄後に貧しい人たちが更生できる店を持つためのお金の提供も含まれている。パーバレル氏は「スワミジは、人間の姿をしているが、本当は神の化身です」と言った。
キュダロール刑務所の以前の受刑者であるシャンカラ氏は、プレマナンダに傾倒するあまり、刑期満了になっても釈放されることを拒み、再収監されるためにもう一度『本当の』犯罪を実行することを考えた、と語った。
奇跡と『人間の形態を採った神』という問題は、西洋人のハートは疑問視して信じないだろう。しかし、刑務所内でのインタビューの間、プレマナンダは、嘆くような語調で彼のパワーについて2回言及した。「刑務所の中で私は、普段は、偉大な人ではありません。私は普通の人です。神は私が行うたくさんのパワーを私に与えました(原文のまま)。私が若い時は、奇跡やどんなことでもやりました。これは誰もが徐々に(より偉大な意識が存在することを)理解するためでした」と彼は言った。
このことを言ってからすぐ後に、プレマナンダは私の手を鉄の扉の小さな開口部から取らせてくれるように、私に頼んだ。牢獄の中では奇跡を行ったことはないと再び説明を繰り返しながら、腕を振り回し手一杯の白檀の粉を造り出し、そして象の姿をしたガネーシャ神の小さなメタル製の像をどこからともなく物質化した。それは掌の中で暖気とひりひりする珍しい感覚を与えた。それは、出席者たちによれば、5~6年間で行われた唯一の奇跡であった。
その後、彼は彼の立場についての説明を始めた「私は真実を語ります。私は決して嘘をつきません。今スワミがこの地球上にやって来ました。
私は名前や声望を望みません。私はそのことで思い悩みません。私の唯一の望みは、人々を正しい方向に向かわせることです。それが主な目的です」と。
スワミ・プレマナンダは、上告をしないでこの先18年間も刑務所にいることになっているが、彼の訴訟事件の反対陳述は非常に重要なものなので、支持者たちはその詳細が国際裁判所での精密な調査を保証すると信じている。ラム・ジェトマラニは、83歳で法律の仕事から引退したにもかかわらず、大統領特赦または執行猶予になるまでこの訴訟事件のために個人的に戦うことを決意している。最高裁の判決の後で彼は「人は恥じて頭をたれなければならない」と述べ、「警察官が真実であると見なしたものを引き出す」ために証人に暴力を振うことを効果的に許可したことでインドの法曹界を国際的な恥さらしにした、と言った。それが意味するものは非常に陰険なので、現在インドに敷かれている法律を転換させるための法律制定を早急に行わなければならないと、彼は警告した。
この事件のさらに神秘的な説明が、スリランカの最高裁判所判事C. W. ウイゲンシュワーランによってなされたことは驚きであった。彼は長年にわたるプレマナンダの信奉者であり、裁判所によって『希望的観測』であるとして却下された証言者の一人である。ウイゲンシュワーラン判事は「最も重要なことは、それが人権に対する嘆かわしい侵害またはインドの法体系の中で起きた不正行為であるだけでなく、プレマナンダに刑務所で会ってから彼らの人生が変化した囚人たちの存在である」と語った。
2005年11月20日、プレマナンダのアシュラムは彼の54歳の誕生日を祝った。その時彼は300km離れたマドラスの病院のベッドに監視されながら寝ていた。2日後にはお祝いにならない記念日があった。それはプレマナンダの収監11周年記念日であった。
大抵の欧米人にとっては、グルまたは神格(divinity)という単語を簡単に口にするだけで、一瞬でもそのことを考えるなどということは非常に信じがたいようである。しかし、プレマナンダの立場に信頼性があるならば、彼の生涯の物語は現代の無神論の核心に対する文字通りの挑戦になるだろう。なぜ彼は刑務所に入ったのか、いつ彼は釈放されるのかについて、そして彼が『すべての人類』に知らせるであろう明確な結果について、彼が確実に知っていることを彼はすでに語ってきた。しかし、おそらく彼の主張の最も不可思議な点は、2002年に刑務所の独房から語られた以下の言葉である。「私はある仕事を行うためにこの世界にやって来ました。神は私に仕事を与えてくださいましたが、まだ始めていないのです・・・」。しかし私が始めたら、あなた方は理解するでしょう」
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? 「私は真実を語ります。私は決して嘘をつきません。今、スワミがこの地球上にやってきました。 私は名前や声望を望みません。 私はそのことで思い悩みません。 私の唯一の望みは、人々を正しい方向に向かわせることです。 それが主な目的です」 スワミ・プレマナンダ |
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