臨死共有体験のベールを剥ぐ──第二部

ジェイソン・フランシスによるウィリアム・J・ピーターズ氏へのインタビュー

シェア・インターナショナル誌(以下SI)2月号に掲載されたインタビューの第一部で、ウィリアム・J・ピーターズ氏は、自身の臨死体験や死期が迫っている人と接する仕事を通して、生涯にわたり、「臨死共有体験(SDE)」を探求することになった経緯について語った。SDEでは、遺族や介護士が、臨死体験のように、死期が迫っている人があの世へ旅立つ際に立ち会うものである。第二部で、ピーターズ氏は、医療関係者のSDEに対する見解、人が亡くなる前、亡くなる最中、亡くなった後に起こり得る様々な体験、SDEが介護士や遺族に与える重大な変化、癒し、慰めについて話した。

SI:医療関係者が、こうした体験を生物学的に説明したいと思う気持ちは分かります。しかし、医師や医療スタッフは、末期患者であろうと心臓発作、事故などで突然死する患者であろうと、死期が迫っている患者をケアするわけですから、時に終末期の現象に遭遇することもあるのではないでしょうか。

ピーターズ:ベテランのホスピス職員──看護師、CNA(認定看護助手)、そして死期が迫っている人と直接係わる人、この場合は介護士や故人が愛する人たち──の多くは、こうした経験を興味深い出来事として知っています。つまり、いつも経験しているわけではないのですが、ベテランのホスピス職員は気づいています。しかし、それを解明する方法はたくさんあります。医療スタッフは、こうした経験をカルテに記入するのに有効な言葉を持っていません。医学用語では、これを「終末期現象」と呼びます。そういった現象が見られるということを知ってはいますが、それに対して何もしないし、何か意味があるとも思っていません。実際、それは良い定義なのですが、視覚的に表現できないのです。「終末期現象」として文献に載ってはいますが、患者の治療には何の役にも立ちません。

 実は、それこそが肝心なのです。この終末期現象は、人間が経験することの本質を語っています。魂、精神、意識は、死後または生前のビジョン、あるいは臨検においても、こうした臨死共有体験や他の終末期現象の中で明らかにされています。私たちが知っているこうした現象はすべて、死と臨死の際に起こっています。しかしながら、医学界の主流はあまりそのことに触れようとしません。実際、死期が迫っている本人、その介護士や愛する人がこのような体験をしているのを見ると、「そんなのは幻覚だ」と疑ってしまうケースもよくあります。疑ったり、否定したり、非難したりすることがあるのです。介護士や愛する人の場合、医学的な精神鑑定が必要だ、などの非難を受けます。そうした体験は、健康的で正常な反応ではないため、深い悲しみによって起こる幻覚あるいは解離だ、と医学界の人は言うでしょう。今ではもうあまりないのですが、もし強い臨死共有体験をしたことがある人がそれを陶酔的に語り始めたら、いわゆる精神崩壊を起こしたと思われるのです。

歓迎されていること

SI:SDEでは、すでに亡くなっている家族や友人、あるいは死者を出迎える者たちが、亡くなる人を待っている姿をどれくらいよく見かけますか。

ピーターズ:臨死共有体験の報告書では、51%の人が、死期が迫っている人が死後の世界の初期段階へ旅立ったり、向かったりするのを見たと言っています。16%の人が、私が「高次元の霊的存在」と呼んでいるものを見たと報告しています。それは、霊的ガイドであったり、天使であったり、光の存在であったりします。これらの高次元の存在は様々な表現で呼ばれています。今説明したばかりの三つの形態を取り得る存在の中で、私が最も興味を持っているのは、「指揮者」と呼ばれる存在です。指揮者とは、現世から死後の世界への移行を管理する存在、または力のようなものです。その形はいろいろです。人間の特徴を持っていますが、天使や霊的存在のように見えることがあります。指揮者は目に見えないことがあります。目では見えませんが、感じることはできます。場合によっては、死者を歓迎する側は、その力が実際に死ぬ間際の人の体から霊や意識を動かして、あの世に運んでくれるのを待っているのです。SDE体験者の約13%が、亡くなった母親、父親、叔父、叔母、親友など、死ぬ間際の人以外の愛する人を見たと報告しています。

 そうした人たちはしばしば、いわゆる「お迎え」や死者を歓迎する側となっています。臨死共有を体験した人たちが、お迎えの存在を見たとか、死期が迫っている人のために、「お帰りなさい」といった趣旨のお祝いが用意されていたという報告を受けることがあります。「彼が来る、彼が来る」と言いながら駆け回るなど、それはお祭り騒ぎのようです。人が少なくても、多くてもかまいません。私が「人」と言ったのは、体験者がその人たちを、死ぬ間際にいる人の生前の姿として認識している、あるいは、もはや転生していないけれども霊魂の中に存在しているという意味で、人だからです。そのようなお迎えという形で、死ぬ間際にいる人が愛する人や友人に歓迎され、大事に思ってもらえていると知ることは、体験者にとってはとても励みになり、前向きで、肯定的な体験となります。

SI:臨死共有体験をするためには、亡くなりかけている人のベッドのそばなど、物理的に近い場所にいなければならないのでしょうか。

ピーターズ:記録されたSDEのうち、64%は遠く離れたところで起こっています。つまり、ベッドのそばではなく、死期が迫っている人の視界に入っていないということです。それは、廊下の先、家の別の場所、町の向こう側、地球の反対側かもしれません。ですから、近さは関係ありません。

継続的な絆

SI:人が亡くなる前、亡くなる時、そして亡くなった後に起こる様々な体験を「終末期体験における現象」と名付けておられますが、それについてお話しいただけますか。

ピーターズ:それは、亡くなる前に見た映像やなされた訪問と同様で、亡くなる前の兆候です。また、死後に見た映像やなされた訪問のことでもあります。死期が迫っている人の窓に鳥が集まってきたり、死の間際にいる人に近づくために猫がベッドに飛び乗ったりするなど、動物の奇妙な行動と関係があるシンクロニシティ(意味ある偶然)ということもあります。記念日や誕生日など、人々の生活の中で重要な日付がデジタル表示されるといった、珍しい電気的な事象もよくありますが、それがいつも起こるのです。私は最初、こういったことは介護士や遺族の心の中でつくられたものだと思っていましたが、偶然の一致をはるかに超えているということが、統計的な分析から分かっているので、今はもうそうは思いません。つまり、エネルギー的あるいは電気的に起こっていることがあり、どうも死を越えたコミュニケーションがなされているようなのです。

 私たちは、亡くなった方と残された遺族の方の間に、意味深長な言葉、シンクロニシティ、コミュニケーションを示唆する出来事などの形で、継続的なコミュニケーションが存在するとき、それを「継続的な絆」と呼んでいます。あるいは、鳥が今まで見たこともないような方法で、遺族の近くに飛んでくるといったような動物の行動があります。遺族は、鷹がコミュニケーションをとろうとしている、あるいは近づこうとしているように感じるでしょう。いろいろな例があります。また、私は海岸の近くに住んでいますが、人々が海岸を歩き、徴を求めると、海の哺乳類がジャンプしたり、クジラが現れたり、アザラシが型破りな方法で気持ちを表したりするなど、驚くべき壮観な行動を見ることができます。これらは、遺族と故人の関係が続いていることを示唆する、とても大切な体験です。こうした体験を尊重することは、非常に治癒的な効果となります。

SI:SDEの研究で印象的だったことの一つに、子供のときに亡くなった人が、あの世で大人になっているように見えるということがあります。それについてSDE研究ではどのような解釈がなされているのか、お聞かせください。

ピーターズ:悲しいことに、私たちの調査では、親が出産時や幼児期に子供を亡くすという話がたくさんあります。そして同様に、思春期の子供を溺死や交通事故で失う親もいれば、薬物の過剰摂取などで不幸にも突然失う親もいます。このような場合、親が、今は魂になっている子供と交流するとき、その子供は成長していることがほとんどです。彼らはどこかで自分の人生を歩んでおり、年を重ねて一人前になり、成長したことが明らかです。そのことにショックを受ける親も多いですが、もはや人間界にはいない自分の子供が、別の場所で人生を歩んでいて、進化し、成長していることを伝えるものであり、親にとっては意味があることなのです。

転機をもたらす体験

SI:他にもっと良い言葉がないのですが、どちらかと言うとありきたりのSDEであっても、もっと素晴らしいSDEと同じくらい深い印象を与え、人の見方を変えることができるのでしょうか。

ピーターズ:体験者にとっての変容や治療の価値を決めるのは、現象の強さや素晴らしさではありません。それは、個人がどのように自身のSDEと関わっていくかということに非常に関係しています。体験者は、この体験の全体像を受け入れ、この体験の豊かさ、自分自身や亡くなった大切な人との関係、そして人生そのものの本質について理解することを含む、自分自身の意味づけのプロセスに取り組むときに、最大の恩恵を受けます。これらのSDEはすべて、人間の経験や実在の本質に対する自分の信念や認識を再形成するという、かなり過激な要求を伴います。この体験を自身が完全に受け入れないと、そうした変容の体験は得られません。それは、多くの人にとって難しいことです。なぜなら、教育制度で学んだことや、何らかの信仰、伝統の中で育ってきたことと一致しないからです。そのような枠組みの中にうまく収まるかどうかは別のことなのです。

 こうした体験者の多くは、課題を抱えています。この体験を完全に受け入れれば、自分自身に対する見方、愛する人との関係、人生そのもの、そして人生の意味を深く変えることになります。なぜなら、それは間違いなく、人間の存在をより大きな現実の中に位置づけるからです。「より大きな現実」とは、死後の世界が存在するということです。そして、この次元には、私たち全員を待っている何かがあるのですが、その「何か」は、より究極でリアルな、そして「より以上」のものなのです。表現するのは難しいのですが、それが、よく耳にする究極の現実です。この人間の一生は夢です。言うならば、それこそが真の究極の次元なのです。

SI:愛する人があの世に行くのに同行するという、かなり異例なSDEを体験した場合、その人が超えられないレベルというのはあるのでしょうか。

ピーターズ:霊的領域にはいわゆる境界、あるいはボーダーと呼ばれるものがあり、それがSDEの特徴です。これはいろいろな形で出てきます。しかし、ほとんどの場合、体験者は、死の間際にいる人があの世へ向かう際にある程度付き添った後、その時点で、死の間際にいる愛する人のそばに居続けることが望まれていないことに気づきます。多くの場合、それは単なる気づきにすぎません。あの世に向かっている愛する人と残された者の間にある種のコミュニケーションがなされるときがあります。それは、「一緒に付き添ってくれてありがとう、そして、この人生を私と一緒に過ごしてくれてありがとう」というようなものです。そして、そのコミュニケーションの中で、残された者は、自分の仕事は終わった、もうこれ以上進むことはない、という感覚を持つのです。「ああ、ここまでだ」と気づいたその瞬間、人間の体に戻っているのです。そのほとんどは、体験者が得たコミュニケーションや気づきにすぎません。

 場合によっては、お迎えの存在と出会うことがあると、「お帰りを祝う歓迎の会に招かれていない」という感覚になるようです。愛する人が温かく迎え入れられるのを見たり、聞いたりすることがあるかもしれませんが、会そのものに招かれることはごくまれです。たいていは門やドアの後ろにいることになります。そうした会のことを聞いたとしても、実際にその中に入ることはできません。ただ、そうした会の部屋の中にいたけれど、会は実際のところ始まらなかったというケースもわずかながらあります。その時点で、「ああ、愛する人を歓迎する会なのに、私は招かれていない」と実感するのです。

 ソーニャという一人の女性が、親友と一緒に川を渡り、長い梯子を上って天空に向かうという素晴らしい旅に同行した例があります。それは大変な旅でした。ようやくたどり着いた部屋では、ウエイターやウエイトレスたちが歓迎の会の準備をしていました。ソーニャは、「もうすぐダンサーたちが来るけど、まだここには来ていない」「料理の準備がまだできていない」「参加者がまだ到着していない」と言っているのを聞いたと説明しています。また、自分の友人を迎える会である感じがして、友人を失うことになるという感覚があったと話しています。

 その瞬間、ソーニャは感情がこみ上げてきて、友人に対する愛を表します。その瞬間、彼女は自分の体に戻り、友人が死んだことに気づき、多くの悲しみを感じています。しかも、この体験は、遠く離れたところで、ソーニャが眠っている間に行われたため、友人が亡くなったことを彼女は知らなかったのです。これは夢ではありません。これは幻想の世界であり、その過程の中で、ソーニャはそこに友人と一緒にいます。彼女が人間界で目を覚ますと、時刻は真夜中で、友人が死んだことに気づきます。彼女は何人かの友人に電話をして、その友人がその日の早い時間に亡くなっていたことを知ります。

癒しと慰め

SI:SDEがもたらす癒しと、悲嘆に暮れているときにSDEが与える安らぎについてお聞かせください。

ピーターズ:私は心理療法士として、このような体験が介護士や遺族にもたらす癒しと治療の効果に最大の関心を寄せています。私たちの調査で分かっていることは、80%あるいは90%以上の人が、亡くなった大切な人が慈愛に満ちたあの世で元気に生きていると知っているということです。非常に多くの場合、体験者は死に対する不安が軽減されたと言っており、「私は人間の死を乗り越えて、その後、あの世に行くと知っています」と、よく口にします。心理療法では、悲嘆と悔悛〈ルビ:かいしゅん〉のプロセスと呼ばれていますが、体験者の悲しみのプロセスが強化されるのです。

 大切な人を亡くしたとき、苦しみや悲しみ、憂鬱な気持ちを抱くのは自然なことであり、当然のことです。悲しみは、深い愛の代償だから苦痛なのです。そして、悲しみは痛みを伴うことがあります。臨死共有体験では、そのような感覚はありますが、そういった情緒的な体験を「人生とはこういうものだ。これは自然の摂理であり、すべて大丈夫だ」という大きな文脈の中でとらえることができます。大切な人がどこにいるのか、大丈夫なのか、不安になることはありません。大切な人と再会できるかどうか、あれこれ考えることはありません。「ああ、どこかで再会するのだろう」という実感があるのです。悲しみと悔悛のプロセスは強化され、亡くなった大切な人が無事であることや、また会えること、そしてそれが自然の摂理であることを知ることの意味が刻み込まれます。そうすることで、悲しみがより和らぐのです。

SI:家族や友人が自身のSDEについて聞いたとき、人々はどのような反応をする傾向がありますか。

ピーターズ:それは本当に、その家族や愛する人の考え方や信条によります。SDE体験者のほとんどは、自分の体験を人と共有することに不安や警戒心を抱いていると言えるでしょう。愛する人と共有する場合、自分の体験が疑われたり、否定されたり、本物ではないと思われることを恐れたりするので、かなり抵抗があります。ですから、その経験をどう共有するかについては、非常に口が堅くなります。これまで何百人もの方にSDEについてインタビューをしてきましたが、彼らが経験を共有した人は、私たち(インタビューチームと私)が1人目、2人目、あるいは3人目かもしれないという話をよく聞きます。誰かと自身の体験を共有したり、自分の体験が何らかの形で損なわれてしまったりするというリスクを負うことに不安を感じるのです。しかし、そうした現実に関して何が悲しいかと言うと、そのような話を共有することで、人々は癒されるということなのです。もし、愛情深く、支援をしてくれて、かつ知識がある人々と自身の体験を共有するならば、「素晴らしい! あなたは本当に素晴らしい贈り物を受け取ったのですね。亡くなった大切な人がどこかで元気に生きていることを知っているなんて、とてもすてきな贈り物です」といった言葉を言ってもらえるでしょう。そのような深い話を共有した後に、愛する人からそういった言葉をもらえるなら、その経験を、悲嘆のプロセスだけでなく、自分の存在、自分自身の見方、世界との関係性と、より深く統合することが本当にできるのです。

 これは、シェアド・クロッシング・プロジェクトの目標の一部です。つまり、この深遠で神秘的な終末期の体験に対する認識を高めることを通して、人々の死と臨死との関係を変革することです。私たちの使命の一つは、人々が集まって終末期の体験の話を共有することで、互いにつながり、肯定し合い、そうすることで生命と宇宙の美しさと尊厳に対して感嘆の念を覚えるようにすることです。

SI:シェアド・クロッシング・プロジェクトの活動についてお聞かせください。

ピーターズ:シェアド・クロッシング・プロジェクトでは、皆さんがシェアド・クロッシング体験についてもっと学ぶためのプログラムやトレーニングを行っています。このような体験に関する教育こそが、何が可能で、どのような終末期を過ごすのが最善なのかについての人々の考えを変えることに貢献するのです。これらのプログラムは、一般の人々や医療関係者に、SDEやシェアド・クロッシングに関する幅広いリソースや情報を提供するとともに、あなた方自身やあなたの愛する人が、こうした深遠で癒しのある終末期体験をどうすればできるのかについて、私の認識やその方法を伝えるものです。興味のある方はsharedcrossing.comのストーリーライブラリーで、臨死共有体験者本人が話している動画をご覧ください。また、このサイトでは、他の有用かつ補足的なリソースを見つけることもできます。

詳細については次のサイトをご覧ください。

www.sharedcrossing.com

ウィリアム・J・ピーターズ『天国のドア──死後の世界への旅を共有することがよりよく死によりよく生きることを教えてくれる(At Heaven’s Door: What Shared Journeys to the Afterlife Teach About Dying Well and Living Better)』(サイモン& シュスター、2022年)