2010年伝導瞑想研修会基調講話
グループ・イニシエーションへ向けて(続編)
ベンジャミン・クレーム
(以下の記事は2010年8月にサンフランシスコ郊外で行われた伝導瞑想・研修会においてベンジャミン・クレームが話した講話を編集したものである)
グループ(集団)イニシエーションの達成は、私たちが検討し得る課題の中の最も重要な課題です。グループ・イニシエーションは、遠い過去にさかのぼるハイアラキーの歴史の中で、これまで程遠い可能性でした。過去において、多くの覚者方が世界の様々なグループを通して、それを成し遂げようと試みましたが成功しませんでした。
グループ・イニシエーションはおそらく皆さんが考えることとは違うでしょう。それは多かれ少なかれ同じようなレベルの進歩を遂げた様々な個人の大きなグループのイニシエーションであり、世界にあるグループを構成している多くの人々の意識的な認識を改造することによって達成されます。
覚者方は、神智学協会のような世界的規模のグループをもってしても、グループ・イニシエーションを達成することは不可能でした。覚者方は世界に神智学を紹介したとき、多くのことが達成されることを望まれたと思います。神智学は世界中に広まり、多くのことが達成されましたが、グループ・イニシエーションを達成することは、いやその初歩的な段階に行くことすらできませんでした。非常に多くの人々は興味を持ち、多くの人々は深く影響を受け、彼ら自身の位置を達成しましたが、グループ・イニシエーションは無理でした。
アグニヨガの教えをもたらしたエレナ・レーリッヒを通して、それは再び試みられたのですが、再び失敗しました。第二次世界大戦に突入しようとしていた世界の弟子たちを十分に目覚めさせることはできませんでした。アグニヨガの教えは1924年から1939年の間に提供され、望むべくは地球上で戦われる最後の大戦であったあの戦争の体験のために人類を準備することに関連していました。
いろいろな覚者方によって多くの実験がなされましたが、世界中のグループを磁力的な呼びかけによって結束させることのできるような、すべてを包含するテーマが欠けていたために、それらはいつも失敗しました。グループを集合し結束させてグループ・イニシエーションを可能にするような、大きく強力なテーマがこれまでにありませんでした。それはもちろんハイアラキーのせいではありません。人類のせいでもありませんが、しかし人類が先に進むのを抑制するものは何であろうと、確かに全体としての人類の落ち度です。私たちのカルマです。
今日、人類の中に新しい光が瞬いています。そして、来るべき時代にグループ・イニシエーションが事実となる可能性があるかもしれないという新しい希望が覚者方の心(マインド)に持ち上がりました。確実ではありませんが、かつてなかったほど見込みがあるように見えます。
あなた方はときどき、世界の平均的な世論の重みに対抗して、自分たちがやっていることは取るに足らないように感じるのではないかと思います。私たちが関わっているこの仕事は、世界の何十億のそれでなくとも忙しい人々の惰性を克服するにはあまりにも弱々しく、小さいように思えます。しかし、ハイアラキーのすべての行動がそうであるように、グループ・イニシエーション達成の可能性は世界とハイアラキーに、小さいけれどもある確実な影響を与えました。もし人々が、私の口癖である「注目を高く保って」おくならば、グループ・イニシエーションは達成され得る方向に進んでいます。もちろん注目を高く保つことも意味しますが、しかしそれ以上のことが必要です。世界中に伝導瞑想を広め、そして実践することと、現在進行中のキリストの再臨について知らせるという二つの方向への活動と行動によって生じる霊的緊張を保持することを意味するのです。
ますます多くの人々は私たちが話してきたことは、非常に実際的な観点から、彼らが関心をいだいていることについてであることを、すなわち世界全般、今日人々に非常に難しい選択を迫る世界についてであることを、理解し始めています。そして彼らは何をすればよいかを知りません。
私たちの人生の仕事は確かに容易ではありませんが、それは限定されています。人類の一部として、私たちは生計を立てなければなりません。この‘いわゆる’不況と呼ばれる状況を通して、行路を見つけなければなりません。荒野の体験の苦痛に耐えなければなりません。そして、人類のすべてと同様に、それをくぐり抜けなければなりません。それによって動揺させられたり、打ち負かされることなしに、頭を持ち上げて、注目をさらに高く上げて、くぐり抜けなければなりません。なぜなら、私たちは、おそらく今まで認識してきたことよりもさらに偉大なることに関わっているからです。
グループ・イニシエーションの創造は二つのことの結果です――内界のアシュラムにおいて達成された霊的緊張に匹敵する状態を外界(物質界)において達成すること、そしてキリストと覚者方の一団の物理的な(肉体での)出現です。私たちは、キリスト・マイトレーヤが世界に出て来られるということを簡単なことのように考えます――つまりマイトレーヤが世界に出現することであり、覚者方が、究極的に覚者方の大勢のグループが、マイトレーヤと共にやって来ることであり、それをハイアラキーの外的顕現と呼んでいます。しかし、それは真に何を意味するのか。
それはマイトレーヤと全体としてのハイアラキーの内界での仕事が、98,000年ぶりに初めて外界の物質界に出るということだけではありません。それは、一定の進化段階にある弟子たちとして内的に働いているグループが、内界のアシュラムで保持されていると同等の霊的緊張を外界にて保持する能力でもあります。ハイアラキーの外的顕現は、単に覚者方が世界に出て来られることだけではありません。それは外的なグループと彼らの内界のアシュラムとの間に途切れることのないリンク(繋がり)を創造することです。それは最初は非常に難しく思えますが、必要な行動によって達成されるのです。それは非常に難しいので、これまでに達成されたことはありません。それは容易に自動的に起こることではなく、特定の変容させる働きの結果です。
伝導瞑想とキリスト・マイトレーヤの出現の仕事に関わるグループは、これまで成功したことのなかったその過程に従事しているのです。しかし、キリストの再臨というアイディア(概念)が非常に強力であり、非常に磁力的なので、世界中に散らばっている様々な、しかし弟子道でつながり合った状態にある弟子達のグループにとって、グループ・イニシエーションの達成が可能となるのです。
グループ・イニシエーションは、イニシエートの一団が同じレベルのイニシエーションを受けることではありません。異なったレベルにいる弟子達のグループがすべて、大体同じような時期にイニシエーションを受けるということであり、すべてがそれを可能にする霊的緊張で満ちているのです。内界のアシュラムで保持されている霊的緊張に匹敵する霊的緊張を外界で築くことで、ハイアラキーの仕事を外的世界で現わすことが可能になるのです。
伝導瞑想
このことすべてに対する鍵は伝導瞑想です。この仕事に従事するグループを一緒につなぐのは伝導瞑想です。現在の状況はどうか。残念ながら、世界のグループの多くは、内界のアシュラムに正しくリンクするために必要な霊的緊張を構築することにいまだ成功していません。それに対する答えは一つ――もっと仕事をし、もっと伝導瞑想をし、伝導瞑想に対する態度を変えて、それをすべてのグループとの間、そしてグループとハイアラキーとの間をつなぐ要素として見ることです。伝導瞑想はハイアラキーの事業です。長い間求められてきたグループ・イニシエーションを成し遂げるために、覚者方によって世界に与えられたのです。
価値あることを達成するために、私たちは何かを失わなければなりません。達成されたものは、それより以下のものの犠牲の上にあります。私たちは自分たちの生活の一定の側面を破壊しなければならず、これは至るところにいるすべてのグループについて本当です。伝導瞑想グループが機能しているところでは、どこであろうが当てはまります。
伝導瞑想の核心は、それがハイアラキーの仕事であるということです。安易に受け取られるべきではありません。それは私たちがやる気がするときにだけ、やるというようなものではありません。それは私たちができる最も重要な最高のことであるからやるのです。ハイアラキーと繋がり、ハイアラキーと共に働くということは、内界のアシュラムの外界における反映をつくることの一部です。
あなた方はすべてアシュラムの一部です。そうでなければ、あなた方はこの仕事をしていないでしょう。しかし、ほとんどの人はこのような意味で考えないだろうと思います。あなた方が伝導瞑想をするとき、それを単なるキリストの再臨のための準備の仕事における有用な副次的仕事として以上には考えないのだろうと思います。両方が重要です。しかしキリストの再臨は、マイトレーヤに関する限りすでに達成されており、覚者方の小グループは現在、世界にすでにおります。しかし、あらゆる意味におけるキリストの再臨というのは人類の進化に関わっている覚者方の3分の2、約40名という覚者方の大きな集団と、さらにマイトレーヤとに関することなのでます。それはとてつもない出来事なのです。
覚者方がより公に働かれるときには、彼らは人類の上位に、外に立つことを欲しないでしょう。彼らは人類の中で、人類の一部として働くことを欲します。しかし彼らは、彼らと共に働くことのできる人々と共にしか働くことができません。はじめは、覚者方と共に働くための最も容易な方法は伝導瞑想です。この目的のために覚者方は伝導瞑想を世界に与えられたのです。覚者方が現在比較的豊富にある霊的エネルギーを分配するために大切な方法です。伝導瞑想はこれらの霊的なエネルギーを分配するための最高の手段を提供します。
キリストの再臨は、実際、覚者方の内界のアシュラムの大きな部分が世界に出てくることであり、ハイアラキーの仕事の外的顕現です。その達成の一部は、すでに内界で達成されていることを外界において同じように顕現することでなければなりません。そうでなければ、ハイアラキーの仕事は外界に顕されません。
覚者方は内界で働くと同じように外界で働くことができなければなりません。私たちはハイアラキーのより大きな部分の一部として、同じようにしなければなりません。覚者方はハイアラキーの上級のメンバーです。世界中にいるグループによって霊的緊張が達成され、保持されるまで、グループ・イニシエーションは不可能です。これは容易に達成されることではありません。それが大切であるということが認識されなければならず、実践され、そして実際に達成されなければなりません。
ほとんどの皆さんは、ジュアル・クール覚者が書いておられるある偉大な「規定十一」をご存じでしょう。〔アリスベイリー著『光線とイニシエーション』に記載されている「グループ・イニシエーションのための14の規定」〕、 この偉大なる規定について、そしてその四つの条件について、私は1988年に詳しく説明しました。皆さんはすでに知っているのですから、それを全部再び繰り返すために今そのテーマを繰り返しているのではありません。
思い出していただくために、『マイトレーヤの使命』第二巻第十九章を読み直していただきたいのです。「グループ・イニシエーションへ向けて」と題されています。その意味を本当に深く理解するまで、何度も何度も読み返してください。その意味は、明快であると同時に曖昧でもあります。あるレベルにおいてはあまり難しくないように見えます。他のレベルにおいてはあまりにも漠然としているので、何度もそれについて考えなければなりません。その底にある真理に気づくためには何度も何度も読み返さなければなりません。
規定十一の四つの点、大いなる必要条件を読みましょう。グループ・イニシエーションの達成のためには、これらの四つの条件の達成が絶対に必要です。
(1)「非感傷的なグループ関係の確立」。簡単なように思えます。あなたのグループとの関係において感傷的であってはならない。これは感情のことについてであり、感傷的なことではありません。『マイトレーヤの使命』第二巻の第十九章を読むならば、これはそんな簡単なことではないことが分かるでしょう。難しいです。必要条件はすべて難しいので、グループ・イニシエーションは達成されたことがなかったのです。キリストの再臨のための準備と伝導瞑想の仕事のように、十分なインスピレーション(鼓舞)と十分に磁力的なアピールを持った仕事を、世界的な規模でグループが行ったことはないからです。
伝導瞑想はあなた方を前進させ、進化を速めるのに効果的な奉仕だと、誰もが思ってきました。私は伝導瞑想について話をするとき、そのように提示してきました。伝導瞑想とは何か、どのようにしてグループに加わり、伝導瞑想を行うかについて人々に話をするときに、規定十一について話すことはできません。もし、「それをする前に、規定十一の四つの点を習得しなければならない」などと言ったならば、誰も伝導瞑想を始めないでしょう。「ああそうですか、それでは結構です」と言って、通常よりも、もっと大勢の人々が帰ってしまうでしょう。
(2) 第二の必要条件は「破壊のフォース(エネルギー)を建設的に使うことを学ぶ」ということです。これらの必要条件を聞いたことのない人々、いつかこれらに直面しなければならないことなど考えたことのない人々にとって、破壊のフォースを建設的に使うことを学ぶということは、まさに大変なことのように思えるに違いありません。破壊のフォース(エネルギー)とは一体何か。誰かアイディアはありますか。「意志?」「貪欲?」「物質主義?」
破壊のフォース(エネルギー)とは、霊的意識のアトミック(アートマン)レベルのフォース(エネルギー)です。霊的な界には三つのレベルがあります――マナス、ブッディ、アートマンです。マナスの界は知性の要素を網羅します。ブッディの界は愛・智恵の面です。アートマンの界は意志または目的、または破壊の面です。必要な霊的緊張が世界中のグループの中に達成されるとき、これらの三つの様相が顕現するのです。
霊的緊張があるレベルにあるとき、マナスの面が到達され、顕されます。次に、ブッディのレベルが達成されるとき、意識は愛の面によって高められます。 これらの二つの様相が達成されるとき、アートマンのレベルが喚起されます。そして、内界から外界に放たれる霊的流れの障害となるものすべてがこれらの破壊のエネルギーを使って破壊されます。破壊神であるシヴァ神は、より高位のものの障害になるものを破壊します。
秘教的な意味において、人生におけるすべての進歩、進化の道に沿うあらゆる達成は、より高位の面をもたらすために、より低位の面を放棄することによってなされます。いつもそのようになされます。より低位のものは放棄され、破壊されて、より高位の面の顕現を阻むことがないように排除されなければなりません。ブッディ、愛と智恵の面は全体の特質に足されるものですが、最高位の面であるアートマンはマナスとブッディとアートマン自体の基本的一体性の完全な顕現を遮るものを破壊します。
アートマン全体の背後にあるものであり、その破壊の力によって、特定のレベルにおいて、次の、より高位の段階の、より完全な表現を邪魔するものすべてを破壊するのです。それを人生全体を通じて行うのです。もちろん、巨大な国際的なグループを構成する人々の人生全体を通してです。このようにして、世界のグループ(複数)はエネルギー的により高位に、さらに高位にと、高められるのです。
すべての弟子たちがこの過程を通るのであり、第一段階のイニシエーションから第四段階まで、それぞれの段階で起こります。このすべてが第四段階のイニシエーションに関連しています、なぜならそれは放棄に関わることであり、磔です。より低位のものが、復活された覚者の霊的いのちのために、いわば扉を開いておくために、はりつけに(犠牲に)されるのです。その道の各々の段階でこの過程全体が、やがてその人間(男女)が解放されるまで、何度も何度も再演されます。そうして、もはや何ものも彼らを妨げるものはなくなります、なぜなら彼らは成し遂げて、覚者になるからです。
グループ・イニシエーションの過程と第四段階のイニシエーションには非常に近い関係があります。第四段階のイニシエーションにおいて、魂、すなわち神性の閃光と物質界のパーソナリティー(肉体人間)の間の霊的リンクである魂はモナッド、つまりいのちの原理に再び吸収されます。これが第五段階のイニシエーションにつながり、その人間は復活した覚者となります。
(3) グループ・イニシエーションの次の必要条件は『ミニ(小型版)ハイアラキーとして働くためのパワーの達成と、グループとして多様性の中の和合を具現すること』です。後者の部分は想像し易いかもしれません――多様性の中に和合を具現する。すべてのグループが和合を達成することに向けて努力しなければなりません。しかし、和合とは団結した多様性です。このいのちの事実は世界中のすべての国家において具現されています。それは本質的にひとつのグループ、つまり人類を構成し、異なった光線構造を持つこれらの国々に住むすべての人々です。七種の光線が国家のレベルにおいて、そして人間のレベルにおいて、世界に最大の多様性をつくります。すべての国家に光線構造があります。そしてすべての国家が異なった目的と特質を持ち、多様性を生み出します。目標は和合をつくりだすことです。それが多様性を統合し、豊かな意味深いものにします。
この必要条件のもう一つの部分、ミニ(小型版)ハイアラキーとして働くためのパワーは可能なように思えないかもしれません。現代社会では、多くの人々が‘ハイアラキー’(位階または階層の意)という言葉を好まないようです。非民主的なように思い、民主主義とハイアラキーとの間に同一性を見いだすことが難しいようです。この二つは非常に異なるように思えるのです。‘ハイアラキー’というのは、誰かが他よりもよく知っており、独裁的、権威主義的であり、生き方を告げるというような概念であり、他方、‘民主主義’というのは本当であろうがなかろうが、私たちは何でも知っているという考え方です。
私には、何でも知っている孫息子がいます。彼は何でも知っていると自分で言います。「すべてのことについてのすべてを知っているのかい」と私が聞くと、「うん、すべてについてのことすべてだよ」と答えます。彼はまだ3歳です。ある意味で、彼は彼の小さな世界についてすべてを知っています――車のモデルやヘリコプターや飛行機、そしておもちゃの車の車輪を外して、何か別のもののように見せかけるというようなこと。非常に単純であり、魅惑的な人生観ですが、もちろん間違っています。
人々は一般的に、ほとんど何も知らないくせに、彼らが欲しいものは何かを告げて、欲しいものを取得することを、民主主義の一員としての自分たちの権利と呼んで主張します。彼らはハイアラキーよりもよく’‘知っている’と思います。
私がハイアラキーというときには、梯子の段にように、何かが、何かの上に立つということを意味するのではありません。私が意味するのは霊的ハイアラキー、魂の王国のことです。この部屋に、この惑星の霊的ハイアラキーを構成する覚者方よりも、自分の方がよく知っていると本当に思う人はいますか。覚者方は人間の心理について、ハイアラキーがたどるとてつもない過程すべての内的意味と目的について熟知しており、惑星や太陽系のシステムを管理することができるのです。あなたにそれができますか、3歳児君よ? もちろんできませんよね。
ミニ・ハイアラキーとして働くということは、グループが異なったレベルの人々で構成されていることを認識することを意味します。私が、この種のグループにいる人々は多かれ少なかれ同じレベルにある、と言ってきたことは知っています。ということは、誰も覚者ではないという意味です。それを別にして、グループのメンバーには少しの差があります。ある人々は第一段階の瀬戸際にいます。大多数は第一と第二段階のイニシエーションの間にいます。第二段階のイニシエーションを受けた人々もいるかもしれませんが、現時点において世界中で伝導瞑想を行っている人々の中に、第二段階の人に私はまだ出会ったことはありません。私が見たことのないグループが存在しますから、その中に二段階のイニシエートがいるかもしれませんが、疑問に思います。究極的に、グループにはすべてのレベルの人々が、すなわちハイアラキーのエネルギーをそれぞれのレベルでサポートすることのできる人々が必要です。
人々は、特に民主国家に住んでいると公言する人々は、真の民主主義とハイアラキーの一つの要素の間には矛盾がないということを認識することが大切です。覚者方がもっと公に世界で働かれるとき、なぜそうなのかが分かるでしょう。覚者方は非常に賢明ですが、とてもシンプル(簡素)です。彼らはすべてを知ります。そうは言われないかもしれませんが、すべてをご存じなのです。彼らはまた人類の問題もご存じです。彼らは恵み深い方々であり、人類と共に、辛抱強く、そして人類の自由意志を侵すことなしに密接に働くことを求めます。彼らは人類と協調して働き、そして私たちがいまだ気づいていないことについての彼らのとてつもない知識と認識を提供することを願っています。
人類はもっと寛容で、謙虚にならなければなりません。マイトレーヤの出現のために働いているマイトレーヤの民と自称する奉仕者のグループは、もし彼らが規定十一を実践しようとするならば、ミニ・ハイアラキーとして働く力を達成しなければなりません。すべてのグループは潜在的にミニ・ハイアラキーです。そして一つのグループとして多様性の中に和合を具現することができるのです。彼らの仕事はそのリアリティー(現実)を表現することであり、それには時間と努力が必要です。
最大の障害はグループの同僚を好んだり嫌ったりする習慣であり、非感傷的なグループ関係を達成することができないことです。グループの中で、自分が好きな人々、自分と似ている人々と働くほうが、全く異なった光線構造や特質を持つ人々と働くよりもずっと容易です。グループの素晴らしさは、それがすべての、ほとんどすべての光線構造を持ち込んでいることであり、同時にそれが問題でもあります。それは例外なしに、すべてのグループにとって問題です。
自動的に惹かれる人々、一緒に働きたい人々がおり、そして完全に異なる見解を持つ人々がいます。グループにいるすべての人がそれぞれ一緒に働きたいと思う人を見つけると、仕事がスムースに良くはかどります。また一緒に働くのがとても難しい人々がいます。それがほとんどのグループの現実です。
このような好き嫌いを抹消しなければなりません。多様性の中の和合を具現する能力は、規定十一の中で非常に大切です。ただ単に誰それさんに我慢するのではないのです。「ああ、彼らはどんなふうか分かるよね、いつも同じなんだから。彼らはいつの会議でも、のさばって、人の言うことを聞かないんだからね。彼らは自分たちのアイディアが受け入れられることだけを欲するんだ」などと考えながらでは、いけないのです。
多様性の寛容は、和合を創造するに当たっての基本です。そしてそのような内的な(オカルト)グループの中では、和合自体が欠くことのできない要素です。私はオカルト(内的・秘教)グループについて話しています。会社などのような、他の種のグループのことでありません。大きな会社では、人とうまくいく人々は仲良くし、そうでない人々は除かれます。簡単です。しかし、オカルト(内的・秘教)グループにいる人々を排除することはできません。あなたは彼らを(あなたが好きではない人々を)包含するまでに和合の概念を広げなければなりません。そして彼らもそうしなければなりません。
(4) グループ・イニシエーションを達成するための第四の、最後の必要条件は『オカルトの沈黙の力を培う』ことです。この基本的な法について一般的な誤解があります。沈黙を意味するかもしれませんが、全く沈黙を意味しないかもしれません。つまり、何を考えるか、そしてどう考えるか、いつ話すべきか、いつ話すべきではないかを知ることによって、正しい思考の力を培うことです。私が今やっているように、適切なときに話すということは、オカルトの沈黙の力を創造することの一部です。
そうではない例をやってみましょう。私は皆さんにクリケットの競技の仕方を教えたいです。残念ながら、ただそれについて話をするだけではだめなので、実際にやって見せなければなりません。でも私は大勢の中の一人であり、あなた方はクリケットについて何も知らないのですから、それは難しいです。でもそれについて話すことはできるし、その素晴らしさを示すことはできます……。
このように、私の思考の流れを中断させてしまうことは、オカルトの沈黙ではないという一例です。もし私が思考を脇道に逸らせていなかったならば、何か深遠でオカルト的(秘教的・内的)なことを言うことができたかもしれません。そしてあなた方はさらに驚き、困惑したことでしょう!
つまり、オカルトの沈黙は実際には全く沈黙とは関係ないのです、沈黙することを含むかもしれませんが。モーツァルトのオペラ「魔笛」は、イニシエーションのためのオカルトの沈黙の必要性についてです。ほんの少し、オカルトの沈黙を破って、「魔笛」で起こっていることを描写しましょう。ある真剣な男、弟子であり新進のイニシエートであるタミノがいます。彼はパミナという愛らしい女性と婚約しています。それから、平凡で、呑気で陽気な男、パパゲーノがおります。彼は小鳥を集めて売って生計を立てており、お酒を飲んだり、自分がしたいことをするための収入があります。彼は、妻以外、必要なものはすべて持っています。彼はお嫁さんを見つけることができません。イニシエートであるタミノは沈黙を守ることを誓わされており、オペラの大部分の間、沈黙を保たなければなりません。タミノとパパゲーノの両方とも何度も何度も試されますが、パパゲーノはいつも失敗します。彼らは一定の状況のときに沈黙を保つように言われます。食べ物とワインを与えられますが、話をしてはなりません。もちろん、パパゲーノはすぐさま言います、「これはすごい」。沈黙を守るように戒められますが、彼はどうしても守れません。
やがて、タミノはオカルトの沈黙の達成を通して、ある時点に到達します。パミナは、彼女がタミノに話しかけても、彼は決して答えてくれないので、彼女を愛していないのだと思います。しかし究極的には、彼らは再び一緒になります。大きなアシュラムがあって、彼らはこのオカルトの場所に行って、イニシエーションの火を通り抜けて、反対側に出てきます。「魔笛」はイニシエーションについてです。モーツァルトは第三段階のイニシエートであり、イニシエーションについて知っていました。そしてそれを単純な方法でオペラの中に入れたのです。「魔笛」は卓越した音楽とすごいストーリーの素晴らしいオペラです。
オカルトの沈黙の力(パワー)を培うということは実際、一定の線に沿った正しい思考によって持ち上がる力(パワー)を培うことであり、私がいまクリケットや「魔笛」の話をして、思考を途中で中断させて、その思考を弱めてしまわないようにすることです。正しく考えることによって霊的緊張を培うことを学ぶならば、適切なときに話し、話してはいけないときには話しません。例えば、あなたが言わねばならないことが、グループの中で必要とされており、それまでに知られていることをさらに拡大するときには、話をします。そしてあなたが言わなければならないことが不適切だったり、うそだったり、あるいはグループの討議に加わっている人々の理解を超えるものであると分かっているときには、話をしないのです。
人々はグループのディスカッションに参加するときに、実際、このような意味では考えないのです。人々はこんなふうに考えるのです――「そのアイディアは好まない。こうこうすべきだと思う」「いいや、それは以前にやったことがある、決してうまくいかない」等々。人々はマインドを使って、思考を系統立てて、それを話すことが適切かどうかを考慮することをしません。ただ単に、その思考が頭に浮かんだから、出し抜けに言うのです。通常、それはみぞおちのチャクラから出てきます。そうすることによって、彼らは乱れを、つまり彼ら自身の意識とグループの意識の中に途切れをつくるのです。
オカルトの沈黙の力(パワー)を培うということは、ただ単に黙っていることではありません。たくさん語ることを意味することもあります。もし覚者が話をするとするならば、彼は言うべきところのこと、それをいつ言うか、どれだけ言うか、理解されるためにはどれだけ授けることができるか、そしてその時点では理解されないだろうから、決して言うべきではないことなどを、すべてご存じです。それは非常にオープンで、柔軟なアプローチですが、しかしその沈黙のパワー、あるいはスピーチ(もしスピーチだとすれば)のアイディアのパワーが維持されるようなやり方でなされなければなりません。
霊的無関心――霊的緊張
それはすべて霊的緊張の創造にかかっています。正しい思考と一定のゆったりとした霊的無関心によって霊的緊張を達成します。マイトレーヤが心(マインド)の正直さ、生気(スピリット)における誠実さ、無執着と言われることと同じです。霊的無関心は無執着の結果です。もし私が「霊的無関心を養いなさい」と言うと、「無関心ですか? ということは、無関心を感じなければならず、それは冷淡なようだ」と思うかもしれません。冷淡さとは何の関係もありません。関わらないでいるということではありません。一体性を感じないということではありません。結果について、他の人々が行っていることについて、他の人々が思うことについて、そしてあなたが考えることについて、無執着であるということです。霊的に無執着であるということです。霊的無関心は霊的無執着と同じことです。
霊的無関心を達成する最良の方法は、マイトレーヤの三重の方法、心(マインド)の正直、生気(スピリット)における誠実、無執着を実践することです。無執着は心(マインド)に正直になればなるほど培われます。心(マインド)に正直で、無執着になればなるほど、よりいっそう生気(スピリット)において誠実になります。生気(スピリット)において誠実になればなるほど、より無執着になり、正直になります。この三つはそれぞれの特質を強化します。そうするとあなたが言うことは、努力なしに自然に出てくるようになります。あなたが言う必要があると認識することに沿ってあなたの心(マインドとハート)に自然に起こるのです。あなたはそれを言い、その結果には無執着です。それが言われる必要があるから言うのであり、それから何かを得ようとするからではありません。
例えば、人々は私が行うことに対して、いつも私にお礼を言います。親切は分かりますが、私は自分のやっていることに対して感謝を欲しません。私はそれをするように頼まれたから、私がそれに関わっているからやっているのです。それは大計画に奉仕することです。しかし人々はそれに対して私に感謝します。それはいつも私を難しい立場におきます。「いいや、あなたの感謝はいりません、結構ですよ」などと言って、相手の気を害したくありません。無礼で傲慢に思われるでしょう。
霊的無執着は感謝を必要としません。もしあなたがこの仕事に関わっているならば、誰かに肩を叩かれて、「よくできたよ」と言われることを期待すべきではありません。なぜなら、あなたはそれを魂から行っているのですから。あなたがやっているのは魂の仕事なのです。
そうでなければ、あなたはそれを競争の中でやっているのです。もし競争しているならば、あなたは称賛を求めます。誰かに、「よくやった、よくやったよ、ありがとう」と言って肩を叩かれたいのです。競争していないときには、あなたはそれが魂の仕事だからやっているのです。あなたはそれをうまくできないかもしれないが、最善を尽くしてやる。それだけです。それに対して感謝をするということは当てはまりません、なぜならあなたは感謝されるために、あるいは何かを証明するためにやるのではないのですから。それがなされなければならないから、そこにあるから、それをやるのです。それは山のようなものです。そこに登るべき山があるから登るのです。そのような無執着がこの仕事のために、そしてグループ・イニシエーションを達成するために、絶対に必要です。
グループ・イニシエーションを達成するのはいかに難しいかが分かるでしょう。誰からも何も求めず、他の人から褒められることも、名声や感謝や称賛も必要としない、そのような綱渡りをするような能力について理解する必要があります。すべての人がそのような思いなしで仕事をしなければなりません。
弟子は自分を、非個人的に、個人的な好きも嫌いもなしに、グループの一部であると考えなければなりません。すべてを含んだ全体としてのグループはひとつのグループであり、あなたはその一部分です。アクエリアス(宝瓶宮)のエネルギーを利用するためには、そのように考えなければなりません、なぜなら、これらのエネルギーは個人ではなくグループを通してのみ働くのですから。今日すべての人が個人性で満ちています。それはパイシス(双魚宮)の体験の大きな業績です。しかし、それが私たちをこんな状態にしたのです。世界のことを、さまざまな戦争を、飢餓やそれらのすべてのことを考えてご覧なさい。今日私たちの個人性がもたらしたものです。なぜなら、私たちはそれを誤用したからです。その代わりに、ひとつのグループ、多様性の中の和合という意味で考えてごらんなさい。これが大切なことです――全体として、多様性の中に和合を具現するためのひとつのグループです。そうすることであなたの個人性はグループの奉仕の下に置かれるのです。
無害
グループ・イニシエーションの課題に関して、グループ関係を含むあらゆる状況において、無害であることの必要についても深く考える必要があります。もしこれが正しく、完全に達成されるならば、地球惑星の霊的ハイアラキーの上級のメンバーの一人になるための最も早い方法です。すべてを無害性という観点から見るということは、自動的に規定十一の四つの条件に沿うことです。そしてもし私たちがあらゆる面において、思考において、言葉や行動において、一瞬一瞬、完全に、完璧に無害であったならば、覚者でしょう。覚者にお会いするとき、彼らがいかにシンプル(簡素)であり、いかに無害であり、いかに魅力的であるかが分かるでしょう。
唯一の生き方は法の内で生きることです(これは宇宙の兄弟たちによって模範が示されています)。 大いなる原因と結果の法則、カルマの法則は、存在するものの中で、もっとも単純で、もっとも反作用的な法則です。私たちがやることは何であろうとも――あらゆる思考、あらゆる行動――が原因をつくります。それらの原因から発する結果が私たちの人生をつくります。私たちの手中にあるのです。ですから、無害性の必要は明らかではないでしょうか。
誰もが、良いカルマと悪いカルマを持ち合わせています。私たちが行うことの単なる結果です。もし私たちが自分の思考と行動のコントロールを成し遂げれば、その法をコントロールし、完全に無害になります。この法則が私たちを通して働いており、いつも私たちと共にあります。「さて、しばらくは、私は無害ではないだろう。現時点の私は、そんなに進化していないのだし、害があるに違いない。あまり自分に要求してはいけない。私は害を及ぼすだろう」と言って、そのことを傍らに避けています。私たちは皆これをしていますね。私たちは(完全ではないが)できるだけ善い人間であるが、しかし害ある存在だということを知っているから、害を及ぼしている。法則を知っているにもかかわらず、私たちはどうしようもないのです。自己規制力を持ちません。自己規制とは大体においてアストラル・感情体をコントロールすることです。もし私たちが感情・アストラル体を完全にコントロールするならば、害を及ぼすことも、より少ないでしょう。しかし残念ながら、人類の95%はアストラル界に意識の偏極があります。ですからアストラル的ダメージが起こされるのは必然です。すべてがアストラル界から生じます。
人類の苦痛や苦悩のすべては、アストラル・感情体とメンタル体の誤用によって自分で自分に強いるのです。もし私たちが肉体、アストラル体、メンタル体のコントロールを持つならば、無害になるでしょう。しかし、そうではありません。私たちは皆条件づけられています。無害ではなく害あるように条件づけられています。両親、そのまた両親、そのまた両親の条件づけが各世代に譲り渡されます。すべての世代がその生き方、考え方、感じ方、関係の仕方の誤用を吸収し、そして次の世代に引き継ぎます。
イニシエーションもまたコントロールについてです。私たちは肉体のエレメンタルをコントロールするとき、第一段階のイニシエーションを受けることができます。物質のエレメンタルが私たちの肉体を構成しており、それ自体のいのちを持ちます。私たちがそのいのちをコントロールするか、それが私たちをコントロールするかです。感情体も同様です。感情・アストラルエレメンタルが、私たちが必要であり、リアル(実在する)だと思っているあらゆる感情的な反応をつくります。そして彼らが私たちの人生を歪めます。同様のことがメンタルエレメンタルにも、それがコントロールされるまで、当てはまります。
無害性は達成可能か。もちろん可能です。私たちが意識の進化と呼ぶものは、無害性を徐々に達成していくことです。私たちがだんだん無執着になるにつれて、霊的存在、私たち自身の魂についての認識が増します。魂との関係が深まるにつれて、徐々に魂の融合した存在になり、肉体、感情・アストラル体、メンタル体をコントロールし、そしてイニシエートになることができます。道は私たちのために敷かれました、そしてその挑戦を受け入れるのは私たちにかかっています。