恐怖心の克服──選集
The overcoming of fear ── a compilation
「恐怖心の克服(The overcoming of fear)」というテーマに関する引用文の選集を掲載する。これはマイトレーヤのメッセージ(『いのちの水を運ぶ者』と『いのちの法則』)、ベンジャミン・クレームの師の言葉(『覚者は語る』と『シェア・インターナショナル』)、およびベンジャミン・クレームの著書から抜粋したものである。
わたしの楯が覆うとき、だれも未来を恐れる必要はない。わたしの原理が支配するとき、だれも欠乏を恐れる必要はない。わたしの道が招くとき、だれも神から分離した感じを抱く必要はない。わたしの言に耳を傾ける用意をしなさい。わたしの側に位置を占めなさい。裡なる神を顕し、世界を変換しなさい。
(『いのちの水を運ぶ者』第93信、p. 269~270)
あなたの想像力を働かせて、恐怖心や犯罪、競争や貪欲から解放された世界を思いなさい。世界共通の正義と平和という概念に、そして顕現された歓びに、あなたの心を開きなさい。それをしてごらんなさい。そして恐怖心から解放された人間の中に、堕落していない子供の信頼心が花開く世界を垣間見なさい。そのような世界ではあらゆることが可能である。人は今、それを発見する門口に立つ。
(『覚者は語る』―信頼の必要―p. 231~232)
競争の中で表現される恐怖を人類の意識から除去してしまわなければなりません。ではどうすればよいか、その方法を見つけなければなりません。マイトレーヤに訊ねるならば、彼はこう言うでしょう──「わたしを信頼しなさい。いのちを信頼しなさい。あなた自身を信頼しなさい。裡なる神を信頼しなさい。そして世界の資源を分かち合いなさい」。私たちが分かち合いの原則を受け入れるや否や、そしてそれによって世界に正義がもたらされるや否や、競争はなくなるだろうと私は思います。
競争の災いは二つのことに基づいています──貪欲と恐怖です。貪欲は恐怖の結果です。恐怖は、いのちに反するところのものについての基本的、根本的表現です。恐怖を取り去るとき、いのちのエネルギーを解き放ちます。
(『協力の術』p. 47)
人はもはや恐れる必要がないことを、光と真理のすべては人の心の中にあることを示すことが、わたしの目的である。この簡単な事実を悟るとき、人は神となるであろう。神の本質は愛することである。神の目的は奉仕することである。分かち合いと正義を通して神を識る。この簡単な真理を広めなさい、我が友よ、そして偉大なる行為をなしなさい。
(『いのちの水を運ぶ者』第98信、p. 285~286)
自分自身の一部として見なすことなしに経験できるものは人生にない。これが私たちの恐怖の経験の背後にある真理です。私たちは肉体の痛みと自分を同一認しますから、私たちは痛みなのです。心(マインド)の恐怖と自分を同一認しますから、私たちは恐怖なのです。自分と同一認するものから、つまり自分と同じと見なしているものから分離した存在ではあり得ません。そのような同一化(アイデンティフィケーション)を乗り越えることは、肉体と自分を同一認しないことは、恐怖反応や感情と自分を同一認しないことは、可能なのか。心(マインド)のつくり上げたものと自分を同一認しないことは可能なのか。なぜなら、もしそれができるならば、私たちは自分自身を超えたさらに先につながる自分自身を経験するでしょう。それは私たちが自由になる唯一の状態、私たちが真に存在(Being)である唯一の状態です。
(『マイトレーヤの使命 第Ⅱ巻』p. 328)
わたしの到来には問題がないわけではない。なぜならわたしが出会う者たちすべてのうちに、新しい神秘的な未来の感覚を生み出させるのであるから。それは、多くの者に恐れを抱かせる。しかし原因のない恐れである。わたしの臨在のゆえに、すべての人間にとって未来はまさに輝かしいものであることを知るべきである。新しい健全な人類同胞愛が人々の間に栄え、神の正義が見いだされ、それは神の栄光にかざされる。
(『いのちの水を運ぶ者』第79信、p. 227~228)
愛のない世界を考えてみなさい。その忌まわしさは想像するだけでもぞっとする。なぜそうなのか。本能的に人間は愛の必要を認める。そして間もなく、愛することの必要をも理解するだろう。愛は、終わりなき鎖で、人を他のすべてにつなぐということを知るようになるだろう。おそらく、初めのうちは躊躇しながらだが、人間は信頼しはじめるだろう。一歩一歩、己の恐怖を克服する。そしてやがて、もはや恐怖の占める場のない、愛が穏やかにその王座に座し、その恩寵を近くに来る者すべてに授ける、あの祝福された状態に入るだろう。
(『覚者は語る』―愛することの必要―p.155)
私たちは皆、生に対する反応の中に一連の抑制を築いており、それらが一緒に重なり合って恐怖になっています。恐怖は非常に深く無意識の中に埋まっているので、たとえ意識的なレベルからそれを見ても変えることはできません。それを正当化することはできます。そこにあるのを見て、その仕組みを分析することができます。しかしもし正直に見るならば、恐怖はまだ続いていることが分かります。……
競争主義の中で、私たちは自分が出会うあらゆる人々や物事や状況を自分と比較しながら見るように条件づけられています。お隣にジャックという友だちがいると思う代わりに、私たちはジャックより良い子か、悪い子かと比較されて見られます。ジャックとは異なった必要を持ち、異なった希望や才能や特質を持つ異なった子供であると見られるのではなく、ジャックよりも良い子か、ジャックほど良くない子かという比較でいつも見られるのです。私たちはいつも競争的な状況の中に置かれます。恐怖の源はその競争であると信じます。
(『マイトレーヤの使命 第Ⅱ巻』p. 317)
キリストの優先事項を検討しよう。平和の確立、分かち合いの制度の開始、罪意識と恐怖心の除去──人間のハートとマインド(識心)の浄化、いのちと愛の法則についての人類の教育、秘教への手引き、都市の美化、人々が旅行し、交流するための障害物の除去、すべての者が入手できる知識のプールの創造。
そのような仕事は、たとえ「人の子」にとっても、容易でないことは明らかである。分割と分離という往古の習慣は根強く、他方、恐怖心と迷信が何千万の人間をその魔力にかける。しかしながら、世界の歴史の中で、これほどよくその任務のための装備を整えた教師がやって来られたことはかつてなかった。マイトレーヤは、無知と恐怖、分割と貪欲に戦いを挑むためにやって来られた。彼の武器は、霊的理解と知識と愛である。彼の輝ける鎧は、真理そのものである。
(『覚者は語る』─「人の子」─p. 97)
わたしがあなたがたと共に居る間に、あなたがたが夢見ることもできないような不思議をお見せしよう。新しい方法で、神の特性を示そう。あなたがたの心から、死の恐怖やいのちそのものへの恐れと、あなたの兄弟やあなた自身に対する恐れを取り除いてあげよう。そのような無知を過去のものとなし、新しい光の中へ、わたしと共に歩けるように手伝ってあげよう。
(『いのちの水を運ぶ者』第123信、p.361~362)
死に対する我々の恐怖は、我々のアイデンティティーが消されてしまうことへの恐怖である。我々が、永遠なる存在としての我々のアイデンティティーを認識しそして経験するならば、死の恐怖は消え去ってしまうだろう。さらに、いわゆる死の後に、我々は新しいより明瞭な光の中に入り、その中で我々のアイデンティティーの感覚はなお一層鮮明になり、それまでは気付いていなかったさらに高度な面の存在を認識するようになることを、もし我々が認識しさえすれば、死に対する我々のアプローチ全体はより良い方に変わるだろう。
(『マイトレーヤの使命 第Ⅰ巻』p.250)
いのちのみが存在するのである。死は、いのちのもう一つのレベルの体験を指す名前であり、人間の限られた意識を除けば、いのちは連続し途切れることがないのである。われわれが死と呼ぶ体験と、その間(生と死の間)の体験と、外的顕現への復帰を、完全に覚めた意識で思い起こすことのできる時が訪れつつある。そうすると、人間は死の恐怖をなくし、神の子としての本当のアイデンティティー(正体)を完全に認識するなかで、知識と至福の内界の収穫を刈り取るだろう。
(『覚者は語る』─意識の連続性─p.196~197)
これまで愛してきたものすべてを、蓄積し獲得してきたものすべてを失うことを恐れて、わたしの到来を恐怖のうちに待つ者が多い。恐れるでない、我が友よ、失うものは単に分離や分割であり、恐れや妬みや憎しみである。これらを地上から捨て去るために、すべてが創り直されねばならない。これを悟りなさい、我が友よ、そして分かち合う覚悟をし、あなたの兄弟をあなた自身として見、彼と腕を組み、そして友と呼びなさい。
(『いのちの水を運ぶ者』第125信、p.369)
人類は恐怖によって生きていますが、恐怖のないとき、そこには愛があります。それは正反対のものです。愛のないときには恐怖があり、恐怖のないときには愛があります。愛は自然な天与の状態です。愛はこの第二光線の太陽系の神性の特性です。イエスは、キリストとして活動した時、「神は愛なり」と言いました。それはまさにこのことを意味していたのです。ほかの異なった特性(光、献身、知識、意志または目的)の太陽系も存在しますが、私たちの太陽系の特性は愛です。それは私たちの自然な状態であり、私たちが魂となる時、すなわち進化の過程のある段階で起こる魂とパーソナリティーの融合を成し遂げた時、私たちは魂の愛の特質を顕示することができます。
(『協力の術』p.80~81)
誰も恐れる必要はない。わたしがあなたと共にいるのである。神なしには創造(被造物)は存在しない。神の創造を経験し、人生の恩恵を楽しむことが万民すべての遺産である。それは平安と至福と幸福であり、その中には恐怖は存在しない。
(『いのちの法則』p.212)
マイトレーヤは人間がこの地上に存在する理由を教え、この目的を成し遂げる方法を教えるだろう。各人の裡に、「光の存在(Being)」が宿ることを教え、そしてその存在になることを鼓舞されるだろう。人間と神の間には、無知と恐怖以外の何ものも立ちはだかっていないことを思い出させるだろう。人間をその罪意識から解放し、喜びに向けさせるだろう。罪意識も恐怖心もなくなると、人は愛を知ることを示されるだろう。
(『シェア・インターナショナル』2006年1・2月号、
「覚者より」─驚嘆すべき出来事、門口にあり)
人は、わたしやわたしの兄弟である覚者たちのことを、掛け離れた存在として考える。これは、我が友よ、およそ事実からほど遠いことである。あなたの心のうちに感じられる愛の律動の一つ一つが、わたしの心に記録される。これがわたしとあなたがたとの関係を表す端的な真理である。だから、我が友よ、あなたの期待の思いを感じ、あなたが恐怖の思いから解放されるのを感じるとき、あなたの信頼の思いを知るとき、それがわたしにとって、どれほどの喜びであるかを知ってほしい。
(『いのちの水を運ぶ者』第73信、p.210~211)
新しいことに心を開きなさい。馴染みのないことを拒絶してはならない。偉大なる、驚嘆すべきことがらが、その恩恵を人間の上に浴びせるだろう。このような教えになかなか心を開こうとしない者たちや心の狭い者たちは、一時の間恐れるだろう。しかし憎しみはマイトレーヤの愛の心地良いぬくもりの中で、やがて溶けていくだろう。
地球の未来を恐れることはない。新しい、より良い管理が現在の無知に取って代わり、より安定した状態が広く生じるだろう。より純然たる、より真なる歓びが人間の心(ハート)をつかみ、現在の不安感を追い出すだろう。人間は皆兄弟であることを自分たち自身で知るようになるだろう。そして、公平に分かち合いながら、生活を変容させていくだろう。
(『覚者は語る』─運命の時─p.368)
変化は、それが小さなものであっても大きなものであっても、人々にとってはいつも困難です。世界を大きく変容させるような変化は特に多くの人々にとっては恐ろしいものです。彼らが知らないのは、キリストであり世界教師であるマイトレーヤの力(パワー)です。彼は大勢の弟子たち(覚者方)と共に、肉体を持たれて私たちの中に今存在するのです。彼らのエネルギーが人類の持つ最良のものを刺激し、変化を認識させ、実施させていきます。マイトレーヤが言われたように、「恐れるでない。終わりは始めから知られている。すべては良くなるだろう。あらゆる事柄は良くなるだろう」。
(『人類の目覚め』p.196~197)
歓びは自然な状態であり、幸せと悲しみの底に等しく横たわるものとして理解されねばならない。覆いが取り除けられるとき、それは光を──魂の光を──周囲すべてに輝かせ、神の特質なる愛を顕わす。愛と歓びは、純粋で、恐怖や憎しみや絶望の苦悩で曇らない心(ハート)に共存する。あなたの心(ハート)から恐れを取り除き、歓びを知りなさい。あなた自身を憎しみから解放し、愛の意味を知りなさい。暗い絶望を追い出し、あなたの真の光の中に立ちなさい。
(『覚者は語る』─生きる歓び─p.72)
あなたがたがわたしを見るとき、一人の友を、助力者を見るのであり、神を見るのではない。このことを知りなさい、我が兄弟たちよ、そして同輩としてわたしと共に働きなさい。恐怖心が、わたしたちの間にある絆を曇らせることのないように、友として、兄弟として共に大計画に仕えようではないか。
(『いのちの水を運ぶ者』第88信、p.253~254)
マイトレーヤの時間の大半は、恐怖心と罪悪感を人類から取り除くことに用いられるでしょう。彼はそれをただ単に操作して取り除くのではなく、彼の教えがその恐怖心と罪悪感を取り除くように導くでしょう。彼は道を示されました。皆さんはそれをすでに知っているのです。恐怖心と罪悪感を取り除く方法は、三つのテクニックを実践することだと、マイトレーヤは示唆されます。あなた自身に、心の正直さ、生気の誠実さ、そして無執着を染み込ませ、獲得し、構築しなさい。もし熱心に正しく行えば、これらは必然的に無執着を構築し、その中では恐怖心や罪悪感は消えてなくなるのです。
(『多様性の中の和合』p.68~69)
多くの者が恐れながらわたしを待つ、その混乱の原因も知らずに。我が友よ、恐怖のあるところに信頼は存在しない。それなのになぜ、恐怖にしがみつくのか。わたしの存在は、あなたがたの周りを見ても明らかである。この事実に目覚めなさい。世界に起こっている変化に、あなた自身の心に起こっている変化に、あなたの子供の目に輝く喜びの光に、目を見開きなさい。このようにしてわたしがあなたがたと共に居ることを知りなさい、我が友よ、そして世を救う手助けをしなさい。
(『いのちの水を運ぶ者』第134信、p.395~396)
〔この主題に関する詳しい情報をお求めの場合は、『マイトレーヤの使命 第Ⅱ巻』第10章をご覧ください〕
思考というのは、心(マインド)によってつくり出された観念に形を与える仕組みなのです。しかし私たちは心(マインド)ではありません。心(マインド)は単なる器にすぎません。何の器なのでしょうか。要は、それが何かを見つけることです。それは経験することによってのみ発見できるのです。それについて語れるようなものではありません。しかし経験することができます。それを経験するとき、自分が存在しないことを認めるとき、死ぬつもりになれるとき、あなたが自分だと思っているこの緊張を放棄するとき、それが落ち去って、ただ静かになるや否や、静止し、全く何もない状態になるや否や、突然、あなたは愛に満たされます。あなた自身の真なる存在の特質に満たされるのです。その存在(真我)があなたを照らし出すと、ただそれのみがすべてであることを悟ります。その他は何もありません。それと分離したあなたは存在しないのです。それは愛です。名前は何でもよいのです。愛、歓喜、至福、リアリティ(実体)の本質であります。私たちは皆「あれ(真我)」であります。永久に、一瞬一瞬、私たちがそこに留まる限り「あれ(THAT)」であります。しかしそこに留まることが必要です。
どうやってそこに留まるか。それではないところのものに対して死ぬことによって、そこに留まるのです。その他のすべてのことに対して死ぬ覚悟をしなさい。あなたが欲するもの、願うもの、望むもの、志向するものすべてに対して死ぬことです。放棄することです。それを行うとき、何か途方もないことが起こります。自分がすべてであることを、存在するものすべてであることを悟ります。周りを見回すと人や空、樹木、潅木、家屋を見ることができますが、別個の形態としてのあなたは消え去ります。それがあなたの本質です。「我はあれなり(I AM THAT)」です。ベートーヴェンの合唱交響曲のあの偉大な第3楽章は「あれ」についてなのです。彼はそれを明確に表現しています。「I AM THAT,? I AM THAT(我はあれなり)」。あの楽章は愛の特質について、宇宙の、ベートーヴェンの、あらゆる存在の、特質についてであります。
本来のあなたではないところのものに対して死ぬことができなければなりません。あきらめなさい。放棄しなさい。人生に全く何も求めないことです。何の成就も、何の願いも、何の快感も求めず、また苦痛や恐怖を回避しようとしないことです。そうすると心(マインド)は持ち上げられて、それらすべてがあなたであることを知ります。そしてそれがすべてなのです。あなたは分離した存在ではありません。それは幻覚です。あなたは自分が「あれ」と別個の存在だと思っている限り、恐れがあるでしょう。「あれ」以外の何もなく、それがすべてであります。それは一粒の砂の中にもあり、広大無辺のものです。形があって、形がないのです。そのレベルからは、ここで起こっているものはすべて無であり、夢であり、遊びです。それは神です。神が遊び、そして創造しておられるのです。
私たちはそれが実相だと思っています。しかし、それはほんの一瞬の間も実相ではありません。私たちがそれを実相にしてしまい、それで苦しむのです。私たちの苦悩は欲望の結果です。それほど単純なのです。もし苦悩や苦痛を放棄するには、一瞬にあらゆるタイプの恐怖を放棄するには、欲することをやめなければなりません。なぜなら恐怖や苦悩や苦痛などはすべて私たちの欲望の直接の結果ですから。
(ベンジャミン・クレーム
『マイトレーヤの使命 第Ⅱ巻』p.351~352)
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