2021年10月号目次

 

覚者より
前進の道
ベンジャミン・クレーム筆記

今月号の内容概説

視点
地球規模の気候行動への楽観的な見方
シェア・ギルモア

推奨図書
ジーン・マニング、スーザン・マネウィッチ著
『隠れたエネルギー :テスラに触発された発明家たちと 豊富なエネルギーへの気づきの道』
シェリーン・アブデル=ハディ・テイルズによる推奨図書

誰もが理解できる方法で21世紀の資本主義を説明する
リチャード・D・ウルフ

先住民たちは認知、互恵性、新しい社会契約を必要としている
マーティン・ゾンマーシュー

ジェレミー・レント氏との対談 疎外に対する解毒剤
フェリシティ・エリオットによるインタビュー

METO―「可能性を現実にする」

時代の徴
空の徴、

国連食料システム・プレサミットにおけるジェフリー・サックス氏の講演

エクスティンクション・レベリオンの行動

重要な時期における弟子の責任 第四部
アンネ・マリエ・クヴェルネヴィック

思考(1)
アート・ユリアーンス

読者質問欄
回答 ベンジャミン・クレーム

科学で説明する魂の存在
クロード・シャボッシュ

編集長への手紙
光のハート 他

前進への道

──覚者より

   ベンジャミン・クレーム筆記

 人間の意識に転換が起こるたびに、その準備として、一定の間が、沈黙のひとときがあり、その中で過去の様々な達成が再評価され、そしてもし目標に達していないことが分かれば放棄される。かくして、今日もまた然りであり、人間は将来の利用のために保存が適切で、必要だと考えられるもの、そして人間のますます深まる認識と洞察の光に照らし合わせて欠くべからざるところのものを評価する。それが人間自身に任されるならば、この期間は人間にとってまさに非常に長いだろう。多くの実験をしてみる必要があり、正しい道が見つかり、正しいステップが取られる前に、多くの間違いが起こる可能性は高い。今後、人間がもしそう望むならば、わたしたち、人類の兄たちの助けと経験を役立たせることができる。わたしたちは、求められればいつでも援助し鼓舞する用意がある。

 かくして、今の時期は前例のない時であり、あらゆる状況においてわたしたちヘルパー(援助者)はすぐ傍らにあり、人間の自由意志を侵さないように気をつけながら、長い間蓄積してきた智恵と、苦労して勝ち得た経験と知識を喜んで提供したいと願っている。

 今日大切なように思われるものの多くが去り、より簡素な、より自然な生き方と関係に置き換えられるだろう。あり余る豊富さの直中にあって何百万の人間が不必要に死ぬという冒涜が消え去ることは確かであろう。今日人間の精神をあまりにも醜くする不寛容さもまた消え去るだろう。より小さい、より弱い国家の資源や領土を支配し、征服し、搾取しようとする衝動は永遠に消え去るだろう。その代わりに、新しい現実感が、すべての人間との連結性と相互の権利と義務についての理解が生まれるだろう。人々と国家は法の規制に基づいて、そしてすべての人間のための平和と安全についての必要条件に基づいて生きることを求めるだろう。

 間もなくそのような過程の始まりが姿を顕すだろう。すでに、未来に目の焦点を合わせる人々が彼らの洞察を伝えており、注目を得つつある。ますます多くの人々が彼らに導きと確約を求め、このようにして新しい思想が根を下ろすだろう。徐々に、人間の思考に変容が起こり、そして必然的に、古きものは、人生の問題に対する新しい、より健全なアプローチに道を譲るだろう。

 かくして、激しく沸騰する大釜の中で、いまや未来の形態が形成されていく。その輪郭はぼんやりと本能的なものだが、しかし鋭い目を持つ者には十分に明瞭であり、人間が自分の本当のアイデンティティー(独自性)と目的に目覚めつつあり、そして時代の変転にもかかわらず、前進の道にしっかりと足を下ろしていることへの保証と希望を提供する。 (シェア・インターナショナル誌 2004年9月号)

今月号の内容概説

 シェア・インターナショナル誌の今月号のために選ばれた記事「前進の道」にあるベンジャミン・クレームの師の言葉を引用すると、2020年と2021年は世界の「沈黙のひととき」と見なされるようになるかもしれない。確かに、多くの人にとって、この時期は再評価の機会と、価値のないものや廃れたものを捨て去る好機となっている。今月号の内容はまさしく、このような選択肢を反映している。その覚者の記事にある力強い約束は、次のような形でこだましている。シェア・ギルモアの「地球規模の気候行動への楽観的な見方」を読めば、私たちがこの惑星に及ぼした破壊に対処しようとする際の無気力は消え去るはずである。また、マニングとマネウィッチが、共著書『隠れたエネルギー:テスラに触発された発明家たちと豊富なエネルギーへの気づきの道』で提示したように、すべての人にとっての新しい無限のエネルギーの可能性について読めば、化石燃料への依存はなくなるに違いない。R.D.ウルフ教授は資本主義について説明し、問い直している──その余命はいくばくもない。
 新しいエネルギーや新しい戦略、そしてジェレミー・レントが説明しているように、私たちの本質的な相互のつながりについての認識の高まりを通して、世界は古びてボロボロの状態のものを、先住民の文化の知恵を認めるリアリズム(現実主義)の高まりに置き換えようとしている。「先住民たちは認知、互恵性、新しい社会契約を必要としている」は、私たちが「前進の道」を進み始めるとき、法の支配や平等、社会正義が必要であることを認めている。ジェフリー・サックス教授は正義を呼びかけ、また、私たちの必要にもはや役立たない腐敗したシステムの拒絶を呼びかけている。サックス教授はまた、万人の普遍的な権利が守られることや、国連が世界情勢の中心に据えられることを求めている。
 熟慮のために休止した後、今こそは「未来に目の焦点を合わせ」、徴を正しく読み取り、知恵の覚者方が提供する援助とインスピレーション(鼓舞)の方を向き、責任を受け入れるべき時である──内的にも、社会において外的にも、あらゆるレベルにおいてそうすべきである。そして、見かけ上は分離しているこれらの現実を一つにまとめるべきである。クロード・シャボッシュが「魂の存在の科学による説明」という記事で模索しているように、私たちは今、自分たちの理想を現実にするために行動を起こし、転生している魂としての私たち自身の本性のリアリティ(実相)を喜んで受け入れる機会を得ている。世界は、万人の権利を認めるようなより簡素で、健全で、存続可能な生き方へと向かう前進の道の途上にあることを、私たちは保証していただいている。今月号のシェア・インターナショナル誌が提供しているのは、インスピレーションやアイディア、理想、希望、安心感、分析、再評価である。

ジェレミー・レント氏との対談 疎外に対する解毒剤

フェリシティ・エリオットによるインタビュー

ジェレミー・レント氏は作家、講演者、非営利団体「リオロジー研究所」の創設者である。著書『意味の網』の書評がシェア・インターナショナル誌8月号に掲載された。

シェア・インターナショナル(以下SI):あなたの本について、聞かれればどんなコメントができるだろうかと考えていました。次のものに落ち着きましたが、あなたはどのように思われるでしょうか。ジェレミー・レント氏の最新刊『意味の網:宇宙での私たちの場所を見つけるために科学と伝統的な知恵を統合する』は、疎外に対する解毒剤である、というものです。

ジェレミー・レント:素晴らしい描写の仕方ですね。この本の本質的なテーマは、現代の世界観がいかに分離だらけであるかということです。この本は、分離が人間の経験や文明の方向にとって危険で害悪があるということだけでなく、全く間違ってもいるということを明らかにしています。別の世界観があります──つながりという世界観であり、世界中の伝統的な知恵の文化だけでなく、現代科学も指摘しているものです。それは、個人としての私たち自身や、地球に関連してすべての種にとっての、信じ難いほど肯定的な前進の道を示している見方です。

SI:現在の支配的な現実観は危険だと述べておられますね。どうしてそうなのか説明していただけますか。

レント:最も明白な理由の一つは、その現実観が文明そのものを、私たちが一部である「生きている地球」との、このような信じ難い不均衡へと追いやっているということです。私たちは皆、この状況が今世紀になって突きつけている気候崩壊と恐ろしい危険のことを知っていますが、それよりもさらに広範なのは、私たちが引き起こしている生態系全体の破壊です。もし転換を図らなければ、何らかの形の文明の崩壊へと至るでしょう。それよりさらに重要かは分かりませんが同じくらい重要なのは、この惑星上のいのちの豊かさと多様性の多くの崩壊です。とてつもない規模で起こっているため、極めて危険です。
 しかし、それは一人ひとりにとっても危険です。幸福感を奪い去ってしまうからです。現代の消費文化は、私たちが人生に満足しないように設計されており、長期的な幸福の道から私たちを遠ざけます。

SI:広告や大量消費主義の仕組みはとても狡猾です。一つの側面は次のような宣伝文句です。「欲しいでしょう。必要でしょう。あなたはそれに値しますから、買った方がいいですよ」。人間のいのちの価値は、知らぬ間にそうした考えと結びつけられ、人々はつい買ってしまいます。

レント:それは全く真実です。本当の統合的な幸福を培うことを取り上げた章で、このことについて詳しく掘り下げています。幸福とは実際のところ何を意味するのかを見てみると、消費社会はまさしく幸福をかき乱すように設計されているということが分かります。もっと油断がならないのは、私たちが集団として生活し、何百万年もかけて発達させてきた特定の中核的な人間の特徴があるということです。私たちは強力な道徳的感情を発達させてきました──周りの人から敬意を払われたい、のけ者になりたくない、自尊心を持ちたいという欲求のような感情です。しかし、広告戦略家が行ってきたことは、そうした感情を分析して倒錯させ、社会の福祉について私たちが持つ感覚をかき乱そうとすることです──そのようにして、必要だと告げられる商品を購入することで自己有用感が得られます。しかも、感情のレベルだけでなく、甘いものや油っぽいものを求める生理的な欲求までも利用し、心理面にも同じ働きかけをします。今では、金もうけのためだけに、私たちの性質のこうした多様な要素を操作するための洗練されたアルゴリズム(一連の手順)さえも存在します──これは本質的に、私たちをコンシューマー・ゾンビ(次から次へと買い続ける消費者)になるよう仕向けるものです。

SI:そのとおりです!  それをお聞きしたところで、あなたの本の構成の話に入りたいと思います。とても魅力的な構成になっていますね。「私は誰か」という、ちょうどあなたが書き始めているところから話し始めるべきでしょう。私たちのアイデンティティー(独自性)が操作されていることについて話しているからです。

レント:この本は実際、いくつかの大きな疑問を中心に構成されています。「私は誰か」「私はどこにいるのか」「私は何なのか」「私はどのように生きたらよいのか」「私はなぜいるのか」といった疑問です。いずれの場合にも、こうした疑問に対する現代の主流の答えを見ていくと、その答えは科学的に間違っているだけでなく、有害であるということが分かります。それからこの本は、こうした疑問に対する異なった答えの可能性を探っています。
 「私は誰か」について検討するときは、現代の世界観が私たちに告げていることから始めるのが最適でしょう。それは実際のところ、デカルトの有名な言葉「我思う、故に我あり」で始まり、そして終わります。デカルトや彼に続く多くの人が述べたことは、私とはその思考能力であり、概念化する能力を持つ脳のその部分であり、知能テストで測定できる部分であるということです。それが本当の自分であり、「私」のその部分はこの肉体に宿っている。肉体は機械であり、私の思考を司る部分を支えるためだけにあるというのです。
 もちろん、もしそれが本当なら、動物は私たちのように象徴的な方法で考えることができないので、動物が実際のところ存在しないのは明らかだということになります。動物は単に、私たちが搾取する物的資源として存在するということになります。私たちは本当のところ、自分自身の肉体存在から分離し、自然界から完全に分離しているというのです。自然界のすべてはただ私たちのために存在するものと考えられます──私たちだけが真の存在だというのです。しかし、それが根本的に間違っていることを現代生物学は明らかにしています。
 私たちは確かに、デカルトが語ったその部分でありますが、「生きた意識」でもあります。私たちは生きた存在であり、それをすべてのいのちと共有しています。

SI:「生きた」という言葉は、意識や認識を意味するために使っているのですか。

レント:はい。知覚、感受性のことです。生きているすべての存在に内在するものです。現代生物学が明らかにしたのは、私たちが自慢することのある概念的知性よりも、この知覚は多くの点でずっと賢く、ずっと深く、より複雑であるということです。概念的知性は私たちの一つの側面にすぎません。氷山のてっぺんを見て、そこにあるけれども目に見えない広大な知性を考慮に入れないようなものです。
 知性を持つのは特定の動物だけではなく、樹木さえも知覚を持つことを生物学者たちは明らかにしています。樹木はおよそ30~40の異なった感覚を持っています──私たちよりも多く持っています。それらをすべて統合し、そうした感覚に基づいて一瞬一瞬、判断を下します。樹木は一種のワールド・ワイド・ウェブ(世界に張りめぐらされた網)の中でお互いに意思疎通を図ります──  一つの共同体として意思疎通を図り、資源を共有し、知性を共有しています。樹木だけではありません。細胞生物学者たちが発見したのは、すべての微小な細胞(人体にあるのはおよそ40兆個)には何十という通路があり、細胞はそれを通して周囲の状況を監視し、何を取り込み、何を外に出すかを決め、複雑な方法で自らを組織立て、周りの細胞の共同体と一緒に働いて、何をしたらよいかを決めます。それが自然界のすべてにある知性であり、私たちが共有しているものです。
 私たち自身のこうした二つの部分──生きた知性と概念的知性──を認識し、私たちとは統合された心身の知性だということを認識すれば、もっと統合的な人生を送り始めることができます。

SI:それをお聞きしたところで、あなたが取り上げている次の疑問、「私はどこにいるのか」に移りたいと思います。

レント:私たちが当然と見なしていること、つまり、私たちは連結していないバラバラの宇宙に生きているということを検討することから始めるのが最適でしょう。ここ数百年間、現代科学は、事物を理解するために事物を分析し、より小さな部分へと分解することを大がかりに行ってきました。それは還元主義です──あらゆるものをできる限り分解することです。私は還元主義に何の反感も持っていませんが、人々は宇宙全体を説明するのにこの方法を用います。私たちはバラバラの宇宙に生きており、分離した別々の部分を見ることによって宇宙を理解することができるといいます。現代科学はそうした概念を拒絶します。システム科学、複合科学、システム生物学、そしてネットワーク理論さえも、すべてが事物のつながりを調査する科学です。そうした科学が明らかにしたのは、事物のつながりが、事物そのものよりも理解にとってはるかに重要だということです。
 中国の「理」という概念は、仏教や道教、儒教を、宇宙を理解するための統合的な方法にした賢者たちの学派、朱子学派に由来します。宇宙は「気」から成っていると彼らは理解しました。気は、エネルギーと物質であると考えることができます。「理」は、すべてのそうしたエネルギーと物質が結びつき合って、私たちが経験するあらゆるものを形成する拠り所となる原理と考えることができます。同じように、現代において科学者たちは、いのちや全宇宙を創造するためにすべてのものが自らを組織立てるための原理を調査しています。そうした自己組織化の原理は、複雑なシステムを理解するための鍵です。複雑なシステムとは、私たち自身や私たちの社会、いのち全般のことです。
 ですから、「私たちはどこにいるのか」という疑問に対しては、複雑な、結びつき合った宇宙に生きているという答えになります。他のすべてのものが生きる拠り所となる同じ原理により私たちは生きています。何十億年もかけて発達してきたいのちの複雑さと、現代生物学が明らかにしているその複雑さにおける大きな飛躍はすべて、より良く協力する方法を学んだ異なる有機体から生じた飛躍でした──自らの技能と能力を分かち合うことによって、相互に有益な共生関係を発展させることができたのです。そうした共生関係は、いのちの豊かな多様性の基盤になるものです。

SI:あらゆるものには居場所や意味、目的があるということや、すべてが組み合わさっているということ、すべてが必要とされているということを、人々は理解し始めていると思います。私たちは不幸にも、自分たちが自然界に引き起こした破壊を通してこれを理解しました。連鎖の一つの小さな連結部を壊せばどうなるかを理解しています。
 私たちが誰であり、何であり、どこにいるかをいくらか知ったところで、あなたが問いかけたとても大きな疑問を扱うところまで来ました。もしいのちがそれ自体により自ら組織立つとすれば、「私はどのようにあるべきか、どのように生きるべきか」という疑問です。あなたのような多くの思想家はこう述べています。「今は極めて重要な瞬間である。私たちは移行しなければならない。変わらなければならない。この機会をつかむ必要がある」と。それでは、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。

レント:私たちすべてがこのような問いかけをすることが、これほど大切になったことはかつてほとんどありませんでした。またしても、主流の文化からは、自然界を最大限に搾取すべきだと聞かされます。別々の個人として、他のあらゆるものを犠牲にして、自分自身の幸せと自由を追求するためにどんなことでもすべきだといいます。そのようにしていると、何かの魔法によって、もっと効率の良い社会が創造され、すべての人が勝者になるというのです。

SI:こうした支配的な神話がどのように資本主義を益することになるかを理解しておられますね。こうしたアイディアは互いに完全にかみ合っています。

レント:おっしゃるとおりです。実際に、偶然ではありません。その二つがかみ合っているのは、存在論的に見て同じ根から形成されているからです。今日の私たちの価値観や経済、グローバル文化を駆り立てている世界観の鍵となる要素のいくつかは、17世紀以降、あらゆるものを変革した科学革命に由来します。ヨーロッパの数カ国が自国の利益のために世界を支配した際の資本主義、植民地主義をご覧ください。人種差別、白人優越主義さえも、すべて17世紀あたりにヨーロッパの同じ場所で始まりました。それらはすべて、同じ根本的な理解に由来します。つまり、採取、搾取はやってもよいことであるだけでなく、人間がやるべきことだという考え方です。
 他の生き方はあるのでしょうか。非常に多くの偉大な知恵の伝統が私たちに示していることを私は伝えているにすぎませんが、別の生き方は確かにあると私は信じています。それは、私たちが相互に深く結びついているという認識に基づいています。私たちは、いのちであるということや、周りすべてにあるこの偉大な生きた知覚の一部であることをいったん認識すれば、次に認めなければならないことは、私たちがすることの多くは人間優位の考え方に基づいているということです。人種差別の土台となっている白人優位だけでなく、自然界のすべてが私たちのためだけに存在するという考え方です。現時点においてより啓発されている人々でさえ、いまだに主流派が考えるように考え、次のようなことを思いつきます。私たちはもっと持続可能になる必要がある。そうすれば、数世代だけでなく、ずっと長く繁栄できるようなやり方で自然界を利用することができるといいます。それは地球を破壊するよりはましですが、アルネ・ネスの言う「エコロジカル・セルフ(生態学的自己)」についての理解へはまだ移行していません。アルベルト・シュバイツァーの言葉を借りれば、「私は、生きようとする大生命の只中にいる、生きようとするいのちである」ということです。彼は続けてこう述べています。「したがって、私はすべてのいのちに畏敬の念を抱かざるを得ないのである」と。「私たちはいのち全体だ」というような理解へと移行するとき、すべてのものとの関係の仕方が完全に変わります。
 世界を見て、人間には何か本質的に悪いものがある、と考える人もいます。私たちは地球上のがんだ、と。そんなことはありません。社会のがんは、非常に支配的になっている資本主義的搾取の世界観です。地球との共生関係を保ちつつ生活する方法を見つける方向へと、私たちは自然に引き寄せられているというのが本当のところです。先住民の文化では常にそうしてきました。仏教や道教のような伝統もそうしたことを指摘しています。

SI:ご存じのように、私はいわゆる「不朽の知恵」の教えの背景から語り、働いています。一つの根本的な教義は、分離は非現実だということです。それは科学的にも、哲学的にも、生物学的にも現実ではありません。分離は存在しません。人々はこのことを経験し始めています。あなたは疎外に対する解毒剤である、と述べることから私は話し始めましたが、私たちの多くはまさにそうした疎外に苦しんでいます──自然界からの疎外、お互いからの疎外に。私たちは今、いのちと関係し合い、居場所を見つける正しい方法を見いだす必要があります。

レント:確かに。私たちに希望を与えてくれるのは、そうするための既知の道筋があるということです。(植民地主義以前の)世界中の先住民の伝統は、自然界と関係する方法を見いだしていました。それは、人間と自然界の残りの部分が互いに恩恵を受ける共生関係でした。現代版は、古代からの伝統的な知識に啓発されつつも、現代の知識と技術を取り入れたパーマカルチャー(永続可能な農業をもとにした永続可能な文化)でしょう。そのようにして、自然界と闘ったり自然界を支配したりするのではなく、自然界と協力していくのです。これによって、人間が生態系と共に栄える状況がつくられます。私たちは生態系の中に組み込まれているわけですから。

SI:こうして、「私はなぜいるのか」という大きな疑問に至りました。

レント:私にとって、それは究極の疑問です。他のすべての疑問がそれにつながります。現代の見方がどんなものかを振り返ると、その見方はかなり悲観的です。ノーベル賞を受賞した物理学者、スティーブン・ワインバーグのような還元主義の科学者たちは、「宇宙について知れば知るほど、宇宙はますますつかみ所がなくなるように思える」と言います。彼やリチャード・ドーキンスらはこう言います。「まあ、そんなものですよ。選択をしなければいけません。何らかの空想的な『超自然的な』考え──神や霊、他の次元など──を信じたければ、信じてください。それで気分が良くなるのであれば。しかし、そういうものはすべて、でっち上げられたものだということを知った方がいいですよ。これが現実です。この現実と共に生きなければなりません」と。こうした実存的な絶望が現実であると私たちは教えられます。しかし、相互に深く結びついた場所として世界を見ると、私たちの人生の意味がそこから生じていることが分かります。意味そのものが、つながりの一つの働きだということを私たちは知っています。これは、知覚力のある存在として、意味への波長の合わせ方を通して私たちがこの宇宙の中で行っていることです。意味は、私たちの周りすべてに潜在しています。私たちには選択の余地があります。目を閉ざして、マヒ状態に陥ったままでいることもできるし、この宇宙に本来備わり潜在しているそうした意味に満ちた世界に精神を同調させることもできます。私たちがそうしたものとつながることを選択すれば、ですが。

ジェレミー・レント『意味の網:宇宙での私たちの場所を見つけるために科学と伝統的な知恵を統合する(The Web of Meaning ── Integrating Science and Traditional Wisdom to Find Our Place in the Universe)』プロフィール社、ロンドン、2021年6月

読者質問欄

世界中のあらゆる講演において、そして生涯のほぼ毎日、ベンジャミン・クレームは広大な範囲に及ぶ大量の質問を受けました。この大量の記録から、過去の年月にベンジャミン・クレームと彼の師である覚者によって提供された回答を掲載したいと思います。そのいずれもこれまでシェア・インターナショナル誌に未掲載のものです。

Q 私はカトリックで育てられ、若い頃には神を恐れるよう教えられました。神は私たちに怒っているのだろうか、という思いが私の心に生まれました。
(1989年11月27日、アメリカ、「インパクト・ラジオ」でのベンジャミン・クレームへのインタビューより)

A 全く怒っていません。人々は神が裁きに来ると思っています。マイトレーヤはこう言われます。「私は裁くために来るのではない。私は友人として、兄弟として、教える者としてやって来る」。彼は人類の長兄たちの中の最年長者です。彼は私たち、あなたや私のような人々の巨大なグループの長であり、私たちが──意識的であれ無意識的であれ──取り組んでいる進化の旅路を完了されました。私たちは何度も何度も転生して徐々に肉体を完成させ、アストラル体とメンタル体を完成させて、私たちの本性であるところの神性をますます反映させていきます。
 私たち各々は転生した魂です。魂は完全であり、神──私たちの惑星で神と呼ばれるもの──と一体です。魂の目的はこのゆっくりとした過程、転生に次ぐ転生の中でその器を自身の本性と融合させ、光を融合させて次第に原子構造に及ぼすことであり、弟子は原子から亜原子に変化して光となります。すべての覚者方は復活した身体を持っています。福音書の中の復活の物語は、弟子の完成の物語であり、キリストの再生誕、身体の右側のハートに位置するキリスト意識、キリスト原理の再生誕を通じて、完成された覚者として復活するという話です。復活は事実であり、イエスの生涯における福音書の物語全体は、誰もが経験するプロセスを象徴的に上演したものです。あなたや私も、その過程を経験するでしょう。

Q マイトレーヤは死すべき存在ですか。彼は人間ですか。

A 彼は実際、人間以上の存在です。彼は聖なる人間であり、あなたもそうであり、私もそうですが、問題は、私たちがそれを知らず、受け入れていないことです。彼は神聖でありその中身を知っています。神性の領域では、彼は非常に進歩し、非常に純粋なので、私たちが愛と呼ぶ聖なる原理、神のキリストの様相、神の息子の様相を体現することができます。この見地から、キリスト教徒は彼を神の子と呼び、神のひとり子と呼びます。なぜならキリスト原理は神の息子の原理だからです。しかし、彼は自分が神の無数の息子たちのうちの一人であることを知っています。私たちは皆、神の息子たちです。違いは、覚者方は自分が神の子であることを知っており、その神性を現しているが、私たちはその過程のどこかの段階にいるということです。

Q 無執着について考えるとき、普通は無関心や自己満足のことを思います。これがマイトレーヤの話されていることですか。

A 自己満足や無関心とは何の関係もありません。全く逆のことです。それは完全な関与、完全な共感、人類のために人類の中で働くことへの完全で絶対的な関心であり、同時に距離を置いて自分のしていることを無執着に行い、魂の真の性質である完全な利他性と共に働くことです。
 魂の界層では、分離というもの、「私」というものは存在しません。魂には私というものがなく、求められる利他的で無執着な見解と行動を植えつけています。ですから、しばらく存続して死ぬ壊れやすい肉体や、しばらく存続して死ぬ壊れやすい感情体や、肉体と同じだけしか存続しない知性体を自分と見なさないでください──それはいずれもあなたではありません! それがマイトレーヤの言われる種類の無執着です。

Q チャネリングについてどう思われますか。なぜ近頃こんなにも広まっているのですか。

A 一体、どうしてなのでしょうか。なぜならそれは容易で、よい稼ぎになり、チャネラーと情報や教えや何らかの啓発に飢えている人々の双方にとって満足のいくことだからです。チャネリングの大半はナンセンスです。
 このチャネリングは、世界中のどこよりもアメリカ合衆国で広まっていますが、19世紀にアメリカで始まった心霊運動の発展の結果です。その運動は、聖書の中のパウロであった覚者によってもたらされました。パウロは第3段階のイニシエートであり、現在はヒラリオン覚者です。それは死後の生命の継続を証明し、人類を死の恐怖からある程度解放するためにもたらされました。
 誰もが死を恐れるのは生命が続くことを信じないためです。この人生で終わりだと、死ねば終わりだと思っています。しかし、そうではありません。個人の意識は死後も完全に継続します。肉体が死ぬだけであり、肉体はあなたではありません。死ぬのは肉体だけです。その後もあなたはアストラル界でアストラル体として生き、もしあなたがイニシエートであれば、メンタル体でメンタル界に行き、プララーヤという、キリスト教で言う天国に至ります。アストラル界の低次のレベルを除いては「地獄」というものはありません。アストラル界の低次のレベルは確かに地獄と同様です。
 いわゆる「チャネリング」は、より知的なチャネラーの場合は、主にアストラル界の第5亜層から来ます。しかし、すべてのチャネリングは例外なくアストラル界からのものです。チャネリングの形態でこの世界に来るものはすべてが、チャネラー自身の潜在意識か、そうでなければ主にアストラル界の第5亜層からのものです。アストラル界には七つの亜層があります。
 これらの「教え」の中にはまともな、高度に啓発的なものさえあります。それらは人類に希望を与え、高揚させ、ある程度の啓発をもたらす価値のあるものですが、中には全く無意味なものもあり、アストラル界の地雷原を歩むには高度の識別力が必要です。
 覚者方がアストラル界を用いることは決してありません。アストラル界から来るものは覚者からのものではありません。私は特定のチャネラーを通して覚者がチャネリングしていると主張するグループを知っています。それは妄想であり、グラマーであり、ニューエイジのグラマーの最大のものの一つです。価値がないと言っているのではありません。すでに述べたように、一般的な意味で価値のある啓発的なものもありますが、それらはすべて例外なくアストラル界から来ています。
 アストラル界は錯覚の界です。覚者方にとっては、それは存在さえしません。それは人類のマインドの想念形成の過程によってつくり上げられたものです。私たちはアストラル界に覚者方についての私たちの概念やアイディアを投影し、それに波長を合わせることで再び自分自身にそれを投げ返しているのです。それが起こっていることです。それらは想念形態です。教えを与えているのはアストラル界にある覚者方の非常に固まった想念形態であり、それは高次のメンタル界から働く覚者方と接触していたイニシエートたち、ブラヴァツキーやアリス・ベイリー、ヘレナ・レーリッヒのような人々の元の教えを読んだ人々によってそこに置かれたものです。覚者方は意識のレベル、高次の界、コーザル界、魂の界から働いており、アストラル界に接触することは決してありません。

編集長への手紙

シェア・インターナショナル誌には、未掲載手紙の保留分が多数あり、それらはベンジャミン・クレームと彼の師によって、覚者方あるいは「代弁者」との本物の出会いであると確認されたものである。その他の掲載された手紙は新しいものであり、覚者が関わっているかどうかを確認すること、もしくは示唆することもできないが、読者の考慮のために、これらの手紙は提供されている。

光のハート

 マニュエル・マガリャエスさんが撮影したハート形の写真(本誌2021年8月号)を見て、この写真をシェアしようと思い立ちました。この光でできたハート形は、2016年7月19日に自宅の居間の天井に現れました。1977年にマイトレーヤが現代世界にお入りになって以来、毎年その日には、いつも『記念日のお祝い』をしてきました。
 光の源を見つけようと両腕を振り動かしてみても、どこから来た光なのかわからないままでしたが、その時間にまだ太陽は出ていました。時折それが再び現れるので、私はいつも見るのを楽しみにしています。

アン・サリバン
米国、ニューヨーク州ロングアイランド

帰還の旅

 (1)1944年10月4日、ソビエト軍の侵攻のために私の家族はラトビアからドイツへ逃れ、ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルにある難民キャンプに連れて行かれました。そこにいた間、工場で勤務する人もいました。私は電気通信の訓練を提供されました。ちょうど15歳の誕生日を迎えるところでした。ドイツで2週間経つと、他の女の子たちのグループ(約20人)と共に、ドイツ東部のバルト海岸にあるリューゲン島に送られました。そこに到着すると、どのような訓練も受ける予定になっていないことが分かりました。私たちは溝を掘るか、あるいは同様の骨の折れる他の仕事をすることになると噂されていました。私はとても落胆して心配になったので、翌日、キャンプの司令官に会いに行きました。私は彼に自分の気持ちが変わったこと、まさにその日に15歳になったばかりで、家族と離れたくないことを伝えました。言い争いになると思っていましたが、そうなりませんでした。彼は私に、翌日キャンプを離れることができると言ったのです。
 翌日、私はシュテティーン鉄道駅に連れていかれ、移動用の食事のサンドイッチとブランデンブルクへ戻るための旅費を渡され、道順を教えられました。夕方になる頃、列車はベルリンに到着しました。私はベルリンで列車を乗り換えて、ボツダム駅でブランデンブルク行きの列車に乗らなければなりませんでした。車両はもう満員でしたが、身なりの良い年配の紳士の隣の席だけが空いていました。彼はネイビーブルーのギャバジンのコートのボタンを留め、ベルトも付けていて、黒いシャツとネクタイに黒い帽子を被り、黒い靴に黒い革の手袋という格好でした。列車の旅の間、私たちは会話を交わし、私がどこから来て、どこへ行くのかなど、その他のことについても話をしました。私たちはドイツ語で会話していましたが、彼はしばしば「知っている、知っている」と言っていました。
 彼は生き生きと輝く瞳をした優しい人で、実業家という印象を受けました。ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルに近くなると、すでに外は暗くなっていました。彼が「どうやってキャンプに戻るつもりですか?」と尋ねてきました。私は「分かりません」と返事をし、おそらく歩くことになると思っていました。彼が「いいかね、駅にリムジンと運転手を待たせています。あなたをキャンプまで送ります」と言ってくれました。それは完全に大丈夫だと思えて、車に乗せてもらうことに何の心配もありませんでした。駅の外に出ると、運転手の乗った黒のリムジンがその人を待っていました。私が車に乗ると、すぐに難民キャンプに送ってもらえました。その男性と運転手は、私が入り口を通るまでそこにいて、それから車で去っていきました。私の家族は、ブランデンブルクのもう一つの難民キャンプに移動したことが分かりました。翌日、私は家族と再会し、私が帰ったことで皆が大喜びでした。リューゲンから逃げ出して、ブランデンブルクに到着すると、すぐにリムジンで駅からキャンプまで戻れたなんて信じられないくらいだったのです。
 これでお終いとなるところでしたが、彼との話にはまた別の展開があります。54年後の1998年の誕生日に、私はドイツでの私の15歳の誕生日と、私を助けてくれた素敵で親切な男性のことを考えていました。終戦時には彼に何も悪いことが起こらないようにと願っていました。その日の夜遅く、私はベッドに入って少し読書をしようと思っていました。夜の静寂の中で、優しい足音が家の中を通って、私の寝室へ近づいている気配を感じました。どういうわけか私はパニック状態にもならず、恐ろしくもありませんでした。足音が近くなり、私が列車で出会った男性が歩いて入ってきました。彼が近寄ってきてベッドの端に腰を下ろしました。私たちはただお互いに見つめ合い、私は驚きのあまり何も話せなくなりました! しばらくすると彼は立ち上がり、壁の中へと消えていきました。彼が消えてしまったので、イエス覚者だと分かりました。彼が去って行く時に、わずかに顔に微笑みを浮かべていて、彼に気づいたことを知ってもらえたのだと分かったのです。
(1)それはイエス覚者だったのか確認していただけますか。(2)リューゲンから脱出する時に、助けていただきましたか。(3)運転手はどなたでしたか。

【ベンジャミン・クレームの師は、(1)その『列車の男性』がマイトレーヤであったことを確認した。(2)そのとおり、マイトレーヤからの助けであった。(3)イエス覚者であった】

アストリダ・カニェプス
ニュージーランド、クライストチャーチ