読者質問欄

世界中のあらゆる講演において、そして生涯のほぼ毎日、ベンジャミン・クレームは広大な範囲に及ぶ大量の質問を受けました。この大量の記録から、過去の年月にベンジャミン・クレームと彼の師である覚者によって提供された回答を掲載したいと思います。そのいずれもこれまでシェア・インターナショナル誌に未掲載のものです。

Q:死ぬのはそんなに悪いことですか。キリスト[マイトレーヤ]は、惨めな極貧の中に生きるよりも死ぬのが悪いことだと考えるのですか。

A:彼がその区別をしているとは思いません。彼は死ぬことや惨めな極貧を重んじません。彼は存在を見、苦しみを見ます。もしあなたがキリストのハートの中を見ることができたら、何を見ると思いますか。私がその質問をしたら、人々はまばゆい黄金の光や天国の安らぎと栄光や至福であると言います。全く違います。キリストのハートの中をあなたが見ることができたら、あなたは一瞬も耐えることができないでしょう。それはあなたにとって恐るべきものでしょう。それは耐え難いものでしょう。今日のキリストのハートをあなたが見たら気が狂うでしょう。彼は悲しみの男です。彼の悲しみは、私たちの悲しみです。彼と私たちの間にはいかなる分離もありません。彼が人類を見るとき、分離なしにそれをハートの中で経験します。彼が見るのは私たちの痛み、苦しみ、憤懣、怖れ、絶望、悲しみ、憎しみです。そのすべてがキリストのハートの中にあります。それゆえに彼は、人類への愛からこの世に戻って来られたのです。それを変え、浄化し、エゴ、痛み、苦しみ、憤懣を取り除くためです。キリストは一瞬一瞬それと共にあります。
 ですから、彼は生きることと極貧と死と惨めさと飢餓の間を区別するでしょうか。いいえ。それはただの惨めさであり、ただの痛みであり苦しみです。その苦しみに対して、愛の主は反応されます。私たちが反応するよう鼓舞することができることを望み、信じておられます。彼が「無辜なる者たちの虐殺」と呼ばれるこの冒涜を世界から永遠に取り除き、途上国で何十億もの生命が惨めな貧困の中にある状況をなくすことを望まれています。

Q:(霊的)ハイアラキーとの関係で神はどこにいるのですか。

A:まず、神はどこにいるのでしょうか。そして、神とは何でしょうか。神を真に定義することはできませんが、少なくとも私の考えでは、神はあらゆる法則と、これらの法則を通して操作され宇宙を創り上げたすべてのエネルギーの総計です。聖書では「神は焼き尽くす火である」と述べられています。神は様々な周波数、様々な関係性の中で振動するエネルギーです。これらの周波数、関係性が、顕現する宇宙を形成します。私は神であり、あなたは神であり、これは神です。神のいないところはありません。神はすべてのものであり、その間にあるすべての空間です。
 キリストとの関係では、彼は神の一様相である愛の様相を体現したという意味で神です。彼はキリスト原理、進化のエネルギーを体現し、今では神の意志の様相も体現しています。彼はとてつもない強力なアバターであり、かつてこの世に来た他のいかなるアバターよりも偉大であり、より大きな仕事、より困難な任務を持っています。
 ある人々にとっては、神は天国に座す髭の生えた老人であり、それに向かって「どうか私を守り給え」とか「友人を病気や死から救い給え」と祈る対象です。しかし私にとっては、それは神ではありません。
 神とは、私にとって神聖な原理であり、キリストとあの御方──神──との違いは、彼[キリスト・マイトレーヤ]にはその原理の一様相としての原理が完全に染み込んでいるということです。しかし私たちはそれを本当には知りません。その性質を知りません。それは私たちの大半にとって一瞬ごとのリアリティではありません。たぶん最も深い瞑想の中で、その神性のある様相がどんなものかを認識するでしょうが、生活の大部分において、私たちはあまりに家族や友人のことで忙しいので、神が何であるかを感じることができないのです。
 しかし、キリストのような地位にある存在にとっては、神は非常に強力で絶えざるリアリティなので、彼はそのリアリティを私たちのために解釈することができます。それが教師方の役割です──私たちが神と呼ぶ私たち自身のリアリティの性質を解釈することです。分離は存在しませんが、私たちはこの「罪」──分離という異端──の中で生きているために、そのことに気づいていません。存在する唯一の罪は、分離という罪です。世界には分離したものは何もありません。私たちは全体の一部であり、キリストは私たちが人類や自然や神と呼ぶものがすべて同じものの一部であることを示すでしょう。それらはすべて存在の全体の一部であり、それが私たちの性質です。

Q:第三世界の人々は彼らのカルマ的負債のために苦しんでいるのですか、それとも彼らは私たちの貪欲と利己主義のために苦しんでいるのですか。

A:単に彼らが生まれた場所が別の場所ではなかったというだけの理由です。もし私たちがアフリカに生まれたとしたら、私たちが餓死していたでしょう。そこに生まれたという結果以外の意味のカルマはなく、前世での悪行の結果ではありません。そのように信じる人は決して飢えたことのない人です。
 これを見ている人の多くは、これらの人々が餓死するのは彼らのカルマであり、彼らに食料を与えればカルマの法則を乱すことになると信じています。このように考えることができるのは、一度も飢えたことがなく、意図した場合を除いて人生の中で食事を欠いたことがない人だけです。
 世界で人々が飢えているのは、私たちが資源を独り占めしているからです。それがすべてです。すでに述べたように、私たちが第三世界から神の息子や娘としての彼らの権利を奪うとき、私たちは毎日否定的なカルマを生み出しているのです。

(ロサンゼルス、1987年)