ベンジャミン・クレーム──奉仕の生涯

追悼記

 ベンジャミン・クレーム(ベン、または彼の若い頃にはベニーとして知られていた)は、1922 12月5日にスコットランドのグラスゴー市で、ロシア系ユダヤ人移民の息子であるモーリスと、アイルランドのローマカトリック教徒のエリザベスの間に生まれた。彼は一人息子であり、姉と妹が一人ずついた。彼の子供時代は極めて屈託のないものであり、至福と創造性の感覚で特徴づけられた性格であり、それは彼の生涯を通じて、顕著な特徴であった。彼は子供の頃、毎日、“ベニーの 30分”ショウで家族を楽しませていたことを、そして10歳の頃から、ひとりでオペラを見に行ったことを、追憶していた。

幼年時代、彼は親切そうな年寄りの姿を繰り返し見ており、サンタクロースだと思い込んでいた。クリスマス毎に、その姿が彼の家の窓に現れていたのである。サンタクロースに関する彼の夢が破られた途端に、その姿は消えてしまった。後になって、あの微笑みを浮かべた善良そうな年寄りの姿は、事実、彼の師(覚者)であったことを知ったのである。

彼は音楽と絵画の両方を愛しており、師である覚者の微妙な介入によって絵画の道を選ぶようになるまで、音楽家の道を選ぶことを考えていた。彼が10代の頃、学校に行く途中の道に、短い2Bの鉛筆が落ちていたのを見つけたのだという。その(柔らかい)鉛筆の感触、それで描いた素描の素晴らしさ、その喜びが彼に画家としての道を選ばせたという。後々になって、あの鉛筆は、彼が見つけるように意図的に置かれていたのだということを知ったのである。

画家になることを決意した彼は、16歳のときに家を出て、絵を描くことに専念した。彼の生涯の友であった俳優のダグラス・カンベルと共に、地方の労働組合のホールを借りて、展覧会を行ったとき、それを現代ヨーロッパ絵画派のポーランド人の画家であったヤンケル・アドラーが見たのである。後に、アドラーは彼のメントール(良き指導者)となったが、それ以外には、クレームは独学で学び、20歳の頃から、顕著な、後世に残る作品を描き始めたのである。第二次世界大戦の終了後、彼はグラスゴーを離れて、彼の最初の妻ペギーと共にロンドンに移った。その後、彼は生涯、ずっとロンドンに住み、80歳代で視力を失うまで、絵を描き続けた。

彼は、まだ若いときに、神智学と東洋の宗教に興味を持った。そして広範囲にわたる書を読み、エーテル界やテレパシー(思念伝達)、霊的治療や宇宙の兄弟たち(スペース・ブラザーズ)について学んだ。1950年代にはUFO現象に興味を持つようになり、1958年から短期間、スペース・ブラザーズとの密接なコンタクトを持ち、彼らと共に、また彼らのために、働いた。

H. P. ブラヴァツキーとアリス・ベイリーの書で不朽の智恵の教えを学び、彼は霊ハイアラキーの覚者たちの存在について知るようになった。1959年に彼は、彼自身の師である覚者からテレパシーによるコンタクト(連絡)を受けた。そしてマイトレーヤと覚者方の降臨の計画に、彼が一つの役割を果たすことができることを告げられた。そして1972年に、師による集中的な、厳しいトレーニングの期間が始まったのである。その間に、

「……私の師がそれを通して働くことのできる一つの『道具』をつくりあげたのです──私が見聞きするものすべてを、師は見たり、聞いたりするのです。師が欲するとき、私が見つめることが彼からのまなざしであることができ、私が触れる手が彼のものであるというように。ですから、最小限のエネルギーの消費で、私の師は日常世界への窓を、彼の意識の前哨を、持つようになるのです」。

覚者とのこの密接な関係によって、クレームを通して、マイトレーヤと覚者方の出現についての情報が一般に伝えられ、さらに人生についての並外れて深遠な、そして広範囲な洞察が提供されたのである。何にもまして、師との関係が、彼が知ったことを公に伝える勇気と確信をクレームに与えたのである。

師のインスピレーションは、クレームの絵に深遠な変化をもたらし、現象世界の底にある霊的リアリティを表現するもう一つの方法となった。この仕事はシェア・インターナショナル誌の読者にはよく知られているように、雑誌の表紙に彼の“秘教的”な絵画の多くが使われた。2015年に米国、ロサンゼルス市で、彼の絵画とその不朽の智恵の教えとの関係の両方を示すことを目的としたベンジャミン・クレーム美術館がオープンした。

クレームはマイトレーヤと覚者方のために、1977 年にマイトレーヤがロンドンにお入りになったときに始まって、彼らの日常世界への出現についての希望と歓びのメッセージを広げるために、惜しむことなく働いた。1974年に、ロンドンで小さなグループに、新しいグループ瞑想である「伝導瞑想」を紹介した。覚者方が彼らのエネルギーを世界に送り込むことを可能にする瞑想である。それは現在、世界中で実践されている。1975年に、彼は、最初、英国で、その後、非常に間もなく、ヨーロッパ、米国、日本、その他の世界中の国々で講演を始めた。1979年から2012年にかけて、彼は16冊の本を出した。また1982年に、シェア・インターナショナル誌が創刊され、秘教的、霊的な領域と政治・経済の領域の間の関連を検証し、そして、彼の師である覚者とマイトレーヤの教えをさらに提供してきた。

クレームは自分をグル(指導者)として位置付けることをいつも拒否した。彼はあらゆる階層・分野の人々と協調することができ、ロンドンで、家族と共に極めて質素な生活を送っていた。彼は、世界中で彼の教えと仕事を取り入れた人々を「信奉者」として見たことは決してなく、「共働者」として扱った。伝導瞑想に参加し、マイトレーヤのメッセージを伝え広げる仕事をすることを通して、非常に多くの人々の人生が変化した。彼らによって、この仕事が継続されていくことは保証されるだろう。

ベンジャミン・クレームは20161024日にロンドンの自宅で、家族に囲まれて、安らかに息を引き取った。彼は数年の間病気だったが、勇気を奮い起こしていた──弱っていたにもかかわらず、彼は最後まで、不動であり、親切で、ユーモラスであった。後に残されたのは、1968年に結婚した第二の妻のフィリスと(ペギーは1965年に亡くなった)、子供たち、ジュリアン、ルーカス、ターラと、三人の孫たちである。

彼の目がもはや見えなくなったので、2014年の彼の誕生日に、妻のフィリスに自分の進化段階を口授して、彼の死後に公開するように指示した。彼の光線構造と進化段階は以下のとおりである。

 

魂2;パーソナリティー4(7);メンタル体1(4);アストラル体4(2);肉体3(7)

2014 125日現在の)進化段階は3.46

 

ベンジャミン・クレームの家族は、世界中の共働者と支持者から、クレームへの感謝と愛に満ちた心温まるたくさんのメッセージをいただいたことに感謝している。この深い悲しみのときにあたって、それは大きな慰めであった。