マイトレーヤ出現の経緯
以下は、本誌で報告されたマイトレーヤ出現の諸段階について年代順に手短にまとめたものである。
1977年7月8日:マイトレーヤはヒマラヤ山中の標高6,000メートルにある隠遁地を出る。身体を順応させるためにパキスタン平原で数日間を過ごす。ロンドンに向けて飛行機でカラチを出発。
1977年7月19日:ロンドンに到着。ロンドン東部のブリックレーン地区に定住する。後に、ロンドンの病院で夜警として働く。
1977年9月6日:ロンドンのフレンドハウスでの公開講演の間、最初の公開メッセージがマイトレーヤによってベンジャミン・クレームに(メンタル・テレパシーで)伝えられた。1982年5月27日を最後に、計140信のメッセージがクレーム氏のロンドン講演会で伝えられた。(シェア・ジャパン出版刊『いのちの水を運ぶ者』参照)
1977年11月:マイトレーヤはブラント首相と接触し、ブラント委員会設立を依頼する。
1978年:アジア系社会についてのテレビ番組が制作され、マイトレーヤが短時間出演する。その番組は放映されていない。
1979年1月:マイトレーヤはアジア系社会の一員として初めて公の場で話をする。
1980年2月16日:1,000人の聴衆を前にしての、マイトレーヤの5回目の講演。
1980年4月19日:800人の聴衆を前にしての、マイトレーヤの6回目の講演。地域の新聞が関心を
示す。
1981年2月7日:マイトレーヤは初めてアジア系のラジオ局のインタビューを(匿名にて)受ける。
1981年7月19日:(匿名にて)マイトレーヤを中心に扱った番組がテレビで放映される。マイトレーヤの講演が2週間に1度に速まる。
1981年10月21日:アジア系社会に向けてマイトレーヤのことが(匿名にて)ラジオで放送される。
1981年11月7日:マイトレーヤの公の講演が1週間に1度に速まる。
1982年4月:ベンジャミン・クレームは世界的規模の広告キャンペーンを組織し、キリストの臨在を発表する新聞の全面広告を出す。
1982年5月14日:ベンジャミン・クレームはロサンゼルスでの満員の記者会見で、マイトレーヤがロンドンに住んでいることを発表する。ABC、CNN、CBS、NBC、BBC、タイムズ紙、ニューヨーク・タイムズ紙、米国のすべての主要新聞から、90名以上のジャーナリストが参加した。このイベントは英国BBCのニュース番組「ネイションワイド」に衛星で連結された。マイトレーヤはメディアに招待されれば出て来られるだろうとクレームは発表。もし主要メディア網が--象徴的な「形だけの」探索として--マイトレーヤを探す仕事にジャーナリストを任命するならば、彼は出てこられるだろう。マイトレーヤの助力がなければ、彼を見つけることは誰にもできない。その仕事には著名なジャーナリストが任命される必要があった。それなりの地位を築いていれば、マイトレーヤに会ったらすぐ仲間のジャーナリストたちに信じてもらえるからである。残念なことに、任命されたジャーナリストは一人もいなかった。
1982年~1985年:様々なフリーのジャーナリストがマイトレーヤを「探す」試みを行う。
1985年7月31日:東西のメディアを代表する22名のジャーナリストがマイトレーヤとの接触を願ってブリックレーンに集合する。この象徴的な出来事によってマイトレーヤが出現のよりオープンな段階を開始することが可能となる。
1986年1月:マイトレーヤが数カ月にわたってBBCのインタビューを受け、フィルムに収められる。BBCはマイトレーヤに関する記者声明を約束するが、後に撤回。
1987年2月:マイトレーヤは招待を受けたジャーナリスト、要人、政治家、外交官などと会い始める。
1987年2月26日:マイトレーヤはCNNのインタビューを受ける。フィルムは放映されていない。
1987年:マイトレーヤはインドにアシュラムを設立し、ロンドンでの拠点を別の地域に移す。
1987年8月:ベンジャミン・クレームは「3~4カ月のうちに、世界情勢に重要な突破口を開くためにマイトレーヤは全力を尽くされる」と発表。12月にレーガン大統領とゴルバチョフ書記長がSALT-1核兵器削減条約に調印。
1988年:マイトレーヤは直接または夢の中で世界的な指導者や一般市民に姿を現す。
1988年4月:マイトレーヤは側近を通して、彼の教えの概要を伝え始め、また世界の出来事についての予測やコメントを発表し始める。この情報は本誌に掲載され、プレス・リリースとして世界中に配布された。(シェア・ジャパン出版刊『いのちの法則』参照)
1988年6月11日:マイトレーヤはケニア・ナイロビでの治療会で6,000人の前に奇跡的に姿を現す。この出来事についての写真と報告はCNNと国際的なメディア(英国ではガーディアン紙、サン紙、BBCラジオ4)によって伝えられる。
1988年:マイトレーヤは「光の十字架」を顕し始める。この現象は米国ロサンゼルスで初めて報告され、世界中に広まる。
1990年4月21日~22日:200名以上の要人(王族、大使、外交官、科学者、政治家、宗教界の代表)と40名のジャーナリストが、マイトレーヤが主催する週末の歴史的なロンドン会議に招待される。パレスチナ自治政府の故アラファト議長とヨルダンの故フセイン国王も出席した。マイトレーヤはその会議でフセイン国王に対し、パレスチナ人に故国を提供するために西岸地区の主権を放棄してほしいと要請した。
1990年:マイトレーヤが彼の計画と教えについて語るドキュメンタリー番組が制作される。米国の主要ネットワークが放映を承諾するが、いまだに放映されていない。
1990年:マイトレーヤが「謎のヒッチハイカー」として現れたという最初の報告がニュージーランドから寄せられる。
1991年9月:マイトレーヤは世界中の宗教グループの大きな集会に現れ始め、近くの水源を治癒の特性で活性化する。最初の治癒の泉が間もなく、メキシコ・トラコテ、ドイツ・ノルデナウ、インド・ナーダナで発見される。その水を飲んで癒されたという報告が相次ぐ。
1994年6月:マイトレーヤは米国の主要ネットワークによる最初の生放送のテレビインタビューへの招待を受け入れる。日付は依然としてマイトレーヤによって調整されなければならない。
1995年9月21日:マイトレーヤはミルクを飲むヒンズー教の像の奇跡を現す。4日間にわたって世界中の石像や金属製の像に大量のミルクが差し出され、そのミルクは「消えてしまった」。
1995年11月8日:ノックスビルでの最初の光の十字架がマイトレーヤによって顕される。
1995年~現在:マイトレーヤの徴は、最初の生放送のテレビ番組への出演に先立って増加し続けている。(本号「マイトレーヤの徴」を参照のこと)
2001年8月:マイトレーヤはスペイン・バルセロナの洗面所の鏡の上に「手形」を顕す。マイトレーヤの「手」の写真を見つめて彼に助けを求めたら癒されたという多くの奇跡的な治癒例が報告される。