現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2010年 3月 自己実現の術(2)――選集

自己実現の術(2)――選集

本稿には『自己実現』というテーマに関する引用文の選集(2部)を発表する。これはマイトレーヤの教え(マイトレーヤからのメッセージ『いのちの水を運ぶ者』、および『いのちの法則』)、ベンジャミン・クレームの師のことば(『覚者は語る』)、およびベンジャミン・クレームの著書から抜粋したものである。1部は、シェア・インターナショナル誌1月号に発表された。


真我は存在であり、認識であり、光である。時間の世界にあっては生存であり、永遠の中においては認識であり、そして光である。「わたしたちはすべて全能なる神の閃光である」
(『いのちの法則』p.77)

われわれは今日、これまで知られたことのない新しい知識、より広い概念、より大きな視野、より豊かな経験の時代の瀬戸際に立つ。まさにそのような時に、新しい教師がやって来られた。彼の任務はこれらの視界を人間のためにさらに大きく広げることであり、すべてが関連し合っていることを示し、われわれが兄弟として一つの家族の中に住み、各人が総体の福祉に貢献することを示すことである。このようにして人間は星々にまで及ぶ広大なシステムの中の重要な一単位なる自分自身に、意識の、そして愛しい生命の小さな一点なる自分自身に気づくようになるだろう。そうして人間は己の偉大さを知り、光とエネルギーと知識の関連し合う点(ポイント)の果てしなき機構の中の自分の役割を知るようになるだろう。 
(『覚者は語る』―聖なる科学―p.145-146)

マイトレーヤは、そのユニークなご身分と進化の旅路における途方もなく長い経験のゆえに、非常に深遠な霊的教えを最も単純な言葉で表現することがおできになるのである。それは、あらゆる教義上の混乱や神学的教理に全く束縛されないものである。何の強制もなく、すべての人間が自由にあるがままの自分自身であることを奨励される。マイトレーヤは、とりわけ真我実現の術を教えられる。三つの単純な、しかも達成するには訓練を要する実践が、真我実現の教えの中にある――心(マインド)の正直、生気(スピリット)の誠実、無執着である。これらの三つのことを実践しなさい、そうすれば真我実現を達成することができ、それは神性(真我)の実現につながる、とマイトレーヤは言われる。
(『いのちの法則』P17:シェア・インターナショナル2007年8月号、p.27)

幸せな者たちよ、うれしき者たちよ、あなたがたの裡に今や真理の光の輝きが見える。わたしがあなたがたの裡に宿ることを示す真の光が見える。来たるべき祝福の時に、わたしはその光を栄光の炎にあおりたてよう。わたしの覚者たちもあなたがたの中に居り、あなたがたの心の裡に眠っている天賦の宝を顕す道を示してくれるだろう。
(メッセージNo.62、p.180)
ほとんど、私たちはあるがままの自然な自分ではなく、絶えず人を真似ようとしています。人々に自分を良く見せたい、立派な人問、善良で、正直な人間だと思ってもらいたい。自分が人に示そうと思っている理想のような人間だと考えて欲しいと思っています。正直に、そして誠実に、自分自身である人問を見つけることは稀です。そうすると心(ハート)から心(ハート)へと語りかける状態を生み出します。それは直接的です。このようにして、その人の霊性が他の人に伝わり、人はそれに感応します。確立すべきことは心(ハート)と心(ハート)の関係です。その時、あなたはあるがままのあなたです。それはあなた自身のアイデンティティーを誠実に完全に感知し表現するようなものです。これが無執着を生じさせます。……マイトレーヤは「真我のみが大切である」(真我とは神聖な様相、主を意味します)「あなたはその真我であり、不滅の霊存在である」と言います。そして、私たちの苦痛や苦悩、諸々の問題は、私たちが真我ではないあらゆるものと自分を同一認しているという事実のためであると彼は言います。彼は、「私は誰か」と自分に問いなさいと言います。……もしそうするならば、あなたは自分が、肉体を真我として同一認していることに気づくでしょう。あなたは、一時の一生の問だけ持続し、転生のたびに新しくなる肉体の存在ではありません。ですから、それは真我ではありません。
もしくは、あなたはあなたの情緒、感覚――ある日にはあることを感じ、別の日には別のことを感じる――束の間のエネルギー感覚と同一認しています。それらは真我ではありません。もしくは、あなたはマインドの構造、あなたがキリスト教徒であれ、仏教徒もしくはヒンズー教徒であれ、あなたの信念やイデオロギー、そしてそれに伴うすべての伝統と同一認しています。あなたがキリスト教徒であれ、仏教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒、もしくは無宗教であろうと、真我にとっては全く重要ではありません。重要なのは、あなたが自分自身を真我として感知すること、神と同等である真我と同一認することです。自己(真我)実現とは神実現です。もしあなたが正しい同一認と無執着を実践するならば、あなたは必然的に、自己実現へと導く真我認識に到達します。……それは、信念でも、宗教でも、イデオロギーでもなく、すべての人々を益するものであり、実際、それは人生の目標なのです。
(『マイトレーヤの使命 第Ⅲ巻』p.425-427)

すべての者が自分の「内的な空間」を必要とする。そこでは何の指示もないし、誰もあなたにどこへ行けとか何をせよとか言わない。あなたがこのエネルギーに執われないでいられるのは、その内的空間だけである。誰もあなたを導くことはできない。あなたは、自分自身について認識するように、自分自身の裡なる師を知るように、生まれついているのである。あなたの内的な空間は聖なるものである。そこで、すべての物事が、あらゆる問題が解消するのである。あなたが疲れて、脅えて、腹に据えかねたとき、あなたが自分の空間を見つけるために一人にしておいて欲しいとき、そこに行くのである。
「あなたはその空間を与えられているのであり、そこであなたの周りの混雑や混沌を解消するのである。その空間をあなたの本当の真我以外に、誰にも譲り渡してはならない。瞑想とは実に、安らぎと幸せを見つけるためにその空間に戻る旅である」
(『いのちの法則』p.151-152)

現実には神はすべてに存在するが、人は心の裡に主を体験することが可能なことに気づき始めている。「神は天空にあるのではない。神は心のうちにある」とマイトレーヤは言われる。心が平静で独断的な見解から解放されるとき、それは真理を吸収する。「自己実現とは神を実現することである」。大師の教えはあなたに自分の裡を見つめることを教える。これは宗教とは関係ない。政治でもない。どのようなイデオロギーの形態でもない。
(『マイトレーヤの使命 第Ⅱ巻』p.251)

存在は永遠であり、生成は時間と空間内で展開する。真我は両方を経験する。人間がその構造の真の特性――魂がメンタル体(識心)、アストラル体(感情・情緒体)、二重の物質体(エーテル体と濃密肉体)を通して己自体を反映していること――に気づくとき、病気の征服における最初のステップが取られるだろう。これまで人間の注目は濃密な物質体(肉体)に集中されてきたが、病気の原因はより精妙な体を通して流れるエネルギーの誤用に見いだされる。
人間はまさに偉大なる発見の瀬戸際にいる。病気は不均衡の結果であり、正しいバランスは正しい思考と行動によって維持され、そのような正しい思考と行動は至るところにいる兄弟姉妹に関わる。もし人間が病気に終わりを告げようとするならば、まず分離に終わりを告げなければならない。
(『覚者は語る』―健康と治療〔1〕―p.43)

あなたがマインドと生気と肉体に無執着であるとき、あなたの周りや内で起こるどんなことも、あなたに触れることはできない。あなたには免疫がある。これが救済である。執着がある限り、あなたは人生において闘争や苦楽を経験するだろう。
知識や智恵は最も強力な執着への絆をつくる。マイトレーヤが「あなた自身のままでありなさい。あなたは知識ではない。あなたは智恵ではない。あなた(真我)とわたし(真我)はひとつである」と言われるのは、この理由による。「あなたが誰であろうと、何であろうと、どこにいようと、無執着という浄化の聖水をたどりなさい。わたしは新しいことを教えるために来たのではない。自分自身に正直でありなさい。誠実でありなさい。そして無執着でありなさい」「この方法は非常に簡単で、非常にやさしいので、宗教からも、イデオロギーからも、政治からも自由である。それは人をして自分は誰であるかを経験させる。自分の役割を果たしなさい。そして自由でありなさい」
(『いのちの法則』p.106-107)

人間の道程は長い、なぜなら人間は最高の本源から出たのであるから。すべての人の裡に神が宿る。その神はあなたの真我である。わたしの任務は、その聖なる存在をあなたの裡に解き放ち、神の大計画を完了させることである。神よりも単純なるものは存在しない、なぜなら、すべてのものの背後にその聖なる原理があるのだから。人がこれに気づくとき、真に偉大となる。そしてその人から、創造的エネルギーが流れ出づる。
(メッセージNo.54、p.159-160)

真我実現は、一つのイニシエーションから次のイニシエーションに徐々に移行するにつれて近づいてきます。それぞれのイニシエーションが、肉体、アストラル体、メンタル体の原子構造を構成するデーヴァ生命の持つ振動数を高くします。原子構造は次第に変化し、これらのデーヴァ生命の活動を変えます。彼らはもはやその過程を管理しません。彼らはその衝動によって肉体に栄養を与えますが、魂からのエネルギーがコントロールし始めます。パーソナリティーは肉体をよりコントロールするようになり、メンタル体からの導きに反応しはじめます。アストラル休もまた鎮まり、静かになります。本質的に、アストラル体は静かな湖のようであるべきであり、もはや感情で個人を左右するものではなくなるべきです。進化的な意味からはそうなるでしょう。それからは、それは意識のブッディ・レベルにとっての鏡のように振る舞います。ブッディは、魂の意志、愛/智恵、知性を持ち込む霊的三つ組(スピリチュアル・トリアッド)の二番目のレベルです。ブッディ意識がその鎮まりかえった湖の上に反映されると、私たちはそれを直観として体験します。
メンタル偏極が始まる1.5~1.6段階までは、多かれ少なかれアストラル界の微小なデーヴア生命体が支配しています。それ以後は徐々に個人の生活を支配しなくなってきます。感情を持たないという意味ではありませんが、それほど感情に流されたり圧倒されたりしなくなります。デーヴァ生命体の活動が、アストラル体に及ぼす影響に無執着になることを学びます。魂のエネルギーは、物質体のエネルギー(この場合はアストラル体のエネルギー)よりもさらに高度であり、徐々にアストラル界への支配力を獲得します。これは霊的偏極が始まる2.5~2.6段階までは完全ではありません。私たちの見地からは、デーヴァ生命体は物質生命です。彼らの見地からは、それは完全に意識的な生命です。それは肉体の細胞のようであり、私たちのメンタル意識とは別に、彼ら自身の存在を持ち、DNAやビタミンやミネラルや私たちが飲み食いすることで彼らに与える食物抽出物の量に応じて彼らの活動を実行しています。正しい食物を提供し、魂のエネルギーを十分に注げば、私たちが彼らをコントロールし始めます。
カルマと同じく、真我実現をいつ達成するかを決めるのは、私たちの器(肉体人間)の人生の質を変えていく能力にあります。私たちが支配するか、デーヴァが支配するかです。しかし、私たちがいのち(大生命)と呼ぶ偉大な磁石は進化全体を駆り立て、あまりに強力なので、いかなるグループや個人もそれに耐えることはできず、遅かれ早かれ否応なしに前に駆り立てられます。私たちは現在の段階で真我実現を達成することはないかもしれませんが、徐々にその段階に達するでしょう。
(『生きる術』p.200-202)

もしあなたが外部ばかり見ていると、内的な自己を見失う。そうすると人生は物質主義的になり過ぎるだろう。もしその逆に、あなたが自分の内面ばかりを見ていると、外的な現実との接触を失う。内と外との間の平衡が心と生気と肉体の中に正しい関係を育てることにつながる。平衡点が維持されなければならない。
(『いのちの法則』p.64)

肉体が風呂で洗われなければならないように、心(マインド)の『風呂』は無執着であり、生気(スピリット)の『風呂』は認識である。あなたが心と生気と肉休の中を放浪するとき、あなたの休息の場は真我認識の中にあることを覚えておきなさい。あなたが眠るとき『心(マインド)のうちに』〔編注=頭を休めることなしに〕眠るならば、消耗して目覚める。もし『生気のうちに』〔編注=情緒、感情に耽りながら〕眠るならば、とてつもない経験をするかもしれない。もし真我認識のうちに眠るならば、それは良い眠りであろう。マイトレーヤは言われる:「私は決してあなた方を見捨てない」
(『いのちの法則』p.77-78)

人間は今や自分自身について、目的について、自分の住む世界について、新しい認知の門口に立つ。この新しい認識が、いまだ顕されずにいる夢見たこともないような技能と才能を呼び起こし、人間が神々の居住域に入ることを許す。本来の己の姿を真に知るとき、人間の聖なる力の顕現を阻むものは何もない。あらゆる側にこの栄光は見られ、最も遠い星に至るまで、その道を照らす。その幸いなる時が来るまで、人間は余暇の中で学び、己自身を訓練しなければならない。余暇なしに、人間が成長する機会はほとんどない。余暇は、すべての生活を変容させるあの創造的思考と行動のための必須条件として考えられなければならない。
(『覚者は語る』―余暇が鍵である―p.167)

もし泥棒があなたのところへやって来たら、説教してはならない。無駄であろう。彼に、自分がなすことに対して正直であるように教えなさい。泥棒は徐々に無執着を習得するだろう。無執着が人生の神秘を明らかにすることができる。執着を持たなければ、泥棒はやがて、自分の心が特定の想念形態に反応していることを認識する。「あなたが盗みを働いているときでさえも、神の采配なしには盗むことすらできないことを知りなさい」。真我はただ目撃するのみである。徐々に真我は己が主人であることに気づくようになる。徐々に、真我は心と生気と肉体を統御する。すべての者が誰も奪うことのできない自分自身の富を持つ。その富とは真我実現である。
(『いのちの法則』p.75)

理性と直観
ベンジャミン・クレームの師より
理性がさらに高度の能力である直観によって徐々に置き換えられる時代に入りつつある。人間が当然ながら誇りに思っているその論理力を構成するものはいつの日か識閾 の下に落ち、今日、息をしたり、動いたりすることと同じように本能的なものになるだろう。直観の開花を通して、認識の膨大な広がりが人間の前方に横たわる。存在の状態についての認識であり、それはまだまったく人間に知られていないが、覚醒した心(マインド)によって知覚されるのを待っている。
すべての意識の拡大の前には緊張がある。人間が今通過している争いと困難のこの時期の後に、平安と落ち着きの時が続き、直観が徐々に開花するための舞台が整えられるだろう。それが起こるとき、人間は、すべての論争を通り越して、神のイメージに似せて創られた魂としての自己の特性を直接知るだろう。覚醒した直観を通して、人間は自然の秘密を発見し、すべての王国のための進化の大計画における人間の役割を果たすことを学ぶだろう。自分自身の裡に夢想すらしなかった能力と知識を発見するだろう。知る必要のあることはすべて、啓発されたマインド(識心)に自在に流れ入るだろう。
人類種族の開花における次のステップは、直観的能力が生まれたときからすでに活発で強力な魂の到来であろう。これらの魂は現在、いのちの内界において集められており、間もなく姿を現すだろう。彼らは現在の第五種族の次の副種族(第6亜種)を構成し、人類を限定された合理的マインド(識心)から直観の光の中へ導くだろう。人間にとってすべてのことが可能となるだろう。魂の光が人間の問題に働きかけ、一瞬にしてこれらの問題の解決法を示すだろう。直接の知識によって、人間は間違うことなく目標に向かって進むことができる。
われわれが理性と呼ぶものは、その役割を十分に果たしてきた。人間を神性の門口にまで運び、そしてその後に続くより高度のマインド(識心)の能力開花のために人間を準備した。厳密に言うと、普通に直観と呼ばれているものは意識のマナス〔*〕のレベルから来るものであるが、真の直観はその起源をさらに高度なブッディのレベルに発する。それは本質的に愛ある理解、または真の智恵である。直観が働くとき、分離という感覚は未知のものである。すべてのものの一体性が直接に知覚される。合理的マインド(識心)のイリュージョン(錯覚)は超越され、実在(リアリティ)が知られる。
直観の光の中で、人間は世界を再建し、神の道をたどるだろう。彼らの前に歩み、神の息子として自己を完成された方たちすべての足跡に従う。わたしたちがあなた方の間に住み、そして働くとき、わたしたちの仕事は、マインドのこの高度な能力を可能なところすべてにおいて刺激し、あなた方を導いて神の道の上を前進させることである。
今でさえ、知覚の扉は開かれつつあり、多くの者が直観的真理を自分が持つことを発見している。魂との整列が回路を開き、多大なる光が降る。人類種族にとって最大の危急のときに、実在(リアリティ)をより明瞭に知覚することが可能となる。これは将来への吉兆である。直観が開くにつれて、もっともらしく合理化するマインド(識心)の分離的傾向は減じ、すべての関係にとって恩恵あるより健全な風潮が生まれる。
(『覚者は語る』―理性と直観―p.38-40)
〔*〕マナスはメンタル界、ブッディは霊的直観、魂の界に属する。

意識の成長
ベンジャミン・クレームの師より
すべてがエネルギーであり、エネルギーと物質は一つのリアリティ(実相)の異なった状態であり、想念によって影響され得るという概念が広範囲に受け入れられつつあり、人々の人生観を変えつつある。人々はますます急速に啓発されており、間もなくこの事実を実演するための方法とテクノロジーが発見されるだろう。これは将来の人類の進化にとって深い意義がある。
われわれが新しい時代に入るにつれて、外的世界と主観的(内的)世界を探究し、(神の)創造におけるこの二つの様相の間の関係を理解することに新しい緊急性が感じられている。世界中の多くの科学者が、すべてが相互に関連し合っていることについての彼らの直観を実際に証明する必要に促されて、彼らの探究をそちらの方向に曲げつつある。超人格なるエゴ、または魂(の存在)を受け入れるという姿勢が徐々に地盤を広げつつあり、それは人間の現実観の新しい統合につながりつつある。究極的に、そのような調査すべての共通の基盤は、意識が魂の属性であり、マインド(識心)と頭脳はその回路、つまり魂の顕現のための器であり、それらの間をつなぐリンク(輪)には何の切れ目も分離もないという認識の中に、存在するだろう。
現在まで、神経組織とは頭脳からの信号――その性質は電気的――のための通路と考えられてきた。頭脳、つまり指令部が、その複雑なシステムを通して、行動や反射反応――メンタル的、感情的、肉体的――を起こさせる、それによってわれわれは生きているという実感を認知し、実演する。もちろん、これはある程度まで真である。確かに、肉体頭脳の複雑なコンピューターが、その敏感な装置を通して一瞬一瞬流入してくる多種多様な情報や刺激を調整し、組織する。しかしながら、意識の特性と源についての理解が増すにつれて、頭脳の位置と機能についてのより正しい像が浮かび上がるだろう――より高位の原理から届く無限に多様な衝動のための中心的位置として。
また、多くの者にとっては、マインド(識心)がすなわち人間なのである。彼らは、思考し行動することができ、完全に自律的な、分離したメンタル(知的)な人間として、自分を見なし、人間の存在そのものが、考え、測ることのできる能力から発するとして、それと自分自身を同一認するのである。これも同様に、人間とマインド(誠心)の間に存在する真の関係の影にすぎないのである。
人間のマインド(識心)は、人によって多少は異なるが、敏感な器具であり、体である。それによってメンタル界に接触し、それを知ることができる。メンタル界、つまりマインドベルトは無限に広がっており、あらゆるメンタル的体験の回路として機能するのである。
人間がこれに気づくとき、テレパシー(思念伝達)がいかにこの関係の自然な結果であるかを理解するようになるだろう。そして相互のコミュニケーションと理解の新しい時代が始まるだろう。神経組織は、魂とその器〔*〕の間をつなぐリンク(輪)として、それによって転生している魂が肉体人間をしっかりとつかみ、己自身を反映する手段として、理解されるようになるだろう。
このようにして、意識、すなわち魂の特性は拡大し成長し、その光をすべての界に投射して、人間を神の子としての本来の運命に目覚めさせていく。(『覚者は語る』―意識の成長―p.330-332)
〔*〕器=パーソナリティー、メンタル体、アストラル体、肉体。