現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2006年 5月 マザー・テレサ-貧民街の聖女

マザー・テレサ-貧民街の聖女

アダム・パースンズ

1997年にマザー・テレサが死去したとき、多くの人々が彼女の集会は混乱し苦労するのではないかと思った。アダム・パースンズは8年もの間、コルカタ(カルカッタ)の有名な『スラムのシスターたち(Sisters of Slams)』の遺産を調査している。

私が他のボランティアたちと一緒に病院に駆けつけたときには、南インドのモンスーン地帯特有の雨が激しく降っていた。商店街の中の露天商や寺院参詣者たちが私たちを密かに冷やかしていたが、戸口の上がり段にずぶぬれになって立ったとき、わたしはそのことで笑ってしまった。『ニルマル・ヒルダイ(Nirmal Hriday)』とは『神の愛の宣教者会:マザー・テレサの“死を待つ人々の家”』を意味する標識である。

私の笑いは長くは続かなかった。家の中には折りたたみ式ベッドの列が二つあり、それはすべて痛ましくやせ細ったインドの男性でいっぱいであった。私は胸苦しい消毒薬の臭いでボーっとなってしまった。前方の何人かは点滴をしていた。彼らの多くは動かず横たわったまま虚ろな目で上を見つめていた。入り口付近の患者は十代であったかもしれない。しかし彼のやつれた肉体は老人のようであった。ロビーを通って私が他のボランティアと共に戸棚に私のバックを押し込んでいたときには、もう一つの満杯の部屋は頭髪を剃って同じガウンを着た女性でいっぱいであった。彼女たちは非常に痩せていて虚空を見つめ、大部分は狂人のようであった。結局彼女たちの多くはそこで死んでいくのであろう。

われわれはカルカッタの中心部のカリガットにある他には見られないある病院にいる。それはマザー・テレサによって開設された最初のセンターである。そこは、世界で最も難問を抱えた都市の一つに奉仕する場所であり、浮浪者、貧困者、および死の瀬戸際にある人々だけを受け入れるための施設でもある。それは決して本当の病院ではなく、納屋を改造したものであり、近隣の寺院に寄贈されたものである。そこでは、修道女たちが青で縁取りされた有名な白いサリーを着て急ぎ足で行き来し、若干の修道僧が通常の衣服とエプロンを着て彼女たちと一緒に働いている。彼らの哲学は壁に貼られた言葉、『人間の最大の目標は、神と共にある平和にあって死ぬことである』によって要約される。
誕生以来全く無視され不潔な街路に寝て街中で物乞いをし、あるいは人力車を引いている人が、誰かに看取られながらわずかな尊厳を保って死ぬために、死の間際に歩道で拾い上げられなければならないというのは、皮肉な話である。恐らくもっと驚くべきことは、マザー・テレサの死後8年も経過したというのに、ここに集まる西側からのボランティアの数が多いということである。一日で100人もが到着し、少数は大胆な観光客であるが、その他の大部分は、彼らの時間とエネルギーを提供して貧しい西ベンガル地方の最も貧しい人たちのために救援活動をしている。彼らは大抵若く勉学の時間を切り詰めてしばしば半年から一年も滞在しているのである。

私は第一日目の眠れない夜を過ごし、朝早く目が覚めた。誰かがニルマル・ヒルダイ(ベンガル語で“清い心”)と名づけた『死亡小屋(death shed)』での仕事のことを思い少しばかり茫然としたのだが、私の部屋はモンスーン地帯の雨で湿気が高くボロボロになり、浴室は洪水のような状態になっていた。午前7時には、ロワー・サーキュラー・ロード54Aの有名な本部であるマザーハウスに全員集合しなければならなかった。そこに集まったボランティアのために、パンとバナナと砂糖入りのお茶が食卓に並べられた。その騒々しい集団は7時半までに街中の様々な場所に行くバスに乗るために停留所に向かって散って行った。死にかかっている貧困者のための病院は、多少驚いたことには、最も有名な指定先の中の一つであった。その日の朝、カリガートには100人の病人に対して70人のボランティアがいた。ボランティアの大部分は虱除けのバンダナを身に着けていた。最初のバスだけで私たちの仲間40人が乗り、それから韓国と日本の少数編成の一団が病院に列をなして向かって行った。彼らの多くは、生物兵器を使う戦争に出かけるかのように、外科用のマスク、手袋、プラスティック・エプロンを装着していた。患者たちは知らんふりで横たわっているか、あるいは突然の闖入者に身を委ねているかのようであった。

誰もやるべきことを指示されなかった。何人かのシスターがむき出しの壊疽の傷の手当てをした。私ははっと息をのみ目をそむけたが、再び信じられない気持ちで眺めた。私は一人の男の腫れ上がった黄色い足の中の骨を見ることができた。全員に薬品が手渡されたが、何人かの人はそれを拒んだ。

次は入浴の時間であった。軽い患者をボランティアが浴室に運び、そこで衣服を脱がせ、大柄のイタリア人が水浴びをさせた。若干の患者はよろめきながら彼らのベッドに戻ったが、大抵は裸のまま運び出され、乾かすために棚に座らされた。

ある時点で担架が背後から取り出された。その上には白いシーツで包まれた死体が横たわっていた。入り口にある黒板に発表されたその日の集計を私は知らなかったが、そこには男性50名、女性47名、入所0、退所1、死亡1とあった。

それは、痛ましくショッキングな朝であり、ほとんど理解し難いことであった。私には外のモンスーン地帯特有の豪雨の騒音もほとんど聞こえなかった。ある昼食の時間に修道僧の一人が、入り口のところの意識不明の男の隣にいた自分の席を替わってくれるように私に合図をしてきた。私はその人の胸に手を置いて修道僧のまねをした。しかし、私が感じ取ったものは喘ぐゼーゼーという微かな声と鼓動だけであった--その人は飢えのため胃袋は凹んでほとんど死にかけていた。私は、しばらくの間圧倒されていたので、彼の魂と罪の許しのために祈ったらいいのか、ただ死ぬのを眺めていればいいのか、よく分からなかった。その代わりに私は、今ここにカサカサの皮膚で歯もなく、35から70歳のどの年齢か分からないまま横たわっている彼を、熱意と希望に満ちた年若い少年の姿で思い描いていたことを覚えている。数時間の後に黒板上には死者2名と書かれた。

ニルマル・ヒルダイがどのようにして始まったかについての話を、しばしばマザー・テレサは公的なスピーチの中で再三説明している。1950年代の初めに、彼女は病院の外の歩道で一塊の襤褸のようなものを見た。近寄ってよく見るとそれは中年の女で、顔はドブネズミとハツカネズミに食べられていてほとんど意識がなかった。彼女の修道会で『マザー』と呼ばれている彼女は、その女性を近くの病院に連れて行った。しかし病院側は、ベッドがないこととその女がほとんど死にかけていることを指摘して彼女の申し出を断った。病院側はその奇妙な修道女に対して、その女を歩道に連れ帰ることを提案した。病院側にマットを持ってこさせて床に敷かせたのは、ほとんど絶望的になったマザー・テレサの強行な押しの態度によるものであったが、その女はそのマットの上で数時間後に死亡した。「私が、死の瀬戸際にある人のための場所を見つけ世話をする決心をしたのはその時でした」とマザー・テレサは言った。

彼女の保証された地位--女子修道院の女学生の教師としての--を去るようにとの神の『召命』を受諾して後、マザー・テレサは直ちに泥の中で棒切れを用いてスラム街の子供たちに教え始めた。物質的な援助と後援会を持たない彼女は、カルカッタの街(2001年にコルカタに名前を変更)を薬品と資金を求めて何時間もの間『乞食旅行』をして歩いた。数週間の間に彼女は二つの学校と一つの医務室を単独で開設し、数カ月後には10名の他の修道女の参加を得た。そして一年以内に彼女は、彼女自身の集会を発足させるためのローマ教皇の後援を受けたのである。

ユーゴスラビア出身の単なる修道女にとってそれは前例のない偉業であった。神の愛の宣教者会の根本法(constitution)は、275の規則と通常の三つの請願に加えて4番目の請願から成っている。それは修道女が『私たちの道』と称している『貧困者の中の最も貧困な者への一意専心の自由な奉仕』を、純潔、貧困、従順であることと同様に遵守する、という請願である。その修道会(Order)への加入は、修道院(convent)の防壁による保護を当てにせず、苦難や放棄を受け入れ、そして病人、瀕死状態の人、ハンセン氏病患者、見捨てられた人、人生に対する信と望みを失ったすべての人に仕えるためには死をも受け入れることを必要とする。加入者はまた家族や愛する人たちとのすべての関係を絶ち、10年に一度家族と会うことだけが許されている。加入者は、1週に6、7日もの間しばしば1日18時間働くという途方もなく厳しい労働をする。彼女たちには物質的な贅沢品はなく、3着の安価なサリーとバケツ一つがあるだけである。

しかし、この想像不可能な辛苦にもかかわらず、神の愛の宣教者会(MC)はキリスト教会の最大の修練場の一つである。教会の数が世界中で次第に減少している現在、その宣教者会には修道女と修練女(訳注:請願を立てていない修練中の人)だけで4,000名の人が働いており、40以上の国々に100万人以上の協力者がいる。

『1971クラシック・カルカッタ』の著者ジェフリー・モアハウスは「ニルマル・ヒルダイでは、旅行者がここは地獄の裏側だと感じる時がある」と書いている。ピンセットで蛆を傷口から引きずり出す修道女の話を聞くとき、また肺が衰弱して死にかけている若者や家族に見放され死に瀕し発狂した母親について聞くと、地獄という表現が適切かもしれないと思う。しかし私は、折りたたみベッドの間の狭い通路を行き来して、自分自身を汚している人々を注意深く避けながら入浴のために人を運んだ日々の間に、病院を疫病の家ではなく神聖な場所として経験し始めていた。貧困者は絶えず薬品やベッドを求めて毎日入り口の階段に集まってきた。一人のぼろを纏ったヘロイン中毒の執拗な男が市のすべてのMCセンターにやって来ると言われている。カルカッタの本当の恐ろしさは、明らかに外の街路にあるのである。

患者の中のある者は何年も病院内に滞在し、出て行く気配がなかった。フランス人に手伝ってもらってやせ衰えた脚の運動をするだけであったが、ベッドから起き上がる男が一人だけいた。数名の患者は、初老のサブヒュジー氏のように、英語が上手だった。彼は、ある日人力車の車輪で足を潰され道路に倒れてしまったことを、私に話してくれた。その足は現在、当て木の上から石膏で固定されているので、彼は3カ月間ベッドに寝たきりである。しかし彼はそれを甘受して自分の運命に満足さえしている。私はある朝、雨の中をマーケットに走って行きサブヒュジー氏のために英字新聞を買ってきたのだが、彼はまっすぐ座って金属縁のめがねを通してそれに見入った。それは私にはうれしいことであった。

もっと胸を締め付けられるような時もあった。正面近くに20歳または25歳ぐらいの少年がいた。彼は、眼を大きく見開き、頭髪を剃り、体は棒のように痩せ、肋骨がくっきりと浮かび上がり、飢餓による犠牲者の写真のようであった。彼は何が悪いのか誰も知らなかった。しかし私は、彼がエイズの末期患者か、あるいは極度の栄養不良だろうと推量した。大抵のボランティアは彼を見過ごす傾向があった。彼は大部分の時間を頭に毛布を被って横になっていた。だがある日、朝食の世話をして後、私は彼のベッドの横に座ってコミュニケーションを試みた。

彼の動作は遅く、半分は別の世界にいるかのように懸命に努力しているようであった。私を見つめ私が誰であるかを記憶に止めようとしながら、彼は体の上で手をゆっくり動かし身振りをして泣き出し、耐えがたい苦痛に包み込まれているかのようにベンガル語でぼそぼそと何か語った。私は彼に同情して突然苦痛に襲われた。それは私がインドでほとんど経験したことのないものであった。それは、あたかもあれほどの苦悩を前にして、私の感情移入の能力が私自身の保護のために麻痺させられていたかのようであった。しかしその若者は、手を伸ばし哀れみを求めているのではなかった。実際彼は、手足のマッサージをして彼の苦痛を和らげてくれることを私に頼んでいたのである。

別の日の朝食の時間に、ある修道僧が、最近到着した老人のために熱いミロ・ドリンクを用意するように私に指示した。彼に近づいたとき私は後ずさりした--その人の開いた口はコブだらけで、ほとんど意識を失ったように思われる彼の虚ろな眼は虚空を見つめていた。彼の喉仏は、私が飲み物を流し込むとき激しく捻じ曲がった。そのときスペインのボランティアが、「彼には飲み物は駄目だ!」と忠告した。しかし、もし飲まなかったら彼は確実に死ぬだろう、と私は思った。次の日私が帰ってきたとき、もちろんその老人は、沢山の死者の中の新規加入者として黒板に新しく記載され、そして別の人が同じNo.4のベッドに横たわっていた。

このような規模の貧困を救援するのは不可能であり絶望的でさえあると解釈されるかもしれない。しかし、ニルマル・ヒルダイの上級修道女であるシスター・ジョージナは、このような環境にあっては思いがけない幸福な雰囲気を発散しているように思われた。彼女はある朝、次のように私に言った。「多くの人たちが生き延びているのです。ある人たちはひどい栄養不良状態でやってきます。三日以内に彼らは眼が見えるようになるかもしれません。もし他の州からやって来たら、彼らに帰りの切符を買ってあげます。私たちは彼らにお金を上げません。ここには切符を買う係の人がいます。人々は故郷の村に帰ると再び働き始めます。沢山の人がここにやって来るので、全員を収容することができないのです。私たちは絶えず患者を別の場所に移します。再び物乞いをして歩くことのできる人は出て行ってもらいます。私たちは『もし悪くなったらまた来なさい』と彼らに言います。」

シスター・ジョージナに関して言えば、いつも私が感じていた憤激を、またはすべてこれらの人に対する圧倒的な不公平という事実を、彼女に何とか解明して欲しいと私が思っていたことに気がついた。しかし私が彼女に、将来に関する考えを尋ね、この絶望的な貧困を改善できる希望を持っているかどうか質問したときの彼女の答えは、「神を信頼しなさい」という簡潔で単純なものであった。

マザー・テレサの公的な伝記作家で彼女の個人的な友人であったナビン・チャワラは、折りたたみベッドの上で死にかかっている身体は見捨てられて死にかかっているキリストであることを自分で理解しなければ、神の愛の宣教者会の動機と献身を理解するのは不可能である、と書いている。この慈悲心に富む哲学は、ニルマル・ヒルダイにある多くの壁面を飾る木製の十字架上のキリスト像によって至るところに反映されている。そのキリスト像の下には「私は渇く」と書いてある。マザー・テレサは彼女の生涯でしばしば、それは「彼の仕事」であり私の仕事ではない、と繰り返し言っている。彼女は自分自身のことを、取るに足りない者であるが「一つの道具であり、主の手の内にある小さな鉛筆」であると述べ、1979年の有名なノーベル賞受諾演説で述べた最初の文章は、「私は無価値な人間です」であった。

名声が支配するメディアの関心がなくても、神の愛の宣教者会は以前より現在の方が繁栄しているという事実は、人類の継続的な恥を目立たせているという点でも他に類を見ないサクセスストリーである。マザー・テレサは完全に謎の人であり、彼女は情熱的な正統派の修道女であった。しかし彼女の謙虚さの手本は、世界の良心に衝撃を与えた。

その本部を短時間でも訪問すると、彼女の絶えることのないインスピレーションを目撃する。彼女のフレームつき写真は毎日新鮮な花や花束が捧げられ敬慕されている。それはしばしばシーク教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒から捧げられたのである。そして多くの人々が彼女の墓に涙を流しながら祈りを捧げている。彼女は彼女の生涯で色々な賞や栄誉を受けている。しかし彼女は大した教育を受けていないし、読書家でもなく、雄弁家でもない。ナビン・チャウラが結論しているように、「神秘的で霊的な神の神的要因」を認めなければ彼女の残したものと並外れた業績は説明できない。

階段の貧困者たちや商店街の乞食たちのガタガタ鳴る空き缶の前を通り過ぎて最後にニルマル・ヒルダイを去ったとき、私を永久に変えてしまった人生の側面を目撃してしまったことを私は知った。それは私が長くできる仕事ではなかった。フィリップ王子が言う「実際的な同情」には、カルカッタで特に夏のモンスーンの季節の蒸し暑い湿気の中ではいつもいつも試される心理的な頑丈さを必要とするのである。

ハウラ駅の非常に混雑したプラットホームでデリー駅行きの列車を待っているとき、信じられないような変形した醜い乞食が背中に空き缶を背負って四つん這いで近づいてきた。私はその空き缶に紙幣を一枚入れたが、彼が去っていったとき、恥ずべきことに私は彼の背後から写真を撮った。そのとき彼は振り返って私を見た。これは西洋人にとっては悲惨な光景であるが、インドでは厳しくて尽きることのない難問の単なる一部に過ぎない。つまり、われわれが自分の健康で豊かな人生の中に隠れていながら、見るか見ないか、与えるか与えないか、毛嫌いするか困惑するかの問題である。

それは、マザー・テレサと私のような人、東洋と西洋、富める人と貧しい人の間の相違であった。あらゆる賢明な見方から観察するか、理論化して議論するか、あるいは、必要を認知して自分を忘れて与えるのか? 神の愛の宣教者会にとっては、貧しい者たちの中の最も貧しい者に対する一意専心の自由な奉仕の中にだけその回答が存在するのであり、このような問いは存在しなかった。「貧しい人が飢餓で死ぬのは、神が彼または彼女の面倒を見なかったからではありません。それはあなたも私も、彼または彼女が必要とするものを与えようとしなかったからです。現代の苦しみは、人々が与え、そして分かち合わないで、貯め込むからです」とマザー・テレサは言っている。   □