現在位置: ホーム シェア・インターナショナル記事 2006年 10月 スコット・リッター著『イラク最高機密:国連を傷つけサダム・フセインを転覆させるための秘密の陰謀』

スコット・リッター著『イラク最高機密:国連を傷つけサダム・フセインを転覆させるための秘密の陰謀』

ベッツィー・ウィットフィルによる書評

2003年春のアメリカの性急なイラク攻撃とサダム・フセインの転覆に反対した人々は、スコット・リッター氏の最近の本を読むと、ブッシュ政権とその外交政策目標と達成手段に対する彼らの不信感が妥当であることに気付くだろう。ピューリッツァー賞を受賞したジャーナリスト、セイモア・ハーシュ氏は、この本への序文の中で、スコット・リッター氏の堅実な人柄、愛国心と勇気を証言し、出版に際して彼が受けるであろう個人攻撃の嵐を予期している。ハーシュ氏はこう述べる。

「彼(リッター)は2002年と2003年の初め、ジョージ・ブッシュ大統領とトニー・ブレア首相がイラク戦争を準備している頃、イラクには(そのような)兵器はないと何度も私たちに語っていた。戦争の最大の口実だったイラクの大量破壊兵器は存在しなかった。このような発言を繰り返すたびに、リッターはますます不人気になっていったホワイトハウスの政治屋、ワシントンのネオコン、ペンタゴンの戦争計画者、アメリカのメディア(それは少数の例外を除いて戦争を熱望していた)たちに疎まれていた」。その後ブッシュ政権が、イラクに大量破壊兵器が存在しないことを認めた少なくとも一部の理由は、リッターの本にある。この本は、UNSCOM(国連特別査察団)を失敗させ、リッターを貶めることを意図した迷路を通り抜けるおそろしく苛立たしい旅(過程)を描写している。沈黙させられないために、「イラクでの明らかな失敗」と呼ぶものに言及して、リッター氏は『シアトル・タイムス』紙への最近の記事の中で次のように述べる。「われわれはイランにおいて同じような破局に向けて突き進んでいるように思われる。何の確たる証拠もない脅威の存在(核兵器)を信じて、不明確な解決策(民主主義)を唱えるという同じ間違いを犯すことによって。」
2005年10月、リッター氏は、国際情勢におけるこのエピソードを正確に記録するために、彼の経験と観察に基づいて『イラクの最高機密』を執筆した。2003年の侵略を正当化するためのキャンペーンの中で、アメリカ政府は、イラクが大量破壊兵器を所有しており、サダム・フセインはそれを世界に向けて用いる用意があるという操作されたCIAの諜報を利用した。現在、CIAは、イラクが1991年に一方的に大量破壊兵器のすべてを破壊していたという事実を反映させるためにイラク戦争前の諜報を改訂している。
リッター氏は、国連特別査察団の仕事にとってさらに複雑で、彼が言うところの二枚舌を明らかにする一連の出来事を描写しているが、彼はそれを査察の過程が進むにつれて理解し始めることができた。様々なイラクの地に査察団を派遣したのは、イラクを武装解除するためではなく、アメリカ政府の三代(ブッシュ・シニア、ビル・クリントン、ジョージ・ブッシュ)にわたる目標†サダム・フセインを失脚させるという外交目的のためであった。
1991年に最初の湾岸戦争が終わったとき、敗北したサダム・フセインはイラク大統領の地位に留まった。イラク国民に対する彼の権威を傷つけ、政権転覆を促すため、アメリカは国連安全保障理事会決議687を推進し、イラクへの経済制裁を推し進めた。安全保障理事会の満場一致を取り付けるため、アメリカ外交官は「パラグラフ14」を考案した。これは、中東に大量破壊兵器のない地域をつく作り出そうというアメリカの目的を述べた条文であった。しかしながら、リッター氏は、これはアメリカが決して実行する意図のない「捨て条文」にすぎないと関係者から告げられたと書いている。さらに、決議687と国連特別査察団は、アメリカ政府がCIAを通じて体制変革の計画を推し進めるための「煙幕」にすぎないとも書いている。イラクは、軍縮に協力するならば経済制裁を解除すると約束された。しかしアメリカはすでに、サダム・フセインが交替しない限り決して制裁を解除しないと公言しており、イラクが決議に十分に協力すべき理由はほとんどなかった。リッター氏にとって、国連特別査察団の使命は明快で単純であった。疑わしい大量破壊兵器についての情報を集めること、査察を計画すること、国際的な査察団を集め訓練すること、そして決議687に従って査察のために敷地を訪問すること。
しかしながら、事態が進展するにつれて、それぞれの使命は単純からは程遠いことが明らかになった。CIAからの情報が間違っていることもあった。例えば、大量破壊兵器を保管していると見なされた敷地が、実際は空の汚水処理場だったこともあった。時にはイラクが敷地への入場を拒むこともあり、査察団が門で待たされていると、本部から退去指令が出ることもあった。アメリカは対立を欲しないというのが理由だった。英国の情報機関MI6とイスラエルが査察に十分な情報を集めたにもかかわらず、アメリカがそれを査察団に報告しないよう圧力をかけたこともあると、リッター氏は主張する。
すべての場合に、イラクは査察を欲せず、査察団を混乱させ、時にはスパイするために勤勉に働いた。1992年、リッター氏のチームが、大量破壊兵器に関する秘密文書が存在すると疑われていたバグダッドの軍事工業委員会(MIC)本部の調査を計画していたとき、『ニューヨーク・タイムス』紙は、ブッシュ大統領と国家安全保障顧問ブレスト・スコウクロフトによる脅迫を掲載した。それは、査察団が入場を拒絶されるならば、アメリカは本部を爆撃するというものであった。イラクが警告されその敷地が処理されたので、彼らの調査は中止された。
ある時点で、リッター氏はCIAが独自のイラク行動を覆い隠すために、実際に査察団の査察を利用していることを発見した。加えて、リッター氏は、たとえ兵器が発見されなかったとしても、査察団がイラクの武装解除を宣言することはできなかったと述べる。なぜなら破壊兵器が存在しないことを証明することは、本質的に不可能な任務だったからである。どんな噂や新しい情報も調査せねばならず、仕事には終わりがなかった。部分的な「機密情報」やCIAの無法なサボタージュにもかかわらず、査察団が仕事を続けることができたのは、国際社会が決議687を真剣に受け止めていたからであると彼は述
べる。
この恥ずべき過程の中でイラクが果たした役割について、リッター氏は次のように説明する。イラクは、物理的にすべての大量破壊兵器と兵器の製造施設を1991年に破壊していたが、それらの兵器についての大量の文書の存在を国連に隠していた。査察と経済制裁が終わった後に再建するつもりだったからである。この不誠実が明らかになったのは、1995年8月に、サダム・フセインの義理の息子フセイン・カマルがヨルダンに亡命し、サダム・フセイン打倒のために戦うと宣言したときである。イラク軍事産業委員会(MIC)の長として、カマルは大量破壊兵器に関するすべての計画に責任を負っていた。彼の亡命のニュースがバグダッドに達したとき、イラクの将軍アメール・ラシッドは国連査察団に連絡を取り、文書がフセイン・カマルの鶏農場に隠されていると告げた。リッター氏はこの文書を「1991年以来の武器査察の聖杯」と呼ぶ。なぜならそれは、国連査察団が遂にイラクの軍縮義務に対する遵守または非遵守を証明するものであったからである。しかしながら、4年以上も文書を隠していたことについて真実が語られなかったことから、アメリカ、特にCIAにとってイラクの信用性はさらに下がり、アメリカはイラクが武装解除したことを受け入れない口実をさらに得ることになった。
報告の最中、フセイン・カマルは、イラクは1991年に兵器と兵器プログラムを廃棄したと述べたが、後に、まだ大陸弾道ミサイルの青写真と製造の型を持っており、核計画情報を含んだコンピューター・ディスクに隠されていると述べた。このようにして、イラクが文書を隠した構造を突き止めることがさらなる査察の目標となり、査察団の査察の間にイラクの通信を盗聴することでそれは明らかになると思われた、とリッター氏は結論付けている。
しかし、このアイディアについてCIAからの口先の支援を取り付けることはできたが、それを実行するための装備を手に入れることは容易ではなかった。
イラクの通信を盗聴するという彼のアイディアをCIAに告げた後、CIAはバグダッドの巨大な通信装置の保管者として技術者を一人置き、CIAは国連査察団を利用して自身の目的を覆い隠すことができた。
最初から、CIAは国連査察団のチームにスパイを潜入させていた。加えて、CIAの兵器管理長が、CIAの情報に沿った査察計画を立てるのに積極的な役割を果たした。彼は、アメリカが査察団に情報を分配するときに用いた「秘密のリス」方式について描写している。彼らは査察団のスタッフに対してアメリカ人のみの報告会を開き、アメリカ人以外の人々を怒らせ、査察団はアメリカの運営する、「CIAに大きな影響を受けた」機関であるとの印象を作り上げた。アメリカは、査察団の査察チームがイラクに配置される前に集合し、アメリカの情報機関の情報を与えられるマナマとバーレーンの米国大使館の中に「入り口」組織を設立した。彼らは英国、オーストラリア、カナダからの情報部門の代表者を「入り口」で働くよう招いたが、CIAは適切で安全な情報の利用許可を持つと彼らが見なす人々に情報を制限することによって、アメリカ人以外を排除した。リッター氏は、査察団の独立性の必要についてアメリカ国務省と対立し、彼らの協力を約束させたものの、その1ヵ月後、査察団との情報調整の責任者であったCIAチームの長ジョン・バード氏は、再び査察団の査察する地域を指示し始めた。
本の最終章「査察の死」の中でリッター氏は、彼が最後にCIAの兵器管理部門の長で彼が「カウンセラー」と呼ぶ人物と面会したときのことを描写している。それは1998年8月だった。リッター氏はイラクから撤退し、査察はもはや査察団議長リチャード・バルターとアメリカ政府から支持されていないと告げられた。リッター氏によれば、カウンセラーは、ホワイトハウスの語られない政策は決してイラクの武装解除ではなく、それは「武装解除という幻想にすぎない」と述べている。国連査察団の真の仕事は、「経済制裁の継続を合法化するために毎年2冊の報告書を安全保障理事会に提出すること」にすぎない。対立を生み出すための査察は、制裁に対する安全保障理事会の合意を脅かさないように中止された。リッター氏が「彼らは、われわれがどうやって使命を達成することを望んでいるのか」と質問すると、カウンセラーはこう答えたという。「彼らはそれを望んでいない」

Scott Ritter, Iraq Confidential: The untold story of the intelligence conspiracy to undermine the UN and overthrow Saddam Hussein(『イラク最高機密:国連を傷つけサダム・フセインを転覆させるための秘密の陰謀』). I.B. Tauris & Co Ltd, London, UK, 2005. First Nation Books, New York, USA, 2005. (邦訳なし)