現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2006年 12月 平和への最短の道筋はエルサレムを通る

平和への最短の道筋はエルサレムを通る

アダム・パーソンスによる英国国教会主教へのインタビュー

パレスチナおよび認知された故国における正義のためのキャンペーンを行う人々の中で、リア・アブ・エル-アサール主教ほどの適格者は極めて少ない。1998年以来、英国国教会主教である彼は、「1人5役」を自称する。彼は、世界で最も紛争に悩まされている共同体の一つ、エルサレムに奉仕するパレスチナ人であり、アラブ人、クリスチャン、英国国教徒、そしてイスラエル市民なのである。「ここは英国国教信仰団体における最も楽な主教管区ではないのです」と彼は言う。
彼は41年もの間、イスラエル、パレスチナ、レバノン、ヨルダン、およびシリヤを管轄する聖職者として勤めた後で、多数派であるイスラム教徒の中でパレスチナ人キリスト教徒として、そしてまたユダヤ国家の中のアラブ系イスラエル人として生活してきた。彼は、イスラエルで、最長の国際旅行禁止令に耐え、反ユダヤ主義者(パレスチナ人もユダヤ人と同じセム族であるにもかかわらず)で国家の安全に対する脅威であるとして非難されてきた。そしてまた聖地に残っているほとんどのキリスト教徒が国外に退出するのを見てきた。しかし、紛争発生に対する彼の解決法は単純である。
2006年9月のトニー・ブレア氏との会談で、リア主教はエルサレム問題を再び取り上げることをイギリス政府に要求した。「中東における平和への最短の道筋は、エルサレムを通してです。いったん平和がエルサレムに来れば、平和は世界にやって来るのです」と彼は言う。
2006年10月、紛争に関する一連の話し合いのためにロンドンを訪問した際に、リア主教は--力強い中東アクセントの英語でしばしば詩的な展望を語る60代の魅力的な人物であるが--彼の混合のアイデンティティーが「二つの共同体間の架け橋を形成する」稀な能力を彼に付与しているのを認めた。しかしながら、その要求は、「教会内で得られる手段ではどうにもならないものであり、あるいはまた個人の手に負えるものでもない。私は、そこでは牧師であり、社会的・政治的人間であり、架け橋であり、教会を存続させるための資金を調達して教会を運営する人であり、他の人々と共に平和と正義と調和を模索する人なのです。容易な仕事ではありません」と、言う。
1970年代以来ずっと彼は、紛争に関する詳細な知識があったために、戦争の原因、平和的定住のための問題解決法、および平和を求める教会や宗教の役割についての講演者として世界中から招待された。「そして現在は、イスラム教徒と他の世界に関する最近の情勢のゆえに、私はしばしば共存と対決に関して語ることを頼まれるのです。私は対決のためでなく共存のためにいるのです。他者と対決することでは、世界に平和をもたらすことはできません。それどころか、ブッシュ“大統領”が戦争をすることで安全な場所になると考えているこの世界は、決して安全な世界ではありません。私たちは明けても暮れてもそれを見ているのです」と彼は言っている。
パレスチナではいつも正義のためのキャンペーンをしているのかと質問されると、リアー司教は、分割の結果起きたアラブ‐イスラエル戦争中の1948年にレバノンに逃れた11歳の時、家族と離れ、歩いて故郷に帰ろうと決意したと言う。「それが私の人間としての権利だからです」と。そのような年齢でも「私の眼は現実の状況を見つめていたのです」と語っている。妹と徒歩で何マイルも歩き、偽名を用い法律を犯して国境を越え、彼はナザレに居住を再申請して、それ以来ずっとそこに留まっている。ナザレは、「すべての人たちがお互いに顔見知りの約1万人の人々の住む静かな小さな町」から、一晩で約6万人の「都市」に変貌したという。
リア主教が主張するエルサレムの普遍的な重要性を理解するためには、1947年の国連分割計画の下での、その都市の固有の立場を認める必要がある。提案されたアラブ地域とユダヤの地域のための国境線は周到に定められたのであるが、エルサレムは「分離都市」であると宣言された。そこは想定上の国際都市で、計画されたユダヤ国でもアラブ国のいずれの部分でもなかった。それは、リア主教が考えているようなすべての主要な信仰と、それらが共有する宗教の歴史が創る「美しいモザイク」を保存することが意図されていたのである。エルサレムの東側つまり旧市街は壁に囲まれて四つの地域に分割されている。一つは聖なるモスクを有するイスラム教徒の地域であり、それから様々な有名なシナゴーグのあるユダヤ人の地域、西側にはアルメニア人の地域、有名な聖墳墓教会のあるキリスト教徒の地域がある。
しかしながら1949年に戦争が終わった後、その計画は実施されることはなく、エルサレムは二つに分割されて、西側はイスラエルに支配され、東側のエルサレムはヨルダンに占拠されてしまった。すべてのユダヤ人住居は旧市街から排除され、多くのシナゴーグが破壊され、ユダヤ人地域はブルドーザーでならされた。その時、西エルサレムのアラブの人々の中から多くの難民が東エルサレムに逃れてきたのである。
リア主教は現在それを「分割された都市」、不信感に満ちた内紛状態にある富める者と貧しい者のるつぼと称し、比較的富裕でイスラエルの資金提供を受けている西側と、観光客と巡礼者のために有名であるだけでなく、その高い失業率や貧困、そして戸外で働くお針子や、最近の内輪もめや暴力などで有名な経済的に恵まれない東側の地域について説明する。リア主教は次のように述べている。「東エルサレムには非常に少数のユダヤ人だけが来て、極めて僅かなアラブ人だけが西ヨーロッパにはやって来ます。また両方の側に心理的な分離感があるのです。物事が平穏のときには旧市街には人々が集まり、巡礼もやって来ます。しかしそこでは、数日間でも絶えず戦争があって、世界中から旅行客のキャンセルがあり、観光事業は成り立たなくなり、人々は破産して蓄えを消費するばかりです。彼らはホテルやその他の市民税を支払わなければなりません。そしてこれが共同体全体に影響しているのです」
この状況は、イスラエルがエルサレム全市を占領して支配力を確立した1967年の6日戦争にさかのぼる。国際共同体や国連安全保障決議が、これは国際法の侵害であると宣言したのにもかかわらず効果はなかった。東エルサレムの状態に関する最終事項は、将来のイスラエル--パレスチナ間交渉によって決定すべきであると、彼らは言った。それにもかかわらずイスラエルは1980年に、エルサレムを「永遠の、分割されない」イスラエルの首都であると宣言する基本法を制定し、かくして統合されたエルサレムの状態を正式に認めたのである。ほとんどすべての国連加盟国は、その国の代表部をこの都市から引き揚げて、共犯でないことを示すためにテルアビブに大使館を移転した。しかしながら、国会のようなイスラエル政府の主要ビルディングはエルサレムに残ったままであり、そして現在のイスラエルの文筆家のほとんどは、東エルサレムについて言及するときには固有名詞としてのEではなく小文字の「e」を用い自国の一部という意味に使っている。一方、1967年の都市の統合は、イスラエル国の祝日として示されることで存続している。
エルサレムの未解決の状態は、それゆえに、アラブ‐イスラエル紛争の核心である。パレスチナ国家の権威筋は、「東エルサレム」はいずれパレスチナ国の首都でなければならないと主張する。しかし、イスラエルは公然とこの可能性を拒否し、エルサレムは「イスラエルの統治下にある分割不可能な都市」であり、そして「イスラエルの永遠の首都」であると宣言する。1998年、イスラエルは付近の町を併合してエルサレムを膨張させるという物議をかもす計画を発表した。パレスチナにこれまで代替案として提案した唯一の首都は、2000年のアブ・ディスであった。これはイスラエルが祝儀として用いた粗末な貧しい村である。
「エルサレムは現在分離壁によって閉鎖されています。わずかな人しか来ることができません。誰も自由に来ることができないのです。東エルサレムはいわば死ぬままに放置されているのです」とリア主教は言う。その物議をかもしているイスラエルの壁は、2002年から建造されているが、エルサレムとヨルダン川西岸の周囲のアラブとユダヤ地方の間を分離する障壁の先駆けとなった。自分たちの土地から締め出された何百というパレスチナの農夫や商人、公共のサービスや保護、学校、職場から締め出された壁とイスラエルの間に住む推定21万人のパレスチナ人と共に、国連は壁の設置は違法であり「併合という不法行為」と同じであると非難し、一方、正義に関する国際法廷は、国際法違反であると宣言した。
今日のヨルダン川西岸地域の生活はひどいもので、一日一ドルしか収入のない、飢えに直面する多くの難民がいるガザ地区の状況を“悲惨そのもの”と説明する。リア主教は「屈辱的なチェックポイント」、引き裂かれた道路、完全な破壊、根こそぎにされた果樹園、破壊された発電所、閉鎖された国境の駅、粉ミルクも底をついたガザの教会病院について語ったが、それらについて、「世界はただ見ているだけで、何もしない」と言う。「彼らは貧困に打ちのめされた人々です。ある人たちは、『死んだ方が生きているよりましだ』と言います。『このような生活では、生きている価値はない』と言っているのです」
主教の話の多くは、ヨルダン川西岸地域のパレスチナ人が直面している日々の生活の低落状況を物語っている。ある若者は検問所で入国を拒否されて結婚式に間に合わなかった、と言う。リア主教自身、ラマラの別の結婚式への途中で戦車と近くの戦闘を通り抜けることができなかったと言う。そこで彼は自分の車を捨て、サイレンの音を響かせて走る救急車の後ろに怪我人のふりをして乗って、祭式を行ったと語った。「これは私が外交官の立場にある‘重要人物’だからできたのです。他の人の場合にはどうなると思いますか?」。
リア主教の率直な注釈はずばりこう理解することができる。「中東のすべての紛争はパレスチナの領土に関するものです。そしてその中心は『エルサレム』なのです。エルサレム問題を解決できるような方法を見いだすことができるなら、すべての紛争は解決できるでしょう。そしてひとたびパレスチナとイスラエルで解決できれば、アラブ世界全体の問題は解決できるでしょう・・・『その時』パレスチナがアラブ世界の架け橋となり、アラブ世界は世界のイスラム教共同体の架け橋になるでしょう。それが、私がエルサレムの平和が世界に平和をもたらす、ということの理由です」と彼は語る。彼の意見によれば、たった一つの解決法があるが、それはイスラエルの手中にある。彼は言う、「占領地から撤退しなさい。引き渡しなさい。自分も生き、そして相手も生かしなさい。それが進む方法です。他に方法はありません」と。平和に向けての第一歩は、イスラエルが1967年4月の国境線に撤退することである、とリア主教は言っている。換言すれば、ヨルダン川西岸地帯、ガザ、およびエルサレムを彼らの支配下に置いた6日戦争以前に、イスラエルが占領していた土地まで撤退することである。「あるユダヤ人はパレスチナに住み続けることを決めるかもしれません。彼らはパレスチナ人になる申請をすることができます。私はアラブ系パレスチナ人です。しかし私は、イスラエル国のイスラエル市民です。イスラエル国には、130万人のアラブ系パレスチナ市民がいます。それで、あるユダヤ人がパレスチナ人として住み続けることを望んだら、それは非常に素晴らしいことではありませんか?」
彼によれば、第二のステップは、イスラエルとパレスチナが連邦政府または連合国の可能性を検討するチームに関するものである。もしこれが可能であれば、彼らは「中東のスイスになることができ」、二つの国の国境がオープンになる。でなければ、少なくとも聖地には本来のキリスト教徒はいなくなるだろう。そして「生きた信仰は生命のない石と彼らが移入した管理人のみによって代表されるでしょう」と彼は言う。この理由で、2003年に導入された大層誇るべき平和への『ロードマップ』は、エルサレムの重要性についての言及がなく、個々のパレスチナ人が故郷に帰る権利も与えられていないのであるが、リア主教の意見によればそれは「地図のない道路であり、また道路のない地図である」と言う。もし自治権のある国家がパレスチナに戻ってくるのであれば、国外に住んでいるパレスチナ人の80%以上の人が直ちに故郷に帰ってくるだろう、と。紫色の職務用のシャツを着用して胸部に大きな輝く十字架を下げた主教の話を聞いていると、この様に率直な政治的見解を持つことは非常に不自然であるように思われる。しかし、リア主教は、教会や宗教は人権擁護のための運動を行う中心的役割があるという態度を断固として貫いている。「私たちは人々が十字架にかかっているのを遠くから見ていることができないのです」と、彼は聖書の物語の中の十字架上のキリストを静かに眺めている人々を引用して語る。「〔教会は〕、平和、正義、真理、癒し、そして調和の追求に対して直接前向きに取り組むために召集されているのです・・・。私たちは、戦争が平和をもたらすかもしれないと考える政治家とは全く異なる使命を持っているのです。私たちの意見では、平和のみが平和をもたらすのです。平和への道は平和なのです・・・、それ以外の道は無いのです」と彼は言う。
もし人々がこのことを認めるのを教会が助けようというのであれば、「地上で起きている実態を彼らと分かち合い」、そして、彼らが状況の複雑性を理解するのを助けなければならない。「事実とは何でしょうか? 人々はそれを聞いていないのです。西側諸国では、新聞紙上に1インチ平方の紙面の新聞記事でさえも滅多に掲載されることはありません。時として何千人もの人が殺害されると、多分掲載されるでしょう。しかし、昨日ガザで17名が殺されましたが、そのことは報道されませんでした。またそれ以前の事件も報道されませんでした。何が起きたのかを世界に知らせ、そのことによってその状況に関する考え方を変えてこの紛争と苦痛および死を免れさせる援助を行うこと、私はこれが教会の使命の一部分だと信じています」と語る。
「私たちは子供たちの教育から始めなければなりません」とリア主教は言う。1996年に彼は、イスラム教徒とキリスト教徒共学のインターフェイス高等学校をナザレに開校した。そこでは先生が、学生に対して彼らの国が直面する問題を学習すべきことを絶えず強調する。
リア主教の高等学校は非常に成功している。その学校の生徒は、10年間で170名から1,400名に増加して、イスラエルの学校と比較してもアカデミックな面で最高のランク付けをされている。さらに彼の新しい夢は、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒が、すべて3歳から共に教育を受け始めるこの種の最初の学校を中東に開校することである。
彼は次のように言っている。「これまで、教育は、ユダヤ教徒だけ、アラブ人だけ、という具合に隔離されています。キリスト教徒とイスラム教徒はある学校では一緒に教育を受けています。しかしそれ以外では、ユダヤ人は一方の側、アラブ人は別の側にいます。もし彼らを、17歳または18歳になって大学に通学するまでに、このように確立されたアイディアによって育てるならば、規格統一された関係性の立場を取ることはありません。彼らが小さいとき彼らを他の子供たちのところに連れて行って彼らに理解してもらい、他人の中の『他者(otherness)』 を認知させる手助けをして、その事を通して私たちが家族としての係わり合いをもつようになることを、私たちは願っています」彼は言う、「学校はアラブ地区と、ユダヤ地区の『二つのナザレ』の間に設立されるでしょう。3歳の子供たちは独りではなく両親と一緒に通学するのです。そして保護者会や保護者の日には、互いに会いそして他人のお祭りを祝うために別々のコミュニティーから大人たちを連れてきます」。
1968年という初期のころリアー主教は、ナザレに住んでいる仲間のキリスト教徒との関係で、ナザレを訪問する数多くの巡礼者たちの無知の矯正手段としての『ナザレ人との面会』と称するプロジェクトに着手した。世界中の巡礼者たちを招待して、彼らの教会や地方のキリスト教徒を訪問させることによって、ガリラヤが直面する危機のメッセージをより多くの人に伝えることを可能にした。彼の同僚の西欧の多くの聖職者が認識していなくても、「ナザレはもはや、マリアとヨセフが知っていた眠れる小さな村ではなく、私たちの存在そのものを脅かす現代の混乱の中に巻き込まれているのです」と、言う。
リア・アブ・エル―アサール主教のような政治的に充実した情熱的な人と話していると、その人が実際はカンタベリー大主教と直接関係のある高位のキリスト教聖職者であるということをすぐ忘れてしまう。彼の言葉には、アイデンティティー、民族性、および現今の多くの戦争の核心の問題が染み込んでいる。それでも彼の問題解決法には、基本的な人道主義と無邪気さがあり、そこには、痛烈な皮肉や「共存と調和」の必要に対する彼の主張からのレトリック的な揺れはない。彼は以下のように言っている、「私にはもはや聖地に対する何の言及もありません、『穴だらけの土地として言及する以外は!』。平和、正義、調和があるときにだけ、聖地は存在するでしょう。これは(パレスチナの)人々の願望であるだけでなく、世界中の人々の願望でもあるのです。その時まで、『聖なる方の土地』とだけ呼ばれるでしょう」。紛争はその時までますます凄まじくなるかもしれないことに、彼は同意する。しかし彼は付け加えて言う「夜の最も暗い時は夜明け前の暗闇に過ぎません・・・今は非常に暗くなりつつあります。しかし私は夜明け前には少しばかりもっと暗くなるのではないかと恐れています。しかし、決して希望を失いません。決して私たちは希望をなくすことはできません」と。

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