現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2006年 4月 生きる術 Q&A(2)

生きる術 Q&A(2)

ベンジャミン・クレームとの会議での質疑応答

「生きる術」は2005年のアメリカとヨーロッパでの伝導瞑想会議におけるベンジャミン・クレームの基調講話のテーマであった。この講話は2006年1月号に、そして質疑応答の前半は3月号のシェア・インターナショナル誌に掲載されている。

条件づけ

私たちの日常生活の条件づけを、生きる術を体得するための個人的な努力に変えるにはどうしたらよいでしょうか。
> それは、無執着の創造を妨げる葛藤を解消することによってなされます。私たちは執着しているか、自由であるか、のいずれかです。いずれか一方です。条件づけは奴隷のような状態であり、自由がありません。私たちは葛藤の状態にありますが、自由が本来の状態なのです。条件づけは、その状態を奴隷状態に変えてしまいます。私たちは葛藤の状態の中で執着しています。葛藤を克服すると、突然調和が訪れます。するとまた、もう一つの葛藤を発見します。そしてさらに深く入っていきます。これは1日で起こることではありません。
次の5分間で実践できて自由になれる方法などはありません。人間の状態の中で持続するものでそのようになされるものは何もありません。
人間の深い条件づけは長いプロセス(過程)であり、自分自身で条件づけから解放される努力をしなければなりません。人生そのものが条件づけを持ち込みます。私たちは人間であり、もし人間でなかったら地球上には住んでいないでしょう。もし私たちが例えば金星か水星に住んでいて第8段階のイニシエートであったなら、条件づけの話に関する質問さえもないでしょう。私たちは、お互い同士を、子供たちを、条件づけています。それがすべて、私たちが生きている人生なのです。条件づけの除去(de-conditioning)があなたを条件づけから解放し、したがって執着から解放します。それはプロセスです。今の瞬間から次の瞬間には「私は無執着になっている」などと言うことはできません。そのようなものではありません。自分自身を訓練すればするほど、無執着が育成されるのです。
執着しようとする欲求を犠牲にするのです。私たちは条件づけられたことを必要としているので、執着を必要とするのです。それはアストラル的/情緒的観点から私たちを満足させます。ですからアストラル界への執着を克服しなければならないのです。最初に物質界、次にアストラル界、そしてメンタル界への執着を克服して、三つのすべての界の条件づけから解放されなければなりません。条件づけの除去とは、執着をますます減らしていくことです。それは、人生体験の中で形成されてきたすべての執着のことです。
物質界に(意識が)偏極している人は、もはやこの世界にはいないと思います。人類の大部分はアストラル界に偏極しています。それは、アストラル界が彼らの意識の座であることを示しています。感情との同認(感情的な反応を自分だと思うこと)によるアストラル界への焦点によって形成された執着が、私たちを条件づけるのです(感情を実相と考えますが、それは夢のようなもので完全に想像上のものです)。アストラル界の経験は想像上のものです。それは思考形態にすぎません。もし感情を思考形態に執着させるならば、それに執着することになります。それは、いつも私たちにその経験について何かを思い出させます。それは、同じような反応のきっかけとなり、そこで執着を形成します。条件づけとは、執着に対するもう一つの名称です。
私たちは、メンタル界においても同じことをします。メンタル界上の執着に気づくのはもっと難しいことです。なぜなら、執着は大抵の人の場合は感情的なものだからです。それはグラマー(幻惑)またはイリュージョン(錯覚)と呼ばれています。しかし、イリュージョンを正見してそれに気づくまでは、条件づけの除去はできません。執着することと条件づけられていることは同じことです。それは、私たちが人生と呼ぶ実相ならざるもの(unreality)の一部分です。しかしそれは、私たちが通過しなければならない非実相です。なぜなら、そのようにして私たちは意識的認識において成長していくのです。しかしながら、もし意識的認識がアストラル界に限定されるならば、私たちは人生の特質を囲むあのグラマーやイリュージョンの中で生活することになります。人生の特質は、大抵の人が感じ取るものとは非常に異なっています。なぜならそれは、すべてがアストラル界で起きているものとして感知されるからです。あらゆる体験が、アストラル物質、つまり私たちをアストラル界に縛り付ける思考形態に包まれます。私たちの思考形態でアストラル界を創出するのです。

条件づけられたことを、どのようにして変性させるのですか。
それは、段階的に自己の条件づけを除去する訓練を行うことによって、つまりより一層無執着になる訓練をすることによってなされます。これは鍛錬を必要とするため困難です。しかし、本質的には簡単です。それゆえ、マイトレーヤの教えである次の三つの規定を実践しなければなりません。

心(マインド)の正直(Honesty of Mind):正直に、ストレートに考えること。大抵の人はあることを考え、そして別のことを言い、さらに別のことを行う、とマイトレーヤは言われます。私たちが考えることと、言うことと、行うことはすべて異なっています。マインドの正直さがありません。

生気の誠実さ(Sincerity of Spirit):私たちはお互いに他人の真似をして自分を条件づけています。条件づけとは、自分であることをやめて他人の真似をすることです。もしあなたがあなた自身でないならば、あなたは何か他のものでなければなりません。あなたはその時その時で何かにならなければなりません。そして、もしそれがあなた自身でなければ、それは部分的には非自己(non-self)でしょう。私たちは、ある状況では、時折真実なハートとマインドの状態になり、そのように行動して、ハートからハートに語りかけます。しかし大抵の人は行動の多くの場面において、人に感銘を与えようとしたり、彼らの伴侶のマインドに自分にとって好ましい印象をつくるような関わり方をします。
私たちは役を演じているのです。それが相手に感銘を与えると思うからです。「彼らが私を高く評価する」からです。「私は非常に聡明で、自信に満ちている。もちろん、自分は自信がないことを知っている。しかし、もし私が声高に話し、颯爽とやって来て、内気にならずに彼らに力強く対処すれば、彼らは私が自信に満ちていると確信するだろう。外交的で大きなジェスチャーを用いれば、彼らは私が世の中のことに精通していると思うだろう。自分は世の中をコントロールできないことを知っているし、世間を恐れている。しかし、私は物事をコントロールできるという印象を与えることができれば、彼らは私を見上げ、私を好きになるだろう。彼らは私を友人にしてくれるだろう。そうすれば私は幸福感を味わい、自分は安全だと思うだろう。もし私が誰にでもそのように対処すれば、多くの友人ができるだろう。そしてもしたくさんの友人がいたら、私は本当に幸せになれるだろう」と思います。
多くの人々はこのような不誠実な生活を送っています。どうですか? 自分について考えてごらんなさい。そうではありませんか? どれだけの人が、本当に、完全にありのままの自分自身であるでしょうか? 両親と一緒にいる子供はそうです。なぜなら、子供はまだ条件づけられていないからです。両親といる幼い子供は、堕落させられるまでは完全に正直です。それからもちろん、いたずらをします。そうして「がんばり続ければ、欲しいものがもらえるよ、きっと!」と思って、泣いて、泣いて、泣き続けます。早々と堕落が始まるのです。しかし赤ちゃんは、最初は完全に正直です。赤ちゃんは、どこかが痛かったり、お腹がすいたり、疲れたりすると泣きますが、それ以外はいつも微笑んでいます。

無執着:どれだけの人が無執着でいられるか。あなたはどれだけ無執着でいられると思いますか。他人を必要とする思いから、どの程度解放されていますか。絶えず賞賛される要求から、絶えず感謝される要求から、どの程度自由ですか。どんな小さな行為に対しても感謝されることをどの程度要求しますか。あのちょっとした賞賛、それがあなたをがんばらせるのです。あなたは自我をふくらませます。絶えずこのようなことが起こっているのに、どうして自分は無執着だと言うことができるのですか。誰かがあなたを賞賛すると、あなたはそれによって左右されますか。大抵それに左右されていると思います。もし、あなたが無執着であるならば、人々があなたを支持しようと反対しようと、賞賛しようと、歯に衣着せない批判をしようと、気にならないでしょう。あなたが本当に無執着であるならば、それに拘泥しないはずです。そしてもしあなたが本当に無執着であるならば、あなたは条件づけられていません。
私たちは皆、子供のときに始まった条件づけに悩まされています。赤ちゃんは条件づけられていませんが、数年以内に条件づけが始まります。子供のいる人はこのことを考えてください。なぜなら、自分が子供たちを保護していると思っているうちに彼らを条件づけており、彼らの人生を困難にしているからです。それは、全般的に言って、彼らを保護しているのではなく、私たちが彼らにしてもらいたいこと--つまり、うるさくしないようになること--を押し付けているのです。
マインドの正直さ、生気の誠実さ、そして無執着が条件づけを克服する鍵です。

子供たちを条件づけずに、生きる術やいのちの法則の中で彼らをどのように教育すべきですか。
気張ってはいけません。単純です。子供を自然にしておきなさい。一つには、あなたを苛立たせるようなことをするたびに子供を叩いたりしてはいけません。私たちの有害な行為は、子供のリアリティー(現実)に関する無知が原因です。次のようなことを語りながら子供にいのちの法則を教えてはいけません。「あなたは、今日、いのちの法則に関するクレームさんの教えを読んだの? 読んだのですね。なにが分かりましたか」。「それはクレームさんの教えではなく、ある覚者の教えから採ったものであることが分かりました」。「良い子だね、もう一つビスケットをあげるよ」などと。子供にあなたがいのちの法則を教えていることを知らせたり認めさせたりしてはいけません。あなたがどんなときに子供を条件づけているのかを認知することであり、そして、マイトレーヤが世界におられることや子供が12歳になったら「お母さんやお父さんのように」伝導瞑想をすることができることを教えようとしたりしないことです。あなた次第です。
子供には、押し付けることなしに、できるだけ無害であることを教えなさい。それはあなたが子供に対して無害であることを通して教えるのです。子供はあなたのように行動します。もしあなたが無害であれば、子供は無害です。自分は無害であると思っていても、もしあなたが有害であれば、子供も同じようになるでしょう。私たちは絶えず伝達しているのです。

Q 条件づけとは何ですか。生きる術に関する教育と条件づけをどのようにして識別しますか。
条件づけは教育です。しかし、それは悪い歪められた教育です。条件づけとは、すでに知られているもので、新しいものでない行動をしたり、考えたり、経験することです。もしあなたが経験することがすべて既知のものであり、実際に記憶の機能であるならば、それは生きる術とは関係がありません。生きる術は、一瞬一瞬、本質的に新しいのです。生きる術の本質は、あらゆる瞬間が新鮮です。それは魂から来る創造的な経験です。
われわれは進化途上の魂です。それゆえ、私たちの生活の中でそのリアリティー(実相)を、魂のリアリティー、魂の創造性を反映するものはすべて、生きる術の最高のものと調和しています。既知のもの、すでに消滅したものは、単なる記憶です。それは、過去から持ち越された無益なものであり、多くの人々に愛好され握りしめられていますが、それは生きる術のための適正な構造にとっては有害です。
生きる術は、万人のための最も偉大な自由を、万人のための最も偉大な機会を、万人のための最高度の正義を提供するでしょう。それが生きる術です。あなたが行うあらゆることにおいて、--一般の人間としてであれ、大企業の責任者としてであれ--万人が良いと認め、共通の善が高められ、保持され、強化される条件を創造します。生きる術とはそういうことなのです。

余暇、簡素さと生きる術

時間と余暇の違いを、例を挙げて説明していただけますか。
余暇は何もしないということではありません。余暇とは、やりたいことをやり、肉体やマインドやハートを休ませることをやり、あるいは共同体のための仕事以外にあなた自身のために何かをやる時間を提供するものです。現在、時間は、あなたが住んでいる国つまり全体としての共同体のために、毎週5日間だけ提供されます。先進国の人間の大部分は、土曜日と日曜日には余暇があります。私は、個人的には、それで十分だとは思いません。3日もしくは3日半以上も完璧に集中して働き、私が余暇と称しているもののために3日もしくは3日半しか取れないようなことを誰も要求されるべきではないと思います。
余暇は1週間のうちでも最も努力を必要とする時かもしれません。登山者にとっては1週間の中で余暇は確かに最もきつい時でしょう。もし彼らが長距離ランナーであれば、その3日と半日は最もつらい時でしょう。もし車を部品に分解して再び組み立てる仕事をやっているならば、それは困難な集中を要する仕事でしょう。しかし、部品が戻る位置の視覚的な記憶を持ったある種のメンタリティーを持つ人には、純粋な喜びを与えるかもしれません! 様々な種類の余暇と余暇の用い方があるのです。時間と余暇は対照的なものではありません。互いを支持するものです。
世界の物品は、大部分は世界の最も貧しい国々の人々によって作られています。彼らには茶摘みをしたり、衣服や道具やラジオや靴などを作る以外に選択肢がありません。その労働の結果のおかげで、これらの物品を売買する人が余暇を得ます。彼らは比較的贅沢で余暇のある生活を送ります。いつでもやりたいことをやります。友達と会って、乗馬や車でドライブに行き、あるいは映画に行きます。また飛行機に乗ってヨーロッパや日本に旅行することもできます。余暇は、休暇のときと同じように、やりたいことをさせてくれるのです。
それは毎週休暇があるようなものです。人々には、自分自身であり、自分自身を発見し、自分自身を知り、自分自身を経験する余裕が必要です。
時間のある人には余暇があると言う以外に、余暇と時間を対比させることはできません。もしあなたに時間があるならば、余暇があります。もしあなたに時間がなければ、余暇はありません。なぜなら、あなたは他のことをやっているからです。あなたと関係のないことをやり過ぎているので、あなたは幸福であることはできません。それが現在の世界における主な病気です。
多くの人が病んでいます。絶えず病気をしています。それは全く情緒的で心理的な病気です。なぜなら、あまりにも多くの時間を、彼らの本性や興味に反する仕事に、そして彼らがそのために訓練し準備してきたものに反する仕事に費やしているからです。彼らは機械的になり、機械になっているので内なる自己との接触を失っています。

多忙な生活の中で余暇の姿勢を育成するにはどうしたらよいのでしょうか。
余暇は姿勢ではありません。余暇とは、やりたいことをやる時間があるということです。やりたいことというのは、あなたの内部から湧き上がってきて自然にやりたくなるものです。誰でも休暇を取って旅行に行きたいと思います。その思いは絶えず人々の中で沸き立っているようです。私にとって、休暇とは飛行機に乗って旅に出かけることではなく、2階の自分の仕事場に行ってドアを閉めて座って、自分が制作してきた作品を観ることです。それが余暇です。それは自分であるための時間のことです。
今日、人々が仕事をしているとき、たいてい彼らは自分自身ではありません。それは二重生活です。生活費を稼いで堕落したこの社会の中で生きるために構築した別の人生、あるいはもう一つのパーソナリティーです。私たちはそこで生活し、そこに留まらなければなりません。そこから脱退しても良いことは何もありません。現在起こっていることのために、私たちは今この世に転生しているのですから。私たちは、新しいより良い世界をつくる任務を持っています。
余暇とは、あなたが本来やりたいことをやることです。それは創造的です。それは創造的になる機会です。人々は、創造性とは必ずしも芸術に関することではない、ということを忘れています。「もしあなたが芸術家でないならば、どのようにして人生を多少なりとも創造的にすることができるのですか?」というような質問を受けます。創造的になるためには、必ずしも画家、音楽家、ダンサー、または俳優のような芸術家である必要はありません。それは一つの活動分野にすぎません。何であれ、あらゆる分野において創造的であり得るのです。一流の科学者は、原子の性質、例えば宇宙のエネルギー質量に関して、それがどうして彼らの指先からすり抜けて急に存在しなくなるように見えるのか、ということに関して途方もない発見をします。物質に何が起こったのか? そのような科学者は偉大な発見をしたのです。それが創造性です。絵を描く画家または詩に音の高低を与える音楽家と同じ創造性です。
創造性は神の子なる一人一人の裡に存在します。それは神に賦与されている特質です。創造的な活動は、いのちの法則の下で生きる人生の特質です。生きる術(アート)とは創造的に生きることです。それは人生のすべての様相に必然的に伴います。機械工でも、看護師でも何でもよいのです。

世界の資源を分かち合うことが、先進国と発展途上国において、余暇をもたらすことに関して、どんな助けになるのですか。
発展途上国においては、より多くの時間を持てるという点で助けになるでしょう。なぜなら、彼らは何もないところからわずかなものをつくり出すために多くの時間を費やさなければならないからです。先進国に住む私たちは、多くのものから多くのものをつくり出すための時間がいくらでもあります。もし世界の資源がいろいろな国の必要に応じて適切に分かち合われるということになれば、単に資源の再分配を行うだけでいいでしょう。それはすべて分配と再分配に関することです。それが今日の経済的問題の基礎です。革新的な再分配の計画がすでに存在しています。私たちが分かち合いの原則を受け入れると、それは直ちに人類に提供されるでしょう。その計画の性質そのものによって、この再分配が現在よりもっと多くの余暇をあらゆる人々に提供するでしょう。
人々の非常に多くの時間が、オフィスの建物を書類で埋め、それをファイルにし、取り出し、読み、それらに関する記事を書き、誰かに手渡し、その人がまた他の人に手渡すという具合に、全く機械的な方法で使い果たされています。誰かが何かにサインをします。それが階上に行き、また戻って来ます。そして何枚かの紙片を配布するだけですが、それが様々な量の種々の物品について報告します。その物品は生産されたもの、または生産予定のものであり、それに要する値段も報告されます。すべてこのようなことが、現在世界中の何百万というオフィスの建物の中で繰り返されています。これは人間の才能、エネルギー、想像力の完全な浪費です。それは、人々が持ち得る余暇への侵略です。
これらは本当の仕事ではありません。それはグローバリゼーションと関係のある完璧に組み立てられた仕事であり、日本、中国、香港、またはコスタリカで製造されてアメリカで販売されるTシャツが、様々なデザインや品質であることを確保するための仕事です。それにもかかわらず、これもまた資源の分配に関わることです。私たちのほとんどの商業はこのようなものです。
エジプト文明について私たちが入手できる様々な遺物の多くは、彼らの商業に関する報告です。楔形文字で書かれた大量の文字版が「本日、魚3匹、くずかご一つ、メロン2個などが売れ、そして8ペセタス(あるいは別の種類の硬貨)を受け取った」ということに関することです。それは焼き固めた硬い粘土で大きい容積のものです。これを知ることが私たちにとってどのような役に立つのでしょうか? それは数千年前のエジプトという国の日常生活の小さな光景を知らせているだけです。
全く正気とは思えない人が将来20世紀または21世紀の人たちの生活を知りたいと欲するならば、この巨大な高層ビルのどれかにある書類に目を通し、何百年もかけてそれらを詳細に調査して、これらの書類に印刷されているものを読み、電子メールを読むことに時間とエネルギーをつぎ込めばよいのです。調査をした人は、その書類を書いたつまらない人たちの人生について非常にはっきりとした状況を把握するでしょう。
それが何の役に立つと言うのですか? 人間の莫大な時間とエネルギーが、世界の力学を管理している人たち、際限なく複製が作られる種々の無駄な物品製造と販売を管理している人たちによって浪費されています。すべてが私たちに雑多な選択肢を提供するためのものです。どれだけの種類のアイスクリームを私たちは必要とするのでしょうか? 折り紙つきのアイスクリームを50種類以上も売る店があるのです。現在先進国において生産されるあらゆる種類の物品に関して同じことが言えます。
アメリカ、イギリス、フランス、日本やその他の国で生産されているものは、他の国ではほとんど必要とされていません。物品はすべて選択肢を提供するために生産され、また、私たちがすでに所有し生産しているものにはめ込むための最新の便利な小物が生産されています。
これは人間の潜在能力の浪費です。私たちが世界の資源を分かち合うとき、そのようなやり方の多くが取り除かれます。分かち合いがもたらす洗練された物々交換の形式に従って、交換した物品の記録の保存が必要とされるだけです。それは完全に簡素化され、私たちの生活は全く認知できないほど簡素化されるでしょう。50種類ものアイスクリームの必要はなくなるでしょう。

生きる術における簡素化の役割について詳しく説明していただけますか。
簡素化にはある役割があります。それは、すべての生き物が進化の道程をたどるときには、まず食べることだけを求めるからです。それから器官がますます複雑になるにつれて、その必要も一層複雑になっていきます。そして人類は、地球上に65億人も住んでいるのですが、最も複雑な生活を送っており、使用可能あるいは不可能な、有用なあるいは無用な無数のすべての種類の物品を作り出しました。これが全世界の商店や貯蔵室を満たしています。世界中にばらまかれ人々に脅威を与えている何百万トンもの武器も、もちろんその一部です。
例えば、東京の主要な大通りをちょっと散策して、携帯電話、カメラ、テレビ、またはコンピューターなどのあらゆる種類の電化製品を買うことのできる場所に行ってごらんなさい。それらをいくらでも買うことができます。すべてのビルが1階から20階まで、あらゆる種類の通信用物品でいっぱいです。
もっと簡素化できるのでしょうか。簡素化は生きる術と非常に関係があると思います。私の経験では、人類が成長して人生がますます物品、科学技術製品で満たされてくると、簡素化からますます遠ざかり、生きる術と称するものから一層かけ離れていきます。私たちは生き方が分からなくなります。貯蔵倉庫を、携帯電話やコンピューターのようなもので満たすのは良い生き方ではありません。それらは、有用であれば流通させ、でなければ作ってはなりません。それは狂気じみた商業主義です。人間が進化するにつれて、人類が生きる術を悟るにつれて、これらの複雑な過剰生産を積極的にある程度やめるにつれて、簡素化が基本であることが分かるでしょう。
簡素化とは、実際に、最も充実した人生を楽しむための必要最低限のものを用いることです。最も充実した人生は、術として生きることができます。しかしそれは簡素化を必要とします。そのようにして、私たちは新しい時代に正しく入っていくのです--生きる術が人類によって真剣に考慮され、認知され、発展させられるとき、無害と犠牲の法則がそれをコントロールするとき、より一層の質の簡素化が現れるでしょう。‘ 荒野の体験’が簡素化の必要性を人類に示すでしょう。おそらく今日のアメリカのように生活が複雑になればなるほど、未来の簡潔化を受け入れるのが困難でしょう。しかし、簡素化の中には大きな幸福があるため、未来はより幸福な時代になるでしょう。

直観の性質

直観は私たちが生活する上での生きる術にとって非常に重要なものですから、まだ(意識の)メンタル偏極すらしていない私たちの今の進化段階で、どのようにしたら直観に接触をつけられるのか、直観的思考を認識できるのかについて、光を与えていただけませんか。
直観は魂の機能です。直観に接触する唯一の方法はそれを使うことです。自分がいつ直観を使っているのかいないのか、あなたは分からないかもしれません。よくあることですが、直観とアストラル的な想像を混同しているかもしれません。日常の思考とは異なるので、人々はしばしばそれを直観と勘違いします。しかしそれは純然たるアストラル的なものかもしれません。アストラル的なものではないなら、それは高位のレベル、つまり魂から来ているかもしれません。魂と十分な接触がつけられていれば、直観は魂からしか来ないのです。
直観は実際には開発させるというより喚起するものです。例えば、ジュワル・クール(DK)覚者によるアリス・ベイリーの作品を読んでごらんなさい。言葉は理解できるかもしれませんが、それらが何を意味しているのかは理解できないかもしれません。それが抽象的な思想であり、秘教であり、だから難しいということは理解できるでしょう。難しく書かれているのです。やさしければ知性で理解できるでしょう。
直観は、低位マインドより上位のレベルで書かれたものを理解するために喚起するときに働きます。それが覚者の作品なのです。覚者が書いておられる意味が分かるような気はするでしょうが、自分の言葉にすることはできないのです。自分の言葉にできるには十分に理解しなければならないのです。
しかし何度も何度も読み返し、しばらく放っておき、また読み返してみれば、だんだん理解するようになるのです。なぜなら、あなたは実際に直観を喚起しているからです。魂が直観つまりブッディのレベルを通して、その洞察を私たちに与えているのです。マインドを高位のメンタル界を包含するまで拡大していくのです。すると直観が働くようになります。それを行うことができます。それが直観を拡大する確かな方法です。もっと瞑想に励む以外にそれができる方法を私は知りません。
私は瞑想を始めるずっと前から、画家としての生涯を通して、ずっと瞑想をしていることを意識していました。私が描いたすべての絵は、描いている時ではなく後で感じたことですが、思い返してみるとそれは瞑想の状態であったと思います。ある色の的確な色調や、形(フォルム)の正しいアングルを私はずっと探し続けていました。ただ描くという問題以外には何も考えない中で、私は直観を喚起していたのです。
その絵はそれ以前には存在しなかったのです。私はそれを初めて描いていたのですから、その問題は初めてそこにあったのです。絵を描くたびに、それは今でもそうですが、あたかも初めて絵を描き始めるようなものです。新しい絵は初めての絵を描くようなものですから、気をもみます。それがどうなっていくのか実際分からないのです。直観を喚起する深い集中状態に入らなければなりません。
これらの純粋に絵画的な決断は創造的な行為です。創造的行為という言葉は大きな言葉です。大作である必要はありません。それは単に、その行為の過程が直観を喚起するというだけです。同様にジュワル・クール覚者の作品を読むとき(小説などのことではありません)、直観を喚起するのです。『いのちの法則』やマイトレーヤの考え、アイディアを読み取る努力をしてごらんなさい。どの程度理解できるかは分かりませんが。
直観は確かに喚起し拡大することのできるものです。すべてのことと同じく、やればやるほどできるようになり、自動的にできるようになっていくのです。魂の光を呼び込むのです。単に座して光が問題に当てられるのを視覚化するということではなく、直観を通して魂があなたに啓明をもたらし、答えを与えるレベルに注目を上げるのです。
「・・・または直観的思考を認識する・・・」。直観的ならばそれを認識できるのです。直観的でないときには混乱するかもしれません。アストラル的ならば、アストラル的想像なら、「それは私の考えではない、直観だ」と考えるでしょう。でもそうだったでしょうか? どこからそれが来たのかを探しなさい。
「・・・メンタル偏極にすら至っていない私たちの進化の段階では・・・」。1.5段階以下で、メンタル偏極していないのであれば、あなたの行動を導いているのは、10回のうち9回は直観というよりアストラルのグラマーであると考えなければなりません。だからと言って、それが直観ではないと言っているのではありません。第1段階に近づいている人なら誰でも、魂に接触することはできるのです。第1段階へと人々を連れて行くのは魂です。いつかは第1段階に到達するでしょうが、0.9や0.8からそこへ到達するのに一生かかるかもしれません。それはプロセスです。時間がかかるのです。進化はゆっくりと進行します。ですから長く続くのです。進化は持続するのです。

良い肯定的な第六感あるいはインスピレーションが、直観なのか、単なるアストラル的なものなのか、どうしたら知ることができますか。私たちが直観を発達させるためにすぐに用いることのできるテクニックはありますか。
私はマインドの領域を拡大するDK覚者の読み物について話しました。マインドを拡大すると、直観、つまり、低位マインドがもうこれ以上あなたを連れて行くことのできないレベルに近づくのです。始終そうやっているとそれが発達していきます。

創造性と芸術

私には芸術的な才能があるかどうか分かりません。創造性を日常の生活に一層統合させるにはどうしたらいいでしょうか。
すでに述べたとおり、これは芸術的な才能の問題ではありません。それは生活のいかなる面においても創造的な行動(action)の問題です。私たちが話しているのは、芸術的才能ではなく、創造性なのです。

もし人がアーティストなら、マイトレーヤの臨在を知らせる広報活動を支えるために普通の仕事をするよりは、アート(芸術)を創造し自分の情熱に従う方がいいのでしょうか。
広報活動を支援するのがいいでしょう。しかしそれは芸術に限らず、いかなる仕事をしていてもやることができます。

レンブラントのような画家でなくとも、画家であることは人類への奉仕になりますか。
それはどの程度レンブラントのようではないのかという程度によります。あなたが、人々の休暇の思い出になるような小さな海辺の絵を描いて、それらをそのような専門の店で売ることを話しているのなら、人類への大きな奉仕ではありません。人々は自分のレベルで芸術作品を見つけるものです。絵が壁面を飾ります。それらは楽しかった休暇を思い出させるものかもしれません。しかしそれは芸術ではありません。単なる絵です。物語を伝えないなら悪い絵だ、というのが多くの人が絵を観る観方です。芸術は物語を語るのでも休暇を思い出させるものでもありません。芸術はそれ自身の機能を持つものです。それは実在(リアリティー)の特質について語る言語です。もしあなたがレンブラントなら、それを最も高いレベルで行うでしょうし、平均的な画家なら低いレベルで行うでしょう。

もしそうなら、この奉仕を行う過程について、また何がそれを奉仕にするのかについて話していただけませんか。例えば、それはただ単に創造するという行為に関係することなのか、あるいは創造の産物にもっと関係することなのか。
創造の産物というより、創造する行為に一層関係しています。創造性には最終の産物と言えるものはないのかもしれません。偉大な科学的発見とか、学習過程や教育課程または宗教的な啓示や新しい哲学的な真理における大きな発見はあるかもしれません。生きることの術について言えば、生きることは「いのちの法則」に対応して調和と融合、美と和合をつくるので一つの芸術(形態)です。

再臨の活動と伝導瞑想

キリストの再臨を伝える広報活動において、私たちは大衆に対して、どの程度再生誕や無害であること、カルマや犠牲などについて教えるべきですか。
これらは生きる術(アート)の基礎となるものです。それはアートですから、一定の指針が必要です。そしてそれらが指針なのです。それらが出発点です。なぜなら生きる術(アート)は、これらの法則に従わなければならないからです。
それらは正しい人間関係にとって基礎的なものです。無害であることなしには、正しい人間関係はありません。再生誕なしには人生はありません。カルマの法則や再生誕の法則のような法則については何もすることはできません。ただ認識しなければならないだけです。
これらの法則について多少なりとも説明はできるでしょう。それはあなた次第です。
この段階で私たちはどの程度のコントロールを自分自身に行使することができるでしょうか。
あなたがコントロールできるのは、どの程度自分が無害であるか、犠牲を行うことができるかです。あなたがコントロールできるのは、これらのみです。その他はこの惑星上の生命そのものを支配する主要な法則です。ですから人はその中で機能しなければなりません。無害であることについての概念およびそれに関連する事実、すなわち地球上での私たちの生活にとっての基本としての再生誕について、そのように話すことができるでしょう。
それらはあなた方が習得しなければならないものではありません。それらはすでに存在するのです。存在しないのは、すべての人に対して、一瞬一瞬、いつも無害であることです。

あなたの講話で私がハッとしたのは、偉大な芸術家が古い傑作を再創作するということです。あなたが講話をされるときに、アリス・ベイリーの教えやバイブルの一節、あなたの師である覚者の記事を用いて、あなたはそれらをただコピーするのではなく、完全に新しいものとしていらっしゃるやり方に注目しはじめました。私が再臨について人々に話すとき、ほとんどの場合、私はただ単に真似ていたようです。どのようにすれば、私が学んだことをハートから話し、その話すことを自分らしくユニークなものに再創造できるのでしょうか。
私がやってきたように長年の間(およそ35年間)話していれば、自分自身のものとして話をしなければ、爆発してしまうでしょう。もしあなたが話をするたびに、アリス・ベイリーの言葉を一語一語繰り返したり、あるいはあなた自身が初期の頃に話したものをそのまま繰り返していたら、聴衆にとってそれがどんなだか想像できるでしょう! それは発展していくものです。もしあなたが本当に関わっているなら(そしてもしあなたが本当にこの仕事に関わっていなければ長い間やっていないでしょうが)、自分自身のものとしていくでしょう。それは当然のことです。それが再創造の過程です。何時間でも話し続けられる物語の必要な要素を用いて、実際に話すときには自分のものとしてハートから話さなければならないのです。まず自分のハートにそれがなければなりません。それがあなたのハートにあるときのみ、ハートから話すことができるのです。私は壇上に上るとき、自分がいったい何を話そうとしているのか分かりません。講演の中に含まれなければならないアイディアは知っています。ですが、それらがどの時点で話に出てくるのか、何回くらい入るのか、何を忘れてしまうのか、何を言わずにおくのか、分からないのです。今年のサンフランシスコの講演会で、私はこの話はいろいろ違った観点から話すことができると言いました。私は自分自身の観点を思いつかなかったのです! それで、私はこういいました。「あなた方は、自分たちの大統領をどうするつもりですか? あなた方の大統領をどうするつもりですか?」。聴衆は笑いました。すると即座に、私たちの間につながりができたのです。すると彼らは、私の話に聞く耳を持ちました。そして私はただ話しました。私は話すときには、ただ話すのです。私は言おうとしていることに何の優先順位も決めません。浮かんでくるに従って話すのです。一つの言葉を話すと、次の言葉につながります。そうすると次のアイディアが浮かび、それを話します。また一つの言葉を話すと次の言葉につながり、そのアイディアが話に加わります。それが情報の一部です。私は情報を伝えています。しかし、それが無味乾燥なものでないことを望みます。できるだけたくさんの主題について面白い話を提供するように努力しています。そしてそれら全体で、聴衆の皆さんが世界について、一つの見方、世界の状態、そして何が必要なのかについての情報を得られるようにしているのです。あらゆる情報を持ち込むのです。ですから、それは生きたプロセスです。それを再び繰り返すことはできません。講演を全く同じように繰り返すことはできないのです。話したことはすぐに忘れてしまいます。

生きる術(アート)を高める、あるいは助けるのに、伝導瞑想はどのように働きますか。
必然的に役割を果たします。あなたの人生をより気分良く、より幸福に、より健全に、より均衡の取れたものにするのに助けになります。あらゆる瞑想と同様に、伝導瞑想は魂とあなたとをより密接に結び付けます。伝導瞑想は他の瞑想よりずっと完全にそれを行います。なぜならそれは100%科学的だからです。伝導瞑想はあなたの魂との接触の質を向上させます。伝導瞑想を行うことで、周囲を鼓舞させるようなあらゆる考えやアイディア、例えばキリストや覚者方の降臨というようなアイディアに接触が持てるようになります。あなたの心(マインド)に奉仕というアイディアをいつも真っ先におくようになります。なぜならそれは世界への奉仕だからです。それは必要に応じてグループが使うことのできる無尽蔵のエネルギーの貯蔵湖であり、グループは常にそのエネルギーの貯蔵湖に蓄え続けているのです。
伝導瞑想をすれば、必ず急速な進化につながります。高まった状態でチャクラに注がれるエネルギーによって進化せずにはいられないのです。ほかの方法ではこれほど早く進化することはありません。ですからそれはあなたの生きる術を向上させる方法です。どうしたら伝導瞑想をより良くできるのか? もっと正しく行うことによって、そして整列を保つことによってです。それは整列の問題だからです。

[編注:伝導瞑想の詳細については、ベンジャミン・クレームの『伝導瞑想-21世紀のヨガ』をご参照ください]