2021年6月号目次

   

覚者より
協力の術
ベンジャミン・クレーム筆記

協力
ベンジャミン・クレーム筆記

今月号の内容概説

視点
152 兆ドル、これが 1960年以降に裕福な諸国が グローバル・サウスから流出させた金額である
ケニー・スタンシル

参加型予算編成 都市生活への住民参加
チアゴ・スタイバーノ・アルベス

気候変動と現代の奴隷制の問題には同時に取り組む必要がある

人類へのマイトレーヤの接近―第二部
アレクサンダー・ドゥーヴェス・デッカー

ヴァンダナ・シヴァのシード(種)
シェア・ギルモアによる映画評

時代の徴
世界中の徴
光の祝福

民衆のリーダー:ダリットの女性がインド農民の声になる
サニア・ファルーキ

私たちは経済的、社会的権利のために、 債務の足かせと闘わなければならない
アリソン・コーカリー、イグナシオ・サイス、ファン・パブロ・ボホスラフスキー

「私たちは ここにいる!」

真の内向性——選集
True inwardness — a compilation

編集長への手紙
ある『大学生』による喜びの教訓 他

読者質問欄
回答 ベンジャミン・クレーム

協力の術

シェア・インターナショナル誌の創刊以来、ベンジャミン・クレームの師である覚者はほとんど40年近くにわたって、毎月記事を提供してこられた。協力という言葉は覚者の四つの記事のタイトルに含まれ、他の記事にもよく出てくる。しかし、分かち合いと同様に、それは依然として、私たちがまだ試みていない解決策である。

協力の術

──覚者より
   ベンジャミン・クレーム筆記

 人間は、今日彼らが直面する問題の重大さをますます理解しはじめている。政治、経済、社会のすべての前線において、これらの問題はどんどん増大し、大きな頭痛の種になり、彼らに悲しく頭を振らせる。これらに加えて、自然とその資源に対する人間の軽率な態度が生じさせた環境の問題があり、人類の未来はますます暗澹としている。人類の生命が危機にさらされており、手遅れにならないうちに何か抜本的なことをしなければならないという認識が目覚めつつある。
 事実、人間は自分自身を救うために一体何ができるのか。人間の福利に対する脅威を緩和するためだけにでも、どんなステップを取ることができるのか。
 答えは比較的単純である。しかし人間は、彼ら自身の条件づけられた網の中に捕らえられているので、それを本当に把握することは困難なようである。
 人は競争という毒物から自分たち自身を解き放たなければならない。それがグラマーであることに気づかなければならない。実際そうなのであるから。そしてすべての人間の一体性を悟り、「全体的な善」のために協力を喜んで抱きしめなければならない。協力と正義(公正さ)のみが人間を、彼ら自身がつくり出す大惨事から救うだろう。協力と正義のみが彼らの未来を保証するだろう。これがそうであることを考慮するならば、人間は、救済への鍵として協力を受け入れる以外に選択肢を持たない。……
(シェア・インターナショナル誌、2000年9月号)

協力

──覚者より
   ベンジャミン・クレーム筆記

 人類は今日、まさに未来への偉大なる飛躍をせんとしている──その未来において人間の本質的に聖なる特性が顕示されるだろう。人間は知らないかもしれないが、完全なる大人として、その未来を形づくる知識と力の受託者となるためのテストに合格したのであり、そして合格しつつあるのである。
 現在は、人類種族の案内人の内的視覚にのみ、このリアリティーは明瞭であるが、それはまことであり、来るべき時のために良い兆しである。今日人間が集う所には、新しい危急感が、この惑星とその王国の福利に対する新しい責任感が見られ、また感じられる。
 生存と進歩のための苦闘に永劫の時を費やし、やっと今、人間は成熟したと言える──人間自身にはまったく隠れていて見えないが、わたしたちにはその成熟さが認識できる。
 今や人類の進歩にとって重要な前進への機会が訪れ、その速度と達成においてこれまでのすべての前進をはるかに凌ぐものである。今まではゆっくりした着実な進歩が望ましく、またその方が好ましかったのであるが、新しいダイナミックなリズムがつくられつつあり、その勢いが人類を全世界的な変化の波に乗せて未来へと押しやるだろう。今日の分裂した世界の緊張はあまりにも大きく、方向の急速な転換のみが破局を防ぐであろう。この急速な変化に適応するには、多くの者に問題を生じさせることは疑うべくもない。しかし、それよりはるかに多くの者たちは、これらの変化を新しい人生への機会として喜んで迎えるだろう。
 舞台の背後にいるわたしたち労役者は、人類がその機構の根本的変容を始動させることに自信を持っている。それはもはや人間の必要に応じ切れず、新しいものの出現を阻む。わたしたちは見守り、導き、すべてを監督する。少しずつ新しい意識が人類を彼らの内的要求に目覚めさせている。古い競争心はなかなか死なないが、それにもかかわらず、新しい協力の精神もまた見え始めている。これは未来への吉兆である。なぜなら協力によってのみ、人類は生き延びられるだろうし、協力によってのみ、新しい文明が築かれるだろう。人類は彼らの神性の内的真理を知り、それを具現することができる。
 協力は正しい関係の自然の結果である。正しい関係はまた賢い協力に伴う。協力はグループの努力のすべての成功への鍵を握り、聖なる善意の顕われである。協力なしには、長続きするものは何も達成されない。というのは、協力は多種多様の見解の統合をもたらすからである。
 協力は和合のもう一つの言葉である。和合と協力がすべての人間にとっての未来への跳躍台であり、達成への保証である。人類の裡に偉大なる力の貯蔵池が未開拓のまま横たわっており、協力の魔術によって解き放たれるのを待つ。
 競争は自然の秩序に無理を強いる。協力は人間の内なる善意を解き放つ。競争は自己のためのみに関わり、他方、協力はすべての者の最高の善のために働く。
 競争はすべての罪の起源なる分裂に導く。協力は唯一の聖なるいのちの多色の糸を混ぜ合わせ融合することを求める。
 競争は人間を絶壁に導いた。協力のみが道を見いだすのを助ける。
 古い時代の後ろ向きの者は競争を好む。新しき時代の者は聖なる協力を喜んで抱擁する。
 世界の人間は二つの種類に分けられる──競争する者と協力する者とである。
 心(ハート)から競争のしみを洗い浄めなさい。心(ハート)を楽しい協力に開きなさい。 (シェア・インターナショナル誌、1984年12月号)

今月号の内容概説

ほぼ1年半続いたパンデミックの後、世界が今や示しているはずだと期待できる反応が一つあるとすれば、それは協力の精神である。私たちは皆、世界中で同じ潜在的な危険に直面しているため、共通の「敵」に対しては完全な協力が最も適切な対処の仕方となるだろう。しかし、私たちの政府も、システムも、精神構造も、あまりに競争に固執しているため、私たちはこれまでのところ、この最近の「テスト」には合格していない──新型コロナウイルスとそれに付随するあらゆるものによって課せられたテストである。
 しかし、ベンジャミン・クレームの師である覚者はこう再確認している。「競争は人間を絶壁に導いた。協力のみが道を見いだすのを助ける」。問題は、私たちがその絶壁のふちのすぐ近くをヨロヨロと歩いていることを私たちと指導者たちが認識する──そして行動する──かどうかである。
 社会の不正義に反応して、地元レベルであれ国家レベルであれ、市民による共同の努力は拡大しており、労働者による改革に向けた行動は変化の力として認識されている。「民衆の力」はもはや、世界中の都市で行進し抗議する、元気づけてくれる大勢の人々だけではない。住民による活動もまた、意思決定に実際に直接参加するほどまで拡大してきた。「参加型予算編成」で描写されているように、そうした根本的な政策変更によって、状況の改善、労働者の権利の擁護、資源の公正な割り当てが確実に行われている。
 今月号の内容の大部分は、地球規模の問題に対する実施可能な解決策について概説している──こうした問題のすべては、私たちの幸福感を含めて、私たちの仕組みに対して競争が強いている緊張を反映している。あらゆる種類の不正義に特に焦点が当てられている。例えば、奴隷制、環境破壊、金融化、労働者の搾取である。こうした問題のそれぞれが他の諸問題を悪化させるいきさつを読むと、心がかき乱されると同時に興味がそそられる。奴隷制と気候危機が一緒になって悲劇をつくり出していることなど、誰が考えたことがあったろうか。「気候変動と現代の奴隷制には同時に取り組む必要がある」をご覧いただきたい。
 「人類へのマイトレーヤの接近」は、人類に近づき、導こうとする霊的ハイアラキーの継続的な努力について詳述している。今月号の選集「真の内向性」では、マイトレーヤ、偉大なアバターであるサイババ、覚者、ベンジャミン・クレーム、スワミ・ニリプタナンダの声に耳を傾けることになる。それぞれの方が私たちに対して内面に向かうよう、熟考するよう、自分自身の中に静けさを見つけるよう、そして真我とつながるよう促し、助言している。この教えはおそらく現在にはなおさら当てはまるものであり、自分自身と真我についての新しい体験を与えてくれる。内面に向かおうとする十分な姿勢が培われると、今日の難問にもっと的確に対処することができ、自然界と至るところの人々に恩恵をもたらすということが分かり始めることになるかもしれない。至るところのすべての人が繁栄できる状況を確実にもたらすために、以前にもまして今、その内的なビジョンを実際的な行動へと変換する必要がある。

「 私たちは ここにいる!」

アメリカでのラジオトーク番組の終わり頃に、あるリスナーが電話してきて、インタビューを受けていたシェア・インターナショナルの協働者に以下のようなメッセージを伝えた。ベンジャミン・クレームの師は、その電話をしてきた人物がイエス覚者のスポークスマンであったことを確認した。
 これは、2014年2月5日のその電話の内容と、彼が番組司会者およびインタビューを受けた協働者と行ったやりとりを書き起こしたものである。

通話者:最初にこう言いたいと思います。「すべての栄光、神にあれ」と。私はずっとベンジャミン・クレームを見てきました。あなたの人生や活動も見てきました。私の人生も見ています。私たちは同じスピリット(霊)から来ていることが分かります。私が言いたい最大のことは、「私たちはここにいる──私たちはここにいる!」ということです。そして世界は、何らかのやり方で、喜んで──義務だと言うのではありません──喜んで、私たちの話すことを受け入れなければなりません。なぜなら私たちが話していることは……だからです。メディアはこのことを、私たちがナンセンスなことを話しているかのように扱うでしょう。私たちは2014年の社会をこんな風につくり上げたのです。知恵や知識、パワー、エネルギー、そして私たちが話していることは、ある人々にとってはまるで……のように思えるでしょう。「オーケー、メッセージは聞いたが、それをどうやって自分の日常生活に生かせばよいのか?」。ええ、それを話すために私たちは来るのです。それを誰に教えようとするのでもありません。なぜならこれらの物事の幾つかは教えることができないものだからです。天啓のようなものが必要です。高いところから天啓を受け取る必要があるのです。
 しかし、それは名誉なことです。ユーチューブやフェイスブックやあらゆるソーシャル・メディアには、あなたやベンジャミン・クレームについて否定的で軽蔑的なことが書かれています。しかし私がここにいるのは、兄弟よ、こう言うためなのです。「私は知っているから知っているのだ。私が本当に知っていると言える唯一の理由は、私がそれを知っているからであり、私がそれだからだ」。そして、ただ、「ありがとう、兄弟よ、ありがとう」と言うためです。私はハートの最も深い誠実さをもって、あなたの裡なる声に耳を傾けてくれたことに対してあなたに感謝したいのです。あなた方を愛しています。

協働者:あなたが電話してくれたこととそのコメントに対して感謝しきれません。

司会者:何と!

協働者:大変感謝していますし、あなたに神の祝福がありますように。

通話者:神の祝福がありますように。兄弟よ、あなたを愛しています。あなたは私の兄弟であり、私はあなたを愛しています。またお会いしましょう。

司会者:あなたのお名前は何と言うのですか?

通話者:私はムハンマドです。

協働者:全くそうです。私たちは兄弟姉妹であり、またお会いするでしょう。そのことを疑いません。祝福がありますように。

司会者:あなたの名前はムハンマドというのですか?

通話者:はい。

司会者:ありがとう。私たちもあなたをとても愛しています。

通話者:あなた方は祝福された夜を過ごしました。とても感謝しています。私は長いあいだ待っていました。……人生の中であなた方にお話しできるようになるかどうか分かりませんでした。私は長いあいだ待っていましたが、人生とはそういうものです。一緒になる機会がないこともありますが、今日はいのちそのものによる動きでした。あなたが魂について、魂と再びつながり一体となることについて話した時、それ自体がメッセージです。それがメッセージなのです。私たちの行為により、私たちは堕落しました。人間は堕落し、私たちは堕落しました。そして私たちが堕落して以来、私たちの存在の霊と魂に向かう代わりに、暗闇で一杯のものに向かってきたのです。そしてその暗闇のために、私たちは魂がどれほど力強いものかを知らないのです! 眠っている間にも魂は旅することができることを知らないのです!

協働者:そうです。そのとおりです。

司会者:さあ、もう終わりの時間です。ムハンマドさん、もう時間がなくなりました。電話してくれてありがとう。あなたの美しい貢献に感謝します。ありがとう。

通話者:ありがとう。あなた方を愛しています。

編集長への手紙

シェア・インターナショナル誌には、未掲載手紙の保留分が多数あり、それらはベンジャミン・クレームと彼の師によって、覚者方あるいは「代弁者」との本物の出会いであると確認されたものである。その他の掲載された手紙は新しいものであり、覚者が関わっていたかどうかを確認すること、もしくは示唆することもできないが、読者の考慮のために、これらの手紙は提供されている。

ある『大学生』による喜びの教訓

編集長殿
 1995年頃、私は修士号取得のために、ロサンゼルスのカリフォルニア州立大学へ戻りました。ある日の午後遅くの日没前に、伝導瞑想に参加するために車を取りに行こうと、キャンパス内を歩いていました。二人の男子学生がキャンパスの歩道を私の方へ歩いてきました。彼らが近くなった時、見上げると若い女性が、彼らのすぐ後ろを歩いてきているのが見えました。彼女は大学生の年頃で、肩くらいの茶色の髪でした。ちょうどすれ違う時に彼女が私を見て、モナリザのようにとても優しく微笑みました。
 突然、私は喜びでいっぱいになったのです! ハートが満たされ、足が地についていないような感じで、心がとてもウキウキとしていました! すぐに思ったのは、「彼女がしたように、私も微笑むだけで他の人々をこんなに幸せにできたら良いのに」ということでした。私は感激していました。
 ベンジャミン・クレーム氏は、覚者方が現れる時に必ず教訓を与えると言われました。ひとつ私の学んだことは、覚者に出会ったかもしれないという徴の一つが、はっきりとした理由などなくても、突然とてつもない喜びと幸福を感じるということです。
住所氏名は非公表
米国
【ベンジャミン・クレームの師は、その女子学生がマイトレーヤであったことを確認した】

心のこもった感謝

編集長殿
 私はもうすぐ91歳になりますが、シェア・オランダ誌(シェア・インターナショナル誌オランダ語版)の購読を更新しています。
 この月刊誌をとても楽しんでいるのです。
 アーケイン・スクールの通信講座を7年間続けましたが、夫が病気になったため、やめなければなりませんでした。
 私が生きている限り、月刊誌の購読を続けるつもりです。
 私の心からの誠意を込めて、編集者とチームの方々へ、皆さんの仕事と献身にお礼を申し上げます。
 光と愛のうちに
匿名希望
ベルギー

瞬く間に

編集長殿
 2006年9月にマイトレーヤの『手』の写真を見ながら、慢性緑内障の手術を両眼とも受けることになっていたので、助けをお願いしました。私の視神経の状態を考えると、ひどくストレスを感じていたのです。それから間もなく、ベッドに入って目を閉じると、私のそばに立っている地中海地方の風貌の女性の顔が見えました。彼女は小さな赤いリボンを肩までの黒髪の左右に付けていました。彼女の暗褐色の瞳が私の目に向けられました。私を見つめていた間、その瞳がずっと瞬きし続けていたような感じがしました。非常に深遠な瞳でした。翌朝目覚めた時、私の目のことも手術のことも、もはやストレスを感じていませんでした。
 もしかして、これはイエス覚者かマイトレーヤの現れだったのでしょうか。あなたのお返事を楽しみにしています。ありがとうございます。
ドミニク・ディ・スカラ
フランス、ヴィニェ
【ベンジャミン・クレームの師は、その『女性』がマイトレーヤであったことを確認した】

読者質問欄

世界中のあらゆる講演において、そして生涯のほぼ毎日、ベンジャミン・クレームは広大な範囲に及ぶ大量の質問を受けました。この大量の記録から、過去の年月にベンジャミン・クレームと彼の師である覚者によって提供された回答を掲載したいと思います。そのいずれもこれまでシェア・インターナショナル誌に未掲載のものです。

Q:死ぬのはそんなに悪いことですか。キリスト[マイトレーヤ]は、惨めな極貧の中に生きるよりも死ぬのが悪いことだと考えるのですか。

A:彼がその区別をしているとは思いません。彼は死ぬことや惨めな極貧を重んじません。彼は存在を見、苦しみを見ます。もしあなたがキリストのハートの中を見ることができたら、何を見ると思いますか。私がその質問をしたら、人々はまばゆい黄金の光や天国の安らぎと栄光や至福であると言います。全く違います。キリストのハートの中をあなたが見ることができたら、あなたは一瞬も耐えることができないでしょう。それはあなたにとって恐るべきものでしょう。それは耐え難いものでしょう。今日のキリストのハートをあなたが見たら気が狂うでしょう。彼は悲しみの男です。彼の悲しみは、私たちの悲しみです。彼と私たちの間にはいかなる分離もありません。彼が人類を見るとき、分離なしにそれをハートの中で経験します。彼が見るのは私たちの痛み、苦しみ、憤懣、怖れ、絶望、悲しみ、憎しみです。そのすべてがキリストのハートの中にあります。それゆえに彼は、人類への愛からこの世に戻って来られたのです。それを変え、浄化し、エゴ、痛み、苦しみ、憤懣を取り除くためです。キリストは一瞬一瞬それと共にあります。
 ですから、彼は生きることと極貧と死と惨めさと飢餓の間を区別するでしょうか。いいえ。それはただの惨めさであり、ただの痛みであり苦しみです。その苦しみに対して、愛の主は反応されます。私たちが反応するよう鼓舞することができることを望み、信じておられます。彼が「無辜なる者たちの虐殺」と呼ばれるこの冒涜を世界から永遠に取り除き、途上国で何十億もの生命が惨めな貧困の中にある状況をなくすことを望まれています。

Q:(霊的)ハイアラキーとの関係で神はどこにいるのですか。

A:まず、神はどこにいるのでしょうか。そして、神とは何でしょうか。神を真に定義することはできませんが、少なくとも私の考えでは、神はあらゆる法則と、これらの法則を通して操作され宇宙を創り上げたすべてのエネルギーの総計です。聖書では「神は焼き尽くす火である」と述べられています。神は様々な周波数、様々な関係性の中で振動するエネルギーです。これらの周波数、関係性が、顕現する宇宙を形成します。私は神であり、あなたは神であり、これは神です。神のいないところはありません。神はすべてのものであり、その間にあるすべての空間です。
 キリストとの関係では、彼は神の一様相である愛の様相を体現したという意味で神です。彼はキリスト原理、進化のエネルギーを体現し、今では神の意志の様相も体現しています。彼はとてつもない強力なアバターであり、かつてこの世に来た他のいかなるアバターよりも偉大であり、より大きな仕事、より困難な任務を持っています。
 ある人々にとっては、神は天国に座す髭の生えた老人であり、それに向かって「どうか私を守り給え」とか「友人を病気や死から救い給え」と祈る対象です。しかし私にとっては、それは神ではありません。
 神とは、私にとって神聖な原理であり、キリストとあの御方──神──との違いは、彼[キリスト・マイトレーヤ]にはその原理の一様相としての原理が完全に染み込んでいるということです。しかし私たちはそれを本当には知りません。その性質を知りません。それは私たちの大半にとって一瞬ごとのリアリティではありません。たぶん最も深い瞑想の中で、その神性のある様相がどんなものかを認識するでしょうが、生活の大部分において、私たちはあまりに家族や友人のことで忙しいので、神が何であるかを感じることができないのです。
 しかし、キリストのような地位にある存在にとっては、神は非常に強力で絶えざるリアリティなので、彼はそのリアリティを私たちのために解釈することができます。それが教師方の役割です──私たちが神と呼ぶ私たち自身のリアリティの性質を解釈することです。分離は存在しませんが、私たちはこの「罪」──分離という異端──の中で生きているために、そのことに気づいていません。存在する唯一の罪は、分離という罪です。世界には分離したものは何もありません。私たちは全体の一部であり、キリストは私たちが人類や自然や神と呼ぶものがすべて同じものの一部であることを示すでしょう。それらはすべて存在の全体の一部であり、それが私たちの性質です。

Q:第三世界の人々は彼らのカルマ的負債のために苦しんでいるのですか、それとも彼らは私たちの貪欲と利己主義のために苦しんでいるのですか。

A:単に彼らが生まれた場所が別の場所ではなかったというだけの理由です。もし私たちがアフリカに生まれたとしたら、私たちが餓死していたでしょう。そこに生まれたという結果以外の意味のカルマはなく、前世での悪行の結果ではありません。そのように信じる人は決して飢えたことのない人です。
 これを見ている人の多くは、これらの人々が餓死するのは彼らのカルマであり、彼らに食料を与えればカルマの法則を乱すことになると信じています。このように考えることができるのは、一度も飢えたことがなく、意図した場合を除いて人生の中で食事を欠いたことがない人だけです。
 世界で人々が飢えているのは、私たちが資源を独り占めしているからです。それがすべてです。すでに述べたように、私たちが第三世界から神の息子や娘としての彼らの権利を奪うとき、私たちは毎日否定的なカルマを生み出しているのです。

(ロサンゼルス、1987年)

2021年5月号目次

 

覚者より
教師としてのキリスト
ベンジャミン・クレーム筆記

今月号の内容概説

視点
私たちの共通の家を取り戻す
私たちが必要とするすべてのものを含むようにコモンズを拡大する
ヴァンダナ・シヴァー

「私たちは行動しなければならない」
大気中の二酸化炭素濃度が初めて420ppm を超える
ケニー・スタンシル

子どもの人身売買の被害者にとって、救出と同様に社会復帰が重要な理由
ニーナ・バンダリ

フィリス・クレームによる推奨図書
『アニー・ベサント (1847 – 1933) 闘争と探求』
ミューリエル・ペカスタン=ボワシエール著

もう一人の若い環境保全のリーダーが声を上げる: 13歳のリディマ・パンディさんの紹介

米国はパレスチナへの援助政策を再開

マイトレーヤの手形――助けと癒しの源

時代の徴
空の徴

氷山の雄大さと人間の静けさ
アリアン・イーロイによる カミール・シーマン氏へのインタビュー

経済と財政
アート・ユリアーンス

経済に関する霊的な見方一選集
A spiritual perspective on economics – a compilation

「真の気候法を!」
フランスで数万人がより強力な気候法規制を求めてデモを行う
ジョン・ケアリー

気候にやさしい食べ物は私たちが思っているよりも簡単である
エドウィナ・ヒューズ、リチャード・ウェイト、ジェラルド・ポッツィ

編集長への手紙
顔を合わせて他

読者質問欄
回答 ベンジャミン・クレーム

教師としてのキリスト

シェア・インターナショナル誌の創刊以来、ベンジャミン・クレームの師である覚者はほとんど40年近くにわたって、毎月記事を提供してこられた。たくさんの要素を含んだこの複合的な記事は2008年に書かれ、今日にも当てはまるアイディアを扱っている。

教師としてのキリスト

──覚者より
ベンジャミン・クレーム筆記

 多くの人々はキリストの出現を待ち、期待するが、それが人類にどのように影響するかについて非常に歪んだ見解を持つ。多くの人々は彼を霊的魔術師として待望し、彼らや他の人々の欠点を帳消しにしてくれて、それで永久的な平和を確立するだろうと考える。それはこの非常に重大で複雑な出来事についてのかなり受動的な見解である。マイトレーヤ御自身にとって、それは人類と相互にダイナミックに関わる機会であり、神の大計画の原則を確立し、正しい人間関係の時代の幕開けをするための機会である。
 それは世界中至るところにいる男女の積極的な反応と参加を必要とする──外的な機構(しくみ)と内的な認識に対する世界的な継続的な変化の過程である。
マイトレーヤは、世界でキリスト教徒が大半を占める地域は特別にオープンで実りがあるとは見ていない。またその他の主要な宗教に対しても、その理解について彼はあまり望みを抱いていない。もちろん、すべての宗教には、すべての者の利益のために応え、行動する用意のある男女はいる。同様に、世界中のすべての国に、社会のあらゆる分野に、(見ず知らずの)兄弟姉妹のために行動する呼びかけの合図を待っている人々がいる。
 多くの人々はキリストを、法を破る者たちを懲らしめ、罰するために遣わされた審判者として待つ。キリスト・マイトレーヤは教師であり、確かにいのちの法則を人間に教えられるが、審判者だったことはない。懲罰ということは彼の語彙の中には存在しない。彼は、人間が転生している魂であり、自己発見の旅路を共に歩む者であり、その途上でお互いに助け合う者として、自分たち自身を知ることができるように鼓舞しようとされるだろう。競争は人間が彼らの道を歩むのを妨げ、横道にそらせ、魂の特質を垣間見る機会を不毛にする。
 人間はその道からかなり外れてしまった。商業主義が人類の喉元をつかみ、あらゆる寛大な思考や意思表示を彼らの人生から奪い取っている。人間の魂は、この抑圧をもはやこれ以上耐えることはできず、苦悶とフラストレーションで声高に叫んでいる。そうして人々は、すべての地における若い人々による犯罪と暴力の増大を訝(いぶか)しがる。
 マイトレーヤは世界中における戦争と軍事行動の源について教えるだろう。その結果、気候や天候でさえも影響されることを示されるだろう。人間は彼らの行動の影響について、そして規律と配慮の必要について学ぶべきことがたくさんある。
 キリストは教えるためにやって来られる。人間は、自由意志を保ったまま、成長するために(キリストに)応えなければならない。キリスト・マイトレーヤは決して強制はされない、たとえそれがわれわれにより早く学ばせることが分かっていても。人間が自由意志で取りかかることのみが法に沿うことであり、実を結ぶ可能性が高いことを、彼はご存じである。
(シェア・インターナショナル誌、2008年3月号)

今月号の内容概説

 今月号の本誌を貫く主なテーマの一つは「関係」である。覚者の記事の一つにはこう書かれている。マイトレーヤにとって、「正しい人間関係の時代の幕開けをするための機会である。それは世界中至るところにいる男女の積極的な反応と参加を必要とする──外的な機構(しくみ)と内的な認識に対する世界的な継続的な変化の過程である」。
 ヴァンダナ・シヴァはコモンズ(共有財産)について語るとき、同じアイディアを表明している。「コモンズでは、私たちは地球とお互いを気遣い、共有する」
 写真家のカミール・シーマンは(p.21の「氷山の雄大さと人間の静けさ」というインタビューを参照)自分の仕事と観察を通して、「私たちはすべてのものとつながっており、すべてのものがライフ・フォース(生命力)を持っている」ことを明らかにしている。彼女が祖父から学んだことは、真の人間になるとは、「私たちがすべての人や──人々だけでなく──すべてのものと相互に関係し、つながり合っていることを知ること」を意味する、ということである。
 推奨図書は、多くの側面を持つアニー・ベサントの生涯に脚光を当て、見かけの異質性と統一性との関係についても説明している。ベサントは、神智学の統合的な要素が、自分の探究するマインドと精神を安堵させるものだということに気づいた。「なんとも首尾一貫し、なんとも精妙で、それでいてなんとも知的なのでしょう。バラバラの事実が巨大な全体の一部として見られました……」
 私たちがいくつかの記事を通して追求している別の重要なアイディアは、人生のあらゆる側面は霊的と見なすことができるだけでなく、もし私たちがこの惑星と私たち自身、つまり人類に健康的でもっと健全な生活様式を取り戻させるとしたら、あらゆる様相が霊的であると見なされなければならないということである。さまざまな本からの引用で構成される選集のタイトル「経済に関する霊的な見方」は、シェア・インターナショナル誌がその主要な特徴の一つを提示するのを可能にしている──つまり、分離した人生の側面のように見えるものを統合する本誌の独特な能力のことである。今月号の場合は、私たちの経済システムが共通の善に仕えるように、経済システムを本質的に霊的なものと見なすことが緊急に求められていることを明らかにしている。アート・ユリアーンスは著書『架け橋』の中で次のように書いており、それが今月号で再掲載されている。「人類のすべての部分が状況やニーズに比例して合理的に利益を得ることを可能にする平等な基盤が考案されなければならないだろう。こうした問題を、戦争や武力外交によって、あるいは最も強い者や何らかの好ましい戦略的状況を利用する者による利己的な強奪と保有によって解決することは決してできない。このような厄介な問題を解決する方法は一つしかないだろう。それは寛容や理解、話し合い、相互の善意によるものである」。マイトレーヤ御自身がそれをどのように表現しておられるかをご覧いただきたい。「市場フォース(力/エネルギー)は悪や混乱や破局のフォースであり、そしてその子供は競争と比較である」
 これによって私たちは、正しい関係というアイディアに立ち返ることになる。慰めと助けを必要とするすべての人々のために、「マイトレーヤの手形」に焦点を当てる短い選集を通して、マイトレーヤの愛にあふれる慰めを読者にお届けできることに感謝したい。

氷山の雄大さと人間の静けさ

アリアン・イーロイによる カミール・シーマン氏へのインタビュー

写真家のカミール・シーマン氏は1969年、アメリカ原住民(シネコック族)の父とアフリカ系アメリカ人の母との間に生まれた。ニューヨーク州立大学で写真術を学び、1992年に卒業した。それ以来、シーマン氏は受賞歴のある写真家となり、首都ワシントンにある全米科学アカデミー博物館で作品が常設展示されている。何十年もの間、北極と南極を旅し、氷山の写真を撮影したり、そこで起こっている急激な環境の変化を記録したりしてきた。
 「カミール・シーマン氏は、人間が自然から分離していないことを雄弁に物語る写真を撮ることを強く信じている」と、彼女のウェブサイト(camilleseaman.com)には書かれている。アリアン・イーロイがシェア・インターナショナル誌のために彼女へのインタビューを行った。

シェア・インターナショナル(以下SI):「私はとても幼い頃から、私たちはすべてのものとつながっており、すべてのものがライフ・フォース(生命力)を持っていると教えられた」と、あなたは述べたことがあります。このことについてもっと話していただけますか。

カミール・シーマン:私の祖父は、真の人間であるとはどういう意味かを孫たち全員が理解すべきだ、と非常に真面目に考えていました。彼にとってそれは、私たちがすべての人や──人々だけでなく──すべてのものと相互に関係し、つながり合っていることを知ることを意味しました。そのため、祖父は私たちにただ言うだけでなく、示すことによって教えようとしました。何かを信じることと何かを知ることの間にある違いは、実際の体験だということを理解していたからです。そうした物理的なつながりこそが、知るための方法です。
 私にとっていまだに印象深いのは、祖父が私を森の中に連れて行った時のことです。私たちはよく、それぞれの木の前で立ち止まりました。祖父は文字通り、私をそれぞれの木に紹介し、私の手を木に当てさせ、こう言いました。「私があなたの親戚であるのと同様に、この者はあなたの親戚です。敬意を払っていただきたい」と。木にはそれぞれ、顔や個性があると私は考えます。
 英語については大きな問題があります。英語は「所有」の言語だからです。英語は物を、従属させて「資源」へと転化できる物体にします。もし森を自分の親戚と見なすなら、親戚である森をどうやって伐採できるでしょうか。そのようにして木に紹介されるのは本当に強烈な体験でした。多くの人はいまだに、すべてのものが「管理」されるべきだと考えています。魚も管理されるべきであり、海も管理されるべきであり、川も物として──文字通り物体として──管理されるべきであると。
 私たち[シネロック族]と関係するワンパノアグ族から学んだ驚くべき話があります。ヨーロッパ人が来てから最初の10年で、ヨーロッパ人は直径6フィート(180cm)以上のすべての木に対する権利を王の名のもとに主張しました。そのため、王は伐採する権利を持つことになりました。そうした木材はすべてイギリスへと出荷されました。ニューヨーク州から沿岸部にかけて、すべての大木、こうした大原生林がなくなり、天候さえも変わりました。そこに暮らす動物さえも変わりました。
 ですから、こうしたつながりの話になるのです。私たちはつながりをますます感じ始め、気候変動を認識するようになります。しかし、幼い子供の頃、これは私がいつも認識させられていたことでした。子供の頃、祖父は、私が何も考えずに木から葉を引き抜くところをつかまえました。祖父は私をやめさせて、こう言いました。「何の結果ももたらすことなく、自分がやりたいことをその木に対してやることができると思うのか」と。祖父はこう言いました。「お前がその木から分離していると思うなら、自分の息をどのくらい止めていられるか確かめなさい」。そして実際に、私に息を止めさせたのです!
 祖父は雲のない晴れた日に、ロングアイランド(ニューヨーク)の暑さの中、私たちを屋外で座らせました。数分もすると、汗をかき始めます。小さな白い雲が現れると、祖父は空を指さしてこう言います。「あれが、雲になろうとしているお前の汗だ。それは雨になり、植物に水をかけ、動物を養い、動物は私たちを養う」。それは周期です。分離はありません。このことを知り、幼い者には多くの混乱──多くの怒り──が生じました。それは認知的不協和だったからです。ここに自分が知っている一つのことがあるけれども、周りの世界のとても多くが、全く違ったやり方で行動しているのが目に入ります。ですから、知るのは簡単なことではありませんでした。認識するのは簡単なことではありません。

SI:あなたは地球上で残っている最も孤立した、汚されていない地域へと導かれました。他の人々とどのように関係を確立したか、そしてこうした調査船で女性として、あるいは観光船で芸術家として働くことはどのようなものか教えてください。

シーマン:メディアで読んだり見たりしただけでは分からないかもしれませんが、極地では実際、科学者としても乗組員としても女性の存在が非常に大きいのです。ですから、女性の代表者がいることが大事です。海洋生物学者や地質学者、氷河学者の隣に立ち、見たり考えたりしたことのないような熱心さで彼らが説明してくれるとき、最も情熱的で、わくわくするような方法でこうした場所に招待されていることになります。
 データは[あまりに多くのものを]与えることしかできません。人によっては、数字やアイディアがあまりに大きすぎます。芸術が──画像であれ、著作や音楽であれ──科学と結びつかなければ、十分に消化されません。ですから、こうした船が、探検写真家となるよう私に依頼してくれたことをとてもありがたく思いました。このような関係はおそらく、フランク・ハーリーと一緒だったシャクルトン[20世紀初めの南極探検家]にまでさかのぼるでしょう。シャクルトンの冒険について私たちが知っているのは、彼が写真家を抱えていたからです。写真が登場する前は、人々がスケッチしたり絵を描いたり書いたりしていました。しかし、探検画家の役割は依然として決定的に重要です──調査船だけでなく観光船でもそうです。ですから、私は解説者のような者です。

SI:目撃者の役割のようですね。その役割はあらゆるものを変えてしまうのではないですか。

シーマン:どこに行くのであれ、私がまず行こうとするのは、このような引っ張る力、このような磁力的な呼びかけがあるためです。何らかの理由である場所に引き寄せられるように感じるのです。または、そこにいたいという必要性や好奇心を覚えます。数カ月か数年が経過した時でなければ、それが、私が記録し、写真に収めてきた長年の目標であったということは分かりません。

氷河と氷山の生命周期

SI:氷山は棚氷から分離してからおよそ3年から6年生きており、氷河ができるには雪がひとひらひとひら積もって10万年かかっている可能性がある、とあなたは述べておりました。氷河の発達度合いや氷山の生命について話していただけますか。

シーマン:二つの物語があります。北極の氷河と氷山があり、また、南極の氷河と氷山があるからです。同じ言葉ですが、非常に異なった生き物です。* グリーンランドでは、景観ははるかにゴツゴツしています。ですから、こうした氷河が移動すると、もっとゴツゴツし、もっとひびが入ります。氷河が割れて──終局を迎えて氷山として分離すると──多様な形を取る傾向があります。すべての氷山は独特だからです。誕生日ケーキのようであったり、王冠のようであったり、とがっていたり、あらゆる形があります。
 南極には、広い範囲を占めるロス棚氷があります。それは文字通り、南極点から始まり、幅が約500マイル(800km)あります。それだけこの氷のかたまりは大きいのです。しかしそれは、雪がひとひらひとひら積もってできたものです。その構造を形作るものは、実際のところ南極の風です。非常に乾燥しているため、フワフワした雪を風が巻き上げ、行ったり来たりして雪の層がゆっくりと形成されます。しまいには、何層にも重なったこうした雪のケーキができます。何千何万という層が圧縮され、重力によってゆっくりと海へと引っ張られていきます。それが海に達すると、ロス棚氷が出来ます。この棚氷から一つのかたまりが割れると、それは文字通り、ロードアイランド(アメリカの一つの州)の大きさとなることがあります。いわゆる板状の、平らなテーブルのようになる傾向があります。沈んでいた部分が上に出てきて、三角形になるものもあります。

SI:それらが生まれて死んでいくという感覚はありますか。

シーマン:誕生と死のようだとは言えません。まさしく、連続した過程の一部だからです。生と死の区別はほとんどありません。このように述べたいと思います。それは雪のひとひらとしての生活をし、次に氷河の一部としての生活を送り、それから氷山としての別の生活を送ります。その後、再び水としての生活があり、その水は雪のひとひらとなります。死があると言えるでしょうか。
 最終段階にあるこうした氷山を見ると、海底に引っかかっているものや、文字通りいつ崩壊してもおかしくないので近づけないものもあります。とても不安定で、多くの亀裂が入っています。こうしたものが海へと崩れ落ちていく最後の段階を目撃したことがあります。少しだけ、死のように感じられます。しかし、私はほとんど、この発言を別の言葉で表現する必要性を感じます。それは実際、もう一つの変容なのです。こうした連続的な変容の過程にあります。

静けさについて

SI:あなたの写真のテーマは、自然の雄大さと畏敬、人間のもろさ、孤独、すべての存在のはかなさと独特さ、老化と死を中心に展開しているように見えます。静けさと光についても話したいと思います。

シーマン:いつも信じていたわけではありませんが、写真は実際、写真家の反映だと誰かが言っていました。全く同じ被写体を撮影するよう10人の写真家が派遣された実験が行われたことがありましたが、異なった10枚の写真が出来上がることになりました。私の画像のすべてに、私の世界観や育てられ方が反映されていることは分かっています。
 静けさについて触れたいと思います。それは私の仕事のとても大きな部分を占めていて、祖父のもう一つの教えだからです。およそ5歳の時から13歳の時まで、毎日、寒くても、日が照っていても、雨が降っていても、雪が降っていても──それは関係ありませんでした──私は外に座らされ、1時間、じっとしていました。お気に入りの場所がありました。大きなカエデの木の下にあったテーブルの上によく座っていました。1時間が過ぎると、祖父が私を呼びに来て、「何を見たか」と聞きます。かたくなな気持ちでいて、「何も見なかった」と言うとします。そうすると、祖父は「外へ戻りなさい」と言いました。
 この経験から学んだことは、静けさの中にいると、自分と自然との間のあの境界──あの他者の感覚、あの分離感覚──が消えるということです。そうした境界は私たちによって築かれている、とはっきり述べたいと思います。自然はそうした境界を認めません。私たちが認めるのです。しかし、静けさの中にいると、その境界はなくなります。そして突然、非常に信じ難い体験をすることになります。例えば、鳥がやって来て自分の体にとまったり、蝶がとまったりします。あるいは、何となく魔法のように見えるものに気づきます。「どのようにして起こったのだろうか」。しかし、それはただ、静かにしていたから起こっただけであり、自然界はこう言います。「やあ、戻って来たね! お帰りなさい」と。そうすると、自然界はこういう接客係を派遣して、「また会おうね!」と言うのです。それが雲に起きている現象であれ、動物や蜘蛛に起きている現象であれ、あなたが静かにしていると、こうした魔法のような瞬間が訪れます。その時、あなたはただ存在しているだけでなく、再びつながり合っているからです。
 32歳で写真家になろうと決心した時以来、私が意図したのは、この人生は美しく、私たちが持っているこの惑星は信じ難いということを人々に明らかにしたいということでした。たくさんの人が私に、「フォトショップのようなものを使っていますか」と尋ねました。私の画像で最も大切なことは、あるがままに記録することです。そうであってほしいと自分が考えるものをつくり出すことではありません。ですから、フォトショップを使わないことがとても大切です。それは、私が外に出ていて、そこにいなければならないことを意味します。光がある方向から差しているとき、あるいは、動物がこちらにやって来ようとしているとき、それを写すためにそこにいなければなりません。変更を加えるためにフォトショップに頼れば何十万枚も多くの写真が取れることは確かでしょう。しかし、それは私の画像の意図することではありません。私が意図することは、人々が私たちの惑星とこの人生との自分自身のつながりや関係を築くのを手伝うことです。

より詳しい情報と写真については、
camilleseaman.comをご覧ください。