ジェレミー・レント氏との対談 疎外に対する解毒剤

フェリシティ・エリオットによるインタビュー

ジェレミー・レント氏は作家、講演者、非営利団体「リオロジー研究所」の創設者である。著書『意味の網』の書評がシェア・インターナショナル誌8月号に掲載された。

シェア・インターナショナル(以下SI):あなたの本について、聞かれればどんなコメントができるだろうかと考えていました。次のものに落ち着きましたが、あなたはどのように思われるでしょうか。ジェレミー・レント氏の最新刊『意味の網:宇宙での私たちの場所を見つけるために科学と伝統的な知恵を統合する』は、疎外に対する解毒剤である、というものです。

ジェレミー・レント:素晴らしい描写の仕方ですね。この本の本質的なテーマは、現代の世界観がいかに分離だらけであるかということです。この本は、分離が人間の経験や文明の方向にとって危険で害悪があるということだけでなく、全く間違ってもいるということを明らかにしています。別の世界観があります──つながりという世界観であり、世界中の伝統的な知恵の文化だけでなく、現代科学も指摘しているものです。それは、個人としての私たち自身や、地球に関連してすべての種にとっての、信じ難いほど肯定的な前進の道を示している見方です。

SI:現在の支配的な現実観は危険だと述べておられますね。どうしてそうなのか説明していただけますか。

レント:最も明白な理由の一つは、その現実観が文明そのものを、私たちが一部である「生きている地球」との、このような信じ難い不均衡へと追いやっているということです。私たちは皆、この状況が今世紀になって突きつけている気候崩壊と恐ろしい危険のことを知っていますが、それよりもさらに広範なのは、私たちが引き起こしている生態系全体の破壊です。もし転換を図らなければ、何らかの形の文明の崩壊へと至るでしょう。それよりさらに重要かは分かりませんが同じくらい重要なのは、この惑星上のいのちの豊かさと多様性の多くの崩壊です。とてつもない規模で起こっているため、極めて危険です。
 しかし、それは一人ひとりにとっても危険です。幸福感を奪い去ってしまうからです。現代の消費文化は、私たちが人生に満足しないように設計されており、長期的な幸福の道から私たちを遠ざけます。

SI:広告や大量消費主義の仕組みはとても狡猾です。一つの側面は次のような宣伝文句です。「欲しいでしょう。必要でしょう。あなたはそれに値しますから、買った方がいいですよ」。人間のいのちの価値は、知らぬ間にそうした考えと結びつけられ、人々はつい買ってしまいます。

レント:それは全く真実です。本当の統合的な幸福を培うことを取り上げた章で、このことについて詳しく掘り下げています。幸福とは実際のところ何を意味するのかを見てみると、消費社会はまさしく幸福をかき乱すように設計されているということが分かります。もっと油断がならないのは、私たちが集団として生活し、何百万年もかけて発達させてきた特定の中核的な人間の特徴があるということです。私たちは強力な道徳的感情を発達させてきました──周りの人から敬意を払われたい、のけ者になりたくない、自尊心を持ちたいという欲求のような感情です。しかし、広告戦略家が行ってきたことは、そうした感情を分析して倒錯させ、社会の福祉について私たちが持つ感覚をかき乱そうとすることです──そのようにして、必要だと告げられる商品を購入することで自己有用感が得られます。しかも、感情のレベルだけでなく、甘いものや油っぽいものを求める生理的な欲求までも利用し、心理面にも同じ働きかけをします。今では、金もうけのためだけに、私たちの性質のこうした多様な要素を操作するための洗練されたアルゴリズム(一連の手順)さえも存在します──これは本質的に、私たちをコンシューマー・ゾンビ(次から次へと買い続ける消費者)になるよう仕向けるものです。

SI:そのとおりです!  それをお聞きしたところで、あなたの本の構成の話に入りたいと思います。とても魅力的な構成になっていますね。「私は誰か」という、ちょうどあなたが書き始めているところから話し始めるべきでしょう。私たちのアイデンティティー(独自性)が操作されていることについて話しているからです。

レント:この本は実際、いくつかの大きな疑問を中心に構成されています。「私は誰か」「私はどこにいるのか」「私は何なのか」「私はどのように生きたらよいのか」「私はなぜいるのか」といった疑問です。いずれの場合にも、こうした疑問に対する現代の主流の答えを見ていくと、その答えは科学的に間違っているだけでなく、有害であるということが分かります。それからこの本は、こうした疑問に対する異なった答えの可能性を探っています。
 「私は誰か」について検討するときは、現代の世界観が私たちに告げていることから始めるのが最適でしょう。それは実際のところ、デカルトの有名な言葉「我思う、故に我あり」で始まり、そして終わります。デカルトや彼に続く多くの人が述べたことは、私とはその思考能力であり、概念化する能力を持つ脳のその部分であり、知能テストで測定できる部分であるということです。それが本当の自分であり、「私」のその部分はこの肉体に宿っている。肉体は機械であり、私の思考を司る部分を支えるためだけにあるというのです。
 もちろん、もしそれが本当なら、動物は私たちのように象徴的な方法で考えることができないので、動物が実際のところ存在しないのは明らかだということになります。動物は単に、私たちが搾取する物的資源として存在するということになります。私たちは本当のところ、自分自身の肉体存在から分離し、自然界から完全に分離しているというのです。自然界のすべてはただ私たちのために存在するものと考えられます──私たちだけが真の存在だというのです。しかし、それが根本的に間違っていることを現代生物学は明らかにしています。
 私たちは確かに、デカルトが語ったその部分でありますが、「生きた意識」でもあります。私たちは生きた存在であり、それをすべてのいのちと共有しています。

SI:「生きた」という言葉は、意識や認識を意味するために使っているのですか。

レント:はい。知覚、感受性のことです。生きているすべての存在に内在するものです。現代生物学が明らかにしたのは、私たちが自慢することのある概念的知性よりも、この知覚は多くの点でずっと賢く、ずっと深く、より複雑であるということです。概念的知性は私たちの一つの側面にすぎません。氷山のてっぺんを見て、そこにあるけれども目に見えない広大な知性を考慮に入れないようなものです。
 知性を持つのは特定の動物だけではなく、樹木さえも知覚を持つことを生物学者たちは明らかにしています。樹木はおよそ30~40の異なった感覚を持っています──私たちよりも多く持っています。それらをすべて統合し、そうした感覚に基づいて一瞬一瞬、判断を下します。樹木は一種のワールド・ワイド・ウェブ(世界に張りめぐらされた網)の中でお互いに意思疎通を図ります──  一つの共同体として意思疎通を図り、資源を共有し、知性を共有しています。樹木だけではありません。細胞生物学者たちが発見したのは、すべての微小な細胞(人体にあるのはおよそ40兆個)には何十という通路があり、細胞はそれを通して周囲の状況を監視し、何を取り込み、何を外に出すかを決め、複雑な方法で自らを組織立て、周りの細胞の共同体と一緒に働いて、何をしたらよいかを決めます。それが自然界のすべてにある知性であり、私たちが共有しているものです。
 私たち自身のこうした二つの部分──生きた知性と概念的知性──を認識し、私たちとは統合された心身の知性だということを認識すれば、もっと統合的な人生を送り始めることができます。

SI:それをお聞きしたところで、あなたが取り上げている次の疑問、「私はどこにいるのか」に移りたいと思います。

レント:私たちが当然と見なしていること、つまり、私たちは連結していないバラバラの宇宙に生きているということを検討することから始めるのが最適でしょう。ここ数百年間、現代科学は、事物を理解するために事物を分析し、より小さな部分へと分解することを大がかりに行ってきました。それは還元主義です──あらゆるものをできる限り分解することです。私は還元主義に何の反感も持っていませんが、人々は宇宙全体を説明するのにこの方法を用います。私たちはバラバラの宇宙に生きており、分離した別々の部分を見ることによって宇宙を理解することができるといいます。現代科学はそうした概念を拒絶します。システム科学、複合科学、システム生物学、そしてネットワーク理論さえも、すべてが事物のつながりを調査する科学です。そうした科学が明らかにしたのは、事物のつながりが、事物そのものよりも理解にとってはるかに重要だということです。
 中国の「理」という概念は、仏教や道教、儒教を、宇宙を理解するための統合的な方法にした賢者たちの学派、朱子学派に由来します。宇宙は「気」から成っていると彼らは理解しました。気は、エネルギーと物質であると考えることができます。「理」は、すべてのそうしたエネルギーと物質が結びつき合って、私たちが経験するあらゆるものを形成する拠り所となる原理と考えることができます。同じように、現代において科学者たちは、いのちや全宇宙を創造するためにすべてのものが自らを組織立てるための原理を調査しています。そうした自己組織化の原理は、複雑なシステムを理解するための鍵です。複雑なシステムとは、私たち自身や私たちの社会、いのち全般のことです。
 ですから、「私たちはどこにいるのか」という疑問に対しては、複雑な、結びつき合った宇宙に生きているという答えになります。他のすべてのものが生きる拠り所となる同じ原理により私たちは生きています。何十億年もかけて発達してきたいのちの複雑さと、現代生物学が明らかにしているその複雑さにおける大きな飛躍はすべて、より良く協力する方法を学んだ異なる有機体から生じた飛躍でした──自らの技能と能力を分かち合うことによって、相互に有益な共生関係を発展させることができたのです。そうした共生関係は、いのちの豊かな多様性の基盤になるものです。

SI:あらゆるものには居場所や意味、目的があるということや、すべてが組み合わさっているということ、すべてが必要とされているということを、人々は理解し始めていると思います。私たちは不幸にも、自分たちが自然界に引き起こした破壊を通してこれを理解しました。連鎖の一つの小さな連結部を壊せばどうなるかを理解しています。
 私たちが誰であり、何であり、どこにいるかをいくらか知ったところで、あなたが問いかけたとても大きな疑問を扱うところまで来ました。もしいのちがそれ自体により自ら組織立つとすれば、「私はどのようにあるべきか、どのように生きるべきか」という疑問です。あなたのような多くの思想家はこう述べています。「今は極めて重要な瞬間である。私たちは移行しなければならない。変わらなければならない。この機会をつかむ必要がある」と。それでは、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。

レント:私たちすべてがこのような問いかけをすることが、これほど大切になったことはかつてほとんどありませんでした。またしても、主流の文化からは、自然界を最大限に搾取すべきだと聞かされます。別々の個人として、他のあらゆるものを犠牲にして、自分自身の幸せと自由を追求するためにどんなことでもすべきだといいます。そのようにしていると、何かの魔法によって、もっと効率の良い社会が創造され、すべての人が勝者になるというのです。

SI:こうした支配的な神話がどのように資本主義を益することになるかを理解しておられますね。こうしたアイディアは互いに完全にかみ合っています。

レント:おっしゃるとおりです。実際に、偶然ではありません。その二つがかみ合っているのは、存在論的に見て同じ根から形成されているからです。今日の私たちの価値観や経済、グローバル文化を駆り立てている世界観の鍵となる要素のいくつかは、17世紀以降、あらゆるものを変革した科学革命に由来します。ヨーロッパの数カ国が自国の利益のために世界を支配した際の資本主義、植民地主義をご覧ください。人種差別、白人優越主義さえも、すべて17世紀あたりにヨーロッパの同じ場所で始まりました。それらはすべて、同じ根本的な理解に由来します。つまり、採取、搾取はやってもよいことであるだけでなく、人間がやるべきことだという考え方です。
 他の生き方はあるのでしょうか。非常に多くの偉大な知恵の伝統が私たちに示していることを私は伝えているにすぎませんが、別の生き方は確かにあると私は信じています。それは、私たちが相互に深く結びついているという認識に基づいています。私たちは、いのちであるということや、周りすべてにあるこの偉大な生きた知覚の一部であることをいったん認識すれば、次に認めなければならないことは、私たちがすることの多くは人間優位の考え方に基づいているということです。人種差別の土台となっている白人優位だけでなく、自然界のすべてが私たちのためだけに存在するという考え方です。現時点においてより啓発されている人々でさえ、いまだに主流派が考えるように考え、次のようなことを思いつきます。私たちはもっと持続可能になる必要がある。そうすれば、数世代だけでなく、ずっと長く繁栄できるようなやり方で自然界を利用することができるといいます。それは地球を破壊するよりはましですが、アルネ・ネスの言う「エコロジカル・セルフ(生態学的自己)」についての理解へはまだ移行していません。アルベルト・シュバイツァーの言葉を借りれば、「私は、生きようとする大生命の只中にいる、生きようとするいのちである」ということです。彼は続けてこう述べています。「したがって、私はすべてのいのちに畏敬の念を抱かざるを得ないのである」と。「私たちはいのち全体だ」というような理解へと移行するとき、すべてのものとの関係の仕方が完全に変わります。
 世界を見て、人間には何か本質的に悪いものがある、と考える人もいます。私たちは地球上のがんだ、と。そんなことはありません。社会のがんは、非常に支配的になっている資本主義的搾取の世界観です。地球との共生関係を保ちつつ生活する方法を見つける方向へと、私たちは自然に引き寄せられているというのが本当のところです。先住民の文化では常にそうしてきました。仏教や道教のような伝統もそうしたことを指摘しています。

SI:ご存じのように、私はいわゆる「不朽の知恵」の教えの背景から語り、働いています。一つの根本的な教義は、分離は非現実だということです。それは科学的にも、哲学的にも、生物学的にも現実ではありません。分離は存在しません。人々はこのことを経験し始めています。あなたは疎外に対する解毒剤である、と述べることから私は話し始めましたが、私たちの多くはまさにそうした疎外に苦しんでいます──自然界からの疎外、お互いからの疎外に。私たちは今、いのちと関係し合い、居場所を見つける正しい方法を見いだす必要があります。

レント:確かに。私たちに希望を与えてくれるのは、そうするための既知の道筋があるということです。(植民地主義以前の)世界中の先住民の伝統は、自然界と関係する方法を見いだしていました。それは、人間と自然界の残りの部分が互いに恩恵を受ける共生関係でした。現代版は、古代からの伝統的な知識に啓発されつつも、現代の知識と技術を取り入れたパーマカルチャー(永続可能な農業をもとにした永続可能な文化)でしょう。そのようにして、自然界と闘ったり自然界を支配したりするのではなく、自然界と協力していくのです。これによって、人間が生態系と共に栄える状況がつくられます。私たちは生態系の中に組み込まれているわけですから。

SI:こうして、「私はなぜいるのか」という大きな疑問に至りました。

レント:私にとって、それは究極の疑問です。他のすべての疑問がそれにつながります。現代の見方がどんなものかを振り返ると、その見方はかなり悲観的です。ノーベル賞を受賞した物理学者、スティーブン・ワインバーグのような還元主義の科学者たちは、「宇宙について知れば知るほど、宇宙はますますつかみ所がなくなるように思える」と言います。彼やリチャード・ドーキンスらはこう言います。「まあ、そんなものですよ。選択をしなければいけません。何らかの空想的な『超自然的な』考え──神や霊、他の次元など──を信じたければ、信じてください。それで気分が良くなるのであれば。しかし、そういうものはすべて、でっち上げられたものだということを知った方がいいですよ。これが現実です。この現実と共に生きなければなりません」と。こうした実存的な絶望が現実であると私たちは教えられます。しかし、相互に深く結びついた場所として世界を見ると、私たちの人生の意味がそこから生じていることが分かります。意味そのものが、つながりの一つの働きだということを私たちは知っています。これは、知覚力のある存在として、意味への波長の合わせ方を通して私たちがこの宇宙の中で行っていることです。意味は、私たちの周りすべてに潜在しています。私たちには選択の余地があります。目を閉ざして、マヒ状態に陥ったままでいることもできるし、この宇宙に本来備わり潜在しているそうした意味に満ちた世界に精神を同調させることもできます。私たちがそうしたものとつながることを選択すれば、ですが。

ジェレミー・レント『意味の網:宇宙での私たちの場所を見つけるために科学と伝統的な知恵を統合する(The Web of Meaning ── Integrating Science and Traditional Wisdom to Find Our Place in the Universe)』プロフィール社、ロンドン、2021年6月