現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2006年 4月 おびただしい徴

おびただしい徴

人間が、今日のように、進むべきか退くべきか、右なのか左なのか確信がなく、途方に暮れているときにはいつでも面白い現象が現われる。つまり徴が求められ、徴を信じない人々ですらそれを求め、説明し難い出来事が深刻に受けとめられ、それに意味が与えられる。未来が人間にもたらすものについていまだ不安を抱きながら、未来への扉を開く鍵を探し求める。
彼らを案内する徴は有り余るほどそこにあるのだが、何年間にもわたって彼らに惜しみなく与えられてきた驚嘆すべき物事をすぐに忘れる。かくして、人は普通、まさに彼らが探し求め、懇願する徴候を見逃すのである。
人々がそのような徴を思い出し、それらを来るべき日々についての真の予告として受け入れる時が間もなくやって来る。それらを、歴史上のこのユニーク(独特)な時に、マイトレーヤと覚者たちの一団の出現と同時性を持たせた計画された顕現として理解するだろう。何か途方もない素晴らしいことが地球上で進行中であるということを人間に合図するそれらの徴はあまた存在し、変化に富む。見る目を持つ者たちにとってそれらは、人生にはまだまだ未知で神秘的な領域がたくさんあることを、人間がそれについてほとんど知らない法則があることを、そして何にも増して、人間はひとりではないということを、思い出させるものであった。

確 認
徴が存在する以上、その徴の創造者がいる。あらゆる宗教グループは彼らの選んだ神の啓示を待望し、それらの徴を彼らの信仰の確認として解釈する。そのような確認が危険な時代にあって彼らを支え、より良い未来への希望を彼らに与える。このようにして、期待と希望の風潮が何千万の人々の中に創られて、いま差し迫っている出来事のために彼らを準備する。徴の意味は不明瞭であるけれど、それを否定できるものはほとんどいない。それは人間の直観と想像を刺激し、彼らの心(ハート)を来るべき啓示に開かせる。
限りなく涙を流したり動いたりする様々な彫像から、世界中で建物の前面を飾る光のパターンに至るまで;輝かしい光の十字架からミルクを飲むヒンズー教の神々の像と、徴は限りなくある。これらの不思議な出来事に心を動かされない人々はほとんどいない。
もちろん疑い深い人々や懐疑的な人々はいつもいる。しかし、それも長いことはない。非常に間もなく、期待の風潮は高まり、至るところにいる人間の心(ハートとマインド)にしっかりと記録されるだろう。そしてその期待に満ちた雰囲気の中に、マイトレーヤはお出ましになり、彼の使命を公に始められるだろう。そのようになるだろう。