奉仕の歓びという贈り物

 師である覚者と世界教師マイトレーヤから受け取った情報を一般大衆に提示するよう求められる数年前、ベンジャミン・クレームは師の監督の下、厳しい訓練に数年を費やした。この訓練の一つの側面は、テレパシーの能力と信頼性を高めることであった。大事なのは、世界教師の言葉と師である覚者の言葉を大衆に伝える任務を負った者として、ベンジャミン・クレームは完全に正確でなければならないということだった。不正確さや明瞭さの欠如、混乱、曖昧さは許されなかった──それは決定的に重要であったため、すべての言葉とすべての微妙なところが最大限の正確さをもって伝えられた。
 その情報は、シェア・インターナショナル誌のためにベンジャミン・クレームの師によって毎月書かれる記事という形を取った。そのため、この月刊誌自体が、マイトレーヤ御自身によって率いられたハイアラキーの覚者方の外的顕現という過程における重要な手段となった。

 さらなる教えと情報が140信のメッセージという形でベンジャミン・クレームを通してマイトレーヤによって与えられた。マイトレーヤはその中で、導きや知恵、励ましを提供された。クレームはこう書いている。「これらのコミュニケーションを通じて、救世主(キリスト)マイトレーヤは、社会変革の方向を暗示される。どのようにしてマイトレーヤを認知することができるか、そのヒントを与え、聴衆に御自身の存在の事実を広く伝えるよう要請する。また、分かち合いたいという願望や、人類と御自身に奉仕したいという願望も呼び起こされる。……これらのメッセージを集中した思いで声に出して唱えると、必ずといってよいほど、キリストのエネルギー、如来の心(ハート)の反応を呼び起こすのである。それは、表面的には単純で、心(ハート)から心(ハート)へ送られるのだが、しかしあらゆる次元において働きかけがなされる。メッセージの真なる意味が心に伝わるよう一つ一つ瞑想しながら読む必要がある」(『いのちの水を運ぶ者』1999年[英語初版は1980年発行])

 一般的に知られていないことは、自分がテレパシーで聞いていることを即座に再生する能力を実演し磨くために、クレームがロンドンの自宅での伝導瞑想の後、受け取ったメッセージを声に出して言うよう師によって依頼されたということである。そのように要請されたときのために、テープレコーダーがいつでも使えるように用意された。このようにして、クレームの師とマイトレーヤの両方からの数多くのメッセージが、初期のテープレコーダーで録音され、それから書き起こされ、正確を期すためにクレームの師と一緒にチェックされた。

 次のメッセージは、マイトレーヤが1977年に現代世界にお入りになるために古の山地の隠遁所を去る前の1976年に与えられた。
 このメッセージは直接的で率直(シンプル)な語り口で伝えられており、今月号用に選ばれたクレームの師の記事「人類の選択」にある問いかけや訴えかけに何となく似ていることに読者は気づかれるかもしれない。

キリスト・マイトレーヤからのメッセージ

簡素(シンプル)でありなさい。平静でありなさい。
この愛の贈り物を受け取りなさい。
あなたの心(ハートとマインド)を開き、愛の光線を受け取りなさい。
この愛を受け入れ、この愛を輝かしなさい。
あなた自身を愛として知りなさい。
わたしの贈り物を受け入れなさい。
わたしの存在を肯定しなさい。
わたしの民を褒めたたえなさい。

わたしは間もなくあなたがたの中に入る──あなたがたはこのことを真理として知っている。
行って、教えなさい。
簡素(シンプル)でありなさい、用意を整えなさい、目覚めていなさい、
間に合うようにしなさい、わたしの民となりなさい、
そうして、わたしの帰還を知りなさい。
恐れるでない、わたしの愛に抵抗できるものは何もないのであるから。
わたしの愛が人の心(ハート)に花開くのを妨げることのできるものは何もない。

このことを知りなさい。
そして行動し、語り、わたしの道を明らかにしなさい。
わたしの民として、あなたがたは責任を負っている。
わたしがただちに戻るということ、わたしとわたしの兄弟たち、弟子たちがすぐにあなたがたの中に入るということを、他の人々に告げる責任を負っているのである。
そうして、あなたがたは神を知るであろう。

わたしの到来を知らせ、わたしの心(ハート)を満足させなさい。
わたしの到来を知らせ、あなたの兄弟たちに仕えなさい。
わたしの到来を知らせ、奉仕の歓びという贈り物を受け取りなさい。
わたしの祝福を受け取りなさい。

唯一なる神の光と愛と力とが、あなたがたの心(ハートとマインド)の裡に、いま在るように。

この光と愛と力とが、あなたがたの裡に今もそして永遠に宿る真理として顕れるように。神と共に行きなさい、我が親愛なる子供たちよ。

(ロンドン、1976年12月20日)