現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2009年 7月 信(Faith)――選集 

信(Faith)――選集 

本稿には『信』というテーマに関する引用文の選集を発表する。これはマイトレーヤの教え(マイトレーヤからのメッセージ、および『いのちの法則』)、ベンジャミン・クレームの師のことば(『覚者は語る』)、およびベンジャミン・クレームの著書から抜粋したものである。

我が友よ、あなたがたも生活の中で分かち合いを具現することができる。この聖なる原則が是非とも支配すべきである。あなたがたの子供たちに、幼き者たちに、分かち合うことを教え、善を啓発しなさい。わたしの任務は、すべての人を啓発し、無知を真の知識に変え、目で見えるすべてのものの背後に唯一なる実在があることを教えることである。
(マイトレーヤからのメッセージNo.127、p.374)

マイトレーヤが世界の前に姿を現すとき、新しい時代の始まりを布告するであろう。来るべき時代に人間は、いま転生している者には夢見ることもできないような高みに上昇するだろう。新しい教えは新しい知識を生み、新しいインスピレーションは新しい啓発を生む。そしてすべてが秩序正しく、順を追って起こるだろう。希望は確かなものとなり、恐怖は信に、無知は智恵に道を譲るだろう。
(『覚者は語る』―来るべき時―p.184)

希望を持つということは人生に完全な信を持つことです。ということは、毎日が幸せだと言っているのでもなく、克服しなければならない障害物がないと言っているのでもありません。人々はすべてが調子よく順調にいっていれば、自分は正しい道にいると思うようです。それは適切な行動を選択する術であります――最も抵抗の少ない線に沿った奉仕を選ぶか、最も抵抗の大きい線に沿って選択するか。後者は私たちが奉仕と呼ぶ緊張、真の奉仕の持つ火、熱意をもたらします。
(『マイトレーヤの使命第Ⅱ巻』p.718)

奉仕への召集がかけられるとき、真剣な弟子にとっては、提供されたその機会を両手でつかみとることが必要である。召集が二度繰り返されることはめったにない、なぜなら覚者たちは浪費する時間を持たないから。「多くの者が召集されるが、選り抜かれる者は少ない」という言葉があるが、それは「多くの者が召集されるが、応える者は少ない」と解釈されるべきである。
大いなる奉仕において、さようである。選り抜かれた者のみが、大計画に仕える機会が授ける祝福を認識する。奉仕は神聖なる義務であり、弟子たちにとってこの地球上における逗留を何転生も短縮することを可能にする。多くの弟子たちがこのことを知っているのだが、最も軽い任務にさえ尻込みする。多くの者が、昔、自分がたてた誓いを忘れて、心の裡に感じる不安を無視する。覚者たちが悲しげに頭を振りながら、(召集を)待っている光(弟子たち)の中を再び探し求めるのは、いわれがないわけではない。
奉仕する者すべてが、自分が奉仕していることを自覚しているわけではない。魂の、覚者の呼びかけに対する彼らの反応は非常に本能的であり、彼らは躊躇することなく大胆に飛び込む。彼らは非常に非自己集中的であり、世界の必要のみが彼らの唯一の関心事である。彼らは息をするように奉仕する。しかし、時代の必要に関連した奉仕をする者は非常に少ないのである。内界にいる覚者たちは、いくらかでも大計画を知る者たちを、そして自分が優先すべきことについて健全な考え方を持つ者たちを、捜し求める。わたしたちは、強い熱意を持ち、愛と犠牲で燃え立つ心(ハート)を持つ者を捜す。そのような勇敢な者たちをわたしたちの直中に迎え入れて、喜んで奉仕の分野を提供する。そうして、わたしたちは脇へ寄って見守る。繰り返し、繰り返し、彼らの当初の喜び勇んだ歩みは遅くなり、そしてためらいがちになるのである。彼らの明るい期待はあまりにもしばしば倦怠と疑いに変わり、高尚な志向は萎え、そして消滅する。
これらの悲しい出来事の中に、信の欠乏が不気味に浮かび上がる。信なしには、永続するものは何も達成されない。ただこの特質を欠いたために、これまでに多くの有望な弟子たちが失敗した。時代を通じて、様々な教えが信の必要性を強調してきたのは、いわれがないわけではない。信は奉仕のまさにハート(中心)として考えられてきた。
(『覚者は語る』―奉仕への召集)―p.304-305)

意識の歩調を急がせてはならない。たとえあなたが赤ん坊の意識を刺激する方法を知っていても、それをなすべきではない。自然に成長させなさい。そうすれば心(マインド)は平衡状態に保たれるだろう。世界中の人々の心(マインド)と生気(スピリット)の中に共通の普遍的な叫びがある。条件づけがあまりにもひどいので、人は人生における信念と信頼を失いがちである。
(『いのちの法則』、p.293-294)

混乱と緊張の直中にあっても、恐れることはない。現在の状況の中に恐怖のための場はない。むしろそれを、あなたの信に対する挑戦と見なしなさい。
(『覚者は語る』―勝利は保障されている―p.84-85)

わたしを知ろうとする者は、非常に素朴な男を探し求めなければならない。兄であり、友であり、教師であり、案内人であり、そして神と人との愛人である者を探しなさい。あなたがたがわたしを見るとき、神の本質が光と愛と意志であることを知るようになる。これらの聖なる様相があなたを通して反映されるように。そうなるとき、わたしはあなたを通して働くであろう。わたしはあなたを必要とする。あなたがた、すべてを必要とする。人間に信と喜びを回復させ、地球上の貧しい人々に、必要な資源を解き放ち、均衡を取り戻すために、この世界を再建する仕事を、わたしと分かち合ってくれるすべての人々を必要とする。わたしの役割は、あなたがたに方法を示すことである。あなたがたの役割は、行動し、わたしの計画を実施することである。わたしはあなたがたを信頼することができることを、頼むことができることを知っている。
(メッセージNo.76、p.219-220)

わたしたちを見るとき、あなた方より先に神への帰路をたどった者を見るだろう。わたしたちの裡に、あなた方自身の中に潜在する神の特徴を認知するだろう。このようにして、あなた方の未来の栄光を知るだろう。人々は鼓舞されて、現在の混乱から、新しい秩序を生み出す。憎悪と分裂から、調和と平和をつくり出す。そして疑いと恐怖から、意味と信と喜びを生み出すだろう。
(『覚者は語る』―神の共働者―p.108)

マイトレーヤは服役者に告げる。「信を失ってはならない。方向を失ってはならない。わたしはあなたたちと共にいる」
(『いのちの法則』、p.191)

恐怖心がなければ競争はありません。恐怖心を取り除くと、恐怖心の反対のものが生まれます。それは愛であり、自信であり、信です。これらが取り除かれるのは私たちにとって危険です。もしあなたの両親が、あなたを育てていくなかで、私たちすべてが持って生まれてきたあのいのちに対する基本的な信を、基本的な信頼を、あの愛を、善意という協力的精神を取り除くならば、そして恐怖心と競争によって置き換えるならば、競争は私たちの意識の中に埋め込まれてしまいます。   (『協力の術』p.36)
人間がキリストを直接見るとき、彼らは速やかに人生とその問題に対して新しい態度を採択するだろう。様々な問題は人間がつくり出したものであり、人間自身の内に存在し、無慈悲な神のせいでも、心ない偶然の結果でもないことを理解するだろう。
新しい責任感が、すべての者の向上のために行動する衝動を人々に授けるだろう。協力と思いやりと信頼が間もなく現在の利己的関心に取って代わるだろう。そうして人間の進化における新しい局面が開かれるだろう。
新しい認識が急速に増す。人類は成長しつつあり、自分たちの状況を鑑定し、変化する用意をしている徴が、認識の鋭い者にはすでに見えている。
マイトレーヤ の インスピレーション(鼓舞)のもとで、人間が自分たちをひとつとして考え始めるとき、誰もこの変化の潮をとどめることはできない。人間が共に、迫られている再建と救助の仕事に取り組むにつれて、分離感は徐々に減少するだろう。すべての者がキリストを見る日は近づく。人々がこの方をどのような名前で知ろうが問題ではない。彼の名は「愛」なり、それがすべての真なる人間の心(ハート)の奥深くに刻み込まれている。
(『覚者は語る』―彼の名は愛なり―p.255-256)

マイトレーヤが世界に臨在する徴はますます多く見られるだろう。マイトレーヤは人間の頭脳では決して理解できないような出来事を世界中に溢れさせるだろう。
徴はそれを必要とする者のためにある。世界の救済に必要な無数の仕事に共に取り組んでいくために、われわれの信を強め、自己満足の状態から抜け出すために必要な勇気と確信をわれわれに与えるために、徴は存在する。
(『いのちの法則』、p.371-372)

人類は恐怖心と疑いで満たされており、非常に迷信深いのです。マイトレーヤの顕現を信じることができると考える人々でさえ、多くが信じないことを選びます。なぜなら彼らは、そのような出来事は現状を混乱させることを知っており、現状を混乱させたくないからです。だから彼らはマイトレーヤがこの世におられることを知っているけれども、それにほとんどエネルギーを向けません。
「彼らの明るい期待はあまりにもしばしば倦怠と疑いに変わり、高尚な志向は萎え、そして消滅する。これらの悲しい出来事のなかに、信(faith)の欠如が不気味に浮かび上がる。信なしには永続するものは何も達成されない。ただこの特質を欠いたために、これまでに多くの有望な弟子たちが失敗した」
これは私の師が1959年の初めに、初めて私に連絡をして来られた時に、語られた言葉からの引用です。覚者は信について、私に長い論述を授けられた後、最後にこう言われました、「この特質を欠くために、多くの有望な弟子たちが失敗した。信を持って、マイトレーヤの到来を是認しなさい」
信とは、何かを信じることであると考えるために、信という観念を好まない人々が多いのです。信(faith)とは信じること(believing)か信念(belief)とはまったく関係ありません。信とは存在の状態です。信はあなたが本来のあなたであるときに生じます。あなたがこの物質界のレベルで魂として生活し、魂と絶えず接触を保つならば、あなたは信を持つでしょう。信を持たざるを得ないのです。なぜなら信は魂の特性ですから。
覚者は言われます。「時代を通じて、様々な教えが信の必要性をいわれなくして強調してきたわけではない。信を奉仕のまさにハート(核)として見なしているのである。信とは、盲目的に受け入れることや信じることを意味するのではない。本当の信とは、それとは逆に、直観が、魂の声が、内的な認識を促すときにのみ生まれるのであり、あらゆる反駁を乗り越えて、心(ハート)があなたに告げるのである――これは真実だ、と」
あなたが直観的にこれは真実だと悟るとき、それが他の人々のマインドや観念や希望の知的構成の結果ではなく、あなた自身の内的な魂との接触の結果であり、そして魂が、これは正しいと告げるとき、その時あなたは信を持つことができるだけではなく、実際に信を持っているのです。それは選択ではありません。信は選択の結果ではありません。もしその中に選択があるならば――つまり、これを信じるか、あれを信じるかと選ぶなら――そこに信はありません。
信は、本当の信は、あなたが選択の必要性を超えてその先に行く時、あれこれと選択がない時にのみ、存在します。その時にのみ、これは本当だという直接の経験の中に、信が浮かび上がるのです。あなたが魂との接触を保っている間、あなたの信は安定し強く、それが生じた瞬間と同じに真実です。それはどこかへ行ってしまうものではありません。どこかへ行ってしまうのは信念(belief)の方です。キリストの再臨を信じるとか信じないという種類のものです。これは出たり入ったりするものであり、信(faith)とは何の関係もありません。信念(belief)はマインド(識心)の産物であり、魂のものではありません。魂の持つ内的な識(内在する知識)と存在の産物は消え去ることはできません。それが信(faith)と呼ばれるものです。
(『マイトレーヤの使命第Ⅱ巻』p.689-690)

「道」を歩むものに障害は多いが、恐怖心ほど妨害となるものはない。失敗を恐れ、嘲笑を恐れ、苦労や修業や苦しみを恐れる心――これらの障害を「自由への道」の途上で克服しなければならない。岩だらけの山路には確かな足どりが大切である。恐怖心は精神を萎縮させ、危険に対する本能を役立たなくさせる。恐怖心ほどの障害は他にない。それはいのちの流れそのものを妨げる。それはすべての希望を奪い、福利と健康にとって最大の脅威となる。恐怖心を放棄することを誓い、信を養う心理過程を築きなさい。恐怖心を克服し、疑うことの苦悩を終止させなさい。知識は恐怖を追放する。それゆえ知識と信頼を心に植え付けなさい。
この重大な仕事には勇気が必要である。多くの挑戦に応じなければならない。世界を完全に変えることも、過去の遺跡の上に新しい世界を築くことも、容易なことではない。だから、勇気を持ちなさい。そしてあなた方の世界を再建しなさい。恐怖心を捨て、両腕を広げて未来を迎え入れなさい。     
また忍耐を持ちなさい、新しいものの礎は石と信の上に敷かれなければならないのであるから。過去の最良のものを大切にし、古い道標を復元しなさい。そうしなければ、人間は道に迷ってしまう。
過去に何度も、人間には起き上がる機会があったが、その瞬間をつかみ取ることをしなかった。両手で未来をしっかりとつかみ取り、美の世界を創り上げる用意をしなさい。絶望を慎み、未来はあなた方の抱擁を待っていることを知り、喜びと愛をもって創造しなさい。
あなた方を招くあの未来に向かうあなた方の足どりを導かせてほしい。希望と信頼のうちにわたしたちと共に働き、あなたの道を完全にしなさい。恐怖心を背後に置き去りにしなさい。わたしたちの模範から勇気を得なさい。わたしたちもまた、道の苦しみと危険を経験してきた者であるから。
(『覚者は語る』―未来への道―p.130-132)

「信仰」はまた別の問題です。これはあちこちの教理や教義を単に信じることではなく、内的な直観的認知とたゆみない霊的交わりを意味します。
(『マイトレーヤの使命第Ⅰ巻』p.73)

折りに触れ、人の心(マインド)の中に愛の概念が浮かび上がる。表現を要求する自然な本能としての愛の理念が人間の思考を捉え、議論や談話を通して、これがそうであることを実演するためのステップが取られる。何千年もの間、これが繰り返し行われてきた。愛が人間の本性にとって中心的なものであるという考えは、いつも支持者を欠くことはない。それなのに、人間の日々の行動の中に愛の表現がほとんど見いだせないのは驚くべきことではないか。
ほとんど例外なしに、人間は不安の中に生きている。世の中と人生を危ないものと見なし、その脅威に対して防備の鎧を築く。このようにして、人間は愛する能力を限定している。愛は萎縮して死ぬか、あるいは攻撃と憎悪の背後に隠れる。愛を奪われると人間は病む。裡なる価値を意識しつつ、それを前面に顕し得ずに、己の恐怖や憎しみを隣人や世の中に投射する。
愛が支配するところには、調和が統治する。その調和がなければ、何も自信を持って進まない。自信がなければ何も成就しない。恐怖心は愛の表現を抑える。愛は恐怖心を消滅させる。愛を表現しようとしながら、恐怖心によって制限されて、人は道を見失う。流砂の中に迷い込み、もがけばもがくほど、さらに深くはまり込む。
それではどこに治療法があるのか。人は愛するために、信頼しなければならない。信頼がないところに、愛はあり得ない。愛は信頼する心(ハート)に自然に沸き上がる、なぜなら愛は人間の真の特性であるから。だから、信頼することを学び、いつでも輝き出せる用意のある愛を実際に顕しなさい。信頼とは、人生を、その痛みも美もすべて合わせ含めて受け入れることである。信頼とは、すべてが善に向かって働いており、すべてが法のもとにあり、そしてその法は公平に執行されるという確かな知識である。信頼することを学び、恐怖心を追放しなさい。限界の仕組みを永久に追放し、愛の水門を大きく開きなさい。
愛するとき、人はあらゆる可能性を己に引き付ける。愛の磁力が、波動の類似性を通して、すべての必要条件を引き付ける。ゆえに、愛は進化の梃子である。
愛のない世界を考えてみなさい。その忌まわしさは想像するだけでもぞっとする。なぜそうなのか。本能的に人間は愛の必要を認める。そして間もなく、愛することの必要をも理解するだろう。愛は、終わりなき鎖で、人を他のすべてにつなぐということを知るようになるだろう。おそらく、初めのうちは躊躇しながらだが、人間は信頼しはじめるだろう。一歩一歩、己の恐怖を克服する。そしてやがて、もはや恐怖の占める場のない、愛が穏やかにその王座に座し、その恩寵を近くに来る者すべてに授ける、あの祝福された状態に入るだろう。
そうなると、人間にとって生きることは、愛することなのである。恐怖というあの横領者は退けられ、克服されねばならない。信頼が愛を育み、恐怖を滅ぼし、永遠に裡に宿る神を明かす。信頼と信はひとつであり、裡なる神性の反映である。その神性を信頼し、それを愛として輝き出させ、恐怖の終わりを知りなさい。
(『覚者は語る』―愛することの必要―p.154-156)

聖書は広い全体的な輪郭において正確ですが、詳細においては純粋に象徴的であったり歪められたりしています。しかしながら、彼は時々、弟子たちによって認知されました。イエス(マイトレーヤ)の脇腹を指でつついてみたという弟子トマスの話は象徴的なものです――それは実際に起こったことではなく、信仰の必要性を強調するために伝えられました。
(『マイトレーヤの使命第Ⅲ巻』p.164)

あの「新しい国」へ、「愛の国」へ、「信頼と美と自由の国」へ、あなたがたを連れていくために、わたしはやってくる。わたしを受け入れ、わたしに従い、わたしに導き案内させてくれるなら、あなたがたをそこへ連れていこう。そして共に「新しい世界」を建設しよう。恐れも、不信も、分裂もなく生きることのできる世界を、大地の豊かなる資源を、共に分かち合い、わたしたちのいのちの本源と一体となる喜びを、共に入ることのできる世界を、創造しよう。このすべてをあなたがたのものとすることができる。あなたがたはただ最初の一歩を踏み出せばよい、あとはわたしが導こう。わたしに手伝わせてください。道を示させてください――誰も窮乏することのない、より簡素な生活に至る道を。そこでは、同じ日が二度と繰り返されることなく、同胞愛の喜びがすべての人間を通して顕されるのである。
(メッセージNo.3、p.27-28)

人類の生活の転換点にあって大きな仕事が彼らを待つ。往古からの間違った思考と生活の習慣をこの世から払拭すること。恐怖心――欠乏や戦争や病気や死の恐怖――からの解放を可能にするように、社会生活の方法を完全に変えること。これらはまさに巨大な仕事だが、あらゆる努力を費やすに値するものである。なぜならそれは、新しい生き生きとした生活、新しいより甘美な人間関係につながり、正義と同胞愛、分かち合いと愛の原則によって支配される世界につながるだろう。そのような世界を創造する仕事よりもすばらしい目標が人類にあり得ようか。
(『覚者は語る』―健康と治療(2)―p.45)

わたしが必要とするのは、あなたがたの信のみではなく、神の計画の遂行のために喜んで働くあなたがた自身である。あの聖なる計画をあなたがたに説明しよう。そして愛のなかに共にそれを成就していこう。わたしの予定は、出来るだけ早く世界の舞台に姿を現すことであるから、あなたがたがこの仕事に参加するのを妨げるものは、許されるべきではない。世界中にいるあなたがたの兄弟姉妹たちに、わたしの存在の事実を知らせ、彼らの心に喜びを分かつことを、あなたがたの最大の任務としなさい。わたしの任務は、至る所に居るすべての人間の代弁者として語ることである――より良いより健全な生活への彼らの願いと希望とを表明し、人間の真なる霊性の顕現を妨げる機構を再組織する必要を訴えよう。       (メッセージNo.59、p.172-173)