愛することの必要──選集

The need to love──a compilation

 

「愛することの必要」というテーマに関する引用文の選集を掲載する。これはマイトレーヤのメッセージ(『いのちの水を運ぶ者』)、ベンジャミン・クレームの師の言葉(『覚者は語る』と『シェア・インターナショナル』)、およびベンジャミン・クレームの著書から抜粋したものである。

 

わたしの教えは二重である。一つは、人間の物質面にかかわることであり、人生の必要事項である。もう一つは、我々が神と呼ぶあの聖なる存在と人間との関係についてである。わたしの言語の中では、これらは同じものである。なぜなら人間同士が正しい関係を築いてこそ、神との正しい関係を築くことができるのであるから。わたしの計画は、これをあなたがたに示し、人が己自身の裡に、分かち合い、愛し、信頼する能力を見いだす時、その瞬間から神へ向かう登り道が始まることを教えることである。

(『いのちの水を運ぶ者』第29信、p.99)

 

ここに、人間のすべての病の治療法がある──愛を顕して、すべての人間が大地の豊かさを分かち合うようにしなさい。愛を顕して、もはや戦争を見ることがないようにしなさい。あなたの魂の愛を顕して、人間が神と一体となる日をもたらしなさい。

人間がどのように試みようと、愛なしで生きることはできない。この事実は間もなく現代の人類種族の意識の中に確立されて、それは歴史上比類のない出来事につながるだろう。間もなく、これまで見たこともない変容のプロセスが始まるだろう。飢える何百万の人間の光景は永遠に消え去る。奪われたる者たちの日々の心の痛み、世界の貧しき者たちの終わることのない労苦、これらは永遠に去るだろう。自己破壊の脅威、人類を奴隷にした不浄な恐怖は、人間の目と心から永遠に消え去る。そしてまた人間の日常の行動を拘束し制限し、人を隣人や己自身に相対させている信頼の欠如も消え去る。これらすべてを、人は愛を実証することによって成し遂げる。愛を通して、人は征服し、そして神となる。

(『覚者は語る』─愛──前進への道─ p.137-138)

 

あなたがたとわたしとは、同じ目的のために共にここに居る。あなたがたは、心の裡にすべての人を愛し、世のために責任を感じ、人間の要求に反応し、奉仕することを願うからこそ、ここに居るのである。同様に、それが今日のわたしの目的である。わたしもまた、人間の必要を感じる。至るところに住むすべての人間が、尊厳と信頼のうちに生活し働くことを願うのを感じる。奉仕への欲求が、わたしの存在を規定する。わたしの心の愛が、わたしをあなたがたに引き寄せる。だから、わたしたち、つまりあなたがたとわたしとは奉仕することにおいて一緒である。

(『いのちの水を運ぶ者』第102信、p.304)

 

マイトレーヤの愛のエネルギー ──「裂開の剣」──の効力が現在の世界にある極化をつくり出したのであり、それは人類に前進への道をはっきりと示すであろう。包括性と愛、正義と人間の精神の自由のために闘う者はすべて、彼の周りに集うであろう。分離主義と搾取、競争と貪欲に味方する者は、同じく明らかになるだろう。そして人類の前にある選択は非常に明確になるだろう──愛と憎しみ、分かち合いと貪欲、平和と戦争、生と死との間の選択である。マイトレーヤは(メッセージ第11信の中で)言われた。「わたしの心はあなた方の答えを、選択を知っている。そして喜んでいる」と。彼の愛のエネルギーに応えて、人々はすべての国々において、様々なグループをつくり、正義と平和と正しい関係を要求するだろう。(それはもうすでに始まっている)。間もなくこれらのグループは世界で最も大きな、最も強力な勢力となり、平和と善意の新しい時代を招じ入れるだろう。

(『マイトレーヤの使命 第㈵巻』p.60-61)

 

新しいものを顕現するために、すべての分野において、人々はグループを形成している。愛と必要の精神に鼓舞されて、彼らはより簡素な、より健全な世界を心に描く。現在の不均衡と緊張の中から正義と融和が育たなければならないことを知る。自分たちが聖なる存在であり、変化の奇跡を行うことができるのを知っている。彼らは時の危急を知覚し、奉仕のために己を捧げる。彼らはすべての地において「善」を代表する。

(『覚者は語る』─勝利は保証されている─p.84)

 

単なる愛の欠如が、今日の人間の苦悩の根源である。これこそが、人の聖なる素質の顕現を妨げている。神の様相のすべては人の裡に在る、しかし愛がなければ苦悩のみ生じる。長い間、我が友よ、あなたがたはこのことを知っていた。以前に、何度も愛の必要を聞いた。にもかかわらず、その聖なる様相が、あなたがたの生活の中に欠けている。

愛を通して神に至る単純な道を示すために、愛の技術を教え、愛と正義とを通して前進する道を教え、人と人との間の正しい関係、そして人と神との間の正しい関係を教えるために、わたしはやってきたのである。

(『いのちの水を運ぶ者』第101信 p.302-303)

 

マイトレーヤが最初に世界の復興についての計画と希望を発表するとき、彼の愛のエネルギー ──裂開の剣──が現存の分裂をさらに明確に示すだろう。人々は、すべての者のためにマイトレーヤが提示する新しい原理を支持するか、反対するか、どちらかの立場を取るだろう。そのようになるだろう。かくして、新しいものを受け入れるに先立って、不和と不満の時期があるだろう。しかしながら、徐々に、最も悲観的な者でさえ、世界の再建の必要を認知して、彼らの重みをその仕事に加えるだろう。

この地球上でかつて見られたことのないような時期が始まるだろう。あらゆる場で、あらゆるレベルで、変化はその論理的な経路をたどり、法と原理の中にしっかりと固定されるだろう。そしてすべての者の志向を形成するだろう。かくして、人間は自分たちの運命を再び手の内につかみとり、地獄のような混沌に永遠に背を向けるだろう。

(『覚者は語る』─変化に対処して─ p.450-451)

 

我が愛しき子供たちよ、神を愛することと人を愛することは同じであることをあなたがたに示したい、兄弟たちを愛するとき、我々は神の愛を顕すのである。あなたがたは、理屈としてはこれを知っている。しかし、親愛なる友よ、愛の実践こそが基本である。なぜなら愛によってのみ、この地球は支えられるのであるから。

(『いのちの水を運ぶ者』第38信 p.122)

 

2,000年前のキリストの偉大なる仕事は、この愛こそが本性であるということを、人間に示すことでした。それは神の本性であり、人は神に似せて創られたのであるから、それが人間の本性なのです。そしてこの愛の実践を通して、人間は神のもとに来るのであり、神を天に在られる老いたる方としてではなく、自分自身の裡に、その兄弟たちの裡に、自分を取り巻くすべてのものの裡に在る神を悟るのだということを示されたのです。実際には神以外の何ものも存在せず、その神の本性は愛であり、愛がなければ何も存在しないことを人は悟るようになるのです。世界も存在し得ないでしょう。

ですから、われわれが、同胞愛というかたちでこの愛を表現しなければ、われわれ自身を滅ぼすことになるでしょう。マイトレーヤはこのことを今、言っておられるのであり、言い続けられるでしょう。

愛は、われわれの本性にとって全く根本的なものであり、その具現なしには生きていくことはできません。分かち合うことと、すべての人に公正であることを通して具現される正しい人間関係によって表現されるでしょう。

(『世界教師と覚者方の降臨』p.189)

 

わたしの計画は進み、間もなく、完全な肉体的事実として、あなたがたはわたしを知り、信頼して、わたしに従いてくるであろう。わたしの言が、耳に聞き覚えのあるものであっても驚くことはない。以前に何度もあなたがたは愛の必要を聞いた。にもかかわらず、今日多くの者がこの聖なる神の様相の恩恵を受け得ず、何百万という数の人間が消え去っていく。だから、我が友よ、わたしの言は、再び、あなたがたの耳に響くだろう、「あなたの兄弟を愛しなさい。彼らの窮乏に心を留めなさい。あなたが豊かに持つものを与えなさい、そして世界に喜びを復興しなさい」

(『いのちの水を運ぶ者』第52信 p.157-158)

 

行進やデモで、人々が正義と平和と穏健さを呼びかけるところに、マイトレーヤの姿が色々な変装で見つけられるかもしれない。その中で彼は民衆の役を演じ、彼らの名のもとに話をしている。彼の愛のエネルギーがこれらの正義の集会に充満しており、彼らをさらなる努力へと鼓舞する。マイトレーヤの力が彼らのものとなり、彼らは臆せず、確信を得る。このようにして、愛の主は憎しみの潮流を変えて、何百万の人々の熱意を強化しておられる。そして、至るところで人々は彼らの運命について認識し、そして彼らの心からなる願望を実施するための手段を探し求めている。

(『覚者は語る』─束縛の終止─ p.605)

 

であるから、人類にとって、平和はもはや単なる選択肢ではない。それは欠くことのできないものである。この理解はマイトレーヤの愛のエネルギーの行動の結果である。人類の前進への道を明確に描写する「裂開の剣」である。その道は同胞、愛、正義、分かち合い、平和を通してであり、自由、正しい関係、そしてそれから生じるすべてを通してである。その道か、あるいは現在のやり方を続けてすべての生命を破壊するか、どちらかである。

マイトレーヤの「裂開の剣」がこの黒か白の対決を人類の前にもたらし、人類がそれを明確に鮮明に見ることができるようにするのである。われわれはどちら側を選ぶか、である。正しい人間関係の道、建設と調和の道を選ぶか、あるいは、もう一方の間違った人間関係と、すべての人々の完全な破壊につながる道を選ぶのかである。

(『多様性の中の和合』p.34-35)

 

我が兄弟たちよ、世界は愛を切望し、同胞愛と正義の顕現を切望する。わたしを援けて、あの聖なる歓びをこの世に創造しなさい。わたしの側にあなたの位置を占め、これまでにないほど働きなさい。我が友よ、わたしを手伝って愛の貯蔵池を非常に深く創り、すべての人間が渇きを癒せるようにしなさい。

(『いのちの水を運ぶ者』第116信 p.348)

 

彼[マイトレーヤ]はあなたの愛を世界に与えて欲しいのです。それを鼓舞するために、すべての人間の心(ハート)に本来備わっているけれども、私たちを取り巻く不公正な政治的、経済的、社会的状況によって表現が抑えられているその愛をあなたの裡に目覚めさせるために、マイトレーヤはやって来るのです。その不公正な状況が変えられる時、マイトレーヤによって鼓舞された人類の愛が、今日想像することもできないような方法で顕され、世界を変換するでしょう。

(『大いなる接近』p.116)

 

あなたがたは、意識しようがしまいが、心の中で、わたしの存在の事実に、わたしの呼びかけに応えたからこそ、今ここに集うているのである。それなら、この事実を人に伝え、人類を招いている単純な真理の道を指し示すことを、あなたがたの仕事としなさい。分かち合うことが神聖なることを、愛することが神の特性であることを、共に働くことが人の運命であることを、彼らに教えなさい。未来の光を見ることのできる唯一の壇上に立ちなさい。我が友よ、共にその壇上に立ちて、道を示しなさい。

(『いのちの水を運ぶ者』第19信 p.73-74)

 

さらに多くのあなたの兄弟たちが、わたしの臨在に気づくようになる。わたしは愛について語り、この聖なる原理を顕現することの必要を語る、すべての人間が神の輝きの中に生きるために。神と愛は同一である。人は愛する時、神への一歩を踏み出すのである。この愛の径、わたしの単純な道は、人を確実に本源へ連れていく。

(『いのちの水を運ぶ者』第107信 p.319)

 

愛は能動的なフォースであり、変容させる力です。行動を伴わない愛は愛ではありません。行動における愛が愛の本質です。世界とその中に存在するすべてを愛する能力であり、それがマイトレーヤの力です。これを為すことのできるお方の心(ハート)の最も深い願望はすべてを和合させることです。マイトレーヤが世界を覗くとき、50〜60億の人間が苦しみ、葛藤し、競争しているのが、肯定的な者や非常に否定的な者が皆それぞれに異なった行動をしているのが見えるのです。それらすべてをご覧になるマイトレーヤの切なる願い、最も深い願望は、それらすべてを和合させることです。

……それがマイトレーヤの目標です。彼の力と洞察を使い、彼の特性を、すなわち愛を世界に確立することが、キリストのハートの中の切望です。そのようにしてマイトレーヤは私たちに、いかにして愛するかを教えるのです。「そしてさらにまた愛することを」教えるのです。さらにまた愛するということは通常の反応的な意味ではなく、完全に無条件に、覚者方の行うような意味で愛することです。

(『マイトレーヤの使命 第㈽巻』p.43-44)

もし人類が平和を知ろうとするならば、人類を一つとして見なければならない。それ以外のものは何も、人類をあの幸いなる状態に導かない。正義が支配し、貧乏人がもはや慈悲を請うことがなくなるとき、平和は確立される。正義なくして和合を考えることは不可能であり、人間は永久にそれをつかみとることはできないだろう。であるから、正義の支配を確立し、この苦悩する世界に和合と平和をもたらしなさい。

分かち合いを通してのみ正義は確かになる。分かち合いのみがすべての国家の望む平和をもたらすだろう。人間が分かち合って、分離の壁を打ち破るとき、ついに自分たちの存在の真理を知り、世界を愛と同胞愛で満たすだろう。

(『覚者は語る』─和合の必要─ p.102)

 

人はもはや恐れる必要がないことを、光と真理のすべては人の心の中にあることを示すことが、わたしの目的である。この簡単な事実を悟るとき、人は神となるであろう。神の本質は愛することである。神の目的は奉仕することである。分かち合いと正義を通して神を識る。この簡単な真理を広めなさい、我が友よ、そして偉大なる行為をなしなさい。

(『いのちの水を運ぶ者』第98信 p.291-292)

 

愛することの必要

——覚者より

ベンジャミン・クレーム筆記

シェア・インターナショナル誌1986年6月号

 

折にふれ、人の心(マインド)の中に愛の概念が浮かび上がる。表現を要求する自然な本能としての愛の理念が人間の思考を捉え、議論や談話を通して、これがそうであることを実演するためのステップが取られる。何千年もの間、これが繰り返し行われてきた。愛が人間の本性にとって中心的なものであるという考えは、いつも支持者を欠くことはない。それなのに、人間の日々の行動の中に愛の表現がほとんど見いだせないのは驚くべきことではないか。

ほとんど例外なしに、人間は不安の中に生きている。世の中と人生を危ないものと見なし、その脅威に対して防備の鎧を築く。このようにして、人間は愛する能力を限定している。愛は萎縮して死ぬか、あるいは攻撃と憎悪の背後に隠れる。愛を奪われると人間は病む。裡なる価値を意識しつつ、それを前面に顕し得ずに、己の恐怖や憎しみを隣人や世の中に投射する。

愛が支配するところには、調和が統治する。その調和がなければ、何も自信を持って進まない。自信がなければ何も成就しない。恐怖心は愛の表現を抑える。愛は恐怖心を消滅させる。愛を表現しようとしながら、恐怖心によって制限されて、人は道を見失う。流砂の中に迷い込み、もがけばもがくほど、さらに深くはまり込む。

それではどこに治療法があるのか。人は愛するために、信頼しなければならない。信頼がないところに、愛はあり得ない。愛は信頼する心(ハート)に自然に沸き上がる、なぜなら愛は人間の真の特性であるから。だから、信頼することを学び、いつでも輝き出せる用意のある愛を実際に顕しなさい。信頼とは、人生を、その痛みも美もすべて合わせ含めて受け入れることである。信頼とは、すべてが善に向かって働いており、すべてが法のもとにあり、そしてその法は公平に執行されるという確かな知識である。信頼することを学び、恐怖心を追放しなさい。限界の仕組みを永久に追放し、愛の水門を大きく開きなさい。

愛するとき、人はあらゆる可能性を己に引き付ける。愛の磁力が、波動の類似性を通して、すべての必要条件を引き付ける。ゆえに、愛は進化の梃子である。

愛のない世界を考えてみなさい。その忌まわしさは想像するだけでもぞっとする。なぜそうなのか。本能的に人間は愛の必要を認める。そして間もなく、愛することの必要をも理解するだろう。愛は、終わりなき鎖で、人を他のすべてにつなぐということを知るようになるだろう。おそらく、初めのうちは躊躇しながらだが、人間は信頼し始めるだろう。一歩一歩、己の恐怖を克服する。そしてやがて、もはや恐怖の占める場のない、愛が穏やかにその王座に座し、その恩寵を近くに来る者すべてに授ける、あの祝福された状態に入るだろう。

そうなると、人間にとって生きることは、愛することなのである。恐怖というあの横領者は退けられ、克服されねばならない。信頼が愛を育み、恐怖を滅ぼし、永遠に裡に宿る神を明かす。信頼と信はひとつであり、裡なる神性の反映である。その神性を信頼し、それを愛として輝き出させ、恐怖の終わりを知りなさい。