分かち合いが可能にすること

難民を支援しようとするドイツ市民の寛容な努力
エリッサ・グラーフ

大多数がシリアにおける過酷な戦争から逃れてきた100万人以上の難民にドイツが国境を開けたのは、2年前のことであった。ドイツのアンゲラ・メルケル首相が2015年8月に、難民がたどり着いた最初の安全な国で難民申請を行うことを義務付けた、2003年に成立したEU政策「ダブリン協定」の適用を停止したとき、政治生命に汚点を残す危険に陥った。しかし、彼女のこの時の決断によって、難民はドイツ入国前の国に追放されるかもしれないとおびえることなく、ドイツでの避難所に迎え入れられることになった。最近ドイツでの選挙の結果、メルケル氏の勇気ある決断がポピュリストたちの非難の的になった。そして、難民の流入を恐れる人々の恐怖心のために、ナショナリストや反移民を掲げるAfD(ドイツのための選択肢)が支持を得て、国会に席を占めようとしている。もしそうなれば、ドイツ政府が過去60年間許さなかったナショナリストの党がはじめて公的な地位を得ることになる。

メルケル首相はドイツの開かれた国境を宣言した時に地方の人々の恐れを鎮めようとして、「私たちはできるのです」という楽観的なメッセージを伝えた。すると、様々な村や町の何千人ものドイツ人が難民に宿泊所を提供し、衣類や食料を供給し、言葉を教えるコースを作り、難民を自分たちの地域社会に受け入れた。シュピーゲル・オンラインによる最近の報告によると、2015年〜2016年に1万5,000人の難民受け入れ計画がドイツで実施された。新しい入国者たちへのドイツ語習得支援に焦点を合わせて、ボランティア講師が雇われ、難民のそれぞれの状況に合わせる支援がなされた。このような努力がメディアによって報道されると、かつて英国の政治家であった国際救済委員会のデイヴィッド・ミリバンド委員長は、「ドイツではこの状況を何とかし得るというメルケル首相の信念が発動され、何千というドイツ国民が入国者たちの支援に結集し、ドイツ国民は適切で公正なことを行っているという誇りを抱いている」と、ニューズウイーク誌に記した。

たいていのドイツの小規模な村のように、南部サクソニー地方の人口5,262人の村シュタイアーベルクは、2015年秋に、約100人の難民が到着することを知らされた。村長が召集した会議が地方の小学校で催された。出席した80人の村民は、職員から、ドイツの移民局が難民に関する可能な限りの工程を行ってきたが、にもかかわらず一般村民の支援を絶対的に必要としていると告げられた。村民たちは、やってくる難民のために、自分たちで住む場所を用意し、ドイツ語学習クラスを作ってほしいと要請された。

100名ほどの村民が素早く立ち上がり、ボランティアのリストを作成した。通信するためのフェイスブックを立ち上げ、寄付される衣類や日用品を収集したり分配したりする組織をつくり、やってくる人々へのドイツ語学習クラスを用意した。難民が社会に溶け込んでいくための手助けとして、村民たちは個々の難民や家族の世話を行った。自転車を見つけたり、医療サービスを受けることができるようにしたり、教育を受ける機会や働く機会について調べたり、言語力を高めるための訓練を行ったり、悪名高い複雑なドイツ語の書類に記入したりした。

これらボランティアたちの恩恵を受けた二人の子供がいる。もろいゴムボートに乗って、危険きわまりない海を渡ってヨーロッパにたどり着いた、アフリカの象牙海岸出身の18歳のアボウライエ・フォファナ君と、パレスチナのシリア難民で5歳になるイブラヒム・フヤッド君とである。

10歳の時からストリート・チルドレンであったフォファナ君は、モロッコからスペインへの危険をはらむジブラルタル海峡横断を試みる友達に、何もわからずに従って航海しスペインにやってきた。彼がドイツのへき地の村にやってきたとき、初めはおろおろしていたが、シュタイアーベルクで彼の母語であるフランス語を話す住民たちに出会った。村人たちが味方になってくれて、家を開放して、家族の中に向かえ入れ、食事を分かち合ってくれたので、彼は家庭的な雰囲気の中でくつろぐことができた。まだ未成年者であった彼が公的支援を受けることができるよう、地方の人々が掛け合ってくれた。また、シュタイアーベルクのサッカーチームが彼を招いて、一緒に練習する仲間に入れてくれた。彼はわずか4年間の小学校教育しか受けていなかったが、ドイツ語クラスに入れてくれたうえ、職業訓練学校に連れて行ってくれ、彼が選んだ配管工事の訓練を受けることになった。彼を世話する教師は、彼が自立的でしかも献身的であることを認め、彼を地域の配管工の会社に斡旋した。彼はここで3年間の訓練時期を送り、現在はそこで働いている。

イブラヒム・フヤッド君は中流家庭に育った。父のマハモウンド氏は数学の教師であり、18歳の兄カレッド君と10歳の姉ハディルさんと数年間、戦争が終わるのを待ち続けた後、ダマスカスから逃れた。暴力が激しさを増したとき、彼らは自分たちの持ち物すべてを置いたまま、食べ物の確保に苦しみつつ、トルコへと逃れた。それから、最も過酷な航路である地中海ルートでギリシャに渡り、そこで半年足止めされた後、最後にドイツにたどり着くことができた。

シュタイアーベルクの住民であるリサ・フリーリングさんは、オアセ・カフェでフヤッドの家族に会って、隣人のクラウディア・エレスさんの手を借りて、難民たちと地域の住民たちがお互いに交流できる場所として地域の教会を提供した。フリーリングさんは、彼らがこの地域に到着して以来間もないのに、フヤッド家の子供たちがドイツ語を話し始めたのに驚いて、「年長の子供たちが、まだアラビア語しか話せない難民たちの通訳をしているのです。とてもすごいことです」と述べた。

フリーリングさんはまた、難民を支援している家族を知った。難民を支援するために住み続けてきた家を難民家族に譲り、ほかの2家族と共に自分たちが所有するアパートに引っ越した家族である。ほかの地方の住民は、移ってきた人たちに家具類を提供した。村民たちは、イブラヒムの兄であるカレッド君を村の会社で専門的職業訓練を受けさせるためのコースを設けた。難民の子供たちは地域社会に溶け込み、地元の学校に通っている。支援に参加してきたフリーリングさんは、「難民支援はやりがいのある仕事です。わたしたちは比較的豊かな地域に住んでいますが、今回のことで、第二次世界大戦についての私の両親の話を思い出しています。支援を求めるのは自然な反応です。それに同情と悦びと技術と忍耐力と非利己的なチームワークとをもって応える必要があります」と語った。

メディアが、移民危機によって生じる問題や不和を取り上げ報道する傾向にある一方で、ドイツ市民は分かち合いによって可能になることを明らかにしている。ナイナ・バジェカル氏は、「ヨーロッパの別なところでは、難民危機が厄介な問題をもたらしているが、これまでのところ、ドイツでは非常にうまく行われている」とタイム誌に記したところ、2015年にアフガニスタンの家族を引き受けたベルリン住民のテイム・フローリアン・ホーン氏は、この記事に反応して、「この危機がヨーロッパを引き裂いているように見えますが、避難所を必要とする人々にそれを提供することこそが、真の意味での連帯するヨーロッパです」と述べている。   

newsweek.com; time.com; Spiegel.de