現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2014年 7月号 ベンジャミン・クレーム著『いのちの法則』

ベンジャミン・クレーム著『いのちの法則』

相互作用と相互関係:

いのちの法則に関するマイトレーヤの教え

カルメン・フォントによる書評

『いのちの法則』にあるマイトレーヤの教えの説明は、パズルとして読むことができる。本書に含まれる情報はテーマごとの章に集録されているが、読者は各項目を入れ換えて結び付け、予期しない意味の組み合わせを見いだすことができる。しかしながら、各部分の順番が全体の特質を変えるわけではない。なぜなら、二つの大いなるいのちの法則、つまり再生誕の法則と原因と結果の法則が、大局的な見地からも細部に関しても明らかになっているからである。
ベンジャミン・クレームが「序文」で説明しているように、マイトレーヤは原因と結果の法則について理解しており、私たちが始動させた原因の結果を予知することができる。『いのちの法則』で公表された洞察は、マイトレーヤの側近によって二人のジャーナリストに伝えられた。こうした洞察は、ベンジャミン・クレームを通してマイトレーヤによって与えられたメッセージとは違った様式で伝えられた。情報の様式や書式は異なっているものの、本書で提示されたすべての教えはマイトレーヤに由来する。政治から遺伝子工学に至るまで、あるいは地震から誘惑に至るまで、扱われる範囲は膨大であり、いのちの内的な流れに関する理解の深化と拡大に寄与している。
こうした流れは人の意識の座で始まる。この理由のゆえに、第1章は「あなた自身でありなさい」と題されている。このパズルのまさしく最初の「ピース」は、「マイトレーヤとは誰か」という問いである。ベンジャミン・クレームの以前の著書ではマイトレーヤの性質がもっと長々と説明されたが、今回、その定義は短く、彼の教師としての特質に焦点が当てられている。そのような特質により、マイトレーヤは「わたしであるものを、あなたを通して表すことを願う。そのためにわたしはやってきた」。しかしそれから、大師と弟子との関係の本質について読者に考えさせる数行の興味深い文がある。「大師はあなたの裡にある。もしあなたが大師の教える人生の規律に従うならば、大師はあなたの裡に自らを顕すだろう。肉体人間の形に執着してはならない」(21頁)。裡なる大師を経験することによって、自己尊敬の念が生じる。それは自己認識の種であり、それによって他人をまねることなく、あるがままの自分であることができる。この「神聖な個人的特性」は重要である。「個人的特性が魂である」(32頁)からである。個人的特性は自分についての利己的な感覚を意味しない。それはむしろ、無執着を持って自分自身を本当に把握することを意味する。それはまた、無執着だけでなく心(マインド)の正直さと生気(スピリット)の誠実さも存在する過程(プロセス)を活発にしようとする意欲も意味する。

点と点とを結び付ける

『いのちの法則』は、一見したところ用語集のように見えるかもしれないが、そうではない。本書は新たな意味合いを付与しており、それによって読者は、いのちと呼ばれるパズルの「ピース」をたとえ知っていたとしても、点と点とを結び付けて、隙間を埋めることができるのである。例えば、無執着という概念は本書で最初に現れたわけではない。しかし読者は、マイトレーヤが次のように助言される際など、無執着についてより多くを知ることになり驚くかもしれない。「大師の肉体の形に執着してはいけない。そうでなければ、大師がそこにいなくなるとき、嘆き悲しむだろう。あなたは自分自身が裡なる真我であることを知るとき、そのような嘆きは消え去る」(57頁)
ここで、第1章の一つの項、例えば、「鏡をきれいにしておきなさい」という暗示的な題名の項を他のものと結び付けてみよう。マイトレーヤはこの項の中で、1989年6月に天安門広場でデモをしていた学生たちを撃つことを拒否した中国の兵士たちに彼が与えた認識の体験について述べている。マイトレーヤは弟子たちに、他の人があなたの中に自分自身を見ることができるように「きれいな鏡でありなさい」と教えた。そのような他者との共感的な関係が確立されると、私たちは無害と敬意を持って他者に接する。それでは、この概念を「条件づけとカルマ」(84頁)にどのように関連づけることができるだろうか。マイトレーヤが指摘しているように、「われわれは皆、この広大な創造の中の観察者である」ことを認識することによってである。確固たる無執着の心を持って観察する時のみ、その中に美、平衡、調和を見いだすからである。したがって、あなたが他の人の中に自分自身を見るきれいな鏡であることは、拡大解釈すれば、人が無執着の感覚を発達させることを学ぶ新しい形態の観察になぞらえることができる。
もし政治に関心があれば、無執着のきれいな鏡を中国の自然災害と結び付けることもできる。マイトレーヤは第4章で、私たちがエネルギーの相互作用に関する理解を深めるよう、原因と結果のパターンを認知するというテーマに焦点を当てている。天安門での学生の殺戮は、このフォース(創造の背後に横たわるエネルギーと同じである地震のエネルギー)を解き放った、と彼は説明している。このエネルギーが「もはや人事の中に顕現することができなくなると、その表現を自然界に見いだすだろう」(159~160頁)。火事、とてつもない降雨、土砂崩れの後、必然的な結果は地震である。この糸をたどって、マイトレーヤは「エネルギーの流れ」に関する新しい項を論じている。「創造の背後にあるエネルギーは絶対に所有されることはない」ことを彼は明らかにしている。誰もエネルギーの始めと終わりを知ることはできないからである(160頁)。この破壊は必ずしも肉体的破壊を意味せず、精神的平衡の喪失をも意味し得る。ここでのマイトレーヤの助言は再び、無執着を持ってエネルギーを尊重し管理することである。こうしたエネルギーの交換や相互作用は非個人的すぎて好みに合わないという気持ちが残るなら、この知恵を、国民なくして存在し得る国家はないという単純な事実と連結させることができる。個人が「第一番」にならなければならないが、マイトレーヤはパーソナリティーの個性化だけではなく、「真我である個人」(182頁)にも言及している。そうすると、予期しないが意味深いつながりがつくられる。マイトレーヤはこう説明している。「多くの個人は、自分が誰であるのか、なぜ存在するのかを認識するようになればなるほど、市場の力(フォース)を制御して、人類の福祉のために使うことができるようになるだろう」(182~183頁)。このようにして、市場フォースは国民や国家における優位性を失うだろう。

隠れた宝

『いのちの法則』がまるで、ページやスクリーンを前後にスライドさせることのできるタブレット端末であるかのように、この本を相互作用的な方法で読むとき、人はほとんど子供のような喜びを引き出すことができる。この遊び心のある読み方は啓蒙的であり、内容の深さを損なうものではない。逆に、無数の小さな項目の中に一致点や関連を見るとき、すべてのページがさらなる意味を放射するように思える。隠れた宝に出くわすことが何度もある。政治の本質に応用された場合の「進化の術」もそうである。猿をゼブラに変えることはできない、とマイトレーヤは語り始める。そうすることは聖なることではないからである。したがって、伝統と文化を一夜にして変えることはできない。この動物のたとえは、政治家と自由に言及するときに最もふさわしいように思える。すべてがそれ自体のリズムで進化し、「政治や社会や精神の指導者を自認する者たちは進化の術を学ばなければならない。もし自由を説くならば、それが何かを学ばなければならない」(129頁)。自由が多くの政治家にとってほとんどスローガンになってしまった時に、マイトレーヤにとって自由は相互依存だという部分を読むとき、新鮮な感じがするのである。彼は、今ではニュースデスクでよく言われている例にふれている。「市場フォースは自由と救済をもたらさない。東欧が西洋世界を、あるいは一般的に東洋が西洋を模倣することは無益である」(180頁)。これは政治の術の一部である、とマイトレーヤは説明している。彼はそれを「多様性を尊重しながらの和解の術」(227頁)と定義している。
個人が執着から生じる肉体的、情緒的、メンタル的な損害から身を守ることを学ばなければならないのと同様に、政治家と市民は自国の神聖さを認知し守ることを学ばなければならない。マイトレーヤは第5章で、歴史的な重要性を持つ貴重な情報を提供している。なぜなら歴史は、展開する出来事と、物質界への原因の降下から構成されるからである。過去のパターンから学ぶべきことが多くある。その一つは、神聖なものである個人と国家の防御に関係している。マイトレーヤは、「防御は攻撃ではない」と題された項を含め、軍隊は国家の神聖さを守るよう告げられるだろうと述べている。「これは聖なる義務であり、政治の、ではなく、主の意志であります、と〔告げられるだろう〕。これは戦争挑発行為とは全く異なる」(251頁)
この惑星に入ってくる新しいエネルギーは、草の根の政治指導者と普通の市民に、緊迫したイデオロギー政治から、政治を調和的な多様性の中で共生する術として理解する関連形態へと移行するよう強いている。これはエネルギーと科学に関連し得るのだろうか。第7章「光の科学」に集録された項目の多くは啓発的な答えを提供している。科学者たちはマイトレーヤによって霊感を与えられて、「地球上の生命を調整」(368頁)できるように光のテクノロジーを開発した、とマイトレーヤは私たちに知らせている。物質を世界の一地域から別の地域へと移動させることができるように、彼らは物体を物質化することを教えられている。このテクノロジーは色と音と振動を利用し、社会を物質的意味でより豊かにし、幸せにもするだろう。工業生産の最も大変な過程の一部が取って代わられるからである。
しかし、次のような関連も興味深い。「科学者たちが光線を開発することを学ぶにつれて、肉体の頭脳だけではなく、マインド(識心)自体の内部にも入り込むことができるようになるだろう」(367頁)。もし今、現在の神経学と心理学が脳の過程における変化──実際の思考過程だけでなく肉体脳の損傷の治癒──に影響を及ぼすことができるならば、そう遠くない将来に、「その人(パーソナリティー)を閉じ込めているマインド(識心)を条件づけている要素を解消する」(367頁)ために、私たちは光のテクノロジー、つまり「光の光線」を利用することができるようになるだろう。このようにして、現在、絶望や様々な中毒に陥っている多くの人々は「人生をもっと楽しみ、多くの病気が瞬時に癒されるだろう」。その結果、社会的な暴力の多くの形態が後退することにもなるだろう。
『いのちの法則』にあるマイトレーヤの教えは、いのちの豊かさを十二分に示している。本書はまた、私たちが意のままに置くことのできるパズルの多くのピースも示している。本書が私たちに要求していることは、賢明に選んですべてのピースを正しいところに置くことができるように、観察と知覚の力を鋭くしなさいということである。そうすれば、いのちの広大さと形状が本当に目に見えるようになるだろう。
マイトレーヤの世界への贈り物の一つは、国家が彼らの意志を自由に表現することができ、「世界中で国民の声が国家の憲法として尊ばれる」(379頁)ようになることである。その贈り物は、大宣言の日が間近に迫った現在でさえも展開しつつある。『いのちの法則』は、大宣言の日を扱った他の本ではおそらく気づかれなかった、この日に関する特定の詳細を提供している。マイトレーヤはそれを「歓びの日」(381頁)と描写し、本書の最後の文でこう付け加えている。「誰をも騒がせることなしに、わたしが出現の瞬間を選ぶだろう」