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今こそイエスと言おう!
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プラブハヴァティ・ドワブハ博士は「困窮した子供のためのラマナの家の庭」の責任者である。これは、彼女が16年前に設立した「今こそイエスと言おう!」と呼ばれる小さな草の根開発プロジェクトの一環である。「今こそイエスと言おう!」は、インド北部のウンタラカンド州ガルワール地区の辺鄙な山村に住む貧しい女性と子供に社会的な力をつけさせることを目的としている。訓練を受けたホメオパシー医であったドワブハ博士は、彼女の人生を深く変えることになった霊的な旅に出る前、アメリカ人女優として裕福な生活を送っていた。プラブハヴァティ・ドワブハ氏はシェア・インターナショナル誌のために、ジェイソン・フランシスとのインタビューの中で自分自身の霊的な目覚めと「ラマナの庭」の仕事について語った。シェア・インターナショナル(以下SI):「困窮した子供のためのラマナの家の庭」というのは何でしょうか。また、それが関係しているプロジェクトにはどのようなものがありますか。プラブハヴァティ・ドワブハ:ラマナの庭は、ここに住んでいる67人の子供の家です。私たちはまた、村から来た「不可触民」の子供に全く無償で最高水準の教育を施しています。唯一の必要条件は、村の最低の社会階層の出身だということです。子供たちは無料の本、食事、学校の制服、暖かい冬着、あらゆる医療、そして妥当な範囲内で、自分の家族のために緊急治療を受けます。このプロジェクトが設立されたのは、学校に通う子供、そしてもちろん、ここで寝起きしている子供がこのような質の高い教育を受け、自分自身と自分の家族のために変化を起こすことができるようにするためです。それは私たちなりの、カースト制度と戦う方法です。 「不可触民」の子供にとって、これほどの教育を受ける機会を得ることは不可能です。そのため、彼らがカースト制度を抜け出すことはめったにありません。しかし、ここで提供される教育を受ければ、彼らが医師、看護師、教師、電気技師などの専門職に就くようになることを私たちは確信しています。〔2008年〕7月には、私たちの学校を出た生徒が初めて医学校に進学します。SI:インドのカースト制度とはどのようなものですか。ドワブハ:インドのカースト制度は何百年も前に発達しました。この制度が設けられたとき、それは社会を運営する最も実際的な方法であると思われました──つまり、誰かが掃除人に、誰かが他の人が出すゴミの処理係にならなければなりませんでした。誰かが教師に、司祭に、法務官に、そして誰かが最低位の者つまり「不可触民」にならなければなりませんでした。カースト制度は、建前としては廃止されたはずなのですが、いまだに存続しています。SI:あなたの学校に通う子供たちの日常のカリキュラムはどうなっていますか。ドワブハ:季節によって変わります。今は日中とても暑くなるので、午前8時に始まります。彼らは午前7時30分に校庭に到着し、8時まで運動場で遊びます。その後集合して20分間祈りの歌をうたい、それから教室に向かいます。日常のカリキュラムは標準的な「三つのr」つまり読み・書き・計算です。その他に環境学、科学、生態学もあります。最新式のコンピュータトレーニングセンターを備えているほか、芸術の授業、古典インド舞踊、音楽、作文、ときどき演劇もあります。午後2時に、庭で栽培した有機野菜の食事をし、それから帰宅します。SI:ラマナの庭の援助を受ける子供たちはどのような背景を持っているのですか。ドワブハ:ラマナの庭に住むということは、両親がいないか、あるいは片親と一緒にとどまることができない正当な理由があるか、そのいずれかです。泥酔し虐待する父親が理由の一つになるでしょう。もしその父親が、母親の死にかかわっていたならばなおさらです。子供を養う手段が全くない未亡人も別の理由になるでしょう。ネパールでのゲリラ戦の後に私たちのところに来た、家族を失った難民もかなりいます。私たちはまた、売春のために売られた少女を、売春宿で実際に働かされる前に救い出します。この家にいるすべての子供が、深刻な精神的外傷を与えるような背景を持っています。SI:子供たちの全体的な物の考え方、自尊心、自己像はどのように変わっていきますか。ドワブハ:私たちは非常に大きな変化に気づきます。子供たちは主として自分の創造性を通して社会的な力を獲得します。最近世界一と評価されたアナンド・ヒマラヤ・スパ・リゾートで踊ったことのある舞踏団を私たちは持っています。彼らは毎週、文化プログラムを提供します。舞踏団は今年の夏、バトリンズ・リゾート・チェーンによって英国巡業の招待を受け、文化的な発表を行いました。それによって大きな自信が培われ、自己尊重の気持ちが生まれます。ラマナの庭に住んでいる子供たちは、自分たちの服すべてを作るほか、貧しい子供たちのためにも作ってあげます。職業訓練の一部として、私たちは自前のパン屋と有機食品を扱うカフェを経営しており、子供たちは実際にそのカフェでお客さんに給仕します。子供たちは自前のギフトショップも持っており、そこで宝飾品を作って売っています。こうしたものは社会的に大きな力を与えてくれるものです。いったん自分たちの価値を認識すれば、過去にどんなことが起こったのであれ、その過去に起こったことが、彼らが今いるところにとどまる強さと勇気を与えてくれることを理解するようになります。彼らは自分たちがいかに有利な立場にあるかを理解し始めます。SI:あなたは女性にも職業訓練を提供しているそうですね。ドワブハ:大人の女性に識字のクラスを提供しています。女性は、特に自分が持っている権利を知り、自分の周囲で何が起こっているかを知るためには、読み書きができるようにならなければなりません。第二に、洋服屋として女性を訓練し、独特な機会を与えています。女性の自助グループを作ります。それは法的に認められた団体です。ですから女性たちは、自分の住んでいる州で権利と発言権を持っています。それから彼女たちを雇い、制服を縫わせたり学校の子供のためにウールのセーターを編ませたりします。804人の子供が恩恵を受けています。SI:「困窮した子供のためのラマナの家の庭」を始める前、あなたはどんな生活環境におりましたか。どこに住み、どんなことに関心がありましたか。ドワブハ:インドに来る前は女優でした。アメリカで生まれ育ちましたが、30年前にインドに来ました。霊的な探求を始め、ここでプロジェクトを始める前、個人的なレベルで探求を行うのに17年を費やしました。当初、インドに来たとき、私は和尚[ある霊的な教師]のところに行きました。和尚が肉体を離れた後、私はさらに旅を続け、プーンジャ・ジという名の、ラマナ・マハリシ*の弟子に会いました。そのようなわけで、このプロジェクトはラマナの庭と呼ばれているのです。愛情を込めてパパ・ジとして知られていたプーンジャ・ジによって、このように名付けられました。ガンジス河の近くの洞窟で1年間過ごすように私を送り出してくれたのはパパ・ジでした。その期間中、私はこのプロジェクトを創始するインスピレーションと確信を得たのです。SI:一時、インドを後にしようとしましたね。しかし、氾濫したガンジス河があなたの住んでいた洞窟を襲い、持ち物がすべて流されるという体験をされました。その体験から学んだことをおっしゃっていただけますか。ドワブハ:師が私に学ばせようとしたことは、変化には限りがなく、決して終わらないので、同じ川に足を入れることは二度とできないということでした。すべてが流動的で、すべてが常に変化していることを理解しなさい、ということをこの川のメッセージは伝えていました。理解するだけでなく、無常さと無執着の中で実際に生きなさい、と。そのようにして初めて、心安らかになるために必要なものが本当に見つかるでしょう。そのようなわけで、師は私をそこへ送り出したのだと信じています。川の水位が上がり、私がいた洞窟と私のこの世の持ち物すべてが奪い去られたのは無常なことでした。師が私をそこに行かせたわけですが、私がそこでなすべきであったことを実際に達成したかどうか、私にははっきり答えられません。それが私にまさしく与えてくれたものは、生命と存在へのとてつもなく大きな信頼であり、そして今この場所において、もっと今を生きる能力です。SI:物質的な豊かさではない内的な豊かさという概念について、また、なぜそのような豊かさが大切であると感じるかについて説明していただけますか。ドワブハ:子供たちにとってそれは必要不可欠なものです。将来がどうなるか誰にも分からないからです。いつ何どき、何かのせいで私たちの周りの壁が取り壊され、子供たちが再び路上へと連れ戻されることになるのか誰にも分かりません。仮に銀行に百万円あったとしても、もちろんそんな大金なんかありませんが、真の安全が得られるとは言えません。真の安全が得られるように、私が彼らに物質面で与えることができるものは何もありません。 私自身や子供たちに対して、さらに誰に対してであれ、安全を与えてくれる唯一のものは次のことを理解したときにもたらされます。安全は、外側に何を持っているかに関係しないということです。それは、自分が本当のところ誰なのかを知ること、内的な感謝の気持ちを抱くことに関係しています。もし人が、自分が実際には誰であるのかを、そして自分の価値を確信しているならば、たとえ外的な世界がその人の周囲で崩壊したとしても、その人からその確信を奪うことはできません。もしあなたが豊かで快適な生活を送っているならば、あなたはそれを失うことを恐れます。はるかに多くの執着を持ってしまうからです。子供たちは何もないところからやって来ました。文字通り道路脇の排水路から拾われた子供もおります。彼らは自分たちがそこで生き延びてきたということを知っています。私たちは彼らに、彼らの不幸が聖なる贈り物だったことを理解させようとします。 あなたは自分の生き方から学ぶところがあると思います。生きることを通して、彼らは暗闇の中の最も暗い闇を見る機会を得ました。それによって、今送っている生活の真価を理解する目が養われます。暗闇へと戻るかもしれないことを恐れるのではなく、自分自身の内側にあるものは決して奪い去られることがないことを理解します。周りに壁があり、寝るベッドがあり、食べ物がたくさんあると幸せですが、私たちの真の存在、真の幸福はそれに依存しようとしないでしょう。 人生は次のことを理解し体験するたくさんの機会を与えてくれます。このプロジェクトを運営していく資金が本当になく、金銭面で行き詰まったとき、子供たちはあり合わせのもので何とかやっていこうとするということです。誰もそのことについて絶望しません。プレゼントが全くない非常に貧相なクリスマスを迎えると、みんなでカードを作り、様々な物を再利用しました。わずかであれ自分たちが持っているものに対して、そして自分たちが一緒にいて何かしらのものを手にすることができたことについて、非常に大きな感謝の気持ちを抱きました。SI:この苦難は教えの一部だとあなたは述べております。どういう意味なのか説明していただけますか。ドワブハ:それは、そこから学び取らなければならない教訓の一部に違いありません。それは何度も繰り返し起こり続けるからです。このプロジェクトの資金を調達するために、私は18年間ずっと旅をしています。私は通常、世界をぐるっと回り、18~20カ所の都市を訪れます。一枚の小切手を書いてこのプロジェクトを今後20年間支援してくれそうな会社の最高経営責任者と毎日会いますが、そうしてくれた人は一人もおりません。ですから、私たちに浮き沈みがあるということ、苦難を迎えたり苦難から抜け出したりするという事実には、ある教えがあるに違いありません。そうでなければ、物質的な豊かさはすでに届いていたでしょう。それは今日にでも起こり得ることです。それがまだ起こってはいないということを受け入れることしかできません。なぜなら私たちは、今あるもので〔生活することに関して〕もっとうまくやっていかなければならないからです。SI:「今こそイエスと言おう!」とはどういう意味ですか。ドワブハ:それはこのプロジェクト全体の名称です。「今」に対して「イエス」と言うことです──豊かさがある今に対して、ケーキとアイスクリームがある今に対して、食べるものが十分にある今に対して。しかし、それはいつも同じイエスです。こうであって欲しいというものに対してイエスと言うのではありません。そうすれば、苦しむことになるでしょう。常に葛藤があり、そうであって欲しいというものがあるでしょう。今何が起こっているのであれ、それを受け入れるのです。この子たちにとって、それはとても大切なことです。私たちがどれくらい続けていけるか分からないからです。人々は私のやっていることを知って本当に「びびる(こわがる)」ことがあります。「あなたには経済的な安全が全くないではないですか。どうしてそんなことをやっていられるのですか」。そうですね、それをやっているからです。それが本当のところです。私たちは常に「今」に焦点を当てようとします。十分に持っていると今言うのです──昨日ほど十分でないかもしれない、とか、明日にはもっと多くなるかもしれない、というのはどちらも真実ではありません。たった今、私たちには十分なものがあり、十分に感謝すべきものがあります。それが本当に大事なことです。つまり、感謝の気持ちを抱いて生きることです。*ラマナ・マハリシ(1879~1950年)は、インドに住んでいたアバターであった。 詳しくは:www.sayyesnow.org
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