2021年5月号目次

 

覚者より
教師としてのキリスト
ベンジャミン・クレーム筆記

今月号の内容概説

視点
私たちの共通の家を取り戻す
私たちが必要とするすべてのものを含むようにコモンズを拡大する
ヴァンダナ・シヴァー

「私たちは行動しなければならない」
大気中の二酸化炭素濃度が初めて420ppm を超える
ケニー・スタンシル

子どもの人身売買の被害者にとって、救出と同様に社会復帰が重要な理由
ニーナ・バンダリ

フィリス・クレームによる推奨図書
『アニー・ベサント (1847 – 1933) 闘争と探求』
ミューリエル・ペカスタン=ボワシエール著

もう一人の若い環境保全のリーダーが声を上げる: 13歳のリディマ・パンディさんの紹介

米国はパレスチナへの援助政策を再開

マイトレーヤの手形――助けと癒しの源

時代の徴
空の徴

氷山の雄大さと人間の静けさ
アリアン・イーロイによる カミール・シーマン氏へのインタビュー

経済と財政
アート・ユリアーンス

経済に関する霊的な見方一選集
A spiritual perspective on economics – a compilation

「真の気候法を!」
フランスで数万人がより強力な気候法規制を求めてデモを行う
ジョン・ケアリー

気候にやさしい食べ物は私たちが思っているよりも簡単である
エドウィナ・ヒューズ、リチャード・ウェイト、ジェラルド・ポッツィ

編集長への手紙
顔を合わせて他

読者質問欄
回答 ベンジャミン・クレーム

教師としてのキリスト

シェア・インターナショナル誌の創刊以来、ベンジャミン・クレームの師である覚者はほとんど40年近くにわたって、毎月記事を提供してこられた。たくさんの要素を含んだこの複合的な記事は2008年に書かれ、今日にも当てはまるアイディアを扱っている。

教師としてのキリスト

──覚者より
ベンジャミン・クレーム筆記

 多くの人々はキリストの出現を待ち、期待するが、それが人類にどのように影響するかについて非常に歪んだ見解を持つ。多くの人々は彼を霊的魔術師として待望し、彼らや他の人々の欠点を帳消しにしてくれて、それで永久的な平和を確立するだろうと考える。それはこの非常に重大で複雑な出来事についてのかなり受動的な見解である。マイトレーヤ御自身にとって、それは人類と相互にダイナミックに関わる機会であり、神の大計画の原則を確立し、正しい人間関係の時代の幕開けをするための機会である。
 それは世界中至るところにいる男女の積極的な反応と参加を必要とする──外的な機構(しくみ)と内的な認識に対する世界的な継続的な変化の過程である。
マイトレーヤは、世界でキリスト教徒が大半を占める地域は特別にオープンで実りがあるとは見ていない。またその他の主要な宗教に対しても、その理解について彼はあまり望みを抱いていない。もちろん、すべての宗教には、すべての者の利益のために応え、行動する用意のある男女はいる。同様に、世界中のすべての国に、社会のあらゆる分野に、(見ず知らずの)兄弟姉妹のために行動する呼びかけの合図を待っている人々がいる。
 多くの人々はキリストを、法を破る者たちを懲らしめ、罰するために遣わされた審判者として待つ。キリスト・マイトレーヤは教師であり、確かにいのちの法則を人間に教えられるが、審判者だったことはない。懲罰ということは彼の語彙の中には存在しない。彼は、人間が転生している魂であり、自己発見の旅路を共に歩む者であり、その途上でお互いに助け合う者として、自分たち自身を知ることができるように鼓舞しようとされるだろう。競争は人間が彼らの道を歩むのを妨げ、横道にそらせ、魂の特質を垣間見る機会を不毛にする。
 人間はその道からかなり外れてしまった。商業主義が人類の喉元をつかみ、あらゆる寛大な思考や意思表示を彼らの人生から奪い取っている。人間の魂は、この抑圧をもはやこれ以上耐えることはできず、苦悶とフラストレーションで声高に叫んでいる。そうして人々は、すべての地における若い人々による犯罪と暴力の増大を訝(いぶか)しがる。
 マイトレーヤは世界中における戦争と軍事行動の源について教えるだろう。その結果、気候や天候でさえも影響されることを示されるだろう。人間は彼らの行動の影響について、そして規律と配慮の必要について学ぶべきことがたくさんある。
 キリストは教えるためにやって来られる。人間は、自由意志を保ったまま、成長するために(キリストに)応えなければならない。キリスト・マイトレーヤは決して強制はされない、たとえそれがわれわれにより早く学ばせることが分かっていても。人間が自由意志で取りかかることのみが法に沿うことであり、実を結ぶ可能性が高いことを、彼はご存じである。
(シェア・インターナショナル誌、2008年3月号)

今月号の内容概説

 今月号の本誌を貫く主なテーマの一つは「関係」である。覚者の記事の一つにはこう書かれている。マイトレーヤにとって、「正しい人間関係の時代の幕開けをするための機会である。それは世界中至るところにいる男女の積極的な反応と参加を必要とする──外的な機構(しくみ)と内的な認識に対する世界的な継続的な変化の過程である」。
 ヴァンダナ・シヴァはコモンズ(共有財産)について語るとき、同じアイディアを表明している。「コモンズでは、私たちは地球とお互いを気遣い、共有する」
 写真家のカミール・シーマンは(p.21の「氷山の雄大さと人間の静けさ」というインタビューを参照)自分の仕事と観察を通して、「私たちはすべてのものとつながっており、すべてのものがライフ・フォース(生命力)を持っている」ことを明らかにしている。彼女が祖父から学んだことは、真の人間になるとは、「私たちがすべての人や──人々だけでなく──すべてのものと相互に関係し、つながり合っていることを知ること」を意味する、ということである。
 推奨図書は、多くの側面を持つアニー・ベサントの生涯に脚光を当て、見かけの異質性と統一性との関係についても説明している。ベサントは、神智学の統合的な要素が、自分の探究するマインドと精神を安堵させるものだということに気づいた。「なんとも首尾一貫し、なんとも精妙で、それでいてなんとも知的なのでしょう。バラバラの事実が巨大な全体の一部として見られました……」
 私たちがいくつかの記事を通して追求している別の重要なアイディアは、人生のあらゆる側面は霊的と見なすことができるだけでなく、もし私たちがこの惑星と私たち自身、つまり人類に健康的でもっと健全な生活様式を取り戻させるとしたら、あらゆる様相が霊的であると見なされなければならないということである。さまざまな本からの引用で構成される選集のタイトル「経済に関する霊的な見方」は、シェア・インターナショナル誌がその主要な特徴の一つを提示するのを可能にしている──つまり、分離した人生の側面のように見えるものを統合する本誌の独特な能力のことである。今月号の場合は、私たちの経済システムが共通の善に仕えるように、経済システムを本質的に霊的なものと見なすことが緊急に求められていることを明らかにしている。アート・ユリアーンスは著書『架け橋』の中で次のように書いており、それが今月号で再掲載されている。「人類のすべての部分が状況やニーズに比例して合理的に利益を得ることを可能にする平等な基盤が考案されなければならないだろう。こうした問題を、戦争や武力外交によって、あるいは最も強い者や何らかの好ましい戦略的状況を利用する者による利己的な強奪と保有によって解決することは決してできない。このような厄介な問題を解決する方法は一つしかないだろう。それは寛容や理解、話し合い、相互の善意によるものである」。マイトレーヤ御自身がそれをどのように表現しておられるかをご覧いただきたい。「市場フォース(力/エネルギー)は悪や混乱や破局のフォースであり、そしてその子供は競争と比較である」
 これによって私たちは、正しい関係というアイディアに立ち返ることになる。慰めと助けを必要とするすべての人々のために、「マイトレーヤの手形」に焦点を当てる短い選集を通して、マイトレーヤの愛にあふれる慰めを読者にお届けできることに感謝したい。

氷山の雄大さと人間の静けさ

アリアン・イーロイによる カミール・シーマン氏へのインタビュー

写真家のカミール・シーマン氏は1969年、アメリカ原住民(シネコック族)の父とアフリカ系アメリカ人の母との間に生まれた。ニューヨーク州立大学で写真術を学び、1992年に卒業した。それ以来、シーマン氏は受賞歴のある写真家となり、首都ワシントンにある全米科学アカデミー博物館で作品が常設展示されている。何十年もの間、北極と南極を旅し、氷山の写真を撮影したり、そこで起こっている急激な環境の変化を記録したりしてきた。
 「カミール・シーマン氏は、人間が自然から分離していないことを雄弁に物語る写真を撮ることを強く信じている」と、彼女のウェブサイト(camilleseaman.com)には書かれている。アリアン・イーロイがシェア・インターナショナル誌のために彼女へのインタビューを行った。

シェア・インターナショナル(以下SI):「私はとても幼い頃から、私たちはすべてのものとつながっており、すべてのものがライフ・フォース(生命力)を持っていると教えられた」と、あなたは述べたことがあります。このことについてもっと話していただけますか。

カミール・シーマン:私の祖父は、真の人間であるとはどういう意味かを孫たち全員が理解すべきだ、と非常に真面目に考えていました。彼にとってそれは、私たちがすべての人や──人々だけでなく──すべてのものと相互に関係し、つながり合っていることを知ることを意味しました。そのため、祖父は私たちにただ言うだけでなく、示すことによって教えようとしました。何かを信じることと何かを知ることの間にある違いは、実際の体験だということを理解していたからです。そうした物理的なつながりこそが、知るための方法です。
 私にとっていまだに印象深いのは、祖父が私を森の中に連れて行った時のことです。私たちはよく、それぞれの木の前で立ち止まりました。祖父は文字通り、私をそれぞれの木に紹介し、私の手を木に当てさせ、こう言いました。「私があなたの親戚であるのと同様に、この者はあなたの親戚です。敬意を払っていただきたい」と。木にはそれぞれ、顔や個性があると私は考えます。
 英語については大きな問題があります。英語は「所有」の言語だからです。英語は物を、従属させて「資源」へと転化できる物体にします。もし森を自分の親戚と見なすなら、親戚である森をどうやって伐採できるでしょうか。そのようにして木に紹介されるのは本当に強烈な体験でした。多くの人はいまだに、すべてのものが「管理」されるべきだと考えています。魚も管理されるべきであり、海も管理されるべきであり、川も物として──文字通り物体として──管理されるべきであると。
 私たち[シネロック族]と関係するワンパノアグ族から学んだ驚くべき話があります。ヨーロッパ人が来てから最初の10年で、ヨーロッパ人は直径6フィート(180cm)以上のすべての木に対する権利を王の名のもとに主張しました。そのため、王は伐採する権利を持つことになりました。そうした木材はすべてイギリスへと出荷されました。ニューヨーク州から沿岸部にかけて、すべての大木、こうした大原生林がなくなり、天候さえも変わりました。そこに暮らす動物さえも変わりました。
 ですから、こうしたつながりの話になるのです。私たちはつながりをますます感じ始め、気候変動を認識するようになります。しかし、幼い子供の頃、これは私がいつも認識させられていたことでした。子供の頃、祖父は、私が何も考えずに木から葉を引き抜くところをつかまえました。祖父は私をやめさせて、こう言いました。「何の結果ももたらすことなく、自分がやりたいことをその木に対してやることができると思うのか」と。祖父はこう言いました。「お前がその木から分離していると思うなら、自分の息をどのくらい止めていられるか確かめなさい」。そして実際に、私に息を止めさせたのです!
 祖父は雲のない晴れた日に、ロングアイランド(ニューヨーク)の暑さの中、私たちを屋外で座らせました。数分もすると、汗をかき始めます。小さな白い雲が現れると、祖父は空を指さしてこう言います。「あれが、雲になろうとしているお前の汗だ。それは雨になり、植物に水をかけ、動物を養い、動物は私たちを養う」。それは周期です。分離はありません。このことを知り、幼い者には多くの混乱──多くの怒り──が生じました。それは認知的不協和だったからです。ここに自分が知っている一つのことがあるけれども、周りの世界のとても多くが、全く違ったやり方で行動しているのが目に入ります。ですから、知るのは簡単なことではありませんでした。認識するのは簡単なことではありません。

SI:あなたは地球上で残っている最も孤立した、汚されていない地域へと導かれました。他の人々とどのように関係を確立したか、そしてこうした調査船で女性として、あるいは観光船で芸術家として働くことはどのようなものか教えてください。

シーマン:メディアで読んだり見たりしただけでは分からないかもしれませんが、極地では実際、科学者としても乗組員としても女性の存在が非常に大きいのです。ですから、女性の代表者がいることが大事です。海洋生物学者や地質学者、氷河学者の隣に立ち、見たり考えたりしたことのないような熱心さで彼らが説明してくれるとき、最も情熱的で、わくわくするような方法でこうした場所に招待されていることになります。
 データは[あまりに多くのものを]与えることしかできません。人によっては、数字やアイディアがあまりに大きすぎます。芸術が──画像であれ、著作や音楽であれ──科学と結びつかなければ、十分に消化されません。ですから、こうした船が、探検写真家となるよう私に依頼してくれたことをとてもありがたく思いました。このような関係はおそらく、フランク・ハーリーと一緒だったシャクルトン[20世紀初めの南極探検家]にまでさかのぼるでしょう。シャクルトンの冒険について私たちが知っているのは、彼が写真家を抱えていたからです。写真が登場する前は、人々がスケッチしたり絵を描いたり書いたりしていました。しかし、探検画家の役割は依然として決定的に重要です──調査船だけでなく観光船でもそうです。ですから、私は解説者のような者です。

SI:目撃者の役割のようですね。その役割はあらゆるものを変えてしまうのではないですか。

シーマン:どこに行くのであれ、私がまず行こうとするのは、このような引っ張る力、このような磁力的な呼びかけがあるためです。何らかの理由である場所に引き寄せられるように感じるのです。または、そこにいたいという必要性や好奇心を覚えます。数カ月か数年が経過した時でなければ、それが、私が記録し、写真に収めてきた長年の目標であったということは分かりません。

氷河と氷山の生命周期

SI:氷山は棚氷から分離してからおよそ3年から6年生きており、氷河ができるには雪がひとひらひとひら積もって10万年かかっている可能性がある、とあなたは述べておりました。氷河の発達度合いや氷山の生命について話していただけますか。

シーマン:二つの物語があります。北極の氷河と氷山があり、また、南極の氷河と氷山があるからです。同じ言葉ですが、非常に異なった生き物です。* グリーンランドでは、景観ははるかにゴツゴツしています。ですから、こうした氷河が移動すると、もっとゴツゴツし、もっとひびが入ります。氷河が割れて──終局を迎えて氷山として分離すると──多様な形を取る傾向があります。すべての氷山は独特だからです。誕生日ケーキのようであったり、王冠のようであったり、とがっていたり、あらゆる形があります。
 南極には、広い範囲を占めるロス棚氷があります。それは文字通り、南極点から始まり、幅が約500マイル(800km)あります。それだけこの氷のかたまりは大きいのです。しかしそれは、雪がひとひらひとひら積もってできたものです。その構造を形作るものは、実際のところ南極の風です。非常に乾燥しているため、フワフワした雪を風が巻き上げ、行ったり来たりして雪の層がゆっくりと形成されます。しまいには、何層にも重なったこうした雪のケーキができます。何千何万という層が圧縮され、重力によってゆっくりと海へと引っ張られていきます。それが海に達すると、ロス棚氷が出来ます。この棚氷から一つのかたまりが割れると、それは文字通り、ロードアイランド(アメリカの一つの州)の大きさとなることがあります。いわゆる板状の、平らなテーブルのようになる傾向があります。沈んでいた部分が上に出てきて、三角形になるものもあります。

SI:それらが生まれて死んでいくという感覚はありますか。

シーマン:誕生と死のようだとは言えません。まさしく、連続した過程の一部だからです。生と死の区別はほとんどありません。このように述べたいと思います。それは雪のひとひらとしての生活をし、次に氷河の一部としての生活を送り、それから氷山としての別の生活を送ります。その後、再び水としての生活があり、その水は雪のひとひらとなります。死があると言えるでしょうか。
 最終段階にあるこうした氷山を見ると、海底に引っかかっているものや、文字通りいつ崩壊してもおかしくないので近づけないものもあります。とても不安定で、多くの亀裂が入っています。こうしたものが海へと崩れ落ちていく最後の段階を目撃したことがあります。少しだけ、死のように感じられます。しかし、私はほとんど、この発言を別の言葉で表現する必要性を感じます。それは実際、もう一つの変容なのです。こうした連続的な変容の過程にあります。

静けさについて

SI:あなたの写真のテーマは、自然の雄大さと畏敬、人間のもろさ、孤独、すべての存在のはかなさと独特さ、老化と死を中心に展開しているように見えます。静けさと光についても話したいと思います。

シーマン:いつも信じていたわけではありませんが、写真は実際、写真家の反映だと誰かが言っていました。全く同じ被写体を撮影するよう10人の写真家が派遣された実験が行われたことがありましたが、異なった10枚の写真が出来上がることになりました。私の画像のすべてに、私の世界観や育てられ方が反映されていることは分かっています。
 静けさについて触れたいと思います。それは私の仕事のとても大きな部分を占めていて、祖父のもう一つの教えだからです。およそ5歳の時から13歳の時まで、毎日、寒くても、日が照っていても、雨が降っていても、雪が降っていても──それは関係ありませんでした──私は外に座らされ、1時間、じっとしていました。お気に入りの場所がありました。大きなカエデの木の下にあったテーブルの上によく座っていました。1時間が過ぎると、祖父が私を呼びに来て、「何を見たか」と聞きます。かたくなな気持ちでいて、「何も見なかった」と言うとします。そうすると、祖父は「外へ戻りなさい」と言いました。
 この経験から学んだことは、静けさの中にいると、自分と自然との間のあの境界──あの他者の感覚、あの分離感覚──が消えるということです。そうした境界は私たちによって築かれている、とはっきり述べたいと思います。自然はそうした境界を認めません。私たちが認めるのです。しかし、静けさの中にいると、その境界はなくなります。そして突然、非常に信じ難い体験をすることになります。例えば、鳥がやって来て自分の体にとまったり、蝶がとまったりします。あるいは、何となく魔法のように見えるものに気づきます。「どのようにして起こったのだろうか」。しかし、それはただ、静かにしていたから起こっただけであり、自然界はこう言います。「やあ、戻って来たね! お帰りなさい」と。そうすると、自然界はこういう接客係を派遣して、「また会おうね!」と言うのです。それが雲に起きている現象であれ、動物や蜘蛛に起きている現象であれ、あなたが静かにしていると、こうした魔法のような瞬間が訪れます。その時、あなたはただ存在しているだけでなく、再びつながり合っているからです。
 32歳で写真家になろうと決心した時以来、私が意図したのは、この人生は美しく、私たちが持っているこの惑星は信じ難いということを人々に明らかにしたいということでした。たくさんの人が私に、「フォトショップのようなものを使っていますか」と尋ねました。私の画像で最も大切なことは、あるがままに記録することです。そうであってほしいと自分が考えるものをつくり出すことではありません。ですから、フォトショップを使わないことがとても大切です。それは、私が外に出ていて、そこにいなければならないことを意味します。光がある方向から差しているとき、あるいは、動物がこちらにやって来ようとしているとき、それを写すためにそこにいなければなりません。変更を加えるためにフォトショップに頼れば何十万枚も多くの写真が取れることは確かでしょう。しかし、それは私の画像の意図することではありません。私が意図することは、人々が私たちの惑星とこの人生との自分自身のつながりや関係を築くのを手伝うことです。

より詳しい情報と写真については、
camilleseaman.comをご覧ください。

経済に関する霊的な見方――選集

経済に関する霊的な見方――選集
A spiritual perspective on economics ──a compilation

この引用文の選集は、マイトレーヤのメッセージ(『いのちの水を運ぶ者』と『いのちの法則』)、ベンジャミン・クレームの師の言葉(『覚者は語る』第Ⅰ巻と第Ⅱ巻)、およびベンジャミン・クレームの著書から抜粋したものである。

 近年の金融、経済の崩壊が生活に与えた損傷の度合いを人々がより完全に認識するとき、古い制度に戻ることは、多くの者がそう望んでいるのだが、それは不可能であることを発見するだろう。経済は貪欲と利己主義と分離主義によって粉砕されたのだが、本質的には新しい時代のエネルギーの作用によって破壊されたのである。すでに、人々が認識している以上に、アクエリアス(宝瓶宮)のエネルギーはその不思議な力を地球に働きかけている。人々は意識においてますますお互いに引き寄せられており、統合のエネルギーがその恩恵ある仕事を行っているのである。すでに多くの者たちが、あたかもひどい重荷から解放されたかのように、新しい方法に反応しており、単純化された、しかしより和合した世界を望み見ている。
(『覚者は語る(Ⅱ)』─人間の生活は繁栄するだろう─より)

 わたしの教えは単純である。分かち合うことの必要と、すべての人間が平等に汲み取ることのできる資源の溜まり場を創ることの必要を、示すであろう。貪欲を協力と信頼に置き換え、人間の裡なる霊性を顕すことの必要を説こう。霊性の顕現こそ、もっとも大切なことである。我が友よ、それなくしては、人間の未来はまさに闇である。決定の時が人類を待つ。わたしの愛が両極端の見解を創り出す、それがわたしの振り回す剣である。
(『いのちの水を運ぶ者』第64信より)

 金持ちの国と貧乏な国の生活水準の間にある大きな隔たりを許容する余裕を、世界はもう持ちません。その不均衡が今日の政治的、経済的問題の中核です。基本的にそれは精神的霊的な問題です。一方に物質主義と分離、そして他方に霊的な分かち合いと正義と同胞愛、この間の選択です。われわれの選択が人類の運命を決定するでしょう。
(『マイトレーヤの使命  第Ⅱ巻』)

 人々は供給の法則に異なった要求をする。ある者は人生により多くを求め、より大きな資源を支配する。しかしそれが満たされるためには、少ししか要求しない者、あるいは要求できない者たちの犠牲の上にのみ、可能である。これが市場のフォースの盲目さなのである。それは要求する者たちの位置(経済的、社会的、その他)の違いを全く考慮に入れない。であるから、これらのフォース(エネルギー)の操作はその中に不平等性を備えているのである。本質的に分割的なものである。だからマイトレーヤはこれらを「悪魔的」と呼ばれるのである。すべての者が同じところから始めるならば、それに何らかの論理があるかもしれない。しかし誰も同じところからは始めない。
(ベンジャミン・クレームの師、『マイトレーヤの使命  第Ⅱ巻』)

 世界的に信奉されている現在の信条は、市場の力(フォース)のそれである。「市場フォースとは人が降伏することを意味する。真我は、利潤を最大にするという観点から、生命の未知のフォースに降伏させられる。……市場フォースの本質は貪欲と分離主義である。これらのフォースに執着すればするほど、ますます束縛の独房をつくり出す。これは霊的な破産につながり、精神の不均衡につながる」……マイトレーヤは、手綱を外された市場フォースが国々の間に広まっていくことをもはや許さないだろう。市場は存在するだろう。しかし社会民主主義によって均衡が保たれるだろう。
(マイトレーヤの側近、『いのちの法則』)

Q マイトレーヤとあなたの師、そしてあなた自身も、商業主義は破壊的だと考えていると読みました。なぜですか。世界では常に取引が行われています。商業主義の何がそんなに間違っているのですか。
A 取引のような「商業」と商業主義(コマーシャリゼーション)の影響の間には違いがあります。取引は物資を交換する合法的な方法であり、あなたの言われるように、遠い昔から行われてきました。商業主義とは、金儲け(利益追求)が人間活動のあらゆる分野に入り込んでいる状況のことです。保健医療や教育の分野までこのひどい物質主義に支配されています。今日、商業主義には境界がなく、封じ込めることができません。あらゆるサービスが商品と見なされ、自由に売り買いできるものとされています。この恥ずべき慣行が今日の私たちの問題の中心にあります。
(『多様性の中の和合』)

 指導原理は浪費ではなく、充足でなければならない。現在、世界の経済制度は浪費によって支配されている。その浪費の乱行が様々な汚染問題をつくり出し、惑星の健康に対する危害を形成する。これはまだ半分しか認識されていない。持続可能な経済とは、惑星の健康の可能性の範囲内においてすべての者の必要を供給するものである。現在では、それは達成不可能のように見える。しかし光のテクノロジーが人類のためにその状況を変換し、われわれすべての必要を満たすために無限で生態系的に健全なエネルギーを提供する。
(ベンジャミン・クレームの師、『マイトレーヤの使命  第Ⅱ巻』)

 市場フォース(力/エネルギー)は悪や混乱や破局のフォースであり、そしてその子供は競争と比較である。市場フォースは、悪魔的なエネルギーである。市場フォースは“私のもの”とか“もっともっと”(つまり独占欲や貪欲)につながり、それに終わりはない。市場フォースは、われわれが知るこの文明を破滅の淵にまで導くだろう。
(マイトレーヤの側近、『いのちの法則』)

 今日、われわれは、物質主義に完全に拘束されています。今日、世界は、すべての物を、もっともっとと欲する――すべてのシステムの中で成長することが目標です。われわれはもっと簡素に生きることを学ばねばならない、ということは、産業的見地から見れば、安定した国家経済と呼ばれるものに入ることであり、われわれに必要なものだけを生産するのです。生産を、必要なものだけにとどめ、産業の成長というものは過去のものになる。
(『世界教師と覚者方の降臨』)

 そこに西欧世界の過失がある。これらの“成功した”国々はその富と支配力を主に歴史に負うており、また世界経済を強引な“市場のフォース”を通して彼ら自身に有利なように操る彼らの能力に負うのである。世界の哀れな極貧の者たちは、今や自分たちの分け前を要求する。もしわれわれがこの単純な正義への当然の権利に対処し改善しなければ、世界に平和はないだろう。
(『覚者は語る(Ⅱ)』─アメリカの選択─より)

 今日世界にのしかかっている経済的、そして実際、霊的な危機の中心にある問題は資源の再分配です。この霊的な危機が政治と経済の舞台に集中されているのです。それだから、マイトレーヤは、まず最初は、政治、経済の教師としてやって来られるのです。マイトレーヤの教えは非宗教的ですが、霊的(精神的)生活についてであり、正しい人間関係についてであります。私たちが世界の資源を分かち合うとき、世界の病を解決する最初の一歩を踏み出すことになり、それは神性へ向かう最初の一歩であります。
(『マイトレーヤの使命 第Ⅱ巻』)

 世界中に、差し迫った変化についての感覚が増大している。主要貨幣や金融機関の崩壊が世界経済の骨組みを揺るがせ、それが世界経済構造の崩れ落ちる殿堂に支柱を立てたり、もし可能ならば矯正しようとする試みを始めさせた。これらの土壇場の試みは成功しないだろう。短期的には、それらの試みは、もはや存続可能ではない制度の、あるいは大多数の人間にとって役に立たない制度の究極的な崩壊を、ただ遅らせるだけである。
……
 古く、役に立たなくなった機構はその安定性と首尾一貫性を失いつつあり、かくして新しい時代の形態の建設のためにその土俵をきれいにしている。
(『覚者は語る(Ⅱ)』─変化への前奏─より)

編集長への手紙

シェア・インターナショナル誌には、未掲載手紙の保留分が多数あり、それらはベンジャミン・クレームと彼の師によって、覚者方あるいは「代弁者」との本物の出会いであると確認されたものである。その他の掲載された手紙は新しいものであり、覚者が関わっていたかどうかを確認すること、もしくは示唆することもできないが、読者の考慮のために、これらの手紙は提供されている。

顔を合わせて

編集長殿
 たった今、私は驚くべき体験をしました。その経緯からお話しします。2008年にバルセロナのベンチに座っていた、1人の男性の写真を2枚撮影したのですが、その人はその後ベンジャミン・クレーム氏の師から、マイトレーヤのファミリアであったと確認されました。写真の1枚にはマイトレーヤがうつむいていて、わずかに斜めを向いた顔が見えています。私は両方の写真をコンピューターに保存し、そのうち1枚を縮小画像でデスクトップ画面に置くことにしました。驚いたことには、パソコンにその縮小画像を置くと、マイトレーヤの顔がまっすぐに私の方を向いていたのです!
 私は2020年の夏に新しいコンピューターを買いました。写真全部を新しいコンピューターに移動して、古い方でやっていたように、同じマイトレーヤの写真の縮小画像をパソコンのデスクトップ画面に置きました。けれどもこの時には写真は変化せず、元の写真のように顔は私の方を向いていませんでした。
 今夜(2021年3月23日)、マイトレーヤについての広報で活動している友人たちと、ズーム・ミーティングをしていた時、その縮小画像の名前がただの『.jpg』であることに気づきました。「これは良くない!」と思い、その縮小画像名を『Maitreya.jpg』に直すことにしました。ちょうど新しい名前を保存してその画像を見たところ、彼の顔がこちらを向いて、私の正面になっていたのです!
 私には奇跡のように思えました!!
(元の写真2枚と新しい縮小画像の画面コピーを添付しています)
サビーナ・クレシ
カナダ、エドモントン

この写真はベンジャミン・クレームの師によって、ファミリアの姿のマイトレーヤであると確認された。2008年にバルセロナに現れた時のものである。マイトレーヤと覚者方はしばしば扮装をして、または『ファミリア』を使って現れることを選択する。この人物はおそらくマイトレーヤとは似ても似つかないであろう。

喜びの演奏

編集長殿
 2004年の夏の日暮れ頃に、私は公園の南側にあるベンチに座っていました。私の書いた本が出版されることになったので、良い気分でした。ベンチには私の真横に2人の男性が座っていました。私たちはおしゃべりを始めました。彼らはロンドンから来た友人同士でした。背の高い白人の男性と、比較的小柄で『カフェオレ』色の肌をした男性で、その人はザンビア出身だということでした。私たちは私の本の内容について話をしました。
 私はアルメニア・フルート(ドゥドゥク)を持ち歩いていました。ラジオでフルートのことを知りました。この楽器に大変魅了されたので、演奏したくなったのです。背の高い男性が「それこそ人が楽器を演奏し始める、唯一の方法だね」と言いました。日が暮れていく頃の、周りに人が誰もいないか、ほとんどいない時にだけ演奏していると私が言いました。「それは残念ですね」と彼が言いました。小柄な方の男性も私に演奏するように励ましてくれて、典型的なジャズの吹奏パートを口真似して、指でフルートを演奏するフリまでしていました。
 ドゥドゥクは哀愁漂う音色で知られていて、普通は彼が言うようなジャズ風の激しいスタイルで演奏しないものです。どうしてそうなったか深く考えないうちに、その2人の思いやりのある男たちと一緒にいて、とても気楽なうれしい気持ちになりました。日没の2時間前に、公園内で人々が通りかかったり、周囲に座ったりしている中で、時々少しだけ恥ずかしくなりましたが、演奏を始めてしまったのです。背の高い男性が帽子を地面に投げたので、私は笑いました。演奏後も、私たちの会話はしばらく続きました。さようならを言った時、彼らはすでに数メートル離れていて、小柄な男性が再び振り返って、「あなたの本のタイトルは何?」と尋ねてきました。「極性のパラドックス」と私がその距離でも十分聞こえる大声で答えました。彼は「極性のパラドックス」と繰り返して、「極性(ポーラー)」の所が正しい英語の発音になっていました。
 彼らは『ただの』友人たちだったのか、それとも友人である覚者方だったのですか。
クリスティアン・ラインハルト
ドイツ、ミュンヘン
【ベンジャミン・クレームの師は、彼らがマイトレーヤとイエス覚者であったことを確認した】

ハイウェイ救助

編集長殿
(手紙は2006年着)
 あなたの著書、『世界教師と覚者方の降臨』を読んでから数年後に、あなた(ベンジャミン・クレーム氏)が1992年にバンクーバーで講演を行うという、タラ・カナダからの知らせがありました。義理の息子と私は参加することにしました。私たちは(バンクーバーから)450キロメートル内陸に住んでいます。
 バンクーバーから1時間ほど車で走った辺りで、私たちの車は止まってしまいましたが、義理の息子には修理できませんでした。私たちは高速道の脇で、通行する車の誰かが助けてくれるのを待つことにしました。20分ほども経たないうちに、運搬トラックが止まり、運転手が助けを申し出てくれました。彼は運転席に乗り込んで、ステアリングの調整のようなことをしてくれました。それ以降は、ありがたいことに車は動いたのです。
 トラックの運転手は30歳くらいの男性で、きちんとした清潔な作業服を着ていて、きれいに輝く金髪で、気さくで親切な人でした。この人は普通の男性だったのか、それとも、もしかして覚者でしたか。
I.H.
カナダ、アームストロング
【ベンジャミン・クレームの師は、その男性がイエス覚者であったことを確認した】

読者質問欄

世界中のあらゆる講演において、そして生涯のほぼ毎日、ベンジャミン・クレームは広大な範囲に及ぶ大量の質問を受けました。この大量の記録から、過去の年月にベンジャミン・クレームと彼の師である覚者によって提供された回答を掲載したいと思います。そのいずれもこれまでシェア・インターナショナル誌に未掲載のものです。

Q 天使とは何ですか。

A 天使は存在します。彼らは人間とは別の進化──ある意味、並行する進化にいます。東洋においては、彼らはデーヴァ進化あるいは天使的進化と呼ばれています。彼らは退化する弧の亜人間エレメンタルから、人間よりもはるかに高度な偉大なる存在──アーキエンジェル──までの進化の弧にいます。ですから、それは信じられないほど多様な進化であり、物質にまで至ります──それらのエレメンタルは惑星の物質を維持するために使われています。進化の弧においては、低位の建設者たちと呼ばれ、地球の木々や花や植物を作り、地球の気候を管理し、泉や川を世話します。それらの物質活動のすべては微細な天使的生命(亜人間)によるものです。そしてこのように活動することで彼らは徐々に人間(の進化)に近づきます。
 人間の段階はすべてのものが通過する段階です。まだ人間ではないものから人間、そして人間を超えたものに至ります。人間を超えた天使の存在がいます。覚者方が人間を超えているのと同じです。彼らは人間の段階を通過して、人間を超えた段階、魂の段階に達しました。彼らは魂の王国です。彼らは天使と混同されるべきではありません。
 今日の人々は世界中で、あらゆる国で天使を体験しています。メディアからお茶の間に至るまで、あらゆる場所でナンバーワンのホットな話題です。誰もが今や天使を体験しています。
 これらの「天使」は天使ではなく、覚者方です。覚者方は彼らが天使であるかのように行動し、あらゆる悲劇から人々を救っています。自動車事故の死、溺死や崖からの墜落など何でもです。これらの無数の「天使」による救済の事例は、あらゆるケースで「天使」として姿を見せる覚者方によって行われています。彼らは意のままに外見を変えることができます。人々は天使を大きな翼を持つと考えますが、彼らは大きな翼を持たず、翼を持つ必要もありません。それは人間が持つ天使についての想念形態です。ですから、覚者方はその想念形態を用いて「天使」として現れ、人々は「天使が私を救ってくれた!」と言います。しかし実際にはそれは覚者です。
 現在、天使は確かに存在しますが、人類が想像しているように人類と接触はしていません。まだその時は来ていません。しかしいつの日か、将来、人間の進化と天使の進化が密接に関連するようになるでしょう。彼らは偉大なる治癒者であり、治癒の術について人類に伝えるべき多くのことを持っています。

Q それでは、私たちそれぞれには守護天使がいるのですか。

A 私たちは確かに守護天使を持っており、人々は救われた時には守護者である守護天使のおかげだと考えます。しかし、全くそうではありません。守護天使は事故や危機的状況からあなたを救うことはありません。守護天使はあなたを進化の道に留めます。それが役割です。あなたが黒魔術や邪悪な活動によって退化の道に迷い出したとき、守護天使はあなたを神への道、光の道に保つ役割があり、その管理者が覚者方です。

Q では、彼らに語りかけることはできるのですか。

A 守護天使に語りかけることはできません。人々は彼らに祈りますが、それを聞き反応するのは覚者方です。
(ディック・ラーソンによるベンジャミン・クレームへのインタビュー「古からの疑問に新たな光を与える」、1996年)

Q 転生という概念は新しいものではないと思います。宗教は人々がより良い人生を歩むために存在しますが、あまりうまくいかないときもあるようです。しかし再び生まれたとき、進化することができると知るのは良いことです。私は汚染のない世界に生まれたいと思います。私は再び生まれたいと思いますが、食べ物のない場所に生まれたいと思うでしょうか。

A それが人類の抱える問題の一つであり、マイトレーヤの第一の優先事項です。彼がまさに今この世におられる理由の一つは、私たちには一人当たり余分な食べ物があるにもかかわらず、2億5,000万の人々が文字通り飢え死にしているという事実です。マイトレーヤはこれを犯罪と呼ばれます。豊かさの中で人々が飢えることは犯罪であり、異常なことです。
(1989年6月28日、「ケン・ベアレンズ・ショー」におけるベンジャミン・クレームへのインタビューからの抜粋)

Q メッセージの中で、マイトレーヤは「あなたに私を信じてほしいとは思わない。まず、わたしをあなたの中で体験しなさい」*と言っています。これについて説明していただけますか。

A 宗教団体は、イエスやクリシュナのような教師がいると信じています。キリスト教徒は、「イエスを信じなさい、そうすればうまくいくでしょう。彼を信じると言いなさい」と言います。「私はイエスが生きておられることを信じます」とただ信じて、ただ言うだけに何の意味があるでしょうか。
(*『いのちの法則』の中のマイトレーヤの教え)
 個人的に、私はイエスが生きておられることを信じます。彼は偉大なる覚者であり、間もなくマイトレーヤと覚者の一団と共に世に出られるでしょう。しかし、「私はイエスを信じます」と言うだけでは人は変わりません。本当に人を変えるのは、キリストとしてのマイトレーヤ、パレスチナで生きたイエスが、彼ら自身の中に体現したもの──キリスト原理である愛──と一体化することです。あなたがあなた自身の中にあるそれと一体化したとき、あなたはマイトレーヤを体験することになります。彼を世界教師としてただ信じることは重要ではありません。しかし、あなたがあなた自身の中にキリスト原理を認識することは重要であり、それがあなたの中で目覚めた限りにおいて、マイトレーヤはあなたを通して働くことができます。彼はあなたを通して世界を変えることができます。
(2001年6月、ニューヨーク市での講演)