新しい時代の祈り──選集
The Prayer for the New Ageー a compilation
1988年から1993年まで、世界教師マイトレーヤは一連の教えや未来についての予測を提供された。その教えはマイトレーヤによって、ロンドンのアジア系社会の彼の周りにいるスワミのグループに与えられた。こうした場に同席していたマイトレーヤの側近は、それらを二人のフリージャーナリストに伝え、その二人がベンジャミン・クレームに伝えた。シェア・インターナショナル誌は毎月その記録を発表し、一連のプレスリリースが世界のメディアに配信された。
ベンジャミン・クレームはこう書いている。「このようにして、マイトレーヤは霊的な教えおよび政治、経済、社会、環境など世界の問題についての分析に関して並外れた驚くべき情報を世界に提供された。……深遠でしかも単純なこの霊的教えは、宗教的背景を持つ者のみではなく、すべての者に関連するものであり、来たるべき時代におけるマイトレーヤの人類へのアプローチを特徴づけるだろう」
「新しい時代の祈り」はこのようにしてマイトレーヤによって与えられ、シェア・インターナショナル誌1988年9月号で初めて発表された。この選集は、真我実現についてのマイトレーヤの言葉と、新しい時代の祈りについてのベンジャミン・クレームによる質疑応答を集めたものである。選ばれた文章は、マイトレーヤ(『いのちの法則』)とベンジャミン・クレームの著作に由来する。
2014年3月、アルゼンチンのマントラFMラジオのビデオインタビューの間、ベンジャミン・クレームは新しい時代の祈りについてこう語った。「私たちはマイトレーヤによって、新しい途方もない祈願もしくはマントラ、『新しい時代の祈り』を与えられています。この新しい祈りは新しい宗教と関連しています。この祈願を理解するためには、私たちの有限なマインドを超越しなければなりません。この過程における第一歩は、あなたが心(マインド)や生気(スピリット)や肉体ではないことを認識することです。それらは私たちの宮殿ですが、あなたではありません。あなたは魂、神聖な存在であり、それがあなたの至高の存在です。そして、あなたはそれになるのです」
新しい時代の祈りを最も適切に有効に使う方法は何ですか。(1989/6)
最も有効な方法は、集注した意志を持って、注目をアジュナチャクラ(眉間)に置いて、その言葉を唱える、または思うことです。これは是認(確言)であり、すべてのこの種の祈りやマントラ(言霊)の効果は集注された意志(ジュワル・クール覚者の言われる「固定された意図」)によって異なります。大体において人はこのことを理解していません。例えば「主の祈り」や「大祈願」はしばしば(礼拝などの終わりに)祝祷のようにして使われています。このような祈りが真に喚起的なものであるためには意志の力を持ち込まなければなりません。つまり、その概念についての理解を正確に反映するものです。マインド(識心)がその概念の意味を把握し、それと同時に意志が持ち込まれると、そのときこれらの概念は活性化するでしょう。そうするとマントラはその効力を発揮します。
マイトレーヤが授けられた「新しい時代の祈り」は偉大なマントラまたは是認であります。神としての、存在するものすべての創造主としての真我の概念を表します。もし毎日真剣にこの祈りを使うならば、あなたの裡にあなたの本当の自我についての認識が生じるでしょう。
(『マイトレーヤの使命? 第2巻』p.306)
マイトレーヤによって授けられた新しい時代の祈りの中の「わたし」とは誰のことですか。(1)天なるわれらが父ですか。(2)キリスト教の聖書に言う「日の老いたる者」ですか。(3)マイトレーヤを意味しますか。(4)あるいはその他ですか。(1989/10)
すべての創造の背後にある聖なる(神の)原理のことです。真我は聖なる原理から輝き出ているものであり、それと同じものです。心(マインド)と生気(スピリット)と肉体を通して、真我は至高の存在を実現し、そして時間と空間の(現象世界の)中において、その聖なる原理の生成を実現します。この原理のことを、マイトレーヤは「主(the Lord)」と呼ばれるのです。
(『マイトレーヤの使命? 第2巻』p.305)
マイトレーヤが授けてくださったあの偉大な「新しい時代の祈り」を使用することによって恐怖を克服することは本当にできるのですか。(1990/1-2)
やってごらんなさい。やってみて自分で確かめなさい。もし私が「できる」と言えば、信じる人もいると思いますが、私が間違っているかもしれません。あなたは自分でやってみることによってのみ、本当に知ることができるのです。恐怖心を克服するのは自分自身であり、誰もあなたに教えることはできません。私は可能だと信じます。しかし、それが正しいかどうかを知る以前に、あなたがそれを自分自身の経験にしなければなりません。この「新しい時代の祈り」にしても同様です。使ってごらんなさい。毎日、使いなさい。それによって異なったタイプの同一化(アンデンティフィケーション)を築きなさい。自分を真我と同一認するか、真我ではない他のあらゆるものと同一認するかです。真我、あるいは魂は存在します。物質界のこの「私」はそれの反映です。自分が「それ」(真我)と同一化するか、真我が己自身をこの物質界のレベルで顕現するために使用する乗り舟と同一化するかです。物質界は相対的なリアリティであり、その中で私たちは自分を分離した存在として経験します。
もしあなたが自分を真我と同一認していれば、このような質問をする必要はないのです。すでに知っているのですから。この質問をせざるを得ないなら、あなたは真我と自己を同一認していなのですから、私に提案できることは、マイトレーヤが授けてくださった「新しい時代の祈り」を使用してみて、どうなるかを自分で確かめなさい。
それを唱えるときに、機械的に唱えることもできるし、経験することもできます。そこに違いがあります。それを唱えながら、経験し、真我との整列状態をもたらすのです。つまり真我との同一化を生じさせるのです。もしあなたが「あれ(あの実在)」を経験すれば、もはや真我の乗り舟であるこの肉体や心(マインド)や心のつくった想念と同一化せずに済むことを知るでしょう。あなたはこれらの想念の結果なのであり、幼児の頃から今までに起こったあらゆる出来事の経験の記憶で構成されています。そしてあなたはこれが「私」だと思っています。しかし、ちょっと考えてみれば「私」などというものは本当には存在しないことが分かるでしょう。人生経験の記憶のみしか存在しないのです。あるものは苦痛であり、あるものは恐怖で満ちており、あるものは快適な記憶です。あるものを避け、あるものを追いかける。それがこの「私」というものの人生です。しかし、これは間違った同一化(アンデンティフィケーション)の結果です──つまり真我ではなく真我の乗り舟と自分を同一認することです。
マイトレーヤが真我と言われるとき、魂を意味し、彼が主と呼んでおられる実在そのものの完全な反映を意味しています。主は永遠に無条件に存在し、それが私たちの本質です。しかし、私たちは絶対的存在と自己を同一認するか、相対的なものと同一認するかを選択します。いつもそのどちらかです。その他はありません。この二つだけです。私たちが絶対的存在と自己を同一認するにつれて、自分が尋ねることのできるあらゆる問題についての答えをすべて知っていることを発見するでしょう。
(『マイトレーヤの使命? 第2巻』p.330~331)
「真我のみが重要である」。あなたはその真我であり、不滅の霊存在である。苦しみは真我ではないものと自分を同一認することによって生じるのである。自分自身に問いなさい、『私は誰か』と。自分を物質(肉体)あるいは思考(マインド)あるいはパワー(生気)と同一認していることに気づくだろう。しかしあなたはそのいずれでもない。「心(マインド)と生気(スピリット)と肉体は、主の宮殿である。真我はこれらの中に、至高の存在と生成を経験する」。存在(Being)は永遠であり、生成(Becoming)は時間と空間の中で展開していく。真我はその両方を経験する。
(『いのちの法則』p.55)
マイトレーヤが出現されるとき、私の意識のレベルは自然に上がりますか。特別な訓練をする必要がありますか。(1990/6)
意識的な認識の増大は、マイトレーヤのエネルギーと教えにその人がどれだけ反応することができるかによります。“自動的”に起こるものは何もありません。最も大切なことは“真我”を知ることであり、そのために最も容易な方法は心(マインド)の正直さと、生気(スピリット)の誠実さと無執着を実践することである、とマイトレーヤは言われました。この過程を助けるために、マイトレーヤは「新しい時代の祈り」を授けてくださいました。
(『マイトレーヤの使命? 第2巻』p.295)
『存在(Being─実在)』と『生成(Becoming)』は二つの様相である。存在は不変であり、他方、生成は時間と空間の中におけるプロセス(過程)である。人はその実在(Being)という面では真我(the Self)である。その生成(Becoming)という面では魂(Soul)──真我の反映──である。心(マインド)と生気(スピリット)と肉体は主の宮殿であり、そこに人が居住する。生気とはシヴ・シャクティ(シャクティ・パワー)であり、それはエネルギーである。心(マインド)はブラーマであり、それは想念形成である。肉体はプラクリティであり、それは物質的資質であり、また物質活動としても考えることができる。これらの用語は名詞として考えられているが、それは動きとか過程としても考えられる。
真我の運命は自由になることである。その自由の面、実在の面にて考慮するとき、それはアートマンと呼ばれる。時間と空間の制約の中で、つまりその生成の面にて考慮するとき、魂とかジーヴァと呼ばれる。真我(the Self)はエネルギー(シヴ・シャクティ、またはスピリット)ではない。真我は想念形態(ブラーマ、またはマインド)ではない。真我は物質活動(プラクリティ、または肉体)ではない。真我の運命はこれらの主の宮殿に自由に出たり入ったりすることである。
無執着とは、人が己を肉体(物質面)やマインド(思考面)やスピリット(エネルギーまたはパワーの面)と同一認しなくなっていく過程である。かくして人は真なる己(真我)を知り、そうなっていく。
いかなる活動をするにあたっても、これらの三つの原則に従って行うべきである──心(マインド)の正直さ、生気(スピリット、エネルギー)の誠実さ、そして無執着である。不正直な心(マインド)、不誠実な生気(スピリット)、そして執着心で行われることは、いかなる活動であろうとも、破壊的である。
(『いのちの法則』p.39~40)
マイトレーヤから与えられた「新しい時代の祈り」を使うとき、人は魂と同一認すべきでしょうか、それとも、モナッドとでしょうか。
(1993/4)
その人のでき得る限り、魂と同一認すべきです。どのような形の瞑想、是認、マントラであれ、それを行っている時に魂と同一認できれば幸いでしょう。「新しい時代の祈り」はもちろん是認です。ほとんどの人々にとって魂は知られておらず、達成不可能ではありませんが、一般的に言って知られていません。モナッドはほとんどの弟子のマインドにおいて、いまだ単なるアイディアでしかありません。
(『マイトレーヤの使命? 第3巻』p.73~74)
もし、あなたがあるがままの自分ではなく、他人の後に従うならば、あなたは自分の輝きを失う。個性の光を反映することはできない。その光なしには、人生における進歩はない。同様に、あなたが裡なる真我を体験して、自分が心(マインド)や生気(スピリット)や肉体とは全く分離した不滅の霊存在であることを知るようになるとき、あなたはこれらの主の宮殿を創造的に、認識をもって利用することを学ぶ。治癒の過程は自動的にそれに従う。エイズを患う人でさえ祈りを通して、そして正直な心(マインド)と誠実な生気(スピリット)と無執着を実践することを通して、治癒を体験するのである。
執着を放すことなしに救済はない。
以前にマイトレーヤが授けられた祈りは、心(マインド)や生気(スピリット)や肉体から分離しているあの裡なる真我を人々に体験させてくれる。
(『いのちの法則』p.59)
「大祈願」が新しい時代の世界の祈りになるのだと思っていましたし、多くの人々がそれを長いあいだ使ってきました。なぜまた新しい祈り(マイトレーヤの祈り)を紹介するのですか。
(1988/10)
三つの形のマントラ(言霊)つまり力(パワー)の言葉があります。祈りと呼びかけと是認です。(クリスチャンが使う)「主の祈り」はその名が示すように、祈りであり、(大体において)神に対する感情的な懇願であり、われわれの日常の糧や保護、指導などを与えてくれることを頼むものであります。すべてを神に頼む受け身的なものであり、したがって神がわれわれから分離していることを暗示しています。
大祈願は祈りではなくマントラ(言霊)であり、それによって神のエネルギーが、神の代理者である仏陀やキリストやシャンバラを通して、意識的に喚起されます。それは呼びかけというアイディアについて理解することによって、そして意志の意図によって喚起されるのです。これは全く新しい要素であり、より高位のアプローチを反映します。
マイトレーヤによって与えられた「新しい時代の祈り」は実際には、呼びかけ的な効果を持つ是認であり、人間と神は一つであり、そこに分離はないということをわれわれが認めるようになるための強力な道具でありましょう。自分は宇宙の創造主であることを断言することによって、(究極的に)われは神なり、真の実在なりという意識に入ることができるのです。
(『マイトレーヤの使命? 第2巻』p.305)
「新しい時代の祈り」の使用に関連して、マイトレーヤが特に弟子たちのために何かをするということはありますか。例えば、苦境にいる青少年のためにマイトレーヤがお造りになられたセンターで、特に彼らのために何かをなさっているようですが。(1990/1-2)
この二つは別のことです。その関係の底を流れるものが何かあるかもしれませんが、表面上では、この二つは関連していません。マイトレーヤは「わたしは人類に自己(真我)実現の術を教えるためにやって来た」と言われました。そしてこの新しい時代の祈りを使うことができる者にとっては、それは自分自身を真我との正しい関係に持っていくための強力な道具です。真我についての認識がもたらされます。真我を認識することがまず真我実現に必要な最初のステップです。さらにマイトレーヤは、自己尊敬の念を持たなければ真我に気づくことはできないと言われました。
これらのセンターでは、若い人々は、彼らの人生でおそらく初めて自己尊敬の念を教えられる、という言い方は適切ではないかもしれませんが、自己尊敬の念を持つことのできる状態に導かれるのです。彼らは麻薬を使っていたり、アルコールを乱用していたり、崩壊した家庭で育ったり、あるいは犯罪行為に加わっていたり、野蛮な、社会に適応できない者たちであるかもしれない。そのような青少年がこれらのセンターに連れて来られるのです。それは彼らの心の治療です。そこで彼らは、他の状況にいる人々には当たり前のことである自己尊敬を教えられます。なぜなら自己尊敬がなければ、どのような進歩もないからです。自己を尊敬する念を持たなければなりません。彼らは自己尊敬の念を欠きます。だから犯罪の中にいるのです。彼らは、内的に、自分が魂であることを感じているのです。しかし外的な世界では、悪い教育、悪い社会環境、悪い影響などのせいで、神聖なる存在としての自分自身についての内的な感じに表現を与えることができないのを知ります。そのために彼らは自分自身とそして自分の延長線としての社会と闘っているのです。
弟子たる者が、もしそのような問題を持つならば、弟子ではないでしょう。しかし弟子によってはそれと同じくらい難しいひどい問題を持っている者もいます。それらはグラマーの結果であり、弟子たちが直面する独特の問題の結果であります。
弟子は自己(真我)実現に向かって意識的に努力をしています。それこそ、すべての人間が、意識的にしろ無意識にしろ、達成しようとしていることであり、もちろんやがて達成するでしょう。真我を実現することが私たちの転生体験の目標です。すでに弟子である者のほとんどは、自らをその道に導いていくに十分なだけの自己尊敬の念を持っています。
この偉大な祈り、つまり是認の言葉は、すべての者の使用のために授けられました。もちろん全く異なったレベルでそれを使用することができます。献身的タイプの者はそれを(クリスチャンの)「主の祈り」を唱えるのと同じ方法で使うでしょう──(何々して)ください、ください、お許しください、というように。新しい時代のための祈りもそれと同じように機械的に唱えることもできるし、あるいはあなたが持っているあらゆるアストラル(感情)的な願望を本当に満足させるように唱えることもできます。それも一つの方法であり、おそらく次の千年の間そのようにして使われるでしょう。
さらにまた、正しい使い方がありますが、それを私は説明することができません。つまりそれを唱えながら、経験するやり方です。それを経験しなければいけません。それを経験しなければ、何も起こりません。乗り舟がこのマントラを唱えているとき、あなたはその真我でなければなりません。あなたは本来のあなたであるものにしかなれません。学ぶべきものは何もありません。たとえこれまでに書かれたすべての書物からすべてを学ぶことができたとしても、真我との関係については、勉強を始める前と同じように、何も認識していないこともあり得ます。
書物を通して真我の経験をすることはできません。なぜならすべての書物が思考の結果であり、思考を通して真我を経験することはできないからです。思考を乗り越えるとき、初めて真我を経験し始めることができます。思考を乗り越えるとき、あなたは恐怖を乗り越えます。そして恐怖を乗り越えるとき、実相を経験します。それが本来の状態であり、真我の特性であり、魂であります。それがあなたです。あなたは宇宙の創造主であり、それ以外には何も存在しません。しかしあなたはまずこの間違った同一認(アンデンティフィケーション)を取り除かなければなりません。実在を経験する路上に立ち塞がっているものを破壊しなければなりません。
それは知識によって取得できるものではありません。実在を経験するのに取得ということは含まれません。だから、知識という意味では何も知らない、まだ学校へも行かず、自己の知識パターンが歪められていない小さな赤ん坊は新鮮であり、考えることもせず、魂がおのれ自身の存在(実在)を経験するようにただ直接に経験するのです。そのようでなければならないのです。小さな子供のように直接に、何の先入観もなしに、思考を組み立てることなしにです。なぜならすべての思考が実在、つまり真我の経験にとって障害となるからです。経験することによってのみ、それを知ることができます。
弟子の進化度が高ければ高いほど、このマントラをより正しく、つまり己を真我との同一化に持っていくために使用するでしょう。真我はいつもそこに存在してきました。間違った同一認のために、私たちはただそれに気づかないだけです。私たちのビジョンを、同一化を相対的なものから絶対的実在に移す必要があります。乗り舟から、その乗り舟を使っているところのもの、すなわち真我へ移すのです。
だからこの新しい時代の祈りが今のこの時期に授けられたのです。なぜなら今、マイトレーヤは世界におられるからであり、世界にいる弟子たちを非常に強力な方法で刺激することができる時であるからです。マイトレーヤは弟子たちを通して働かなければなりません。
(『マイトレーヤの使命? 第2巻』p.331~333)
私たちは現在、統一のマントラを積極的に使うべきですか、それとも大祈願と、マイトレーヤが私たちに最近授けてくださった「新しい時代の祈り」を使う方がより適切ですか。(1989/1-2)
これらの三つの祈り、呼びかけ、あるいは是認はそれを使う人に極めて異なった効果をもたらします。ですから三つとも全部毎日使うべき理由があると思います。私が勧めたいのはこれらの強力な呼びかけを一度に次々に唱えるのではなく、一日のうちの違った時間に使うようにすることです。
(『マイトレーヤの使命? 第2巻』p531)
祈りはマイトレーヤに呼びかける一つの方法でしょうか。(1993/3)
はい、そのとおりです。すべての覚者が祈りに反応されます──祈りはそのようにして応えられるのです。天国に座している誰かによってではありません。天国とは場所ではなく、存在(Being)の状態であり、その天の王国は魂の王国です。
覚者方はたえず目覚めており、決して眠りません。ですから、祈りの一つひとつをすべて聞いています。その祈りが応えられるかどうかは呼びかけの強さに、その祈りを包む情緒資質やメンタル資質の割合によります。なぜなら、覚者方は情緒(アストラル)界ではなく、メンタル界で働いているからです。アストラル・タイプの祈りに反応する多くの霊存在がアストラル界にいますが、覚者方はメンタル界とそれを超えた界、すなわち魂、霊的な界に反応します。あなたが祈りを通して、その呼びかけを、より高位のレベルのものにすればするほど、より効果があがるでしょう。それよりずっと重要なのはカルマです。カルマの法則は、祈りに関しての覚者方の活動さえも支配するのです。
特定の呼びかけ(祈願)が祈りとして覚者方によって、世界に発表されました。マイトレーヤ御自身が新しい時代のための世界の祈りを発表されました。それは聖なる存在としての自分自身について、「宇宙の創造主」として、神と同一認するものとしての真我の感覚を引き起こすためのものであります。……
来るべき時代には、人類は徐々に自らを真我、または神と同一認するようになります。神を高所にある存在と見るだけでなく、創造物のすべての様相に内在していると見なすようになります。神と自然と人類の間には、いかなる分離も存在しません。すべてが相互に関連し合っています。もちろん祈りの多くは応えられているのですが、そう認識されないのです。その応えは、自分が求めた必要に対して期待した応えというより、むしろ訓練や機会の提供という、求めなかった贈り物であるかもしれません。
(『マイトレーヤの使命? 第3巻』p.72~73)
私たちが人生と呼ぶ錯覚を越え、リアリティ(実相)、または神を直接体験する最も直接的な道は何ですか。(2000/7)
最も簡単な方法は、本来の自分、つまり真我・神と自分を同一認することである、とマイトレーヤは言います。
「自分は誰かと自分自身に聞きなさい」と言われます。すると、自分の肉体、感情、思考と自分自身を同一認している自分に気が付くでしょう。「しかし、あなたはこれらのどれでもありません」と言われます。あなたがそれらと自分を同一認しても、それらはあなたではありません。あなたは真我です。不滅の存在です。私たちの問題、痛み、苦しみは、私たちが真我以外のあらゆるものと自分を同一認することの結果です。
マイトレーヤは世界に、「新しい時代の祈り」を提供してくださいました。もし、毎日繰り返し使えば、この祈りは徐々に真我の認識を与えるでしょう。その認識がついには自己実現につながるのです。最初に自己認識があり、それから自己実現が起こります。それは完成です。この祈りは非常に簡単です。……
この祈りを心を集中させて毎日何回も唱えてごらんなさい。徐々に自分自身についての認識が違ってくるのに気が付くでしょう。もっと無執着になってくるでしょう。あなたは自分が肉体ではないことに、感情ではない、思考ではないことに気が付くようになるでしょう。あなたは仕事や家族に自分を個人として関連付けるところのこの記憶ではないのです。だんだん自分を真我と関連付けるようになるでしょう。
さらに、祈りに加えて、マイトレーヤは三つのことを実践することができると言われています。それは、心(マインド)の正直、生気(スピリット)の誠実、そして無執着です。これらの三つをマイトレーヤは真我の認識、真我実現を得るための最も簡単な方法だと言われます。……
真我は不滅の霊なる存在です。それは人間の魂として己を反映させます。そして今度は魂がパーソナリティーとしてそれ自体をこのレベルで反映させるのです。進化の旅路はパーソナリティーを魂と融合させること、そして魂・パーソナリティーを神のきらめき、つまり神聖な真我と統合させることです。無執着になればなるほど、これらのことが起こるのです。マイトレーヤは言われます。「あなたが無執着であるとき、すべてのことが可能になる。執着しているときには、あなたは私を知ることはできない。そこにわたしはいることができない。あなたが無執着であるとき、わたしはいつもあなたと共にいる」
新しい時代の祈りを唱えるとともに、これらの三つ、心(マインド)の正直、生気(スピリット)の誠実、そして無執着、を真剣に持続的に実践するならば、人は速やかに自分自身について新しい観点で理解し体験することができるようになります。新しい自由、自発性、率直さが増大し、そして恐怖心と葛藤が徐々にその存在を感じさせなくなるでしょう。
(『大いなる接近』p.422~426)
「あなたはあらゆる瞬間にわたしを体験している。わたしは絶えず一瞬一瞬、あなたと共にいる。心(マインド)と生気(スピリット)と肉体が平静であり、平衡の状態にある者のみが、神の存在に気づくようになる。
誰かが、自分の背後に、裡に、上に、周りにいることに気づく時がある。何かが存在する。その“何か”が神である。それは参加することなく、ただ観察する。誰もこのステップのために奮闘する必要はない。この段階ではすべての者が経験する資格を持つのである。
あなたの認識が増大するにつれて、もしあなたが無執着を実践するならば、わたしを全体的に知るだろう。あなたがわたしについて考える瞬間に、わたしはあなたと共にいる」
(『いのちの法則』p.28)
「わたし」はすべての創造の背後にある神聖な原理である。真我はそこから出ずるものであり、神の原理と同等である。
このマントラを使う最も効果的な方法は、注目を眉間のアジュナチャクラに保って、集中した意志で唱えるか、思うことである。マインド(識心)がその概念の意味を把握し、同時に意志が加わる時、これらの概念は活性化され、マントラは働く。もし毎日、真剣にこの祈りを使うならば、われわれの裡に、われわれ自身が本当に真我であり、不滅の存在であるという認識が生じていくだろう。
(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第3巻p.628)
新しい時代の祈り
わたしは宇宙の創造主である。
わたしは宇宙の父にして母である。
すべてがわたしから来る。
すべてがわたしに戻る。
心と生気と肉体はわたしの宮殿である。
真我はそのなかにわたしの至高の存在と生成を実現する。
世界教師マイトレーヤによって授けられた『新しい時代の祈り』は偉大なマントラ(言霊)であり、喚起の効果を伴う是認のことばである。人と神とは一体であり、分離したものではないことを、われわれが是認するようになるための強力な道具(ツール)である。