現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2010年 2月 不幸な出来事を幸運に変える

不幸な出来事を幸運に変える

二人の元少年兵へのインタビュー
フェリシティー・エリオット

シエラレオネは10年近く戦渦にあった。チャールズ・ボエとパミン・チャールズ・ボエはシエラレオネ南部の農村地帯で育った。彼らの父親はバプテスト教会の牧師であり、彼らは大家族と共に農場で暮らしていた。対立が始まったとき、彼らは幼い子供だった。彼らは幸せな幼年時代を過ごしたが、1991年、戦闘の開始とともにその幸せに終止符が打たれた。
紛争の激化で、多くの家族が自分たちの村から逃げた。その結果として起こる混乱がこの国の混沌状態に何年にもわたって拍車をかけ、残虐行為が全く取り締まられることなく横行することになった。
1995年に反政府勢力は、チャールズとパミンが家族と共に住んでいた村を襲った。家族は逃げ、叢林に隠れたが、祖母が亡くなったのはそのときだった。家に戻るのがあまりにも恐しく、彼らはより安全であることを願って隣町のマケニに移った。

チャールズ・ボエ:シエラレオネでは、すべての子供が10歳か11歳のときに大きな検査を受けます。私が検査を受けることになっていた日に、私たちすべての子供が大きな検査会場に集められました。突然、騒音が鳴り響き、人々が叫び声を上げながら走り込み、銃を撃ち、私たち子供の多くが反政府勢力に捕らえられました。ご存じの通り、政府軍は子供を撃つことはありません。そのため、反政府勢力はいつも子供たちを連れていました。子供たちの多くは叢林に行く途中も行ってからも死にました。私たちは以前もそこにいましたが、そこは遠く、そのような環境に慣れていない小さな子供たちにとっては、とてもつらいものでした。神の恩寵と両親の信仰と祈りによって私の兄弟と私は生き延び、私たちは反政府勢力と一緒に森で暮らしました。

シェア・インターナショナル(SI):それはどのような状態で、あなた方はどのように扱われましたか。
チャールズ・ボエ:そうですねえ、もしあなたがひどいことをするよう命じられ、しかも10歳だとしたら、麻薬を与えられなければできないでしょう。

SI:何が起こったのですか。
チャールズ・ボエ:はい、私は中毒性の強い麻薬を与えられました。私は麻薬をやりました。麻薬なしで彼らの命令を行うことは、あなたでもできないでしょう。もし彼らが望むことをしなければ、殺されるか、ひどい暴行を受けることになります。私は中毒でした。そのため、彼らが私にさせようとしたことが私にはでき、見ることもできたのです。暴行も受けました。ひどいことがありました。私は多くの悲痛なことを見ました。残虐な行為をです。(注1)

SI:私には想像できません。それは、ひどいトラウマになったに違いありません。

チャールズが答えるとき、彼の口調からは自分を哀れむ気持ちは微塵も感じられない。彼の話し方は事実をありのまま述べているようであるが、トラウマを負った人によく見られる暗澹とした無感覚な感じは見られない。彼は、あたかも私に最悪のものを見させなくしているかのように、反政府勢力と過ごした時間については遠慮がちに話している。

チャールズ・ボエ:はい。それはすべての子供たちにとって心に深い傷を負わせる時期で、私たちの非常に多くにとてもネガティブな衝撃を与えました。

バミン・ボエ:私は数カ月間、反政府勢力と一緒に森にいて、彼らのためにスパイとして働きました。

SI:あなたは何をしなければならなかったのですか。なぜ彼らはあなたをスパイとして使ったのですか。
バミン・ボエ:そうですねえ、反政府勢力は、村に行く前に多くの情報を得ることが必要でした。その村にはどれだけの人がいるか、そこには政府軍がいるか、男性は多いか、たくさんの子供たちがいるか、武装している人はいるかなど。彼らは、どのようにして、どこを、いつ襲撃したらよいかを知るために、こうしたことを知る必要があったのです。小さな子供は町や村では実際気づかれなかったため、多くの小さな子供がスパイとして使われました。

チャールズにひどい体験や心に深い痛手を受けた後遺症にどのように対処したのかを尋ねたとき、彼は「投げ捨てた」と答えた。この点について詳しく尋ねると、内戦がほぼ終結したときに彼と彼の幼い兄弟はなんとか両親のもとに帰ることができたと彼は説明した。チャールズとパミンは両親の愛に満ちた支えと、チルドレンズ・フォーラム・ネットワーク(CFN)というシエラレオネ政府が設立した組織の支援を受けて、徐々に回復した。

チャールズ・ボエ:彼らは私たちを助け、助言を与えてくれました。しばらくして、私の兄弟と私はCFNに加わりました。私たちに能力があり、知的であることが彼らに分かったため、私たちは組織の中で彼らに助けられて、成長し、育てられました。そして、私たちのような苦難を受けた子供たちを助けることのできる立場を得ました。私たちはそれがどのようなものかを知っていたからです。私たちは彼らにアイディアや意見を述べ、助け始めました。また、ひどく傷ついたとてもたくさんの子供たちの支援活動を始めました。以前、少年兵や奴隷やスパイをしていた人々の中には今も――青年になった今でさえ――路上で過ごしている人もいます。

SI:何があなた方に苦難を肯定的なものに変えるよう決心させたのですか。
チャールズ・ボエ:私たちにとってそれは自然なことです。事実を知っている私たちが助けなければ、誰が助けるのですか。私たちは自分がしたこと、そして内戦中に起こったこと――特に子供たちに起こったこと――を知っています。私たち以上に誰がそうすることができるでしょうか。

ほとんどの人は、内戦中に子供がどのような状態にあったかを知りません。今日でさえ、私や私の兄弟と同じような経験をした、私と同年代の若い男女(チャールズはいま20代前半である)が今なお昼も夜も街頭をぶらつき、麻薬を得るためやただ生き延びるために、売春をしたり、物乞いをしたり、金銭を盗んだりしています。リハビリと家族の再構築が重要な課題です。

バミン・ボエ:あなたは、シエラレオネが子供たちにとって世界で最低ランクの国の一つであることをご存じです。子供たちは非常に多くの問題に直面しています。そのため、私たちは彼らの擁護に焦点を絞っているのです。学校教育、特に少女たちへの教育、健康管理、水、衛生設備、これらすべてが標準以下です。シエラレオネにはダイヤモンドその他の天然資源がありますが、一方、産婦死亡率は非常に高く、乳児死亡率も高いのです。人々は、内戦が終わったので、問題は終わると考えますが、私たちにはなすべきことがたくさんあります。

戦闘が2002年に終結して以来、シエラレオネは複雑に絡み合った様々な問題に苦しみ続けてきた。気がかりな事実は、子供の売買がより深刻にさえなっていることである。大勢の子供が内戦中に難民になり、家族から切り離され、また孤児になった。子供の売買は今も続いている。国内(村々から都市部への)そして国外へと――その多くが近隣諸国へと売られている。UNICEF(ユニセフ)によると、子供たちは売買され、鉱業や漁業から農場での労働や家事に至るまであらゆる労働を強いられている。さらに、売買された子供たちはまた売春や軽い犯罪に追いやられることになる。

バミン・ボエ:私たちはチルドレンズ・フォーラム・ネットワークでの立場を利用して、子供たちには特別な保護が必要であり、彼らの安全と福祉を確かなものにする法律の必要性に耳を傾けてくれるあらゆる人と指導者たちに影響を与えようと努力しました。

チャールズ・ボエ:私たちは助言し、子供権利法の成立に向けて働きましたが、この法律は2007年にやっと通過しました。私たちはまさに子供たちを――私たちの国の子供たちだけではなく――守ろうと決意し、そうすることに一所懸命です。

バミン・ボエ:アフリカ以外にも苦しんでいる子供たちは大勢います。ですから、このような法律は極めて重要です。

チャールズは、子供に焦点を当てた様々な組織で奉仕してきた。子供の擁護という分野における彼の仕事に対して、彼は2005年に「シエラレオネの子供たち(the Children of Sierra Leone)」から「子供の優れた擁護者」と命名された。彼は現在、シエラレオネ特別法廷対話フォーラムでシエラレオネの若者たちの代表の役割を果たしている。2008年11月には、シエラレオネ特別法廷によってシエラレオネのすべての若者の代表に選ばれ、オランダに行き、チャールズ・テイラー(注2)裁判で証言し、一連の平和構築会議にも出席した。
少年兵から子供たちのための擁護者になり、そして麻薬中毒者から、すべての子供たちを助け、支え、保護するために残虐行為の証言者になったチャールズ・ボエは今、平和と紛争解決分野で学位を得てシエラレオネ神学校の福音派のカレッジを卒業したばかりである。
かつて反政府勢力の子供スパイだったバミンは、子供権利法案を法律として成立させることを推進する指導的な擁護者になった。彼はまた、ユニセフ、 プラン、セーブ・ザ・チルドレンUK、ケア、ディフェンス・フォー・チルドレン・インターナショナル・シエラレオネとも共に働いてきた。
2007年、バミンは子供の専門家として国を代表して、ECOWAS(西アフリカ諸国経済共同体)子供政策の起草のために、ナイジェリアのアブジャにあるECOWAS事務局に派遣された。同年彼は、2007年10月にガーナで最初の会議が開かれた101ヤング・アフリカン・リーダーズ・フォーラムにおいてシエラレオネの若者代表を務めた。彼は2008年に、地域開発専攻の開発研究分野で学位を得て、シエラレオネ神学校の福音派のカレッジを卒業した。

チャールズ・ボエ:2007年に私たちは、私たちの国とアフリカの子供たちのために変化を求めて議員に働きかけるチルドレンズ・アジェンダ・インターナショナルを設立しました。私たちは、得られるどのような援助や支援も受け入れます。私たちは多くのプロジェクトに関わっています。学校教育、水問題、健康管理問題などなど。

バミン・ボエ:無視され、虐待され、搾取されている国外の何百万という子供のための議題作成を手伝う必要があることに気づきました。私たちすべてが搾取と虐待の傾向を逆転させ、それを子供たちへの愛と配慮と保護に変えるよう努力しなければなりません。

(注1):シエラレオネの内戦で被害を受けた多くの人に見られる悲惨な特徴は、敵対する可能性のある誰にでも恐怖心を与えて脅えさせるために、反政府勢力によって非常に多くの人々が――子供も大人も――手や腕、足首や脚を切り落とされたことである。

(注2):チャールズ・テイラーはリベリアの前指導者、前軍司令官であり、今はオランダのハーグにあるハーグランデン刑務所の敷地内にある国連拘置所に収監され、シエラレオネのための特別法廷で裁判を受けている。これは、隣国シエラレオネの反政府勢力を支援したとされる嫌疑で彼を国際法廷で提訴するための、長期にわたる運動の頂点になるものである。

寄付金の送付、そしてさらに詳しい情報は:
www.childrensagendainternational.org

西アフリカのシエラレオネは、北東はギニア、南東はリベリアと国境を接し、南西は大西洋に面している。リベリア内戦が近隣諸国に波及したことで、20年以上にわたる政府による国内政策の怠慢がやがてシエラレオネの内戦につながった。それは1991年に始まり、苦戦するナイジェリア主導の国連軍がイギリス軍によって増強された後の2000年に解決した。
シエラレオネは、ダイヤモンドその他の鉱物資源が豊富である。紛争の資金源になる「ブラッド・ダイヤモンド」として知られる宝石の違法売買が内戦を長期化させた。政府は国外へのダイヤモンド売買を厳重に取り締まるよう努力してきた。
「9年以上にわたる内戦は、すでに貧窮化し、大きな債務を抱え、数年にわたる失策に苦しみ、開発構想に失敗した国であるシエラレオネに大打撃を与えた。同国はこのところ、UNDP(国連開発計画)の人間開発指数で最低ランクに位置づけされ、平均寿命は世界最低である――35年間、産婦死亡率は最悪であり、乳児死亡率も最悪国の一つである。内戦は農業生産を激烈に減少させ、鉱業の政府収益も低下させ、多くの学校、診療所、行政施設を破壊した。人口の半分以上の推定4,500万人が難民になるよう強いられた。……現在、人口の約3分の2が人道主義組織に緊急援助の提供を求める状態にある。政府が支配する地域でさえ、栄養失調と病気の危険性が高まっている」
(「平和協定1年後のシエラレオネ:平和と正義と持続可能な開発のための研究」と題する2000年6月21~23日のポリシー・シンポジウムからのコメント)
シエラレオネのための特別法廷は2002年に、1996年以降の戦争犯罪と人間性を侵害する犯罪に対応するために開かれた。
シエラレオネ子供権利法(CRA)は2007年6月に法定化された。CRAは子供への虐待を犯罪と見なし、シエラレオネの子供の権利と福祉のより一層の保護を追求するものである。CRAにはまた、身体に障害を持つ若者にも同等の機会を与え、社会的施設を利用でき、仕事に就くことができるようにすべきであると明記されている。

レッド・ハンド・デイ(血に染まった手の日)、毎年2月12日は、戦争や武力衝突で兵士になるよう強いられた子供たちの悲運に注目を引きつけ、このようなことに対する反対行動を呼びかける記念日である。子供たちは近年、コンゴ民主主義共和国、ルワンダ、シエラレオネ、ウガンダ、スーダン、コートジボワール、フィリピン、ミャンマー、コロンビア、パレスチナでの武力衝突などで、兵士として繰り返し利用されてきた。
レッド・ハンド・デイは、「武力衝突への子供の関与に関する子供の権利条約選択議定書」が発効した2002年の2月12日に制定された。この議定書は2000年5月に国連総会で採択され、これまでに100カ国以上が記名調印した。国連児童基金(UNICEF)、アムネスティー・インターナショナル、人間の大地、国際赤十字社、赤新月運動を含む多くの国際組織が、子供たちを兵士として利用することに反対して活動している。
2009年11月の時点では、ソマリアとアメリカ合衆国を除くすべての国連加盟国を含む194カ国がこの条約を批准している。ソマリアは近いうちに批准すると発表している。
バラク・オバマ大統領は、この条約を批准しないことを「遺憾だ」と述べ、再検討を約束した