現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2007年 3月 赦しから行動主義へ

赦しから行動主義へ

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マリアン・ペレスキーによるマイケル・バーグ氏へのインタビュー

マイケル・バーグ氏は、終生の平和主義者であり活動家である。彼はアメリカのデラウェア州ウイルミントンに住んでいる。彼の息子ニコラスは、アメリカがアブ・グレーブ刑務所内での拷問と殺人に関与したことに対する報復として、2004年5月にイラクで誘拐され斬首された。ニコラスはイラクの一般人に対する奉仕活動のためにイラクに滞在していたのであり、アメリカ軍に所属していたのではない。マイケル・バーグ氏に贈呈された賞は次の通りである。2004年8月の「勇気ある抵抗者賞 」;2005年10月の「ビラノヴァの聖トマス・アデル・ドイヤー平和賞」;2006年8月の世界赦し同盟の「赦しのヒーロー賞」;2006年6月のパトリック・ヘンリー・クラブの「アメリカンヒーロー賞 」。彼は2006年11月のアメリカの選挙で、デラウェア州から国会議員に立候補したが落選した。個人的な苦悩と政治的な挫折にもかかわらず、彼は楽観的で政治的に活動的であった。
マリアン・ペレスキーがシェア・インターナショナルを代表してマイケル・バーグ氏にインタビューを行った。
SI:イラクにおけるあなたの息子さんの誘拐と冷酷な殺害は、あなたの平和主義者としての立場に疑問を抱かせましたか。
バーグ:いいえ、全く逆です。それは私の平和主義者としての立場を強化しました。それは私のTシャツの一つに書いてある『Peace Is Priceless(平和は金で買えない)』と同じように『War Is Costly(戦争は高くつく)』ということの要点を強調しました。それは、私がもっと早くイラク戦争を終わらせなかったことで私を悲しませただけでした。そのことは、私にとって私の行動を限定していた古い言い訳、つまり私にとって便利で楽な時間や場所、天候や安全のレベル、を放棄させたのです。私は、「何も失うものは無いクラブ(The Nothing-Left-To-Loss Club)」の会員になりました。というのは、わたしにはこれ以上の苦痛はないだろうと感じていたからです。起こってしまったこと以上に悪いことは起こり得ないでしょう。それ以降、私はワシントンDCでの反戦大集会に話をしに行く途中狙われたこともありました。1万人もの群集に向かって語ったこともありました。韓国で警備局によってストップをかけられたこともありました。7回も逮捕されました。インターネットに現れた息子の死後のビデオテープの音声部分だけでなく、死刑された後の等身大の写真を顔の前に押し付けられたりもしました。そのいずれも私を止めることはできなかったのですが、それは私が勇敢であったからでもそれ以上に馬鹿だったからでもなく、より大きな痛みがより小さな痛みを覆い隠したからなのです。ニコラスが殺された時、私は自分の生き方から復讐は間違っていると本能的に知っていました。それでも私の内面には穴があいていました。激しい怒りがあり、そしてそれを政治家や私の息子の命を奪った殺人者に向けることができなければ、私はそれをどうすることができたでしょうか。私がイマキュラタ大学の『赦し:それは傷ついた世界での愛の別名』という学習過程で学んだ時、答えがやって来たのです。この学習過程が私の痛みを和らげました。それが痛みを愛と理解に向けさせ、結局殺害者たちだけでなく、私にとってはもっと困難なことですが、ジョージ・ブッシュ、ドナルド・ラムズフェルド、アルベルト・ゴンザレス、および自分の不当な利得のためにアメリカを戦争するように仕向けたブッシュ政権内の他の人たちに対しても赦しを与えさせてくれました。それがすべてのこと--平和、平和主義、死刑反対--を理解させてくれました。他者に赦しを与えることを通してのみやって来る平和を発見した後で、私はやっと真に平和の人になることができました。私はこれまでそうであった以上に、現在一層強く平和主義に徹することができるのです。
SI:アメリカ国会議員候補者としてイラクに駐留する米軍に関して、またあなたの綱領の他の問題について、あなたのお考えを述べていただけますか。
バーグ:私はアメリカ軍を支持していますが、イラクに駐留することには反対です。ブッシュ大統領の間違った主張にもかかわらず、アメリカ軍が撤退した場合よりイラクに駐留している方が、私たちが国内で攻撃を受ける可能性が大きいという、より大きな危険にさらされているのです。そして、アメリカ軍が撤退したら人々がイラクで起こるかもしれないと恐れていることが、もうすでに起こっているのです。さらに、2001年のニューヨーク市のツインタワーに対する攻撃は、アメリカの対外政策の直接の結果だと私は信じています。私たちに対していまだ正当な不満を持っている人たちと話し合うことを、私たちは拒絶しています。これらの不満には以下のようなものがあります。私たちが彼らの世界に駐在しているということ;これまでの戦争全体よりも多くの生命を犠牲にするわが国のイラク制裁措置;和平交渉チームや強制移住させられたパレスチナ人に対する補償、訓練された紛争解決のための軍隊を使うのではなく、銃や爆弾による私たちのイスラエル支援;それに、いわゆる第三国に対する私たちの経済政策が含まれ、これらの政策が国々を植民地化して人々を奴隷化しているのです。もし私たちが結果に対して何の前提条件もなしに、信頼して交渉に当たっていたとしたら、どのようになっていたでしょうか? 私たちを攻撃した人たちは私たちに対して何を求めていたでしょうか? 彼ら自身の統治権でしょうか? イラクに対する制裁を解くことでしょうか? イスラエルに大量の軍事予算を供給することをやめるように要請したでしょうか? あるいは、すべての国々が公正に貿易を行い、一日の生活のために必要なものを人々が求めることのできる本当に開かれた世界の市場を支援するように要請したでしょうか?
この戦争はイラク、アフガニスタン、パレスチナ、イスラエル、レバノン、またはすべての中東よりも広範囲に及ぶのです。この戦争は私たち自身の国にまで拡大するのです。私たちの健康管理計画を取り上げ、または私たちの年金を盗んだのはテロリストではありませんでした。長年の間、最低賃金を上げるのに失敗したのは移民たちではありません。この期間に毎年私たちの国のエリート支配者の収入は増加していたのです。この政権によって鬼のような人間にされたのは、一般国民ではありませんでした。それは、私たちアメリカ人を代表するのを放棄して、大企業や企業アメリカを始めたのは、ワシントンDCのスーツを着た男性や女性でした。ですから、私のキャンペーンは次のものを擁護します:単一支払い者、普遍的健康管理、本当に生活可能な賃金、私たちの学校を1960年代および1970年代に偉大なものにした連邦政府プログラムの復活、このプログラムは資金を最も必要とする者から最も必要としない者へと移行させるテスト・システムに置き換えられてしまったのです。私たちを襲ってくる次のハリケーン・カトリーナがアメリカの主要都市の貧しい人々を取り去って海に投げ込まないように、わが国のインフラ整備をすること。環境面では、化石燃料の探査と生産のための巨大石油会社に報奨金を投入する代わりに、持続可能なクリーンエネルギー生産のための方法を発見し開発する小さな企業や研究者にその報奨金を提供すること。私はこの提案によって、金銭的利益が投資家から労働者や研究者に移行するために、これが通過する可能性は極めて小さいことを知った上で、それでも提案しているのです。労働者や研究者の努力が報われることを奨励するものだからです。私は、企業からは決してわずかな献金も受け取ったことはありません。私は個人からだけ献金を受けました。それにその献金の大部分は帽子に入れて差し出される程度のわずかの額です。
SI:あなたの立候補が不成功に終わったのは、メディアがグリーンパーティーからの立候補者であるあなたを差別したからですか、それともあなたの反戦の立場のためですか。
バーグ:私は立候補が失敗したとは決して思っていません。私の息子が死んだときに私が得た公的な立場を拡大するために国会議員に立候補したのです。皮肉にも私の立候補はドアが開かれる前に閉ざされてしまいましたが、私は他の多くの集会を獲得したのです。以前私を講演者として招待してくれた学校、教会、非営利の平和団体や他のグループは、彼らの非営利組織としての立場を失うというリスクを賭して一人の政治的候補者の方を選ぶのをIRS(アメリカ税務局)によって禁止されたのです。しかし、私は多くの立候補者集会、討論会、すべての立候補者を招待する教会、市の組織、個人の家でのパーティーで講演をしました。これらの場所のほとんどは、私の立候補資格前の非営利集会よりも有利な点が一つありました。それは、私が聖歌隊に向かって話をしたのではないということです。
私は、一部の報道陣、市の団体、宗教組織からは公正な扱いを受けませんでした。それから別のあるグループは講演から私を締め出し、代わりに私の対抗者や私を全く無視する人に講演をさせました。しかし、この不公正なやり方が実際には多くの報道陣を迎え入れたのです。それで私のキャンペーンは、私が決して考えたことのない点で成功であったと思っています。そのことが、民主党 (Democrats) と共和党 (Republicans)(私はどちらもRepublicratsと呼んでいます)の二大覇権が、アメリカにおける選挙の自由と公正に対して持っている不公平さを明らかにしたというわけです。
SI:行動主義を継続するためにどのようなプランをお持ちですか。
バーグ:国会議員に立候補する前は、私は文字通り世界中を、特にアメリカ国内を旅してまわりました。私は国内外のテレビやラジオに出演し、世界中の出版物に寄稿しました。人々は私と私の息子のことを忘れてしまいました。しかし、彼らはイラク、アフガニスタン、パレスチナ、およびレバノンの戦争を忘れてはいません。まだやらなければならない仕事がたくさんあるのです。
選挙の日は11月7日でした。11月10日に私は、戦争開始以来毎週金曜日の晩に開催される夜通しの平和祈願集会で立っていました。11日にはシンディー・シーハン、セレスタ・ザッパラ、および多くの戦争からの退役軍人たちと共に講演をしました。その退役軍人の中には「戦争をやめろ!」と言うためだけにフィラデルフィアの自由の鐘のある場所にいた人もいました。その後、私はフィラデルフィアのある集会に出席して講演をしました。その集会ではエーラン・ワタダ大尉とスティーブン・ファンクの母親が基調講演を行いました。エーランはイラクに行くのを公に拒否した最初の将校で、スティーブンは最初に徴兵された人でした。エーランは6年間の刑務所生活に直面しており、スティーブンはすでに兵役を終えています。
最近私は、デラウェアのウィルミントンにある聖ヘレナ教会でシスターJ・シーラ・ガリガンの講演前に私が彼女を紹介するという光栄に恵まれました。彼女は、赦しに関するクラスで講義をしたイマキュラタ大学の教授でした。彼女の聖ヘレナに関する講演は前と同じように赦しについてでしたが、講演時間は約1時間でした。彼女の12時間におよぶ講座で学び、彼女の講座に2回ゲストとして出席し、他のところでも彼女の講演を聴いたのですが、この講演では以前は理解できなかった新しい情報で大きな用紙一面を埋め尽くすほど学ぶことは多かったのです。
私はいまだに学ぶべきことがたくさんあると思います。そして私は赦しと修復的司法について広めたいと思っています。私はすべての平和祈念徹夜集会と反戦デモ行進に出席して、この正気でない戦争に対して私にできるあらゆる方法を用いて反対するつもりです。もし講演を頼まれれば、私は語ります。もし寄稿を頼まれれば書きます。私は、「死刑反対デラウェア市民および殺人犠牲者家族人権の会」の会員です。私は高校10年生以来、死刑反対運動をしてきましたが、それを継続するつもりです。さらに私は二つの動物の権利を守る会の会員です。私は前よりも一層これらのメンバーとして活躍したいと思っています。最後に、私が真実であると思える平和をもたらすために、私のできるすべての事を実践したいと思っています。
私が講演をしていたとき接触をしたあるグループがカリフォルニアにありますが、そのグループは、世界奉仕部隊を呼びかける法案を書いたのです。その世界奉仕部隊はアメリカ国民に対して彼らの国への奉仕の代替案を提供するでしょう。私の息子のニコラスのように、腰に結びつけたガン・ベルトによるのではなく工具ベルトを巻いて奉仕できるようになるのです。アメリカ人は10またはそれ以上の団体、ピースコー、アメリコー、赤十字、ハビタート・フォア・ヒュマニティーおよび6またはそれ以上のリストにあるような組織と共に奉仕活動を行うことができるでしょう。
2年間奉仕を行ってから彼らはコミュニティー・カレッジで勉学するためと、もう2年間の州立大学で学ぶための授業料の資金を受け取ります。年配者は、彼らの授業料の資金を他の人たちや親類に寄付または譲渡することができ、あるいは医療費に充当することもできます。これらのボランティアが行う仕事は、先取りの平和活動となるでしょう。
敵国との国境に芸術学校(a state-of-the-art-school)を建設している若者と老人を想像してご覧なさい。その国境の両方からやってきた学生から成り立っている学校を想像してご覧なさい。互いに知り合い、愛し合いながら成長していく学生を想像してご覧なさい。このような学校に誰が爆弾を投げ込むでしょうか? この提案は正式に国会に提出されてはいませんが、それは直ちに提出され可決され受理されるという感じがするのです。私はその目標に向かって働きます。法律が制定されて後、私は世界奉仕団体を支援します。私はそれまでは、新しい形の平和を想像し続けます。そしてこの夢が現実になるように働きます。

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