読者質問

Q 仏教はあなたの情報の中で役割を持ちますか。(2011年11月のロンドンにおける講演より)
A 世界教師マイトレーヤという名前は、仏教に由来します。マイトレーヤとは5番目の仏陀、来るべき仏陀の名前であり、世界中で何百万もの仏教徒に待望されています。信者は彼の到来を待ち望み、来るべき仏陀であるマイトレーヤ仏陀を歓迎するために巨大な彫像を建設しています。もしあなたが日本人の仏教徒に、5番目の仏陀の到来を期待していますかと尋ねると、その答えは絶対に然り、マイトレーヤ仏陀が待望される者だというものでしょう。ちょうどクリスチャンに対してキリストの帰還を期待していますかと尋ねると、ほとんどのクリスチャンは再臨を待ち望んでいると答えるでしょう。なぜでしょうか。なぜなら、彼は戻ると言われたからです。

Q 様々な宗教が、偉大な教師の帰還を促進することに積極的にならないのはなぜだと思いますか。
A クリスチャンに対してキリストの帰還を期待していますかと尋ねると、ほとんどのクリスチャンは再臨を待ち望んでいると答えるでしょう。キリストがイエスとして現れたとき、彼はこう言いました。「眠ってはいけない。なぜなら私はあなた方が思わぬ時に来るからである」。信者はそれを読んで、本を閉じ、キリストは戻って来られるが彼らには関係のないことだと感じます。通常の信者はそうであり、教会の司教や聖職者にとってもそうです。彼らがキリストを待っているのは抽象的な出来事としてです。彼らが生きている間には起こらないと思っています。私は教会で人々がこう言うのを聞いたことがあります。「はい、私はキリストの再臨を信じますが、私の生きている間ではありません。今ではなく、いつか将来のことです」同じように、日本の仏教徒もマイトレーヤ仏陀が今から何千年も後にやって来ると思っています。間もなくではありません。なぜでしょうか。なぜマイトレーヤは遠い将来まで待たなくてはならないのでしょうか、戦争やあらゆる紛争が起こっている間に。なぜ可能な最も早い時期に来ないで待っているというのでしょうか。彼らがその時を知っているというこうした独断的仮説をつくり上げることができるけれども本当の時は知らないということが、私にはいつも不思議に思われます。遠い曖昧な将来というのは、ほとんどの人々にとっては満足できません。私の情報はもっと満足のいくものです!

Q マイトレーヤは20億人の人々を持っていると聞きました。このことの意味は何ですか。
A マイトレーヤには彼に反応する用意のある20億人近い人々がいます。そしてそれ以上の人々が彼のアイディアに反応して、自由、正義、正しい人間関係、世界資源の分かち合いを政府に求めるでしょう。すでに多くの人々が彼らの要求を、通常は政治的レベルで知らせています。政府は国民の要求のために地に落ちています。不正選挙が明るみに出て、人々の要求のために変化が起こっています。一つの声として語る人類の能力はますます高まるでしょう。人類の要求は世界を変える要素の鍵となるでしょう。これまでデモに参加しようなどと思わなかった人々がその衝動を感じるでしょう。大きなデモが起こる場所ならどこでも、マイトレーヤは参加されています──ニューヨーク、ロンドン、ワシントンなど。マイトレーヤはこれらのデモのエネルギーを強力にし、要求を一つの大きなものに単純化して、正義、自由、分かち合いを求めるようにしています。このようにして新しい世界が人類自身によって築かれるでしょう。彼はこのようにして世界の世論を築くでしょう。アメリカ政府が地球を植民地化しようとする野望を終わらせるのはこの力でしょう。テロと不正義を終わらせるのはこれです。人類は一つであり、一つにまとまって声を上げればどんなことでも可能であるということを、模範によって人類に示すのはこれです。それは世界で最も強力な力です。ですからデモをする用意をしなさい。実践あるのみです! それを好むようにするのです。それ以外のことも少しはできる時がやってきます!

Q イタリアと日本は同じ光線構造を持ちますが、二つは異なった国です。これをどう理解すればよいでしょうか。
A はい、どちらの国も第六光線の魂と第四光線のパーソナリティーを持ちます。一見して、彼らは非常に異なって見えます。しかし彼らは表面的な見かけよりは異なっていないと思います。どちらの国も、魂の観点から見れば、深く理想主義的であり、献身的であり、宗教的です。その理想主義的な献身は宗教の形式を取ります──イタリアにおいては主にカトリック主義への固執であり、日本人は主に仏教徒で他に一つか二つの宗教があります。どちらの国も偉大な美的感覚を持ち、それは魂から来るもので、それ以上に第四光線のパーソナリティーから来ています。美への愛と美を生み出す能力です。イタリア人はおそらくヨーロッパ文明の最も偉大な絵画を生み出しました。ビザンチンの伝統が初期ルネッサンスにおいて17世紀までに開花し、レオナルドやヴェロネーゼやティツィアーノらの巨人を生みました。イタリアのどこに行っても芸術を見ることができます。どんな小さな町にも教会に行けば素晴らしい絵があります。どの時代の建築物も驚異的な均衡を持っています。ただのトウモロコシ小屋でさえそうです。イタリアの芸術は全体として途方もない色彩感覚を持ちます。同じことが日本にも言えます。そこでは美と色彩を表現する強力な必要性があります。たとえそれが贈り物の包装であっても、包装そのものが美しくなければなりません。過去に、どちらの国においても美の必要性は非常に深いものでした。商業主義のためにそれはより表面的になっていると思います。今日では、内在的な美よりも提示に関係しています。どちらの国も美しい衣装、あるいは新しい流行の衣装を好みます。ファッションへの関心がイタリア人の人生を支配しており、おそらく日本人もそうだと思います。彼らは生活様式としての芸術の観念を非常に真剣にとらえています。どちらの国でも至るところに美が見られます。どちらの国も魂の光線は明らかです。日本では、国の善のためにすすんで自己犠牲を行うことに現れています。日本のパーソナリティーは第七光線でしたが、それは今でも非常に強力です。日本では儀式への大きな愛があり、それは第七光線の影響に関係しています。