2022年5月号目次

 

-覚者より
人類同胞愛
■ベンジャミン・クレーム筆記

論説
「国が国に相対立することなく」

視点
反骨の気候科学者らからの人類へのメッセージ:
「動員、動員、動員」
ケニー・スタンシル

人類の問題-労使と雇用

ウクライナの情勢と平和の未来
セバスチャン・ヴィユモ

サンジェルマン伯爵の活動と才能-第二部
ドミニク・アブデルヌール

エコロジー経済学――持続可能性、公平性、自由に向けた変化の 過程なのか? ―第一部
オーヴェ・ヤコブセン教授へのインタビュー
アンネ・マリエ・クヴェルネヴィック

時代の徴
空の徴

古い秩序からの新たな始まり?

和平交渉がロシアの対ウクライナ戦争を終わらせる唯一の方法である
ジェフリー・サックス

覚者より
重要な機会
■ ベンジャミン・クレーム筆記

土壌を守ろう――いのちのための運動
アナ・スウィーストラ・ビエ

編集長への手紙
無言のやりとり 他

読者質問欄
回答 ベンジャミン・クレーム

人類同胞愛

──覚者より

   ベンジャミン・クレーム筆記

 遅かれ早かれ、相互依存のリアリティ(現実)が諸国家に、そしてその指導者たちに分かり始めるだろう。その認識は、今日彼らが格闘している様々な問題に対して全く新しい態度をもたらすだろう、そしてそれらの困難に対する、より容易なそしてより賢明な解決につながるだろう。視野の漸進的な変化が現在の猛烈な競争と対立を相互理解と協力に置き換えるだろう。すべての国家が同じペースでこの方向に進むのではないだろうが、この方法の有効性と明らかな健全さはやがて最も非楽天的な者たちにさえ、すべてのための恩恵を見させるようになるだろう。前進への一つ一つの歩みがこの過程を固め、そして協力への動きを速めるだろう。このようにして、より健全な関係が諸国家の間に展開していくだろう、そしてやがて、本当の同胞愛の感覚につながるだろう。
 より小さな国の多くはすでに相互依存のリアリティ(現実)を認識しているが、力を欠くために彼らの声は聞かれないままに過ぎる。大きくて強力な国々はそのような概念をあざけり、自力でできるという誇りが世界との関係についての真理に対して彼らを盲目にしている。
 人間はゆっくりと進化するのであり、意義深い前進を遂げるためには時間と実験を必要とする。しかし、まさにこのようにしてこれらの達成は安定し、恒久的なものになるのである。
 国際連合は、もちろん、より小さな国々の声が出され、そして聞かれることのできるフォーラム(公会の場)である。それは、安全保障理事会とその勝手な拒否権が廃止されるときにのみ可能となる。それ(安保理)の有用性はもはやなくなったのであり、権力と拒否権から解放されている国際連合総会に早く道を譲らなければならない。
 そうすると、諸国家は大国の拒否権と経済的誘因によって強いられる制約なしに行動するようになるだろう。海外において民主主義を最も大声で叫ぶ者たちが、国連の場における民主主義の欠如に不思議と盲目である。
 すべての国の国民はひとつであり、平等であり、お互いに依存しているということを人間は認識するようにならねばならない。いかなる国も一国で世界を所有することも支配することもできない。いかなる国も一国で世界のすべての国々に対立して存続することはできない。帝政や絶対支配権は過去のものである。人間は、この地球という惑星上における彼らの役割についての新しい理解を得る瀬戸際にいる。それは智恵の道とこの惑星の賜物の本当の管理者の道における旅人の仲間たちとの関係を変えることを含む。
 あなた方の兄たちであるわたしたちは、人間がこの変化を成し遂げるのを助けるだろう。マイトレーヤは人間の前に、行動と世界の変容への代替えを示すだろう。方向転換しなければ、未来はまさに困難で荒涼としたものになることを示されるだろう。そしてまた彼は、人間がお互いの相互依存を、同胞愛のリアリティ(現実)を認識するように鼓舞されるだろう。

(シェア・インターナショナル誌2005年10月号)

「国が国に相対立することなく」

1977年9月6日にベンジャミン・クレームを通して一般大衆に伝えられたまさに最初のメッセージで、世界教師マイトレーヤは、世界が直面する主要な問題を指摘した上でこう説明された。「これらすべてを変えるためにわたしはやってきた。あなたがたに前進への道を示そう、もっと簡素で、健全な、より幸せな生活へ向かって、共に進む道を。もはや人が人に、国が国に相対立することなく、兄弟同胞として、共に新しい御国へと前進しよう」

 今や、これまで以上に、こうした言葉を心に受け止め、分断や憎悪、戦争のない世界において同胞愛と健全さは選択的なものではなく、必須であることを改めて思い起こす必要がある。しかし、現状はこうである──私たちは最初の四半世紀の終わりにかけて、破滅的な戦争の真っ只中にいる。
 四半世紀の終わりのこの2025年という年、そして今の時期は、不朽の知恵の教えや、知恵の覚者方の働き、ベンジャミン・クレームと彼の師との緊密な協力関係に親しんでいる読者にとって重要である。シェア・インターナショナル誌は、マイトレーヤの存在の事実や、この惑星のための聖なる大計画の存在の事実、その大計画の管理者たち──知恵の覚者たち──の活動を知らせるために存在する。私たちはマイトレーヤの出現の過程の概略を描き、その過程に伴う困難について説明してきた──そうした困難をつくり出したのは、人類の全般的な洞察力の欠如、物質主義を超克する能力のなさ、恐怖や貪欲、分離主義という習慣である。
 「物質性の勢力」の影響に加えて、こうした要因を考えると、マイトレーヤがいつ御自身を世界に示されるのかに関して具体的な日付を発表することはできない。しかし、アリス・ベイリーを通して教えを伝えたジュワル・クール覚者は、2025年がマイトレーヤの出現の過程において重要な年であることを示唆した。それは四半世紀の終わりでもあり、古代からの伝統に従って霊的ハイアラキーの覚者方が特別な会議を開き、過去を評価すると共に、自分たちの仕事の次の局面とこの惑星の大計画のために調整を行い、計画を立てる時期である。
 マイトレーヤが前面に出るのに好ましい状況のように思われたちょうどその時に戦争が勃発したのは、おそらく偶然ではないだろう。「混沌の勢力」は、マイトレーヤと覚者方が完全に認知された公の生活へ入るのを阻止するために土壇場の抵抗を試みているのである。そうした勢力は何よりもまず、心を動転させ、恐怖と分断を通して弱気にさせ、人類を行き場のない混沌の状態へと追い込もうともくろんでいる。事実であれ偽情報であれ、主流メディアであれ代替メディアであれ、惨事が伝えられている。必然的な出来事──キリストの「再臨」──を押しとどめようと働いている勢力にとって、このすべては好都合である。この重大な出来事は、新しい霊的な摂理の確立を合図するものである。その摂理の中で私たちは皆、自分自身が唯一なる大生命の一部であることを知る──すべての人が必要とされ、相互につながり合い、目的と意味を捉え、「私たちがその中で生き、動き、存在する」唯一なる大意識の計画に沿って進むことになる。

妨害のパターン

 過去40年間、条件が整うたびに、ある重要な出来事のパターン(様式)が展開するのを協働者たちは目にしてきた。1982年、機会の窓が開いて、マイトレーヤの公の生活への完全な出現が可能になったとき、ちょうどその瞬間、世界のメディアと一般大衆の注目を逸らすようなことが起こった。戦争が勃発したのである。その結果、その特別な機会の窓は閉まってしまった。
 マイトレーヤが前面に出てくることができるほど十分に状況が好ましくなるとすぐに、混沌と雑音のパターンが再発する──いつも戦争とは限らず、国際情勢を乱すような何かであり、メディアと一般大衆の注目がそれに奪われることになる。志向と焦点が散漫になり、その後の苦悩や混乱、憎悪の雰囲気の中で容易に操作される。生贄がすぐに見つかり、敵が容易につくり出される。
 1982年以降、これが繰り返し起こるのを私たちは見てきた。この過程が遅れるたびに、マイトレーヤと覚者方は待ち、計画を適応させなければならなかった。さらに、私たちが希望を失い、昔からの敵対的なやり方に逆戻りしてしまわないように、人類を励まし、奮い立たせ続けなければならなかった。人類には自由意志がある。私たちの本来の姿である潜在的な神々にふさわしい社会へと進歩していくかどうかを任せられている。「混沌と物質性の勢力」は分断をつくり出すために恐怖を利用する。協力と和合の報酬や恩恵がやがては、善意の勝利を必然的なものにすることを知っているからである。
 次に述べることを証明することはできないが、繰り返し起こるパターンから判断すると、マイトレーヤがもっと完全に公の場に進み出ることを可能にする機会の窓がまさに開いていた(おそらくまだ開いている)と仮定しても、突飛すぎるというわけではないようである。
 戦争が再び勃発し、世界の注目がそれに集中していることは、繰り返し起こるパターンがぶり返していることを示唆しているのかもしれない。このように述べることで、不正で悲惨な戦争を軽く考えようとしているわけではない。また、情勢に対するこのような見方をすることで、いずれかの「側」との連帯を宣言しようとしているわけでもない。私たち一人ひとりが人類のカルマの一部を担っている。すべての国に失敗や過ち、怠慢がある──  一部の国では他国よりもひどいが。私たちが戦争や気候危機、飢餓、テロ、暴力を抱えているのは、進行中の諸問題に公正に対処するのに集団として失敗しているからである。私たちはあらゆる国で、社会正義に対する要求を無視してきた。
 人々は「事実」をめぐって争い、戦時中だけでなく、何年も前に無節操な操作の餌食になった真理をめぐって論争を重ねている。そのため、真理と事実は随意的になり、意見の問題になってしまった。ベンジャミン・クレームの師は、意見が事実となる時代について警告を発していた。「第一の優先事は、事実についての本当の知識である。しかしながら、これは見つけることが難しい。非常に多くの声が、様々に矛盾する情報を繰り返し唱え、または叫んでいる。あまりにも多くの意見が、あたかも事実であるかのように扱われており、尊重して耳を傾ける価値のあるもの、信じられるものはほとんどない。そのような状況のもとでは、慎重さと抑制を促すことが賢明である」(ベンジャミン・クレームの師、「権力のグラマー」、本誌2002年11月号)
 シェア・インターナショナル誌は、人類全員の味方であり、一方の側にはつかない(片方の考えが不快だとしても)。一方の側につくという問題ではなく、ただ単に、苦しんでいる人々に対して自然な同情心を表すという問題である。
 ロシアを弱体化させようとするあからさまな政策があり、また、交渉しないという公表政策が米国側にあることによって、ウクライナの人々への共感が妨げられてはならない。世界の大半は、米国と北大西洋条約機構(NATO)が挑発的であったことを知っている。同様に世界の大半は、独裁体制下にあるロシアでは、あらゆるものが公正でも自由でもないことを知っている。世界は確かに、オリガルヒ(ロシアの新興財閥)とその資金を歓迎する一方で、本当に困っている難民を拒絶するイギリスの日和見的な姿勢のことを知っている。ヨーロッパは、可能な限り米国とNATOに歩調を合わせると都合が良いことを知っている。謀略と武力外交が進歩を押しとどめていることは、一般に受け入れられている事実である。悲しいことに世界は、腐敗が至るところに、社会のあらゆるレベルと部門にはびこっていることを知っている。
 本誌がこれまで行ってきたこと、そしてこれからも行うことは、同胞の人間の苦しみに対する心からの反応を表現することである──国籍や肌の色、信条がどうであれ。それ以外ではあり得ない。これまでかすかに把握することができたにすぎないにしても、もし私たちが、愛そのものである途方もない御方と一体となり、自分自身がその御方の一部であることを知っているのであれば、他の人々の苦しみと必要に対する私たちの自然な反応は、その同じ愛を降り注がせることであるだろう──私たちにできるどのようなレベルにおいてであれ。
 一方への同情を示すことは他方を憎むことである、という思い込みがあるようである。分かち合いに基づく信頼がない限り、戦争があるだろう。地球上のどの国にも、他国を理不尽に破壊する権利はない。自衛権は、国連憲章を含めて法律に明記され成文化されている。
 志向と理想は行動へと変換され、実際に適用されなければならない。ベンジャミン・クレームと彼の師である覚者、そしてマイトレーヤによって世界に伝えられた情報は、単なる理想や秘教理論ではない。進化とは、高位我をより反映することができるように自分自身を変えること、徐々に成長することである。マイトレーヤは、私たちの裡で私たちを通して働かれる可能性について話された。必要な変化を成し遂げ、分かち合いを新しい文明の基盤にしない限り、永続的な平和は私たちをすり抜けていくだろう。

ベンジャミン・クレームは、現在の危機に関連するいくつかの質問に答えている。

Q:(1)ウクライナに関して、あの国はロシアの勢力圏内の一部ではないのですか。(2)EUとアメリカは彼らの内政事情に干渉すべきではないのではありませんか。(シェア・インターナショナル誌2014年10月号)

A:(1)はい、そうです。(2)はい。しかしながら、ウクライナはもはやソ連の一部ではなく、ロシアの勢力圏内にとどまってはいますが、その主権は尊重されなければなりません。

Q:ロシアはかつてのソビエト連邦時代の諸共和国をどのように扱うべきでしょうか。チェチェン(そしてモスクワに対して同じ関係にある他の国々)の独立は聖なる計画の一部ですか。(シェア・インターナショナル誌2004年10月号)

A:すべての民族が彼ら自身の進化と運命を決める自由を持つことは、聖なる大計画の一部です。ロシアはずっと以前に何らかの形の自治権を求めるチェチェンの要求に応じるべきでした。

Q:民衆の力という潮流にメディアはますます注目し始めています。キルギスタンはその最新の例です。(1)これは扇動者たちによって“支援”されたものですか。(2)ウクライナの“オレンジ革命”は扇動者たちによって煽られたのですか。(3)キルギスタンの事例は、これまでの民衆の力の事例が次の蜂起を鼓舞したように、地域全体にドミノ効果をもたらすでしょうか。(シェア・インターナショナル誌2005年5月号)

A:(1)いいえ。(2)はい、両方の側で煽られました。(3)はい、おそらくそうなるでしょう。

Q:マイトレーヤの任務の一つは私たちのハートを他の人々の苦しみに対して開くことでしょうか。……(本誌2000年12月号)

A:確かにマイトレーヤの願いの一つは私たちのハートを他の人々の苦しみに対して開くことです。彼は世界にエネルギーを放出するたびにそうしておられます。それが彼の言われるすべてのことの中心にあり、私が本や講演の中で言ってきたすべてのことの中心にあります。私たちのハートを他の人々の苦しみに対して開くこと、それこそまさに彼の望んでおられることです。そのようにしてあなたは世界を変えるのです。彼はこう言われました。「あなたの兄弟の窮乏をあなたの行動の尺度となし、世界の問題を解決しなさい。その他の道はない」(メッセージ第52信)。彼はそのことをはっきり言われています。

Q:1982年、大宣言が最初に予定された時期には、イギリスとフォークランド島の戦争が起こりました。今、マイトレーヤの出現が再び間近になっている時、リビア、アメリカの問題やテロリズムが緊迫しています。これに関係がありますか。(シェア・インターナショナル誌1986年11月号)

A:はい、マイトレーヤの出現によって失うものが最も多い者たち、つまり物質性の勢力、悪の勢力は、それを妨げようと力の限りのことをします。戦争、テロリズム、緊張、恐怖、混乱は彼らの主な武器です。多くの世界の指導者たちは彼らの手の内に見事にはまります。指導者たちが悪だからではなく、しばしば無知で、独善的で、愛国主義的であり、世界観に欠けているからです。

エコロジー経済学

持続可能性、公平性、自由に向けた変化の過程なのか? ー第一部

オーヴェ・ヤコブセン教授へのインタビュー
アンネ・マリエ・クヴェルネヴィック

 オーヴェ・D・ヤコブセン氏は、ノルウェーのボドにあるノルド大学ビジネススクールの生態経済学教授である。彼は、マーケティングと哲学の修士号、経済学の博士号を取得している。社会科学・人文科学における研究倫理に関する国家委員会(NESH)など、いくつかの国家委員会のメンバーでもあり、そして、ノルド大学のエコロジー経済学・倫理学センターの創設者の一人であり、そのリーダーでもある。
 ヤコブセン博士は、『アナキズムとエコロジー経済学──エコロジー経済学のための政治的プラットフォーム』『インテグラル・エコロジーと持続可能なビジネス』『変革するエコロジー経済学──プロセス哲学、イデオロギー、ユートピア』など17冊の著書を出版している。
 アンネ・マリエ・クヴェルネヴィックがシェア・インターナショナル誌のためにオーヴェ・ヤコブセン教授に、著書『エコロジー経済学──未来からの視点』についてインタビューを行った。

 私たちが世界をどのように見ているか、どのようなパラダイムを持っているかによって、私たちの態度や行動、そしてミクロ、マクロの両レベルでの、さらには地球規模での選択に影響を与えることになる。
 著書においてヤコブセン氏は現在の世界で重要な中心的世界観、つまり、現在支配的な機械論的パラダイムと、現在の世界情勢に変化をもたらす有機的パラダイムを紹介している。
 これらの考え方は、今回のインタビューの中心でもあるため、著書の中から簡単に要約して紹介する。
 この二つの優位な考え方は、歴史の中で優位性を変化させてきた。機械論的パラダイムは17世紀に支配的になり、今日もなお支配的である。デカルト(1596-1650)などが、人間と自然との関係に着目して、その中心的な原理を打ち立てた。この考え方では、人間は自然から切り離され、優位に立ち、人間の特定の利益のために有益であれば、自然のプロセスに介入し、操作する権利があるとされる。このようにして、自然界に対する一般的な搾取的見解が生まれたのである。すべての部分は自然の法則によって結び付けられている──「全体は部分の総和と同一である」。デカルトはリアリティの物理的な部分と霊的な部分の間に明確な線を引いた(二元論)。つまり、神(創造するフォース)は引き下がっており、科学では理解できないとした。科学の使命は、人間の欲求を満たすために「頑固な」自然を克服することであり、今日の経済モデルの主流である市場自由主義は、この機械論的世界観に支配されている。経済的に利益が出る限り、自然を利用し、搾取することができるとしている。
 有機的パラダイムには、アリストテレスまでさかのぼる長い伝統がある。哲学者スピノザ(1632-1677)は、この考え方をさらに発展させ、人間も自然の一部であることを強調した。リアリティの物理的な部分と霊的な部分は同じシステムの二つの面であり、全体は部分の総和を超越している。自然、生態系、人間は一体であり、人間は自然の不可欠な一部であり、直観的な認識を通じて自然から学ぶ。自然の一部であるという経験が、すべての生態系を尊重することに自動的につながる。エコロジー経済学は、主にこの有機的パラダイムに基づいている。

シェア・インターナショナル(以下SI):「エコロジー経済学」とは何でしょうか。いくつかの重要な原則を説明していただけますでしょうか。

オーヴェ・ヤコブセン:エコロジー経済学は、経済学だけでなく、様々な立場や要素を含んでいます。それは、経済学、生態学、哲学、自然科学などを組み合わせた学問です。重要なのは、経済学が自然と文化の両方の状況で提示されることです。この点が、自然や文化の状況から多少なりとも切り離された主流の経済学とエコロジー経済学との大きな違いです。
 過去10年から15年の間に、私は53人の異なる貢献者たちに、エコロジー経済学の幅広い定義について尋ねてきました(1)。その結果、すべての人が、私たちの住む世界の捉え方を変えなければならないと言っています。私たちは生態系に統合され、文化的伝統に基づいているため、これらの要素を経済に統合しなければなりません。また、「経済人」の行動として定義される合理性の考え方も変えなければなりません。その定義によれば、合理的な経済的行為者とは、自分の利益を最大化する人のことですが、その代わり、私たちはエコロジカルな人間であり、すべての人間や自然全体に対して責任を持たなければなりません。
 エコロジー経済学には二つの重要な原則があります。第一に、有限な地球上では不可能な絶え間ない物理的な成長ではなく、自然な成長が必要です。私たちは、生態系の制限内で可能なもの以上を使用することはできません。第二に、資源を公平に分配しなければなりません。富裕な世界の大半は、資源の消費を減らし、生活の質に重点を置く必要がありますが、経済的困難に直面している人々は、より多くのものを必要としています。つまり、「公正な分かち合い」の問題であり、私たちは公平な方法で資源を共有しなければならないのです。これを獲得するために、責任、公平性、そして質的側面にもっと焦点を当てなければなりません。とはいえ、これらの原則は、物理的資源の生産に焦点を当てる必要性とも相反するものではありません。私たちは、より良く生きるために物を生産する必要があります。しかし、今日の問題は、生活の質的側面にあまりにも焦点が当てられていないことです。

SI:エコロジー経済学の目標は何だと思いますか。

ヤコブセン:目標は、人間と生態系全体の他のすべての生き物の生活の質の高さに基づいた、持続可能な開発に貢献することです。また、資源の公正な配分を確保し、生きた経済──長期的な展望を持った経済──を発展させることです。

SI:エコロジー経済学の最近の歴史とその貢献者について教えてください。

ヤコブセン:アリストテレスは「良い社会における良い生活」と表現しました。1900年から今日までの100年間、様々な貢献があり、進化経済学、フェミニン経済学、協同組合経済学など、様々な名称がついています。今日、私たちは、シェアリング・エコノミー(共有経済)や循環型経済についても話をしています。これらの考え方はすべて相互に関連しており、国際生態経済学会の活動や科学雑誌『エコロジー・エコノミックス』の発行に反映されています。
 エコロジー経済学の背景にあるインスピレーションは、熱力学*、進化論、ダーウィニズムの考え方、ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)が開発した人智学の考え方から得ています。仏教思想や他の伝統に由来する要素も見受けられますが、私としては、この四つが非常に重要であると考えてます。

* 熱力学:エネルギー、エネルギー変換、および物質との関係に関する学問。自然界の最も基本的な法則の一つにエネルギー保存の法則がある。これは、ある相互作用の間にエネルギーはある形態から別の形態へと変化し得るが、エネルギーの総量は一定であるとするものである。

SI:グリーン経済、つまりグリーン・シフトについてお聞かせください。エコロジー経済とはどう違うのでしょうか。

ヤコブセン:グリーン・シフトは、既存のパラダイムの中で持続可能な開発を目指すものです。エコロジー経済学はこの取り組みに批判的な問いを投げかけています。グリーン経済学は、既存のシステムの中で活動するもので、しばしば「ゲームのルールの中で」活動することを指します。言い換えれば、彼らは現在の経済システム、市場自由主義の悪影響を軽減し、国連の17の持続可能な開発目標に基づく、最も広い意味での持続可能な開発につながる前向きな発展を得ようとするものです。しかし、エコロジー経済学の貢献者の多くは、システムそのものに批判的で、「ホモ・エコノミクス(経済人)」から「エコロジー的な人間」への意識改革を望んでいます。

SI:では、グリーン経済は現在の経済システムを「支える」ものなのですね。

ヤコブセン:グリーン経済は、現在の課題による悪影響を軽減し、より根本的な問題を解決するための時間を与えてくれるでしょう。私たちは、この二つの考え方を同時に実現しなければなりません。私たちは、気候変動や生物種の絶滅を食い止め、資源をより公正に分配し、国連の第一目標である「世界中で貧困をなくす」という持続可能な目標を達成しなければならないのです。これらの変化は間違いなく必要なものですが、同時に、このシステム自体についても問いかけなければなりません。デカルトから今日までの西洋の考え方、つまり機械論的な考え方を変える必要があるのでしょうね。おそらく、例えば、有機的な世界観など、他の解決策を考えるべきかもしれません。

SI:エコロジー経済学を代表する有機的パラダイムと、今日の主流派経済学を代表する機械論的パラダイムとの違いについて教えてください。

ヤコブセン:主流派の経済学はデカルトにさかのぼる機械論的な考え方と結びついており、エコロジー経済学は有機的な考え方と結びついています。機械論的な考え方が個人主義的であるのに対して、有機的パラダイムではシステム論が語られます。デカルトは有名な言葉を残しています。「私は全宇宙を機械のように説明した」と。多くの科学は、物事を小さなパーツに分け、それぞれのパーツを個別に研究し、そのパーツをつなげることですべてを説明できるという考えに基づいています。
 有機的な視点とは、より全体的な視点を受け入れることであり、それは手法にも影響を及ぼします。還元主義的な科学は厳密な学問分野に基づく科学ですが、エコノミー経済では複数の科目を含んだ学際的なアプローチをとります。経済学、生物学、生態学、哲学、社会科学など、様々な科学の垣根を越えて研究を行います。ですから、私たちの住む世界をどのように理解するかという点でも、また、社会に関する知識をどのように集めるか、社会、自然、社会における文化的な考え方や価値観との関連性についても、多くの相違点があります。エコロジー経済学とは、全体論的思考、システム思考、有機的思考を意味します。ですから、私たちは循環型経済について話をしているのです。直線的な考え方ではなく、生態系に見られるような循環的な考え方です。そのため、私たちは「循環型」経済について話しているのです。このことは、エコロジー経済学では、原子論的、個別的な競争よりも、協力的なネットワークを重視することを意味します。エコロジー経済学では、解決策、地元産の食品、地元市場、生産、流通、消費の間のより密接な関係について話します。また、富の公正な分配、各主体の利益の最大化ではなく、共通善のための共通の解決策を見つけることについて話します。アリストテレスの言葉を引用しますと、「良い社会には良い生活がある」ということです。すべてが統合されています。個人と社会のつながり、それに加えて、より大きな生態系の一部としての社会、つまり、すべてが統合されているのです。

SI:エコロジー経済学の焦点は一体性にあるのですね。

ヤコブセン:そうです、統合性です。物事がどのように相互に結び付いているか、物よりも関係性です。関係性が重要で、すべてのものはつながっているのです。

SI:著書の中で、あなたはエコロジー経済学の一部としてユートピアという考え方に焦点を当てていますね。ユートピアとは何なのでしょうか。

ヤコブセン:ユートピア思考は、1516年に『ユートピア』を出版したトーマス・モアというイギリス人に由来しています。イギリス社会を発展させるためには、「ユートピア」という考えを持たなければならないというのです。彼の定義によれば、「ユートピアを考える」とは、現在ある社会とは異なる社会を描写することです。これは、ユートピアと言われてほとんどの人々が考えるもの、つまり実現不可能なもの、実現できない理想とは異なります。ユートピアについての私たちの解釈は、私たちが今日直面している大きな課題を解決し終えた、現代とは異なる社会を指します。
 このユートピア思考は、1936年にハンガリーの社会科学者であるカール・マンハイムによって発展させられたものです。彼は『イデオロギーとユートピア』という本の中で、「あるもの」と「あり得るもの」の間の緊張関係を論じています。あり得ること──この社会がどのようにあり得るか──を描写することが非常に重要であり、これを彼はユートピアと呼びました。今日ではイデオロギーと社会の関係を理解することは非常に重要ですが、同時に、ユートピア、つまり、今あるものとは異なるものを描写しなければなりません。現在あるものと将来あり得るものとの間の緊張関係が、私たちの発展にエネルギーと方向性を与えるのです。
 マンハイムの50年後、フランスの哲学者ポール・リクールは、「ユートピア的思考を持たない社会は、発展を停止してしまうだろう」と言いました。おそらく、それが今日の問題なのでしょう。私たちは代替的な思考に対してオープンではないのです。イデオロギーの代わりにではなく、既存のイデオロギーに追加する形で、ユートピア的な解決策を描写つまり想像するよう人々を鼓舞することが非常に重要なのです。イデオロギーとユートピアの間の緊張関係は、エネルギーを生み出し、発展のための方向性を与えます。
 ベルゲン、トロンハイム、トロムソといったノルウェーの大都市の小さなコミュニティーや小都市でユートピア対話を行う際、私たちは代替的な未来を描写し、人々が自分たちの住みたい未来についての考えを発展させるきっかけとなるように努めています。問題に焦点を当てるのではなく、ただ一つのことを尋ねます。「あなたが本当に参加したいと思う社会をどのように描けますか」と。現在の社会とこの代替案を区別するとき、私たちは方向性が得られ、必要な変化のためのエネルギーを得ることができるのです。
 ユートピア思考と呼ばれるこの研究の伝統は、過去500年にわたりヨーロッパで非常に重要なものでした。未来がどうなるかを問うのではなく、未来がどうありたいかを問うのです。アメリカの社会学者ロバート・マートンは、自己成就予言という言葉を使いました。もし未来について考えがあるのならば、それが起こるかのように行動し、その描写に従って行動すれば、成功の可能性は非現実的なものではありません。大切なのは、未来はまだ終わっていないということです。すでにある未来に向かって歩いていると考えるのではなく、どこに行きたいかを考えることが大切なのです。自分たちの手で未来を切り開いていくのです。それがユートピア的な発想の重要な部分です。システム・レベル、個人レベル、意識レベルでの変化が必要です。このような変化は決して不可能ではないと思います。人類は歴史の中で変化に直面しましたし、私たちは今、変化する時代に生きています。

参考文献
オーヴェ・ヤコブセン『エコロジー経済学──未来からの視点(Ecological Economics──A perspective from the Future)』、フラックス・フラッグ社発行

(1)pengevirke.no

詳しくは、www.ovejakobsen.com をご覧ください。

重要な機会

──覚者より

ベンジャミン・クレーム筆記

 毎年春が近づくと、霊ハイアラキーは4月、5月、6月の春の三つの祭りの準備をする。毎年その時が近づくと、光を求め、奉仕することを願う者が、より十分に、より効果的に奉仕することができるように、わたしたちは計画を始動させる。今年の春の間、わたしたちは主要な顕現を行う意図である。その数カ月間に、巨大な力を備えたエネルギーが世界に流れ出て行く。その増大した力(パワー)は、今日非常に必要とされる和解を促進させるだろう。そして何百万の人びとの善意に表現の場を与えるために大きな努力がなされるだろう。このようにして人事に大きな変化を起こさせ、さらに混乱と戦争にすべり込むのを防ぐことが望まれる。
 この高まった活動の時を、わたしたちは霊的推進と呼ぶ。そしてこの期間に、すべての霊的活動は何倍にも力を強化されるだろう。あらゆる種類の霊的活動が、それがどのような伝統や信仰に起源するものであれ、この数カ月の間に高揚を見、もしこの機会を十分に利用するならば、多くのことが達成されるだろう。奉仕し、世界をより良きものにすることを願う者はすべて、これらのエネルギー(フォース)に接触し、これを使い、そしてそれらを自分たちの人生の中に顕現させることが義務である。
 わたしたちは人間の中に、責任の分かち合いについての新しい意識を確立することを求める。一致協力した行動の味を、彼らの中に目覚めさせることを求める。わたしたちはこの二つが顕現できるような条件をつくるように努め、そのようにして変化に導く。すべてがエネルギーである。エネルギーのみが存在する。人類という中心(センター)におけるこれらの高度のエネルギーの影響を通して、世界に新しい雰囲気を生み出すことを求める。信頼の条件をつくるために、わたしたちを助けてほしい。そして世界に新たな希望をもたらそう。愛と信頼の種を蒔き、それが希望と喜びとして花開くのを見守りなさい。
 兄弟同胞の苦しみを緩和するために、誰でも何かをすることができる。あなたがどこに位置するのかよく判断して、何をすべきかを見つけなさい。すべての犠牲的行為に対して、今あなたの支持を誓い、そこにあなたのできることを貢献しなさい。この時を、与える時となしなさい。あなたの奉仕しようとする意志に十分な表現を与えなさい。奉仕するとき、あなたは光に向かって働き、あなたの目的により正しく整合することを知りなさい。
 あなたの位置をわたしたちと共に置き、人間の夢を実現させなさい。あなたの位置をわたしたちと共に置き、わたしたちの助けと刺激とを確信しなさい。あなたの位置をわたしたちの側に占め、とうてい不可能と思われたような行為をなしなさい。
 あなた方がマイトレーヤを見るとき、世界にとって決断の瞬間が到来したことを知るだろう。世界を救おうとする者すべてを彼は行動へと誘うだろう。行動し、奉仕する者の列に加わり、偉大なる生命の流れの本流に入りなさい。あなたが公言する理想に従って行動する時が来た。以前にはなかった機会である。あなたの心(ハート)の中に秘められているビジョンを具現しなさい。あなたが独りではないことを、何百万の人間が同じ理想を抱いていることを知りなさい。奉仕することを願う者たちすべてと手をつなぎ、世界の周りに光の織物を紡ぎなさい。あなたは奉仕するために世にあることを、そして奉仕を通してのみ成長することを心にとどめておきなさい。あなたは兄弟同胞の番兵であり、彼らの窮乏に対するあなたの責任を引き受けなさい。あなた自身をこれまでにないほどに提供しなさい──わたしたちが働くことのできる回路として、そして間もなくあなた方に流れ出ていく巨大なエネルギー(フォース)の伝導体として。
 このようにして、あなた方はこの人生に奉仕の証印を押すことができ、やがて時を経て、あなた方より先に歩んでいった者たちの列に加わることができる。

(シェア・インターナショナル誌1984年3月号)

編集長への手紙

シェア・インターナショナル誌には、未掲載手紙の保留分が多数あり、それらはベンジャミン・クレームと彼の師によって、覚者方あるいは「代弁者」との本物の出会いであると確認されたものである。その他の掲載された手紙は新しいものであり、覚者が関わっているかどうかを確認すること、もしくは示唆することもできないが、読者の考慮のために、これらの手紙は提供されている。

無言のやりとり

 2008年5月に、私はイタリアのベニスへ数日間出かけました。最初の夜には、サン・マルコ広場を訪れました。午後9時頃でした。広場に近づいていくと、紳士が一人ベンチに座っているのが目に留まりました。彼は濃い色の野球帽を被り、青い瞳をしていて、170センチくらいの身長で50代後半の人でした。彼は携帯電話で話をしていて、イタリア語だと思ったのは、彼が「プロント(もしもし)」と言ったのがはっきりと聞こえたからでした。
 少しの間サン・マルコ寺院の前で立ち止まってから、彼の近くのベンチに腰を下ろしました。私は目を閉じて静かに黙想していました。彼が見つめているのが感じられたので、しばらくして目を開けて、彼を見ようと顔を向けました。彼は私を見つめているように思いましたが、ちょうど私の頭の上を見ていたのでした。私は彼がいることで大変に心地よく、私たちの間に無言のコミュニケーションがあるように感じて、まるで彼が私を理解してくれたかのように思っていました。
 さらにしばらくして、私は彼に向かって微笑み、向き直って目を閉じると、まだ彼の存在が感じられました。もうしばらく座ってから、私は立ち上がりホテルの方へ歩き始めました。彼が私に気づいて、「アデュー(さようなら)」と言ってくれました。私は微笑んで、歩いて行く前に彼の方へそっと頭を下げました。
 それ以前に彼がイタリア語を話すのを聞いていましたので、フランス語でさようならを言われたことには困惑しました。私は自分の国籍が英国であることも示していませんでした。その当時は私に分かっていなかったのですが、翌月に数日間フランスのパリを訪れることになっていたのです。その後、『ア、デュー』は「神へ」と解釈できると友人が教えてくれました。
 私はこの体験を大変心強く受け止めました。これは覚者のお一人でしたでしょうか。

ピーター・レヴィ
英国、ストーク・オン・トレント

【ベンジャミン・クレームの師は、その男性がイエス覚者であったことを確認した】

違う姿で

 拝啓 クレーム殿
 私はウィーンを拠点とする伝導瞑想グループのメンバーです。私たちはマイトレーヤについての定期的な情報提供も行っています。2008年6月18日に、私たちはそうしたイベントを計画し、それはいつものように一般の人たちに開かれたものでした。メンバー4人が最後の準備に取り組んでいた時、お年を召した一人の女性が、講演が始まる予定より約1時間前に部屋に入ってきました。彼女は受付までやって来ると、そこはマイトレーヤについてのクレーム氏の本でいっぱいだったのですが、こうしたテーマすべてをよく知っていると彼女が力説しました。その女性と数人のメンバーが少しの間会話を交わしました。
 その後より親密なやり取りをして、彼女と話すうちに私たち全員が、注目に値するような個人的なヒントを与えられていたと感じていたのです。彼女はクレーム氏の本にも興味を示し、1冊を選んで私たちに近くで見てみるように言ってきました。それから彼女は周囲を見回して、座るのに良い場所を見つけました。そしてかなり強調した口調で「もっと光が必要よ!」と言いました。私たちが明かりを点けることを提案すると、彼女は少しにっこりとしましたが、それを断りました。さらにしばらく私たちと一緒にいた後、彼女はお別れを言って部屋を出る前に、ドアの所で振り返って「戻ってきます」と言いました。
 彼女はその情報イベントには帰ってきませんでしたが、イベントの終わりに、目立つ風貌の若い男性が部屋に入ってきました。彼は非常にフレンドリーで、伝導瞑想に強い関心を見せていました。彼もまた、ずっと残り続けるような印象を私たちに与えました。
 この二つの出来事についてもっと教えていただけますか。

エーディト・ハーバーハウアー
オーストリア、ビーダーマンスドルフ

【ベンジャミン・クレームの師は、その『女性』と『若い男性』の両方がマイトレーヤであったことを確認した】

真摯に祈る人

 拝啓 クレーム殿
 姉と私は2009年6月にルルドを訪れて、そこで三晩過ごしました。38年間、魂の伴侶であった姉の夫が2009年1月に亡くなっていました。その別れによって、姉はひどく打ちのめされていました。
 私たちは数回、ロンドンでのクレーム氏の瞑想会に行ったことがあります。クレーム氏と共にできない時には、知り合いのキリスト教徒や友人たちと一緒に家に集まり、オーバーシャドウを受けるためにクレーム氏と主マイトレーヤに『つながろう』としました。
 過去には、ローマで母と子であったマイトレーヤとイエス覚者に私たちがお会いしたことや、スペイン階段の下でベンチに座っていた若い男性としてのイエス覚者のことを、師である覚者に確認していただきました。ルルドで私たちはもう一度イエスか、マイトレーヤに出会うかもしれないと感じていました。滞在二日目に、ある店から出てみると、私たちの目の前の歩道に非常に年老いた女性がいて、顔をうつむかせてロザリオを持ち、祈るように両手を合わせていました。私は頭から足までヒリヒリするような感覚があり、そのせいで目に涙が浮かんできました。私たちがお金を渡した時に、私がその女性の肩に触れると、その女性は顔を上げて美しい微笑みを見せてくれました。彼女は別の言語で私たちにお礼を言って、私たちが立ち去ると元の姿勢に戻っていました。
 翌日は私の70歳の誕生日で、私は一人で地元の店に出かけました。商店とホテルの向かい側に大きな教会があり、またあの女性が教会前の歩道にいたのです。私は姉に伝えに行きましたが、一緒に出かけた時には彼女はいなくなっていました。私たちは大変がっかりしました。もう一度お金を渡して、『ありがとう』と言いたかったのです。
 その日遅くにバスツアーから戻り、教会の向かいの店から出ると、あの女性が再び歩道にいました。私たちが話しかけると、再び彼女は顔を上げて美しい微笑みを浮かべました。素敵な茶色の瞳が、途方もない優しさで私たちの姿をとらえていて、彼女はやはり別の言語で話し続けていましたが、何度か『マリア』と口にして、ハートに手を置いていました。
 私たちはこれがイエスかマイトレーヤかもしれないと感じ、彼らがルルドに来て、その場に『平穏さ』をもたらしていると思ったのでした。というのも、その当時はそれほど敬虔な感じがせず、騒々しいように思えたからでした。姉は初めての訪問だったので、すっかりあきれてしまっていました。この女性との出会いの後は、雰囲気が静かになったようでした。
 クレーム氏と師である覚者に、この手紙に貴重な時間を割いてくださって大いに感謝しています。

ローズマリー・エデン
英国、バーミンガム

【ベンジャミン・クレームの師は、その『年配の女性』がイエス覚者であったことを確認した】

読者質問欄

世界中のあらゆる講演において、そして生涯のほぼ毎日、ベンジャミン・クレームは広大な範囲に及ぶ大量の質問を受けました。この大量の記録から、過去の年月にベンジャミン・クレームと彼の師である覚者によって提供された回答を掲載したいと思います。そのいずれもこれまでシェア・インターナショナル誌に未掲載のものです。

Q あなたは仏陀やマホメット、クリシュナ、孔子のような存在がすべて主マイトレーヤの弟子であるとお考えですか。
(1988年6月26日、アメリカ、テキサス州ダラスのベンジャミン・クレームのラジオ・インタビューより)

A クリシュナはマイトレーヤの一つの顕現でした。シャンカラチャリアはマイトレーヤの顕現でしたが、仏陀はそうではありません。ちょうどマイトレーヤがイエスの意識を通して働いたのと同じように、仏陀は彼の弟子の一人であるゴータマ王子を通して働かれました。それは偉大な教師方が現れる典型的な方法です。偉大な教師方の一人が現れたことのない時代は地球には決してありませんでした。

Q あなたが主マイトレーヤについて語るとき、宗教的な意味で定義づけているのではないのですね。

A そうです。彼は広い意味での教育者です。彼は言われます、「わたしは人類に真我実現の術を教えにやって来た」。私たちすべて、一人ひとりが、不滅の魂を持っており、人生における私たちの道、目標は、その特質を実現することであり、魂の神聖な特質を日常的な意味で生活の中に顕すことであり、それを私たちが間違って同一化しているこのパーソナリティーという装備を通して行うのです。私たちは、自分が肉体であると思っており、マインドであると思っており、感情であると思っています。私たちはそのどれでもありません。

Q キリストは黒人だったとか、白人だったとか、女性だったとか男性だったとか言う人々がいます。主マイトレーヤは浅黒い肌の持ち主ではないのですか。

A 彼はどんな姿も取ることができます。しかし、私たちは皆、キリストや仏陀やイマム・マーディについての想念形態を持っています。自覚はないかもしれませんが確かに持っており、彼は私たちがすでに持っている想念形態に合わせて現れます。私の師である覚者は、マイトレーヤは彼が現れる人々に合わせて外見を変え、それによってすべての人に彼が誰であるかが分かるようにすると言われました。

Q 私たち西側諸国に住む人が将来期待できる生活水準に近い国は今日世界に存在しますか。

A マイトレーヤに関する限り、彼は完全に分断された世界を見ます。彼は先進国と途上国を見ます。先進国は大半の食料、エネルギー、世界のあらゆるテクノロジーを生産し浪費しています。途上国は苦闘し、債務と不安定な通貨に苦しみ、途上国の5億人が文字通り餓死に瀕しています。これは犯罪であり、彼をこれほど「悲嘆させる」ものはありません。「この分離という罪悪は地上から追放されなければならない。それがわたしの目的であると断言する」と彼は言われます。
 彼が世界に御自身を明らかにするとき、彼は正義のための要求を掲げるでしょう。資源を再分配し、私たちがもはや世界のこのような途方もない不均衡を持たないことを求めるでしょう。そして彼は、平和を求める人間の必要への答えは、分かち合いと正義であり、分かち合いなしには、正義は存在せず、正義が存在しなければ、平和は存在しないと言われるでしょう。そして今日、平和なしには、私たちの兵器や核兵器により、世界は存在しなくなるでしょう。彼は私たちが自滅しないことを確かなものにしたいと欲しています。

Q キリストは、私たちがやがて世界政府を形成すると考えていますか。

A いいえ、私の理解する限り、計画されているのは、国連が一種の共鳴板としての場所になり、問題を戦争によって解決するのではなく、調整するための場となることです。それが世界の平和と正義のための強力な源となり、国連の新しい機関が設立され、世界の物資の平等な再分配を監督するようになるだろうと彼は言われます。

Q 私たち(アメリカ合衆国)のような民主主義とソ連のような共産主義はこれからも続くのでしょうか。

A 資本主義や共産主義という「主義」は人間がつくった用語です。マイトレーヤは、これからの世界は、合意に向かう政府形態へと進むだろうと言われます。政府は人々の必要から生まれ、民主主義や共産主義、ファシズムやいかなる「主義」でもなく、現実に生きる人々の普通の必要から生まれると言われます。「主義」はマインドの構築物にすぎず、それ以上のリアリティを持ちません。私たちが真に必要とするのはコミュニケーションであると彼は言われます。コミュニケーションの術が世界中の真の政府の条件を生み出すでしょう。私たち皆が一つの体制の下で生きるべきだという計画はありません。私たちは極端な右や左ではなく中心に向かって動き、合意がこれからの物事の進め方になるでしょう。

Q 核戦争への恐怖が大きな教訓になると考えるべきでしょうか。

A その教訓は終わりました。それは過去のものです。私たちは核戦争より先に前進しています。それはマイトレーヤがここにいるからというだけではなく、彼の行動の結果です。新しいテクノロジーが世界に与えられました。それは光のテクノロジーと呼ばれます。アメリカの科学者のグループとソ連の科学者のグループが今このテクノロジーを研究しています。それは現在の兵器をすべて時代遅れのものとし、地上のあらゆる兵器、戦車、銃、ミサイルはこのテクノロジーによって無力化されると彼は強く主張されるでしょう。

Q キリスト・マイトレーヤ、メシア(救世主)は、彼が欲するあらゆることをいつでも実現する力を持っているのでしょうか。

A はい、しかし彼は、常に法の中でその力を使用されます。つまり、彼はカルマの法則をご存じであり、完全にこの法の中で働きます。ですから彼は、1977年に世界に戻られる前に、腕を振って「わたしがキリストだ。わたしはここにいる。わたしの言うことをせよ」とは言いませんでした。彼は「夜中の盗人のように」世界に戻ってこられ、御自身を徐々に現されました。

Q 50億以上の人々が座して貪欲や金銭欲などについて合意することが期待できるでしょうか。

A もちろん、マイトレーヤの到来が世界の貪欲や金銭欲を弱めることはありません。貪欲な人は貪欲なままであり、権力を求める人は権力を求め続けるでしょう。しかし生活条件が変わることによって、彼らは世界への影響において余分なものとなっていくでしょう。世界はゆっくりと変化します──しかし私たちは自分自身を変える必要があります。それでもやはり、私たちは変化の勢いを感じ、未来は私たち皆のために移行するでしょう。