現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2006年 3月 生きる術 Q&A(1)

生きる術 Q&A(1)

ベンジャミン・クレームとの会議での質疑応答

「生きる術」は2005年のアメリカとヨーロッパでの伝導瞑想会議におけるベンジャミン・クレームの基調講話のテーマであった。この講話は2006年1月号のシェア・インターナショナル誌に掲載されている。
この会議の質疑応答の模様を2号にわたって掲載する(第二部は4月号に掲載される予定である)。
以下は、同じテーマについてベンジャミン・クレームの師である覚者による記事からの抜粋である。

間もなく、われわれの人生に対するアプローチに大きな変化が起こるだろう。現在の混乱の中から、われわれの存在の根底に横たわる意味について、新しい理解が生まれるだろう。そしてその意味についての認識を日常生活で表現するために、あらゆる努力がなされるだろう。これが社会の完全な変容をもたらすだろう。
新しい生き方が人間関係と制度を特徴づけるだろう。新しい自由と歓びの感覚が、現在の恐怖心に取って代わるだろう。何にもまして人類は、生きることが一定の法則に基づく術(アート)であり、正しい表現のために直観の機能が必要とされることを実感するようになるだろう。
無害であることが、人間関係に新しい美を表していくための鍵である。行動と思考に対する新しい責任感が、すべての状況において各人を導くだろう。原因と結果の法則の理解によって、お互いに対する態度が変わるだろう。人間関係の中に、国家間に新しいより和やかな交流ができ、現在の競争と不信に取って代わるだろう。
徐々に人は生きる術を学び、一瞬一瞬に新しい経験を持ち込む。もはや未来を恐れ、お互いを恐れて生きることはなくなるだろう。何千万の人間が飢えることも、兄弟同胞のために労働の重荷を背負うことも、もはやなくなるだろう。
(ベンジャミン・クレームの師である覚者による記事『生きる術』より、本誌1983年10月号)

カルマの法則と無害の法則

カルマの法則を最もよく利用するための実例を挙げていただけますか。
最良の方法は、あらゆる状況において無害であることです。ほとんどの人々はある状況では無害ですが、別の状況では有害になります。現に聖者である覚者方を除いて、あらゆる状況において無害である人はほとんどいません(いたとしたら、聖者に違いありません)。私たちのグラマー、条件付けのために、必然的に、ある状況においては有害であり、他の状況ではそれほど有害ではなく、さらに他の状況では全く有害ではないが、カルマをつくり出すには十分であるといったことになります。答えは非常に単純ですが難しいです。あらゆる物事と同じように、それには規律が必要です。
あらゆる状況において無害であること--それに必要なコントロールについて考えてみなさい。しかし、瞑想と、できるだけ多くの状況で無害であろうとする意志の積極的で明確な機能によって、コントロールはより容易になります。あなたは多くの状況で有害であり、有害であることに気づいてすらいないでしょう。これが常に起こっていることは確かです。後になってから、自分がいかに有害であったかに気づくのです。
例えば、(アメリカの)ブッシュ大統領は誠実なキリスト教徒であると思います。しかし、彼がアフガニスタンに与えた害を見てみなさい。イラクに与えた害を見てみなさい。彼や彼の取り巻きたちが今、アメリカ人の自由に対して行っている害を見てみなさい、彼らの自由を制約するための様々な方法手段を考え出しています。
私たち皆が、自分は無害であるというイリュージョン(錯覚)を持っています。どこまでなら許されるかを知っており、それを超えない限り大丈夫だと思っています。私たちは有害であり、有害であることを知っているがその害の深さを知りません。なぜならグラマーのためにそれを正当化し、害と呼ばないからです。
私がいつも理解に苦しむのは、アメリカでアリス・ベイリーの教えに没頭し、それについて講演までしている人で、私にこんなことを言う人々がいるのです--「私はハイアラキーやマイトレーヤの到来についてあなたが言うすべてのことに同意しますが、世界の資源を分かち合うというアイディアは理解できません」。それは私を驚かせます。私は彼らが何を読んできたのか、どう読んできたのか、ジュワル・クール覚者が資源の分かち合いについて語っていることをどう読んできたのかは知りません。それは『人類の問題』という本の中の主な主題の一つなのです。
このような信念は真剣に保持されているのです。「私たちは多くを持っていない。しかし持っているものは私たちのものだ。私たちは一生懸命働いてきてこれらのものを得たのだ」と(南カリフォルニアの裕福な地域の海岸沿いに住みながら)言うのです。「海の向こうに住む、会ったこともない人々と、何で私たちの所有物を分かち合う必要があるのか理解できない。彼らはラスタファリアンのような長髪の人間かもしれない」とか、「なぜ彼ら(アフリカの飢えた何百万もの人々)は私たちがやってきたように努力して生活を向上させないんだ」などと言います。そのようにして私たちは自分をごまかし、見たくない現実をグラマーによって見ないようにするのです。私たちは上手にそれを脇にのけ、正当化しようとします。
そうしようと思えば、どんなものでも正当化できます。ブレア首相が、なぜイギリスがイラク戦争をしたのか、国民の70%が反対しているのに、なぜそれについて彼が謝罪する必要はないのか(そして決して謝罪したことはありません)について正当化するのを聞いてごらんなさい。フランス、ドイツ、他のヨーロッパ諸国は言うに及ばず、イギリスの最良の頭脳からのあらゆる助言はそれに反対したにもかかわらずです。
正当化することは最も容易なことです。すべての正当化はグラマーから来ます。特定の光線構造や特定の種類のマインドは、不快なことを容易く正当化することができます。直面するのは不快ですが、それを正当化して、考慮の外に置くのです。言葉を換えれば、ブレア氏やブッシュ氏がやっているように、それを背後に置いて‘将来に向けて舵を取る’のです。彼らは間違いを忘れさせようとして、将来の可能性だけを見ます。すべての政府がそうします。はるか昔からそうでしたし、機会があれば、いつまででも続けるでしょう。その機会を与えるかどうかは私たち次第です。

無害とは他を傷つけることだけではなく、もっと多くのことを意味していると思います。無害の最良の使い方の実例を挙げていただけますか。
それは、戦争をしたくてもしないことを意味します。国家元首を打倒しないことです、それが国民によって民主的に選ばれた指導者であるならばことさらです。チリのアエンデ大統領はCIAによって倒されました。そういうことをすべきではありません。それが有害ということです。度を越して、力を過信し、何でも好きなことをやる権利があると思っている政府がそういうことをします。彼らは勢力圏に共産主義やその他のけしからんことが存在しないことを望んでおり、周囲全体を支配しようとします。あらゆる強国は同じことをやっています。周辺地域を彼らにとって安全感の持てるものにしたいのです。周辺国の経済をコントロールしています。アメリカは、カナダ、メキシコ、ブラジル、他の南アメリカ諸国をそのように見ています。社会主義的な傾向を持つ指導者が現れたら、アメリカ政府は速やかにCIAを送り込み、公には行う用意がない汚い仕事をやらせます。世界中で政府レベルでそういうことが行われています。彼らは多かれ少なかれファシストです。
無害の最良の利用は、その反対のことをすることです。絆を結び、資源を分かち合い、外交関係を築き、他の国々と協力して働くことです。協力は無害です。協力の欠如、すなわち競争は、本質的に有害です。しかしアメリカの若者は、競争は生命そのものの源泉だと信じ込まされています。そうではありません。競争は有害であり、人間を堕落させます。破壊的で、腐敗させ、分裂させるものであり、したがって無害の正反対ですから、カルマの法則を招きます。
これらの指導者のカルマは忘れられてはなりません--ブッシュ氏、ブレア氏、そしてサダム・フセイン氏を含む歴代のすべての暴君たちです。彼らはいずれにせよ暴君です。権力を追求し、それを誤用するのです。

イエスは、カルマの法則について「あなたが蒔くとおりに、あなたは刈り取る」と言われました。この法則が私たちの生活の中で実現していく様子をどうやったら見ることができますか。例えば、ジョージ・ブッシュ氏のカルマはなぜ成就しないのですか。
あなたは辛抱が足りません。その報復はやって来るでしょう。
例を挙げましょう。「アメリカが戦争をすると、洪水、ハリケーン、竜巻、それから信じられない気候がやって来た。日陰でも60度を超える日が何週間も続いた。干ばつが起こった。暑さのために何百人もの人が死んだ。これがカルマの法則である」
新刊を読みなさい。『いのちの法則』といって、マイトレーヤの言葉から書かれたものです。彼は多くの譬えを用いて、世界の諸国の行為とその反動を示しておられます。それは私たちが思いもつかないものです--地震、竜巻、洪水、火山の爆発、飛行機事故、列車事故、これらすべては、人間がつくり出した不均衡によってカルマ的に引き起こされたものです。
カルマの法則を侵害するたびに、世界の均衡がある程度乱されます。その行為の規模によって、反動は大きくもなり小さくもなります。イラク攻撃のような行為に対する反動は巨大なものです。何百万もの人々が同じ有害な想念で満たされ、それが実行されるとき、そのカルマの効果は、それによって乱された世界の均衡の損失に比肩する巨大なものとなります。
誰かを嘘つきだとかペテン師だとか悪し様に言うとき、それはカルマの法則を少し侵害します。

紛争解決

どうすれば紛争を無害に解決できるでしょうか。
さて、どうしたらいいでしょうか。いかに取りかかるかです。紛争を無害に解決する方法は一つではありません。実行するならば徐々に効果があり、最も無害な仕方で、最大限に紛争を解決できる方法があります。それは、受け取るためには讓る必要があるということを受け入れることです。
二人の人がいて、両者が関わる紛争がある場合に、例えば土地や水や石油をめぐって、領地を巡って争いがあるときに、どうすればいいか。他の側と会い、そして妥協案を探ることであり、自分と相手を両方満足させる何かを探すことです。それは、自分の立場からは完全ではないかもしれませんが、一定量を相手に与え、自分の権利の100%を要求しないことによって、相手側も同じ無害なやり方で権利のいくらかを放棄し、妥協に達することです。
智恵と賢明な妥協を用いることによって、受け入れ可能な合意に到達し、平和を維持する、あるいはそれ以上の害なしに紛争を終わらせるのです。

時間の要素は、無害であることとどのように結びつきますか。
それがイスラエルとパレスチナのようであれば、何年もの間果てしなく話し合って、パレスチナが少しの妥協をすれば、イスラエルは「いや、それは受け入れられない」と言う。そしてイスラエルがごくわずかな、実際には意味のない妥協を提供すると、もちろんパレスチナはそれを拒絶する。するとイスラエルは「ほらみろ。彼らはわれわれの妥協を受け入れなかった」と言うのです。するとパレスチナは「それは役に立たない。何の意味もない」と言うのです。そして戦いは続きます。すなわち、話し合いは誠実に行われなければなりません。自分のすることに正直でなければなりません。ひとつには、妥協に到達することを欲しなければなりません。
イスラエル・パレスチナ問題では、イスラエルは明らかに平和を望んでいません。平和を欲してはいますが、ウエスト・バンクを犠牲にする気はありません。パレスチナにウエスト・バンクを与えるという交渉は、1991年4月にロンドンでマイトレーヤが主催された会議のときに、マイトレーヤによってヨルダン国王との間で行われました。マイトレーヤはフセイン国王に、1967年の(イスラエルとの)6日間戦争以来イスラエルが掌握しているウエスト・バンクの支配権を放棄するよう要請しました。フセイン国王は、それがパレスチナ人の領土になるという条件で同意しました。イスラエルはウエスト・バンクを放棄する気は毛頭ありませんでした。イスラエル人全員ではありませんが、ウエスト・バンク、カナンの地、彼らにとっては何千年も前に神から与えられた土地として、それを決して手放さないと誓っている少数派ですが、かなりの数の人々がいます。パレスチナ人の側には、これまで何百年もの間、彼らの土地であった土地にイスラエルが存在することに抵抗することを誓った少数派の人々がいます。ですから両方の側に決して譲歩しない狂信者がおり、公正な平和をもたらすような妥協を見いだすことを目標にしなければなりません。私個人的には、イスラエル・パレスチナ問題を終わらせることができるのは、マイトレーヤだけだと思います。パレスチナ人がイスラエルの存在を受け入れ、イスラエル人がパレスチナ人のウエスト・バンクに対する権利を受け入れ、独立国家としての地位を受け入れるという妥協によってそれを成し遂げるのです。
時間の要素はどう関わるのか。イスラエル・パレスチナ問題について考えるならば、時間がいかに重要かが分かるでしょう。それは解決しないままいつまでも続いています。それは焦点を変えています。アラファト議長やヨルダン国王のような人々が死に、それが状況を変えました。イスラエルとアメリカは、アラファト氏を追いやったので、状況を有利に運べると思っています。パレスチナは指導者を失い、強力な指導力を失って、彼らがイスラエルの提供してきた不公正な条件を受け入れる可能性が高まったと見ています。受け入れ可能で公正な妥協がない限り、あの地で戦争が止むことはないでしょう。
ですから時間の要素は重要です。それはたいていの場合重要です。地上で起こることのすべては、すでに高位の世界では起こっています。時間の外で、私たちの観点では、はるか昔に起こっています。覚者方の働く時間のない見地からは、「はるか昔」とか「はるか将来」ということはありません。それは今です。覚者方の経験からは、今しかないからです。それが存在するすべてです。未来も過去もありません。今があるだけです。この瞬間の人生があるだけです。しかし物質界に凝結するためには--私たちが物質界の意識で用いる相対的な時間の感覚からは、時間がかかります。飛行機に乗るためには2時間前に到着していなければなりません。ただ現れて、「時間が来たような気がする」と言うだけでは、飛行機は行ってしまい、取り残されて手を振ることになります。
私たちは物質界でこの時間調整を必要とします。なぜならそれはやっと物質界で凝結し、出来事が起こるからです。これらの出来事を間に合わせるためには、もちろん時間が関わり、それを考慮しなければなりません。シェークスピアが言うように、「潮時というものは人間の行動にもある」のです。時間の外にあるマインド・ベルト(想念帯)で起こっていることが起こります。起こることは高位の世界で、すでに存在している想念の結果が物質界に凝結したものです。これらは計画であり、ある程度は人間の想念とマインドの構築物です。しかし、より高位のレベルでは覚者の想念であり、この惑星のロゴスの意志です。ですからそれらはカルマの結果であり、善きにつけ悪しきにつけ、以前の行動から私たちが始動させた出来事の結果です。
覚者方は、私たちは悪いカルマよりもよいカルマを多くつくっていると言われます。そうは思えないでしょうが、そうなのです。想念や計画が凝結するとき、それを出来事と呼び、海岸を襲い、破壊と死をもたらす津波やハリケーンと呼びます。そのすべては高位の世界では、自然のフォースを担当するデーヴァ・エレメンタルの行動によって始動されたものです。彼らは気候その他を操作します。彼らは人間によってつくり出された混乱や緊張に反応しています。

上からのコントロールと余暇の必要の間の葛藤を解決するには、個人として何ができますか。
上からという言葉が意味しているのは、職場の上司ということですか。あなたが自分で解決しなければなりません。政府を変えなければなりません。あなた自身の国を運営している独裁者候補の小さなグループを変えるところから始めなければなりません。至るところの人々が、余暇が必要であることを主張しなければなりません。

私自身の内側に葛藤があるとき、いかに無害になれるでしょうか。
自分が葛藤に満ちていると考えるならば、より難しいです。もちろん、私たちは皆葛藤に関わっており、葛藤状態の中で無害であることはできません。私たちが有害な行動を取るのはまさに葛藤の中にいるときです。
葛藤の中にいなければ、私たちは調和の中にいます。調和の中にいれば、有害さを生み出すことはありません。なぜなら調和は、内的なリラクゼーションの(ゆったりした)状態と葛藤の欠如を生み出し、そこからは間違った行動は生まれないからです。葛藤の中に入るや否や、有害なことをする可能性は必然的に高まります。
では、自分自身の内部の葛藤の中でいかに無害になれるか。葛藤を解決しない限り不可能です。葛藤に対処できるまでは、有害さに対処することはできません。自分の中の葛藤を扱い、葛藤の代わりに調和を生み出すならば、有害さは止みます。有害であることを止めなさい。

無害さと有害さ

無害さと有害さについて、もっと話していただけますか。例えば、どうやって無害を実践すればいいでしょうか。それは意図と関係しますか。
無害であることを実践しなさい。最良の方法は無執着を実践することです。無執着であればあるほど、ますます無害になります。
覚者方は、カルマの法則は恩恵的な法則であり、誰もが悪いカルマよりも善いカルマを作っていると言われます。信じられないと思う人もいるでしょうが、それは自己憐憫かもしれません。だから実践しなさい。それは意図と関係するか。もちろん、意図と関係します。

有害な想念に捕らわれたとき、それを変える最良の方法は何ですか。想念を打ち消す人もいます。それを光で囲んで変容する人もいます。どうすれば無害なものに変えることができますか。
それを言葉に出さないことです。有害な想念に捕らわれたら、それを戻すのです。「ああしまった、滑り落ちた!」と言いなさい。再び気を落ち着かせて、注目を上げるのです。眉間のアジュナ・チャクラに注目があれば、有害な想念を持つことはありません。すべての有害な想念はみぞおちのチャクラから来ます。有害な想念を持たない人がいるでしょうか。有害な想念は私たちのマインドを常に行き来しています。単にそれを戻すのです。「よし、またやってしまった。注意深く見守らなければ」と。簡単な方法はありません。そんなものがあれば、私たちはみな無害になっているでしょう。真の答えは無執着であることです。

真の許しは害を取り除きますか。
真の許しは奇跡を起こすことができますが、誰が許すのですか。あなたが誰かに害を与え、そしてその人はもちろんそのことに気づき、それを感じ、誰が害を与えたかを知り、その上であなたの行為を許すならば、その人は、本当に許すことのできる度合いに応じて、カルマの作用を和らげます。許しが完全であれば、自分に対する害を完全に、正直に、深く許すほどに無執着な人であれば--それは一定の段階以下の人にとっては非常に難しいことですが--その人はあなたの有害な行為に関わるカルマを消し去ることができます。そしてもちろん、あなたも同じような状況下で、あなたがどの程度無執着であるかに応じて、同じことができます。あなたがどれほど無執着であるか、その度合いに応じて、それに関わるカルマを和らげます。
それが、例えばイエスの許しのように完全なものであれば(彼は当時第四段階のイニシエートでした)、それは完全です。彼は十字架の上でこう言いました。「父よ、彼らを許したまえ。彼らは自分が何をしているのかを知らないのです」。それは彼から出た言葉であり、彼の無執着は完全なものでした。
しかし、「ああ、構いません。忘れてください。あなたを許します」と言うだけなら、カルマは部分的に取り除かれるだけです。完全に許すのは難しいことです。なぜなら、完全に無執着になるのは難しいからです。
許すことができるためには、無執着でなければなりません。十分に無執着であれば、私たちは許すことができ、害によって影響を受けず、害を与えた人のカルマを和らげることができます。

犠牲の法則

Q 無害の法則と犠牲の法則との結び付きについて説明していただけますか。
私たちはエネルギーの宇宙に住んでおり、私たちはみな振動しています。生きるという過程は、肉体、アストラル体、メンタル体という器が徐々にその性質を変えていく過程です。それは非常に実際的なものです。
もしあなたがより高度な領域--つまり、この世に私たちが存在する意味と目的のより高度なレベルに対してマインドを同調させることのできるような領域--に住みたいと思うならば、そうすることを可能にするような器を持たなければなりません。メンタル体が理解するのにまだ慣れていないものをメンタル体に持ち込むことはできません。ですから、メンタル体はより精妙なレベルで振動していなければなりません。器を精妙にしていくのです。食事法、断食、運動など、人々が自己犠牲と呼んでいるあらゆる方法で肉体を精妙にしていきます。人々は歩いたり走ったり自転車で出かけたりします。動かない自転車に乗ることさえあります。どこへも行かない(運動用の)自転車をひたすらこぎます。暑くなり、汗をかき、肉体的に高められます。これを10年間か半生の間、毎日やり続けると、徐々に肉体は精妙になっていきます。
それから一生を通じて、アストラル体つまり情緒体を精妙にし、それからいずれはメンタル体を精妙にしていきます。それぞれの器が精妙になる過程を経ることによって、器はそれ自体にますます多くの光を、ますます多くの亜原子的な性質の物質を引き付けるようになり、その人は変性されていきます。そこで犠牲が関わってきます。人々は物質を背後に置き去りにして、前進しなければなりません。

個人の犠牲と根底にある犠牲の法則との間には何らかの関係がありますか。
私はオカルト的な犠牲について話しています。爆弾を抱えて自爆するよう要請されるのは、オカルト的な犠牲ではありません。犠牲の法則がオカルト的に意味しているのは、低位のものを高位のもののために放棄することです。その場合には、もちろん直接的な関係があります。
犠牲の法則の作用を引き起こす個人的な変化と、その結果として起こる変化は、犠牲の法則と関係しています。そのような変化はあなたを変えていきます。
犠牲の法則とは、秘教的な観点から見れば一つの行為です。あなたは自分自身を変えています。元の自分に戻ることはありません。それは過去であり、あなたは過去を未来のために変えているのです。あなたは過去の自分を、潜在的に(本質的に)自分であるものへと変えているところです。ですから、犠牲の法則の下で行われるすべての犠牲の行為は、潜在的な(可能性としての)あなたを真のあなたへと変えていきます。あなたはあなたですが、潜在しています。自分自身に働きかけることによって、あなたは犠牲の法則を呼び起こすことになります。
犠牲の法則は、あなたが過去を放棄することを、そしてそうすることで、前進への必要性によって呼び起こされる犠牲の結果を達成できることを確実にします。あなたを前進へと駆り立てているのは進化の法則です。志向は、より高い状態に達するのに必要な犠牲をあなたから引き出す進化の法則を通して働きます。
そうした志向が進化の法則なのです。私たちはそれを志向として経験します。ですから、私たちがその志向から引き出す特質を、そうした志向をもたらす特質を、いずれ創造し成長させていきます。

犠牲の法則についてもっと詳しく説明していただけますか。それはどのように作用するのでしょうか。
人が成長するにつれて、志向がその人をますます高く引き上げていきます。そして高位のものが獲得できるようになるとき、それは犠牲を通してのみ獲得できるということが分かるでしょう。
その時点まで一生を通じて必要としていたとしても、もう必要としなくなったものは犠牲にしなければなりません。あなたの現在のより高い振動(バイブレーション)の状態においては、それはあなたにとって役に立たなくなっています。低位のものを犠牲にするならば、高位の振動状態のために低位の振動状態を犠牲にすることになります。
あなたの人生の振動が高まり、振動率が一段階上がるたびに、肉体、アストラル体、メンタル体に亜原子的なエネルギーを、つまり光を引き寄せます。そのようにして諸体は徐々に変えられていきます。今や光へと変わりつつある低位の振動物質を保持することはできません。低位の振動を高位の振動と共存させることはできないのです。
それは全く単純なことです。それは自然の法則に従います。それについて神秘的なことは何もありません。自分をより高度なレベルへと引き上げることを行うならば、あなたは振動率を変えていることになり、したがって、いまだに低い振動率で振動しているものを保持することはできなくなります。あなたはそれを放棄し、犠牲にしなければなりません。
あなたが自分の器の振動的な性質に変化をもたらそうとするならば、その器が持っていた以前の低位の振動率をなくすことによってのみ、そうすることができます。そのようにして、その低位の物質は宇宙の物質へと、私たちが生きている惑星の生命へと還らなければなりません。それを持ち越すことはできません。

犠牲の法則と意志とのつながりについて、また、生きる術において意志を働かせることの大切さについて話していただけますか。
意志なくして犠牲の法則を実践することはできません。高位のもののために低位のものを喜んで放棄しなければなりません。それは自己犠牲といったものではありません。幾つかの光線、特に第6光線は、魂のレベルにおけるその光線の特質の主な様相として自己犠牲という働きを持っています。それがイエスの途方もない犠牲の背後にあったものです。しかし、生きる術において、犠牲は、実際のところ、原則として進化の道に固有の要素として認識することです。犠牲なくしては、高位のもののために低位のものを放棄する意志なくしては、進化の道に沿って進化することはできません。
意志しようという意識的な努力を常に伴うというわけではありませんが、それは常に意志を働かせる過程です。しかし、第3イニシエーションを受けるまでは、意志がその過程に強く入り込むことはありません。意志はその後、弟子のさらなる進歩において非常に力強い役割を果たすようになります。しかしその時点まで、犠牲を行う能力とは、低位のもの--あまり価値がなく克服すべきもの--をこれから実現すべきもののために服従させる能力のことです。それは生きる術の自然な部分になるべきものです。
犠牲を行いたいという欲求があるでしょう。これはしばしば恩恵を、覚者方や神そのものから祝福をもたらします。犠牲を行うという本能は、死にかけているものを死なせるための、放棄するための無意識的な本能です。
非常にしばしば私たちは、もう役に立たなくなったものにしがみつきます。それは実際のところ、人生で必要なものの一部ではありません。それは私たちがやり終えたもの、通り抜けてきたものであり、決してそれにしがみついて、それを個人化しようとすべきではありません。それにしがみつけば、それを個人化することになります。自分のものにしてしまいます。「私は達成したのだ!」と考えてしまいます。そのようにすれば、それ以上は進歩しません。マイトレーヤに関してそのようにすれば、あなたは自分の中にあるマイトレーヤのいのちを弱めてしまうことになります。あなたはそうしようとすべきではないし、彼が個人化されることはないでしょう。そのようなわけで、彼は信奉者を欲しないのです。もし彼を個人化すれば、あなたは彼を宗教の教祖にすることになります。彼はそのような方ではなく、そのような者になる意図もありません。彼には果たすべき役割があります。彼はイニシエーターであり、教師でありますが、個人化されてはならないでしょう。
あなたが自分自身にそれをするならば、もしあなたが一定の点まで進歩したとすれば、自分が得たものを放棄する覚悟をしなければなりません。なぜなら、それはすでにあなたの一部になっているからです。多くの人々が個人化します。彼らはこう言います。「私はそれを達成したのだ。やり遂げたのだ。私はこれこれのイニシエーションに近づいていると思う」と。それはグラマーです。その人が実際にやっていることは、自分自身を個人化する(自分のものとする)ことによって自分自身を条件付けることです。自分でそれを評価すべきではありません。個人化すべきではありません。それはただ単に、あなたが到達した活動領域です。あなたはそれに対して与え、そこから学び、それを放棄し、さらに高位のレベルへと進歩していくべきです。
進化過程において、あなたは物質界の意識から魂の意識へと移行します。それが旅路です。アストラル界の意識があれば、物質界の意識は思考のレベル以下に落ちていきます。それは潜在意識的、本能的になります。物質界を意識することがなくなっていきます。自動的にそうなるのです。自動的とは言っても、それは意識下にあります。それは潜在意識的なものです。アストラル的な活動は思考のレベル以下にあるべきですが、しかしそれが私たちの行動を活気づけ刺激します。それは行動とは全く関係ありません。それはアストラル界の機能ではありません。
アストラル界は本来、池のように穏やかで、波立たない鏡のようであるべきです。その池ではブッディの意識、つまり魂の意識が、直観として反映されるべきです。しかし、アストラル体がブッディの反映になっているような人はどれくらいいるでしょうか。
直観からは何でも知ることができますが、それは直観に触れることができる場合だけです。自分が達成したものに名前を付けるや否や、その達成と同一認しそれにしがみつくや否や、それを個人化してしまうことになります。個人化するとはそのようなことです。それを超越してもっと高いレベルへと移行しなければなりません。肉体意識からアストラル意識へと、メンタル意識へと、霊的意識へと移行しなければなりません。それが前進というものであり、そうしなければならないのです。それが前へ進むことのできる唯一の方法です。
そこで犠牲が登場することになります。それは惑星のために自己を犠牲にすることではありません。魂が転生に入ってこうした器をまとうのは、惑星のために魂が行う犠牲です。しかし、帰還の旅路にある器は一つ一つ犠牲にされなければなりません。肉体界の意識は犠牲にされなければなりません。それがなくなることはありません。それはただ、あなたの達成の頂点であってはならないということです。アストラル意識、メンタル意識、三つの霊的なレベルにしても同様です。下位にあるものはすべて、取って代わられなければなりません。道のそれぞれの段階に固執していれば、進歩はありません。一定のレベルに到達したけれども、それからそれを個人化して、そのレベルにとどまっているグルや聖人や聖職者のことをマイトレーヤは引き合いに出しています。彼らは自分の体験や達成を(自分のものとして)同一認し、それを個人化し、自分は今や悟りを得たと考えます。

苦しみは犠牲である、とする古代からの条件付けがあります。私たちは宗教的な伝統を通して、苦しめば苦しむほど犠牲を行うことになる、そして逆もまた同様であると信じるよう導かれてきました。生きる術を実践すると、時には苦痛を感じることもありますが、低位のものを高位のもののために犠牲にすると、魂の喜びが得られますね。
その通りです。キリスト教やイスラム教のような献身的な宗教においては特に、長年にわたる宗教的な伝統があり、犠牲を苦しみの終わりと同一視し、その犠牲には苦しみが伴われるとしています。究極の犠牲として苦しみが伴われ、苦しめば苦しむほど、それだけ大きな犠牲を行うことになるとしています。
キリスト教やイスラム教の献身的な態度の根底には、犠牲というアイディアがあります。彼らは犠牲の役割や犠牲の法則の役割を誤解しています。しかし、彼らはうすうす感づいており、それはエゴを克服する最上の方法であると見なされています。エゴは克服されなければならないということを、そしてエゴを超越して完全に無執着にならなければならないということを彼らは認識してきました。それを達成する方法が自分を苦しませることであり、キリスト教の伝統では、これには二つの役割があります。一つは、イエスに近づくことです。なぜならイエスは、磔刑の前に行われたむち打ちによって非常な苦しみを味わったからです。自分に対して同じことをすることによって、もしこのことに関してマインドとハートを同調させるならば、イエスの苦しみを認識し、それを理解し、それに近づくことになるという考えです。それが一部の宗教的な人々にとっては一つの方法、一つの手続きの様式になり得るということに疑いはありません。
キリスト教もイスラム教も第6光線の宗教です。魂のレベルにおいて第6光線に固有の特質が、犠牲というリアリティーであるということを彼らは認識してきました。それはまるで、彼らがイエスの犠牲を通して、第6光線の秘教的な意味を本能的に、直観的に認識したかのようです。イエスはそうした経験を説明するために、この上ない犠牲を実演しました。そして多くの者たちが同じような道を行き、同じ自己犠牲の精神を通して覚者の段階に達しました。
それは高位人間のために低位人間を常に犠牲にすることです。最上の手段は犠牲の道であるということが、第6光線の魂の特質にはっきりと示されています。物質界にある、困難で、汚くて、臭くて、不愉快で、退屈なものすべてが敬虔な信者によって引き受けられるべきであるという意味ではありません。しかし、その犠牲の道をたどっている者たちの中には、エゴを克服するために可能な限り最悪の条件を引き受けることをまさしく実践している者たちがいます。それはすべて、基本的にはエゴを克服し、魂のリアリティーに近づくということに関連しています。それが犠牲というものです。
私は秘教徒として話をしていますので、別の言い方をすると--高位のもののためにより低いものを克服することです。より低い道、人間の道では、肉体、アストラル体つまり情緒体、メンタル体というリアリティーがあります。魂はこれらを持っていません。そのようなわけで、人間はそれらを持っているのです。私たちがそれらを持っているのは、魂がそれらを使い、この物質界のリアリティーを、つまり条件付けの過程を見ることができるようにするためです。
弟子たち、すなわち自分自身を鍛練している者たちは、魂の霊的な統合を達成するために、自分たちの帰還の旅路をたどらなければならず、肉体、アストラル体つまり情緒体、メンタル体の経験を犠牲にしなければなりません。そのようなわけで犠牲が進むべき道になるのです。
これは部分的には個人的なグラマーやイリュージョンである場合もありますが、キリスト教にとってもイスラム教にとっても、この犠牲という概念はその最も高い意味で根本的なものです。もちろん、今日イスラム教はそれを歪めています。イマームたちや、若者を「殉教者」に仕立てている者たちは、‘創造主に会う’ために、そして貧しい家族のために余分なお金を稼ぐために自分を犠牲にするよう、若者たちに教えています。そのようにして、彼らは自爆することができるようになります。それは究極的な犠牲ですが、それによって彼らが生前の自分と違う自分になるわけではありません。
彼らの大半はきっと条件付けられており、イリュージョンに満ちていることでしょう。そうだとすれば、彼らはその状態に留まり、生前と同じ段階で転生に戻ってくることになります。ですから、狂信的なグループの計画を実行するためだけに、そうした究極的な犠牲を無駄に行ったことになります。
したがって、無用な苦しみというものがあるのです。マイトレーヤの役割の一つはまさしく、人類を不必要な苦しみから解放することです。アストラル界を現実の界層と見なしているために、私たちはみな、自分たちを不必要に苦しませています。私たちはアストラル生活を現実の生活と見なしています。自分たちの条件付けを正常な状態と見なしています。いずれも真実ではありません。それは私たちが自分に押し付けている不必要な苦しみであり、自由の対極にあるものです。宗教的なグループも、不必要な罪という途方もない重荷を人類に負わせてきました。キリスト教とイスラム教の伝統の核心には、苦しみが一つの手段、一つの道と正しく見なされており、苦しみの中でこそ、他の人々とより正しく関係することができるとされています。
今日の欧米の政治指導者たちの大半の問題は、何かが不足しているということがどういうものなのか経験したことがない人々が多いという点です。彼らは通常、中流階級出身で、私立の(特権階級の多い)学校や大学に通い、弁護士やビジネスマンになりました。比較的贅沢に暮らしており、世界の貧しい人々の生活についてはもちろん、自国の貧しい人々の生活についてさえも、現実的な知識や辛い体験を全く持っていません。ですから、彼らは人々のニーズにそぐわないような法律をつくるのです。
もしあなたが苦しむならば、あなたは苦しみについて理解し始めます。もしあなたが苦しんだことがあるならば、それはハートを開きます。世界のほとんどの人々が体験していることへとマインドを開きます。それによって、一人ひとりの人間と正しく関係するために必要な体験が得られます。
キリストの真実は、あらゆる人間の状況を体験したことがあるため、キリストはあらゆる人間に関係することができるということです。自分が一度も体験したことがないものと関わりを持つことはできません。それは不可能なことです。そのようなわけで、人々が広く旅をし、異なった肌の色、伝統、言語、知的な概念を持つ、異なった人々を体験することや、他のものを、自分自身の習慣的な体験とは違ったものを、体験することが必要なのです。そうした意味で、苦しみを経験しない場合よりも、苦しみによってより人間的になることができます。
(次号へ続く)