2021年6月号目次

   

覚者より
協力の術
ベンジャミン・クレーム筆記

協力
ベンジャミン・クレーム筆記

今月号の内容概説

視点
152 兆ドル、これが 1960年以降に裕福な諸国が グローバル・サウスから流出させた金額である
ケニー・スタンシル

参加型予算編成 都市生活への住民参加
チアゴ・スタイバーノ・アルベス

気候変動と現代の奴隷制の問題には同時に取り組む必要がある

人類へのマイトレーヤの接近―第二部
アレクサンダー・ドゥーヴェス・デッカー

ヴァンダナ・シヴァのシード(種)
シェア・ギルモアによる映画評

時代の徴
世界中の徴
光の祝福

民衆のリーダー:ダリットの女性がインド農民の声になる
サニア・ファルーキ

私たちは経済的、社会的権利のために、 債務の足かせと闘わなければならない
アリソン・コーカリー、イグナシオ・サイス、ファン・パブロ・ボホスラフスキー

「私たちは ここにいる!」

真の内向性——選集
True inwardness — a compilation

編集長への手紙
ある『大学生』による喜びの教訓 他

読者質問欄
回答 ベンジャミン・クレーム

協力の術

シェア・インターナショナル誌の創刊以来、ベンジャミン・クレームの師である覚者はほとんど40年近くにわたって、毎月記事を提供してこられた。協力という言葉は覚者の四つの記事のタイトルに含まれ、他の記事にもよく出てくる。しかし、分かち合いと同様に、それは依然として、私たちがまだ試みていない解決策である。

協力の術

──覚者より
   ベンジャミン・クレーム筆記

 人間は、今日彼らが直面する問題の重大さをますます理解しはじめている。政治、経済、社会のすべての前線において、これらの問題はどんどん増大し、大きな頭痛の種になり、彼らに悲しく頭を振らせる。これらに加えて、自然とその資源に対する人間の軽率な態度が生じさせた環境の問題があり、人類の未来はますます暗澹としている。人類の生命が危機にさらされており、手遅れにならないうちに何か抜本的なことをしなければならないという認識が目覚めつつある。
 事実、人間は自分自身を救うために一体何ができるのか。人間の福利に対する脅威を緩和するためだけにでも、どんなステップを取ることができるのか。
 答えは比較的単純である。しかし人間は、彼ら自身の条件づけられた網の中に捕らえられているので、それを本当に把握することは困難なようである。
 人は競争という毒物から自分たち自身を解き放たなければならない。それがグラマーであることに気づかなければならない。実際そうなのであるから。そしてすべての人間の一体性を悟り、「全体的な善」のために協力を喜んで抱きしめなければならない。協力と正義(公正さ)のみが人間を、彼ら自身がつくり出す大惨事から救うだろう。協力と正義のみが彼らの未来を保証するだろう。これがそうであることを考慮するならば、人間は、救済への鍵として協力を受け入れる以外に選択肢を持たない。……
(シェア・インターナショナル誌、2000年9月号)

協力

──覚者より
   ベンジャミン・クレーム筆記

 人類は今日、まさに未来への偉大なる飛躍をせんとしている──その未来において人間の本質的に聖なる特性が顕示されるだろう。人間は知らないかもしれないが、完全なる大人として、その未来を形づくる知識と力の受託者となるためのテストに合格したのであり、そして合格しつつあるのである。
 現在は、人類種族の案内人の内的視覚にのみ、このリアリティーは明瞭であるが、それはまことであり、来るべき時のために良い兆しである。今日人間が集う所には、新しい危急感が、この惑星とその王国の福利に対する新しい責任感が見られ、また感じられる。
 生存と進歩のための苦闘に永劫の時を費やし、やっと今、人間は成熟したと言える──人間自身にはまったく隠れていて見えないが、わたしたちにはその成熟さが認識できる。
 今や人類の進歩にとって重要な前進への機会が訪れ、その速度と達成においてこれまでのすべての前進をはるかに凌ぐものである。今まではゆっくりした着実な進歩が望ましく、またその方が好ましかったのであるが、新しいダイナミックなリズムがつくられつつあり、その勢いが人類を全世界的な変化の波に乗せて未来へと押しやるだろう。今日の分裂した世界の緊張はあまりにも大きく、方向の急速な転換のみが破局を防ぐであろう。この急速な変化に適応するには、多くの者に問題を生じさせることは疑うべくもない。しかし、それよりはるかに多くの者たちは、これらの変化を新しい人生への機会として喜んで迎えるだろう。
 舞台の背後にいるわたしたち労役者は、人類がその機構の根本的変容を始動させることに自信を持っている。それはもはや人間の必要に応じ切れず、新しいものの出現を阻む。わたしたちは見守り、導き、すべてを監督する。少しずつ新しい意識が人類を彼らの内的要求に目覚めさせている。古い競争心はなかなか死なないが、それにもかかわらず、新しい協力の精神もまた見え始めている。これは未来への吉兆である。なぜなら協力によってのみ、人類は生き延びられるだろうし、協力によってのみ、新しい文明が築かれるだろう。人類は彼らの神性の内的真理を知り、それを具現することができる。
 協力は正しい関係の自然の結果である。正しい関係はまた賢い協力に伴う。協力はグループの努力のすべての成功への鍵を握り、聖なる善意の顕われである。協力なしには、長続きするものは何も達成されない。というのは、協力は多種多様の見解の統合をもたらすからである。
 協力は和合のもう一つの言葉である。和合と協力がすべての人間にとっての未来への跳躍台であり、達成への保証である。人類の裡に偉大なる力の貯蔵池が未開拓のまま横たわっており、協力の魔術によって解き放たれるのを待つ。
 競争は自然の秩序に無理を強いる。協力は人間の内なる善意を解き放つ。競争は自己のためのみに関わり、他方、協力はすべての者の最高の善のために働く。
 競争はすべての罪の起源なる分裂に導く。協力は唯一の聖なるいのちの多色の糸を混ぜ合わせ融合することを求める。
 競争は人間を絶壁に導いた。協力のみが道を見いだすのを助ける。
 古い時代の後ろ向きの者は競争を好む。新しき時代の者は聖なる協力を喜んで抱擁する。
 世界の人間は二つの種類に分けられる──競争する者と協力する者とである。
 心(ハート)から競争のしみを洗い浄めなさい。心(ハート)を楽しい協力に開きなさい。 (シェア・インターナショナル誌、1984年12月号)

今月号の内容概説

ほぼ1年半続いたパンデミックの後、世界が今や示しているはずだと期待できる反応が一つあるとすれば、それは協力の精神である。私たちは皆、世界中で同じ潜在的な危険に直面しているため、共通の「敵」に対しては完全な協力が最も適切な対処の仕方となるだろう。しかし、私たちの政府も、システムも、精神構造も、あまりに競争に固執しているため、私たちはこれまでのところ、この最近の「テスト」には合格していない──新型コロナウイルスとそれに付随するあらゆるものによって課せられたテストである。
 しかし、ベンジャミン・クレームの師である覚者はこう再確認している。「競争は人間を絶壁に導いた。協力のみが道を見いだすのを助ける」。問題は、私たちがその絶壁のふちのすぐ近くをヨロヨロと歩いていることを私たちと指導者たちが認識する──そして行動する──かどうかである。
 社会の不正義に反応して、地元レベルであれ国家レベルであれ、市民による共同の努力は拡大しており、労働者による改革に向けた行動は変化の力として認識されている。「民衆の力」はもはや、世界中の都市で行進し抗議する、元気づけてくれる大勢の人々だけではない。住民による活動もまた、意思決定に実際に直接参加するほどまで拡大してきた。「参加型予算編成」で描写されているように、そうした根本的な政策変更によって、状況の改善、労働者の権利の擁護、資源の公正な割り当てが確実に行われている。
 今月号の内容の大部分は、地球規模の問題に対する実施可能な解決策について概説している──こうした問題のすべては、私たちの幸福感を含めて、私たちの仕組みに対して競争が強いている緊張を反映している。あらゆる種類の不正義に特に焦点が当てられている。例えば、奴隷制、環境破壊、金融化、労働者の搾取である。こうした問題のそれぞれが他の諸問題を悪化させるいきさつを読むと、心がかき乱されると同時に興味がそそられる。奴隷制と気候危機が一緒になって悲劇をつくり出していることなど、誰が考えたことがあったろうか。「気候変動と現代の奴隷制には同時に取り組む必要がある」をご覧いただきたい。
 「人類へのマイトレーヤの接近」は、人類に近づき、導こうとする霊的ハイアラキーの継続的な努力について詳述している。今月号の選集「真の内向性」では、マイトレーヤ、偉大なアバターであるサイババ、覚者、ベンジャミン・クレーム、スワミ・ニリプタナンダの声に耳を傾けることになる。それぞれの方が私たちに対して内面に向かうよう、熟考するよう、自分自身の中に静けさを見つけるよう、そして真我とつながるよう促し、助言している。この教えはおそらく現在にはなおさら当てはまるものであり、自分自身と真我についての新しい体験を与えてくれる。内面に向かおうとする十分な姿勢が培われると、今日の難問にもっと的確に対処することができ、自然界と至るところの人々に恩恵をもたらすということが分かり始めることになるかもしれない。至るところのすべての人が繁栄できる状況を確実にもたらすために、以前にもまして今、その内的なビジョンを実際的な行動へと変換する必要がある。

「 私たちは ここにいる!」

アメリカでのラジオトーク番組の終わり頃に、あるリスナーが電話してきて、インタビューを受けていたシェア・インターナショナルの協働者に以下のようなメッセージを伝えた。ベンジャミン・クレームの師は、その電話をしてきた人物がイエス覚者のスポークスマンであったことを確認した。
 これは、2014年2月5日のその電話の内容と、彼が番組司会者およびインタビューを受けた協働者と行ったやりとりを書き起こしたものである。

通話者:最初にこう言いたいと思います。「すべての栄光、神にあれ」と。私はずっとベンジャミン・クレームを見てきました。あなたの人生や活動も見てきました。私の人生も見ています。私たちは同じスピリット(霊)から来ていることが分かります。私が言いたい最大のことは、「私たちはここにいる──私たちはここにいる!」ということです。そして世界は、何らかのやり方で、喜んで──義務だと言うのではありません──喜んで、私たちの話すことを受け入れなければなりません。なぜなら私たちが話していることは……だからです。メディアはこのことを、私たちがナンセンスなことを話しているかのように扱うでしょう。私たちは2014年の社会をこんな風につくり上げたのです。知恵や知識、パワー、エネルギー、そして私たちが話していることは、ある人々にとってはまるで……のように思えるでしょう。「オーケー、メッセージは聞いたが、それをどうやって自分の日常生活に生かせばよいのか?」。ええ、それを話すために私たちは来るのです。それを誰に教えようとするのでもありません。なぜならこれらの物事の幾つかは教えることができないものだからです。天啓のようなものが必要です。高いところから天啓を受け取る必要があるのです。
 しかし、それは名誉なことです。ユーチューブやフェイスブックやあらゆるソーシャル・メディアには、あなたやベンジャミン・クレームについて否定的で軽蔑的なことが書かれています。しかし私がここにいるのは、兄弟よ、こう言うためなのです。「私は知っているから知っているのだ。私が本当に知っていると言える唯一の理由は、私がそれを知っているからであり、私がそれだからだ」。そして、ただ、「ありがとう、兄弟よ、ありがとう」と言うためです。私はハートの最も深い誠実さをもって、あなたの裡なる声に耳を傾けてくれたことに対してあなたに感謝したいのです。あなた方を愛しています。

協働者:あなたが電話してくれたこととそのコメントに対して感謝しきれません。

司会者:何と!

協働者:大変感謝していますし、あなたに神の祝福がありますように。

通話者:神の祝福がありますように。兄弟よ、あなたを愛しています。あなたは私の兄弟であり、私はあなたを愛しています。またお会いしましょう。

司会者:あなたのお名前は何と言うのですか?

通話者:私はムハンマドです。

協働者:全くそうです。私たちは兄弟姉妹であり、またお会いするでしょう。そのことを疑いません。祝福がありますように。

司会者:あなたの名前はムハンマドというのですか?

通話者:はい。

司会者:ありがとう。私たちもあなたをとても愛しています。

通話者:あなた方は祝福された夜を過ごしました。とても感謝しています。私は長いあいだ待っていました。……人生の中であなた方にお話しできるようになるかどうか分かりませんでした。私は長いあいだ待っていましたが、人生とはそういうものです。一緒になる機会がないこともありますが、今日はいのちそのものによる動きでした。あなたが魂について、魂と再びつながり一体となることについて話した時、それ自体がメッセージです。それがメッセージなのです。私たちの行為により、私たちは堕落しました。人間は堕落し、私たちは堕落しました。そして私たちが堕落して以来、私たちの存在の霊と魂に向かう代わりに、暗闇で一杯のものに向かってきたのです。そしてその暗闇のために、私たちは魂がどれほど力強いものかを知らないのです! 眠っている間にも魂は旅することができることを知らないのです!

協働者:そうです。そのとおりです。

司会者:さあ、もう終わりの時間です。ムハンマドさん、もう時間がなくなりました。電話してくれてありがとう。あなたの美しい貢献に感謝します。ありがとう。

通話者:ありがとう。あなた方を愛しています。

編集長への手紙

シェア・インターナショナル誌には、未掲載手紙の保留分が多数あり、それらはベンジャミン・クレームと彼の師によって、覚者方あるいは「代弁者」との本物の出会いであると確認されたものである。その他の掲載された手紙は新しいものであり、覚者が関わっていたかどうかを確認すること、もしくは示唆することもできないが、読者の考慮のために、これらの手紙は提供されている。

ある『大学生』による喜びの教訓

編集長殿
 1995年頃、私は修士号取得のために、ロサンゼルスのカリフォルニア州立大学へ戻りました。ある日の午後遅くの日没前に、伝導瞑想に参加するために車を取りに行こうと、キャンパス内を歩いていました。二人の男子学生がキャンパスの歩道を私の方へ歩いてきました。彼らが近くなった時、見上げると若い女性が、彼らのすぐ後ろを歩いてきているのが見えました。彼女は大学生の年頃で、肩くらいの茶色の髪でした。ちょうどすれ違う時に彼女が私を見て、モナリザのようにとても優しく微笑みました。
 突然、私は喜びでいっぱいになったのです! ハートが満たされ、足が地についていないような感じで、心がとてもウキウキとしていました! すぐに思ったのは、「彼女がしたように、私も微笑むだけで他の人々をこんなに幸せにできたら良いのに」ということでした。私は感激していました。
 ベンジャミン・クレーム氏は、覚者方が現れる時に必ず教訓を与えると言われました。ひとつ私の学んだことは、覚者に出会ったかもしれないという徴の一つが、はっきりとした理由などなくても、突然とてつもない喜びと幸福を感じるということです。
住所氏名は非公表
米国
【ベンジャミン・クレームの師は、その女子学生がマイトレーヤであったことを確認した】

心のこもった感謝

編集長殿
 私はもうすぐ91歳になりますが、シェア・オランダ誌(シェア・インターナショナル誌オランダ語版)の購読を更新しています。
 この月刊誌をとても楽しんでいるのです。
 アーケイン・スクールの通信講座を7年間続けましたが、夫が病気になったため、やめなければなりませんでした。
 私が生きている限り、月刊誌の購読を続けるつもりです。
 私の心からの誠意を込めて、編集者とチームの方々へ、皆さんの仕事と献身にお礼を申し上げます。
 光と愛のうちに
匿名希望
ベルギー

瞬く間に

編集長殿
 2006年9月にマイトレーヤの『手』の写真を見ながら、慢性緑内障の手術を両眼とも受けることになっていたので、助けをお願いしました。私の視神経の状態を考えると、ひどくストレスを感じていたのです。それから間もなく、ベッドに入って目を閉じると、私のそばに立っている地中海地方の風貌の女性の顔が見えました。彼女は小さな赤いリボンを肩までの黒髪の左右に付けていました。彼女の暗褐色の瞳が私の目に向けられました。私を見つめていた間、その瞳がずっと瞬きし続けていたような感じがしました。非常に深遠な瞳でした。翌朝目覚めた時、私の目のことも手術のことも、もはやストレスを感じていませんでした。
 もしかして、これはイエス覚者かマイトレーヤの現れだったのでしょうか。あなたのお返事を楽しみにしています。ありがとうございます。
ドミニク・ディ・スカラ
フランス、ヴィニェ
【ベンジャミン・クレームの師は、その『女性』がマイトレーヤであったことを確認した】

読者質問欄

世界中のあらゆる講演において、そして生涯のほぼ毎日、ベンジャミン・クレームは広大な範囲に及ぶ大量の質問を受けました。この大量の記録から、過去の年月にベンジャミン・クレームと彼の師である覚者によって提供された回答を掲載したいと思います。そのいずれもこれまでシェア・インターナショナル誌に未掲載のものです。

Q:死ぬのはそんなに悪いことですか。キリスト[マイトレーヤ]は、惨めな極貧の中に生きるよりも死ぬのが悪いことだと考えるのですか。

A:彼がその区別をしているとは思いません。彼は死ぬことや惨めな極貧を重んじません。彼は存在を見、苦しみを見ます。もしあなたがキリストのハートの中を見ることができたら、何を見ると思いますか。私がその質問をしたら、人々はまばゆい黄金の光や天国の安らぎと栄光や至福であると言います。全く違います。キリストのハートの中をあなたが見ることができたら、あなたは一瞬も耐えることができないでしょう。それはあなたにとって恐るべきものでしょう。それは耐え難いものでしょう。今日のキリストのハートをあなたが見たら気が狂うでしょう。彼は悲しみの男です。彼の悲しみは、私たちの悲しみです。彼と私たちの間にはいかなる分離もありません。彼が人類を見るとき、分離なしにそれをハートの中で経験します。彼が見るのは私たちの痛み、苦しみ、憤懣、怖れ、絶望、悲しみ、憎しみです。そのすべてがキリストのハートの中にあります。それゆえに彼は、人類への愛からこの世に戻って来られたのです。それを変え、浄化し、エゴ、痛み、苦しみ、憤懣を取り除くためです。キリストは一瞬一瞬それと共にあります。
 ですから、彼は生きることと極貧と死と惨めさと飢餓の間を区別するでしょうか。いいえ。それはただの惨めさであり、ただの痛みであり苦しみです。その苦しみに対して、愛の主は反応されます。私たちが反応するよう鼓舞することができることを望み、信じておられます。彼が「無辜なる者たちの虐殺」と呼ばれるこの冒涜を世界から永遠に取り除き、途上国で何十億もの生命が惨めな貧困の中にある状況をなくすことを望まれています。

Q:(霊的)ハイアラキーとの関係で神はどこにいるのですか。

A:まず、神はどこにいるのでしょうか。そして、神とは何でしょうか。神を真に定義することはできませんが、少なくとも私の考えでは、神はあらゆる法則と、これらの法則を通して操作され宇宙を創り上げたすべてのエネルギーの総計です。聖書では「神は焼き尽くす火である」と述べられています。神は様々な周波数、様々な関係性の中で振動するエネルギーです。これらの周波数、関係性が、顕現する宇宙を形成します。私は神であり、あなたは神であり、これは神です。神のいないところはありません。神はすべてのものであり、その間にあるすべての空間です。
 キリストとの関係では、彼は神の一様相である愛の様相を体現したという意味で神です。彼はキリスト原理、進化のエネルギーを体現し、今では神の意志の様相も体現しています。彼はとてつもない強力なアバターであり、かつてこの世に来た他のいかなるアバターよりも偉大であり、より大きな仕事、より困難な任務を持っています。
 ある人々にとっては、神は天国に座す髭の生えた老人であり、それに向かって「どうか私を守り給え」とか「友人を病気や死から救い給え」と祈る対象です。しかし私にとっては、それは神ではありません。
 神とは、私にとって神聖な原理であり、キリストとあの御方──神──との違いは、彼[キリスト・マイトレーヤ]にはその原理の一様相としての原理が完全に染み込んでいるということです。しかし私たちはそれを本当には知りません。その性質を知りません。それは私たちの大半にとって一瞬ごとのリアリティではありません。たぶん最も深い瞑想の中で、その神性のある様相がどんなものかを認識するでしょうが、生活の大部分において、私たちはあまりに家族や友人のことで忙しいので、神が何であるかを感じることができないのです。
 しかし、キリストのような地位にある存在にとっては、神は非常に強力で絶えざるリアリティなので、彼はそのリアリティを私たちのために解釈することができます。それが教師方の役割です──私たちが神と呼ぶ私たち自身のリアリティの性質を解釈することです。分離は存在しませんが、私たちはこの「罪」──分離という異端──の中で生きているために、そのことに気づいていません。存在する唯一の罪は、分離という罪です。世界には分離したものは何もありません。私たちは全体の一部であり、キリストは私たちが人類や自然や神と呼ぶものがすべて同じものの一部であることを示すでしょう。それらはすべて存在の全体の一部であり、それが私たちの性質です。

Q:第三世界の人々は彼らのカルマ的負債のために苦しんでいるのですか、それとも彼らは私たちの貪欲と利己主義のために苦しんでいるのですか。

A:単に彼らが生まれた場所が別の場所ではなかったというだけの理由です。もし私たちがアフリカに生まれたとしたら、私たちが餓死していたでしょう。そこに生まれたという結果以外の意味のカルマはなく、前世での悪行の結果ではありません。そのように信じる人は決して飢えたことのない人です。
 これを見ている人の多くは、これらの人々が餓死するのは彼らのカルマであり、彼らに食料を与えればカルマの法則を乱すことになると信じています。このように考えることができるのは、一度も飢えたことがなく、意図した場合を除いて人生の中で食事を欠いたことがない人だけです。
 世界で人々が飢えているのは、私たちが資源を独り占めしているからです。それがすべてです。すでに述べたように、私たちが第三世界から神の息子や娘としての彼らの権利を奪うとき、私たちは毎日否定的なカルマを生み出しているのです。

(ロサンゼルス、1987年)