統合の必要

──覚者より
  ベンジャミン・クレーム筆記

 新しい時代の概念に熱中しているグループのほとんどが、口先では和合や同胞愛を唱えているにもかかわらず、現実には、包括的態度を実行していないのは不思議である。それどころかむしろ逆方向に走る傾向があり、人類の教育に携わるすべてのグループの中で、彼らがもっとも分離主義的であり、排他的である。
 彼らの役割は、分離主義の存在する余地のない世界のビジョンを、各人それぞれが重要なそして同価値のものを総体に貢献するという考えを表す、より良き世界のビジョンを人々の前に掲げることである。しかるに、ほとんどすべてにおいて、特定の教えや見解の優越性に強調が置かれている。協力の行為や相互理解を見つけるのは非常にまれである。それが彼らの言葉の中では誇るべきものであるにもかかわらず。
 これらのグループの思考を往古のリズムがいまだに支配しており、もし彼らが来るべき時代の理想を真に代表したければ、学ぶべきこと、変えるべきことがたくさんある。そのような変化が訪れることは必然だが、多くの者にとってその過程はむずかしく長いだろう。多くの者が変化の必要を認めるが、競争と排他主義の習慣があまりにも深くしみ込んでいるので、他の人々と同等のレベルでの関係を築く能力を彼らの内に見いだすことができない。さらにあるものにとっては、思想界の指導者として見なされたい要求が支配的要素である。彼らは、個人的野心のグラマー(幻惑)の虜である。
 これらが今日の状況であるが、しかしお互い同士との同一認(アイデンティティー)を増す必要があり、そのようなグループの努力のすべてを統一させるところの底に横たわる統合についての理解が必要である。さらに、この統合を把握し、そしてそれを大衆に提示するとき、初めてこれらのグループはその教育的役割を果たすことができる。現在、平均的な求道者は、彼の注目と忠誠を勝ち取るために競争し合う様々な主張に混乱し迷っている。
 間もなく世界は、数多くの教えや真理の公式が一つの源から発することを知るだろう。同じ聖なる刺激がすべてを通して流れており、人間が多様の必要を持ち、進化の段階の様々なステージにいるという事実のゆえに、種々の解決が存在する。ハイアラキーが、必要な教えやアイディアを最も広範囲に、多くの異なったレベルで、多種の方法で提示するために働いてきたのはそれなりの理由がある。
 わたしたちの多種多様な提示の底に横たわる理念の統合は、すべてのものの和合についてのわたしたちの意識から発し、総体を、そしてその実在(リアリティ)の不可分性をわたしたちが絶えず認識していることから発している。人間がこの体験を分かち合うとき、すべてのことが可能となる。
 キリストと彼の弟子である覚者たちを見るとき、人間は多種多様な真理の提示がいかに必要であったかを理解するようになるだろう。なぜなら、人類が非常にながい年を経てきており、時代を通じてその経験と期待は様々であり、アイディアを吸収する方法がいかに異なるかに気づくようになるだろうから。彼らはまた、外側の多様性の背後にある本来の和合について、何かを把握するに至るだろう。
 理念や教えの背後に一つの大計画があることを、人間は自分で見いだすだろう。そしてあらゆる教えが大計画のわずか一片を系統化したものであり、大計画は神の創造的意志の表現であり、そのもの自体は絶えず変化のプロセスにあるということを知るだろう。であるから、いかにして一つのグループや一つの社会や制度が、すべての時代に通じる大真理を具現することができようか。
 もちろん多くの者は、現在すでに総合と和合のために働いていると信じているが、これはおしなべて幻想である。同じような心(マインド)の者とつながりをつけることはあまり手柄にならない。それは有益だが、比較的簡単なことである。それよりはるかに困難なことは、違いを超えて腕を組み、あなた方が同意しない者たちを対等に抱擁することである。
 あなたの兄弟の提示するものの中に、和合させるものを探しなさい。すべての背後にキリストと彼の弟子たちが居ることを知りなさい。一つの真理がすべてのアプローチに盛り込まれており、分離させるものは人間の心(マインド)以外に何もないことを覚えておきなさい。

(シェア・インターナショナル誌1983年7月号)