「意味と均衡」
ベンジャミン・クレーム著『生きる術〈すべ〉』
マーク・グレゴリーによる書評
「人生が芸術を手本とすることの方が、芸術が人生を手本とすることよりずっと多い」と、オスカー・ワイルドは書いた。たぶんそうかもしれない。しかし、この二つのものの関係はおそらく、私たちがこれまで想像してきた以上に共生的で互恵的である。ベンジャミン・クレームは12冊目の著書『生きる術』で、正しく生きることはまさしく芸術であり、生きることは他の芸術と同様に、特定の不変の法則の支配を受ける、と指摘している。
本書は三つの部分から構成され、クレーム氏の他の本と同様に、明快でかなり読みやすい形で奥の深い豊富な情報を提供している。本書はそのようにして、2冊の類似書『大いなる接近』『協力の術』の適切な対応書となっている。
第一部「生きる術」で、著者は地上における人生の霊的な意味と目的についての検討の手始めとして、絵画と音楽という芸術を活用している。「絵画や音楽やその他の芸術であれ、芸術(アート)は一定の法則と規則に従わなければなりません。画家や作曲家になりたければ、その芸術(アート)が形成されている法則、方法を学ぶとともに、さらに深く、芸術(アート)の特質を支配する法則、均衡やひらめきのようなものを学ばなければなりません。芸術(アート)の魔術はこれらの法則の遵守の中に蓄えられています」(22頁)
画家が一つの作品の中で最終的に表現しようとするものは、直観によって色彩、音色、構造、均衡(プロポーション)をバランスよく結びつける一定の均衡である。それは人を喜ばせるだけでなく、最良の例の場合には、意味も啓示するものである。ベートーベンの後期の弦楽四重奏曲やレンブラントの肖像画について考えるとき、人はとても美しい作品を思い起こすだけでなく、何世代にもわたって啓示的な力、つまり、人生の美や意味を感知し理解するように人々を揺り動かす持続的な力を保持している芸術作品を思い起こす。
偉大な芸術作品の中に表現された美と調和は、人間に本来備わる特質を顕示するものである。しかし、戦争、豊かさのただ中での飢餓、環境破壊、残虐行為、絶望、あらゆる種類の不正義──現に存在するこうした頻発する問題と、偉大な作品の中に表現された壮麗さは、考えられる限りの著しい対照をなしている。しかし、なぜだろうか。
人は絵画や音楽など、あらゆることを学ぶために学校に行くことができる。しかし、ベンジャミン・クレームはこう述べている。「私たちはいかに生きるかを、生きる術(アート)を教わりません。それを学ぶことのできる学校はありません。これは霊的な問題です。なぜなら生きる術(アート)は、生きることそのものと結び付いているからです」(25頁)。彼はさらに、彼の師である覚者が書いた「神性へ向かう」という記事から文章を引用している。「人間はいのちにおける自分たちの役割と内在する力を学ばなければならない。かくしていのちの質と方向に対する責任を取らなければならない。これをしない限り、彼らは揺籃期を決して抜け出すことはできないだろう」(27頁)
世界は、悲しいかな、人間が揺籃期にあることを示す無数の表現で満ちている。こうした問題には二つの重要な根本原因がある。最初のものは、私たちは一般に自分が誰であるかを知らず、そのため、本質的に自分ではないあらゆるものを自分だと思う傾向があることである。テイヤール・ド・シャルダンが述べたように、「われわれは霊的体験をする人間ではない。われわれは人間的体験をする霊的存在である」。この区別は基礎的であるが、適切なものである。私たちは通常、私たち自身を自分の信念、政治的あるいは宗教的な団体、職業あるいは社会的立場、自分にとって重要である他者、自分の思考や感情などと同一化させる。しかし、私たちが転生している魂であり、本来は創造主の聖なる閃光であるという事実を認めることは、もしあったとしても、はるかに少ない。
二つ目の根本原因は、地球上のすべての生命の進歩と進化のための聖なる大計画があるということを、私たちが知らないことである。この大計画にとって中心的であるのが偉大な法則である。クレームは再び師の言葉を引用している。「人間は彼らの人生を支配する精妙な法を学び、理解するだろう──それはすべての者の運命をコントロールする『カルマの、原因と結果の法則』、それに関連して魂が物質の中に転生する旅を可能にする『再生誕の法則』、正しい関係を支配する『無害であることの法則』、そしてすべての進化がそれによって進行するところの『偉大なる犠牲の法則』である」(49頁)
この二つの真理に気づいていないため、人間の行動は太古の昔から、条件づけ、教えられたこと、体験したこと、誤って理解したことによって主に特徴づけられ、したがって、人間の本質について間違った思い込みをしてきた。「あらゆる戦争や苦難、人類が転生する魂として自らを顕示することができないということは、すべて、条件づけられた行動の結果です。しかし誰も条件づけられる必要はないのです。にもかかわらず、誰もが条件づけられています──過去によって、両親によって、カルマの法則の下で魂によってつくられた器(肉体人間)の性質それ自体によって」(38頁)
人間を苦しませている蔓延する抑圧的な条件づけは、私たちが地上に何度も何度も転生してきた長い歴史の集合的な結果である。それはまた、何となく曖昧ではあるが、すべての人間に潜在するより良いものへの志向の副産物でもある。ベンジャミン・クレームの師はこう述べている。「行動がいかにぐらついたものであろうとも、より良いものへの欲求(それがどのように表現されようとも)を持たない者は誰もいない。裡にこの願望を持たない者はいない。それでは人間の逸脱を、暴力や憎悪をどう解釈すればよいか」(134頁)
相対立する二極
この葛藤は、本書の第二部「相対立する二極」で取り上げられている。それは、人間が物質に没入した不滅の魂であり、「霊と物質との出会いの場にあり、そしてそれが同時に存在することで発生する緊張にある」(134頁)という事実から生じる。本来は完全である神の反映として、魂は、もともと不活性な物質に繰り返し転生する。本来神聖であるものが、もともと不活性なものに没入するときに作られる摩擦と、その没入の結果に対処しようとする方法が摩擦を作り出し、個別にそして集合的に、善くも悪しくも、私たちの現実を形作る。進化の旅路の長い過程を通して徐々に物質を霊化していくことが、地上における人間の生涯の主要な理由である。私たち自身の中にある物質を──そのようにして惑星自体の物質を──洗練させるよう、生涯から生涯へと私たちを押し進めるのは、より良いもの、より偉大なものに対する私たちの内的な否定しがたい志向であり、それが霊的な旅路において私たちを前進させるのである。「鍵は放射です。われわれがある一定の段階まで来ると、物質の中に放射的な活動が起こります。……それは魂が物質を霊化するからです。それ以後、各転生において、われわれはからだ(つまり三つの体)の中に、亜原子の特性を持つ物質をより一層持ち込みます」(155~156頁)
したがって、(今日のほとんどの教育を特徴づけており、もてはやされている職業教育ではなく)全く新しい種類の教育、人間の本質的なリアリティー(実相)を考慮に入れた教育が決定的に必要とされている。それは、無害であることの必要性を何よりも強調する教育、私たちの思考や行動の一つひとつが、私たちが最終的に責任を負わなければならない結果を始動させているという知識を教えてくれる教育である。
マイトレーヤの教え
ベンジャミン・クレームの他の本を読んでいる人、そして彼の講演の内容になじんでいる人は、彼の中心的な主題が、私たちの時代における世界教師、主マイトレーヤと、同じように完成された人間、智恵の覚者方のグループの再臨であるということを知っている。すべての主要な宗教によって待望されている啓発された方として、全人類の教師として、彼の教えは前方への道を、私たちを虜にしている条件づけの束縛を人間が解き始める方法を示している。
こうした教えの中心にある三つの要素は、心(マインド)の正直さ、生気の誠実さ、そして無執着である。心の正直さは、考えることと、言うことと、することの間に食い違いがないこと、思考と言葉と行為が一致し、矛盾しないことを意味する。生気の誠実さはただ単に、自分自身であることを意味する。良い印象を与えたいという事実によって、あるいは何らかの方法で機嫌を取りたいという理由から、私たちの言葉と行為のどれほど多くが色づけられているだろうか。「多くの人々はこのような不誠実な生活を送っています」と、クレームは書いている。「どれだけの人が、本当に、完全にありのままの自分自身であるでしょうか」(103頁)。それから、最後に、無執着である。他の人々が自分をどう見ているか、他の人々が自分について何を考え、何を言うか、自分のことが好きか好きでないかなどを私たちはどれほど気にかけているだろうか。もし人が本当に無執着であるなら、条件づけられなくなる可能性が高くなり、他の人々による条件づけや世間一般の条件づけの影響を受けなくなるだろう。
これらのアイディアは、クレームが述べるように「本質的には簡単」であるが、実践するには努力と規律を要求するものである。それらはまた、相対立する二極に折り合いをつけて進んでいくための、そして、私たちすべてが支配を受けている魂の衝動と物質の引っ張りを創造的に両立させるための、優れた方法でもある。こうした原則を持続的に実践することは、魂の能力である直観のために道を空け、はるかに障害のない方法で機能するのにも役立つ。
現在のところ、人類は霊的に分断されている。意識的なマインドの機能は、衝動や、検証されない根深い思い込み、条件づけと不適切に処理された体験から生じる未解決の葛藤によって阻害されている。結果的に、意識の高位の様相(ブッディつまり魂意識)からの洞察を反映するために静かな池の水面のようであるべき大抵の人のアストラル体、つまり情緒体、感知する体は、冬の荒海の海面に似ていることの方が多い。瞑想、自己催眠、その他の形態の霊的実践によって、この状況を改善することができる。マイトレーヤの教えが世界にますます根づくにつれて、そしてますます多くの人が観想的な霊的実践に参加するにつれて、「徐々に思考、合理的マインド、コンピューターは意識の識閾下〔現在はそこに無意識がある〕に落ち、私たちは即座に直観し、考えることなしに答えを知るようになるでしょう。知っているから知っているのです」(193頁)
「知っているから知っている」世界を想像することができるだろうか。それは、他の人々やこの惑星にどんな影響が及ぶとしても、何らかの望ましい結果が欲しいからとあらゆる決断を戦略的に検討するということはしない世界、本当に良いことはすべての人にとって良いことであることを私たちが理解している世界である。
私にとっては本書の中で最も感動的だと思える文章で、ベンジャミン・クレームはそのような世界を描写している。「私たちはバランスを求めています。それをどのように定義しようが、和合、均衡を求めています。私たちが創造的で幸福であることができるのはそれがあるからです。それは車輪を何度も回すことを可能にし、それ自身の中から創造されたものを再創造します。そのようにして未来の文明は、私たちがまだ語り始めることすらできない特質を顕示するでしょう。それについての言葉さえ存在しません。その文明の特質について何も言うことができません。すべての人間が自分たちを一つの家、一つの惑星の兄弟姉妹として知り体験するときのあの関係についての感覚を、経験を表現することは不可能です。それは人々を子供の頃の経験に戻すでしょう。家は家です。兄弟姉妹はあなたが道を踏み外さないようにするためのスタッフです。そのようになるでしょう」(55~56頁)
そのようにして、深遠であり将来にわたって重要であるマイトレーヤの教えが少しずつ人類の意識を完全に変容させるのである。
イリュージョン(錯覚)
本書の最後の部「イリュージョン(錯覚)」は、最初の二つの部で提示された情報に別の次元を加えている。イリュージョンは実際には、魂がその影響下に置かれている現象であるというベンジャミン・クレームの発表は、読者によっては驚くべき啓示ととらえられるかもしれない。それは、パーソナリティーが特定の生涯において魂に提供する器──メンタル体、アストラル体、肉体──の特質と、再び条件づけに関係している。「私たちは魂にアクセス(入口)を提供します。もし私たちが装具を持たなければ、魂は見ることができません。……私たちは世界を見、そしてあらゆる概念、想念、イデオロギー、見解をマインドの中に取り入れ、それらから意味を見つけようとします。もしそれが私たちにとって魅力的であれば、これらのアイディアやイデオロギーに執着します。……そのようにしてマインドをイリュージョン(錯覚)で満たします。世界が本当にどのようなものかを、魂が妨害なしにはっきりと正しく見ることを不可能にします」(230~231頁)
これは、すべての人がやがて直面しなければならないパラドクス(逆説的な状況)をもたらす。もしパーソナリティーがメンタル装具を通して、世界についての先入観を、つまりイリュージョン(錯覚)に満ちた見方を魂に提供するなら、魂はどうやってパーソナリティーの中で直観の使用を促進することができるだろうか。条件づけと同様に、凝り固まったイリュージョンの影響は、必要とされない大きな世界の不調和につながる。
しかし、クレームは次のように述べている。「イリュージョンは存在し続け、それを終わらせることはできないということではありません。変換されるのです。イリュージョンを直観と入れ換えるのです。直観が使われると、すべてのイリュージョンが一掃されるのです。箒が蜘蛛の巣を払ってしまうようなものです。リアリティー(実相)の経験を阻むすべてのものが明らかになり、払いのけられて、あなたは本当に知るのです。直観から知るとき、イリュージョンの入る余地はありません。イリュージョンは起こりません」(266~267頁)。直観の発達を促進する手段は、心(マインド)の正直さ、生気の誠実さ、無執着、瞑想(特に伝導瞑想)のような霊的実践、利他的に行われる他者への奉仕である。
裂開の剣
グラマー(情緒的な性質のイリュージョン)、条件づけ、イリュージョンを消散するのにも役立つ惑星レベルの強力なフォース(力)について、誤解されることの多い聖書の次の文章の中でイエスはこう語っている。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに」。「剣」とは裂開の剣のことであり、これは愛のエネルギーのことを象徴的に表している。それは、マイトレーヤによって途方もない強さで「振り回される」、つまり世界に放出される。「エネルギーそのものは純粋に非個人的で、良くも悪くもありません」──それはすべての人を同等に刺激する──「善良な人も、性悪な人も、利他的な人も、利己的な人も、貪欲な人も、利己的でない人も」(179頁)。このエネルギーの流入は、すべてのものを明るみに出し、地上での生活の現実をありのままに、反論できないほど明瞭にさらけ出すという効果をもたらす。人類はこのようにして、自らの行為の結果を目の当たりにし、イリュージョンの霧に目を曇らされることなく、自らの将来について決定的な決断を下すように要請される──世界の資源を公平に分かち合い、平和と同胞愛と真の正義の中で暮らすか、あるいは、マイトレーヤの言葉を借りると、「完全に死滅する」かどうかについて。彼は、私たちが正しい選択をなすことを確信している。
『生きる術』は、私たちが日常にひそむ創造的な潜在力をつかみ始めることができるような、全く新しい種類の生き方、人生へのアプローチにおける新しい種類の活力の可能性を指摘している。本書はまた、覚者になるとはどのようなことなのかについて、小さなヒントをそれとなく与えてくれている。それは、啓発され、目的に満ち、有能であり、優雅であり、洗練されているため、その人の一瞬一瞬の存在が途轍もない芸術作品のようになる在り方である。私たちにとって、旅路は続き、必要とされる規律は時には骨の折れるものであるが、最終的には避けられないもの、価値のあるものである。それは私たちが進化していく過程である。したがって、私たちがこの惑星に存在しているという事実により、私たちはそれぞれの独自のやり方で、成長を遂げつつある偉大な職人なのである。
この本には十分に味わうべき多くの他の文章や洞察がある。クレームは自分自身がひときわ優れた、長く心に残る画家であり、そうした画家による芸術過程についての描写は、喜びを感じさせるものである。「すべての画家や作曲家は調和を求めます。……自分で完成したと感じるまで続けます。完成したということをどうやって知るのか。……いつやめるかを決断しなければなりません。その決断の瞬間を認知することに向けて何かがその人を駆り立てています。それに達するのは、その芸術(アート)のあらゆる側面が、芸術(アート)がその下で生き、自らを表現するところの法則に従っており、そしてそれが生きた活気ある方法でそうなっているときなのです」(32~33頁)
最後となるが、200頁(英文)の本がこれほど豊かで深い意味を含んでいると想像するのは実に難しい。絶対的な正確さをもって、真髄を薄めることなく、複雑なアイディアを説明し、深遠な概念を明確にし解説するベンジャミン・クレームの能力は、彼のすべての著作の顕著な特徴である。この惑星における人生の意味の最も精妙な様相を理解することに興味を抱いている人々に対して、この簡潔な書物を強く推薦したい。