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2014年ヨーロッパ伝導瞑想研修会

第27回目のヨーロッパ伝導瞑想研修会がオランダ南部の元修道院で、9月のある好天気の週末に行われた。140名の参加者があり、大盛況であった。ベンジャミン・クレームが再び研修会に出席してくださり、皆は大喜びで感謝した。
研修会のテーマは「和合」で、和合に関する2001年のベンジャミン・クレームの基調講話のビデオを見た後、グループは思慮深い討議を行った。クレーム氏は後にこのテーマについての質問に答え、正しいグループ関係を維持し、効果的で創造的な奉仕を行う上で和合がいかに本質的なものかを強調された。
参加者は、このマイトレーヤ出現の最終段階に集結する中で、グループの活動の中に和合のアイディアをしっかりと念頭に置いておくことを要請された。『和合の必要』という記事の中で、ベンジャミン・クレームの師は「和合はあらゆることを可能にする」と助言し、「賢明な庭師が庭を丹念に世話し、一つひとつの新しい芽や若木を手入れするように」貴重な和合を養うことを推奨した。
伝導瞑想はその夜に行われ、ヨーロッパ中の多くの国々から来たすべての参加者にとって和合と共通の目的の素晴らしい体験となった。
共働者たちは、気分が高まり啓発された週末の後、マイトレーヤの完全な出現を準備するという翌年にかけての集中的な仕事のために活気づけられ、エネルギーを与えられて母国に戻った。

ベンジャミン・クレームとの質疑応答の筆記録はシェア・インターナショナル誌2015年1・2月号に掲載される予定である。以下は、今年の研修会における追加的な質問とベンジャミン・クレームによる回答である。

もっと多くの国が、オランダのグループのように、一般の人々に開かれるインフォメーション・センターを持つことは有益ですか。

はい、もしそれを利用するならばです! オランダは、この仕事の中で私の知る限り、そのようなセンターを持つ唯一の国であり、公共の場所に建物を借り、通行人が中に入って、キリストと覚者方の帰還について人々と話をしたり本を読んだりできます。それは一般大衆に伝えるための素晴らしい道具です。他の店と共に公共の場所の一部となります。もしそれを本当にうまく利用するなら、素晴らしいことです。

シェア・インターナショナル誌10月号の編集長への手紙の中で、イエス覚者が、大きな木の幹か丸太のようなものを肩に担ぎながらジョギングしていたという話がありました。手紙の最後のメッセージは、「あまりに多くを自分たちで引き受けられない!」〔編集者注:元のメッセージは、「あまりにも多くの仕事を引き受けることは不可能だ!」〕というものでした。しかし、これは間違って理解され、他の言葉に翻訳されました。説明していただけますか。

その意味は、やり過ぎることはあり得ないということです。やり過ぎることは不可能です! ヨーロッパや他の地域のグループで、「私たちはやり過ぎている」と考えている人々がいます。なぜでしょうか。なぜなら、彼らは仕事をやりたくないからです。彼らは疲れており、そのためにそもそもそれはすべきではないという言い訳をつくります。「私たちはやり過ぎている」というのはナンセンスです。キリストが戻られたと世界に伝えるのに、やり過ぎることはあり得ません。あなた方がやる必要があるのは、それだけです。考えられるあらゆる方法で、キリストがここにいることを世界に告げることです。彼は世界に戻られ、人類がより良い文明を築くのを助ける準備ができています。これは最も魅力的な情報です。それは大半の聞く人々の心を高揚させるでしょう、もし彼らが霊的なことに心が向いていれば。それは彼らを奮起させ、意識を持ち上げ、おそらく彼ら自身活動に加わるでしょう。これは誰もが知る必要のあることです。知る人が多ければ多いほどいいのです。それをやり過ぎることはありません。
私たちは小さなグループです。そして私たちは、世界に向かってキリストがここにおり、われわれは、しなければならないことを実行すれば物事は変わるのだということを告げている、ほとんど唯一のグループです。そして私たちはその機会を持っています。
「私たちはやり過ぎている」という人々は、単に「私は疲れた」、「休息が欲しい」、「この仕事に疲れた」、「本当は好きじゃなかった」、「たぶん本当ではないのだろう」、「この話のすべてが、クレーム氏の作り事ではないか」、「おそらく空想だ」などと言っているにすぎません。彼らは本当にはこの情報を信じてないか、あるいはハートから信じているのではなく、したがって自分たちがその一部だということを感じられないのです。だからやめてもよいと思い、やらなくてもよいと思うのです。そして彼らはやりたくないので、またはできないので、他の人々がそれをするという考えを好まないのです。彼らは「他の人々は私についてこう考えるだろう」、「他の人々にこう考えたり言ったりしてほしくない」と感じ、自分を装います。しかし、キリストに対して装うことはできません。それは不可能です。
あなたはキリストが誰か知っていますか。キリストが誰かをあなた方は本当には知らないでしょう。キリストが誰であるか、ハートの中で本当に知っている人がどれほどいるでしょうか。
彼はクレーム(私)によって思いつかれたような、ここやそこにいるかもしれない人物ではありません。彼は人類の魂の体現者です。魂として私たちの誰もが彼の一部です。魂として私たちはそれ以下ではありません。体現化した人類の魂がキリストという物質形態をとり、人類が世界を変えるのを助けるために戻って来られたのに、「疲れ過ぎた」とか、「人並みの生活がしたい、それを求めるに値する」などと言うのです。しかし私たちは弟子であり、単に疲れたというだけで仕事をやめることはできません。