マリーケ・オプテンノールとアネリース・オプテンノールによるクラース・ファン・エグモンド氏へのインタビュー
クラース・ファン・エグモンド氏は、オランダ、ユトレヒト大学の持続可能性と環境学の教授である。彼はまた、国立衛生環境研究所およびオランダ環境アセスメント局の理事でもある。エグモンド氏は、今でも名誉教授として環境問題(エネルギー、気候変動、汚染など)のゲスト講師を務めており、価値指向(世界観)や文化的側面、金融経済システムなどを含む、より広い持続可能性の問題へと焦点を移すようになった。ごく最近では、エグモンド氏は財政経済的、社会的、文化的な側面の持続可能性に関する著書や記事を発表しており、中でも注目すべきは、2014年の『持続可能な文明(Sustainable Civilization)』である。マリーケ・オプテンノールとアネリース・オプテンノールが、本誌のためにエグモンド氏にインタビューを行った。
シェア・インターナショナル(以下SI): 1972年にはローマクラブの報告書『成長の限界』があり、1980年にはブラント報告書がありました。地球上のすべての生命と共に、私たちの地球は大きな危険の中にあることを、私たちが約50年後の今になって初めて理解し始めたのはなぜなのでしょうか。このような情報を積極的に妨害する既得権益や勢力があったのでしょうか。
クラース・ファン・エグモンド:まさにそのとおりです。私たちの社会には、現在でもそのような意識を妨害する巨大な勢力があります。過去40年間、圧力団体は彼らの利益を守るために「科学者」を雇ってきました。何千万人もの人々が、これに巻き込まれてきました。歴史を通じて、必ず反対に働く勢力がありました。これを保守主義と呼ぶことができ、既存の構造や現行の経済にしがみ付く傾向を示します。なぜなら、ここが彼らの利益が埋め込まれているところだからです。私は学生への講義で、ジャレド・ダイヤモンド氏の著書『文明崩壊』(草思社、2005年)をよく引用します。ダイヤモンド氏は、環境変化の結果として、なぜ様々な文化が消滅しているかという疑問に踏み込んでいます。彼の(1,000ページ後の)結論は、このようなすべての文明では、問題の発生に直面することになり、物事は悪化していきますが、結局は若い世代が間に合ううちに対処することを上の世代が妨げます。現状にしがみつくことは悲劇的な現象であり、発展への障害を形成する様々な既得権益の結果です。経済学では、すべてのものが自らを刷新し、変化は正常であることを学びます。動いているシステムでは、静的であることは不可能です。オランダでは鉱夫はすでに鉱山にはおらず、イギリスでは列車はすでに蒸気では走っていません。機関士は、今では別の職に就いています。つまり、テクノロジーや経済構造そのものに継続的な技術革新があるのです。しかしながら、例えば石炭や鉱山に既得権益を持つ人々には、問題があります。一方で、少数の下にある経済的な力の集中は継続し、手に負えなくなります。私が興味をそそられ、驚いたことは、過去数百年の間、西側の覇権が続いてきたことです。テクノロジーは西側を優位な立場に置き、私たちは土地や企業など、すべてを実際に購入することができました。今では中国やインドの力が本当に大きく、彼らは西側で何でも買うようになりつつあり、私たちは政府にそのことから私たちを守るように求めています! 私たちが現在経験しているのは、転換点です。それでも、ローマクラブの報告書が発表された1972年から、少なくとも私から見て、人類は進歩していません。
SI: 私たちは、クリーンで持続可能な環境と健全な地球を達成しながら、同時に「市場の力の神話」のルールである競争と貪欲を維持できると、あなたはお考えですか。
エグモンド:そうは思いません。私はそれに関して本を書いており、2番目の本でもこの疑問を検証しています。持続可能性の問題は価値観の問題であり、テクノロジーの問題ではありません。ある程度のテクノロジーは必要ですが、持続可能な開発の議論をする場合、開発したいものは何なのかを知る必要があり、それは「価値が込められた」選択肢です。それは主観的で、相対的です。私たちは、所有ともっと多くの物質が自分を幸福にすると考えており、その場合、地球の資源を使い果たそうとする地点にまで達します。経済の構造全体が、素早く「買って捨てる」ことに基づいています。物を買い、それをすぐ後で投げ捨てるのです。このようなことを続けることはできません。価値観と優先順位を調整することに成功した時に初めて、私たちはより良い人類になるでしょう。私たちは物への執着を減らす必要があります。ヨーロッパの文化、宗教、哲学、神話、大河小説、伝説、お伽話など、すべての歴史には二つの極、つまり物質と精神の間での均衡の維持に関するメッセージが含まれています。それは動的な均衡です。あなたは物質的な姿勢を選ぶことができますが、「精神的な」姿勢を持ち、芸術や音楽を愛することもできます。基本的な疑問の一つは、自分のことに夢中になり自分のエゴに没頭するか、他人や隣人や自然ともっと関わるかということです。私たちは自由意志を持っていますが、意思が一つの方向に極端に偏った場合、その傾向は、他のすべての人の価値を犠牲にするような強迫観念となる可能性があります。そのような一方向への偏りは、しばしば他のすべてを犠牲にして追求されるものであり、通常は暴力や衝突に向かう傾向があります。そして「持続可能性」の概念は不可能になります。
SI: リンカーンは1865年に、通貨を創り出し流通させることは政府の義務であると語ったとあなたは書かれましたが、現在では世界中の銀行に委ねられています。政府による通貨の創造は、社会や一般大衆に対してどのような影響があるのでしょうか。
エグモンド:通貨を創造し流通させることは原則として社会の問題であり、したがって政府の問題ではないことに確信を持つ人々は、私を始め、私の同僚で増加しています。これは新しい問題ではありません。アリストテレス以来、多くの歴史上の人物、哲学者、経済学者、政治家などが同じような考えを持っていました。金融システムは現在のシステムの中心に深く組み込まれているため、システムを真に持続可能な方向に動かすことは、あなたがその変え方を知っているときだけに可能です。そうすると、非常に異なった価値のアイディアが意味を持ってきます。1865年にリンカーンは、政府は通貨を創り出し流通させるべきだと言いました。「通貨を創造し発行する特権は、政府の最高の権限であるだけでなく、最大の創造的な機会である。……通貨は人類の主人であることをやめ、召使いとなるであろう。民主主義は、通貨の力から脱するだろう」もし銀行ではなく政府(つまり私たち)が、通貨を創造することを許されるとしたら、現在起こっているように、住宅価格や株価を押し上げるだけの悪いタイミングではなく、良いタイミングで通貨の創造を行うことができます。2008年の前回の危機は大惨事でした。そこからポピュリズムが生まれました。一般に言われているように、難民危機から生まれたのではありません。それは後の付加的な要因であり、2008年の財政危機の背後にある主要な問題ではありませんでした。私たちは今、次の危機に向かっています。銀行は悪いタイミングで通貨を創造しており、それは経済において高値と安値をつくり出します。リンカーンによると(アリストテレスの例に従うと)、私たちは(政府として)通貨を適切なタイミングで自ら創造する権利を持っています。もし経済が崩壊し始めれば、国民に雇用を再び提供するために、私たちはインフラなどに投資します。これは、浮き沈みを抑えることにつながり、より平衡したシステムをつくり出します。そして別の利点として、私たちは、コミュニティーとして何十億ユーロもの資金を利用できるでしょう。現在は私的領域に漏れている資金を、教育、医療、ベーシック・インカムなどに使用できるのです。そして、選択は議会制民主主義にかかっており、銀行が現在しているように、国民が一定水準のインフレを許容すれば、もっと多くの資金が利用可能になるでしょう。リンカーンの論点は、管理は政府の下にあるべきだというものでした。その場合、労働コストはもっと安くなり、原材料はもっと高くなり、全く違った社会になるでしょう。システム全体は別の方向にゆっくりと動き、それは革命ではなく、緩やかな過程です。あるものは、例えば航空運賃などは、より高度なテクノロジーが利用可能にならない限り、より高価になるでしょう。銀行で働く金融専門家に対して私たちがしばしば説明する必要があることは、銀行が通貨を創造するということです!
危機が再び発生すれば、状況全体が不安定になると私たちは考えています。人々はもはやこれを許容することはないでしょうし、それは変化を意味します。政府は、国民の雰囲気を常に気にかけます。グローバリゼーションのため、政府は株式市場を怖がります。これはあり得ない状況です。過去には政府はローマ法王の恐怖に震えていましたが、今では株式市場を恐れています。政府にとっては、グローバリゼーションに従うこと、つまり国中で起こることを決定する強力な多国籍企業が揮う市場の力に従うことは、政治的に持続可能ではありません。そのような国では、国外の投資家が市内の全区画を購入し、若い人々が家を購入できないようなことが起こります。フランスの「黄色いベスト運動」のような政治的抗議やヨーロッパのポピュリズムを見てみてください。金融秩序の根本的な改善は、公的な機能と民間の機能のバランスを改善することによってのみ、実行可能です。
SI:人類は一つであり、魂として文字通り結び付けられていて、家族のように互いに支え合う義務を伴うことを大人や子供が教えられるとしたら、どのような影響がありますか。
エグモンド:はい、このことを子供たちに伝えるべきです。多くの人は、自然に触れ合っている時などに、いわゆる「一体性の体験」をしたことがあるかもしれません。そのとき、私と他者、天国と地球、霊と物質など、すべてのものがつながっていることを認識します。イレーネ王女は、その意識を少しでも伝えるために、オランダで「自然大学(NatureCollege)」を設立しました。彼らの特別に訓練を受けた森林監督官は、都会の子供たちに、人生で一度だけであっても、自然界の体験を提供しています。あなたが実際に言われているのは、私たちの真の性質は何かを、自分と他者とのつながりと共に、子供たちに教えるべきだということではないでしょうか。そこにすべての人の責任があります。過去500年から600年の間のすべての文化的な物語、例えばパルジファルのオペラやシェイクスピアの作品などは、すべて同じ考え方に関するものです。あなたは部分であり、同時に全体でもあります。学校ではこのことを取り上げるべきであり、あなたはこれを子供に教えるべきであり、そして宗教的な構成要素もその一部となるでしょう。しかしながら、宗教的な人々は、自分たちが唯一の真実を持っていると主張することはできません。この考え方は、ヨーロッパに間違いなく深い傷跡を残しました。科学もまた、唯一の真理を持っているわけではありません。しかし、現在世界中で起こっていることですが、科学者の発見を否定し、気候変動は作り話だという主張は、受け入れることはできません。客観的事実を疑うことができるのであれば、地球は失われてしまいます。それは、私たちが環境の状態に関して同意できないことを意味することになります。医学の分野では、診断が不可能になります。基本的な科学的事実に同意できないのなら、手術前の血液検査をどうして信用しなければならないのでしょうか。根本的な哲学的疑問は、もちろん次のようなものです。つまり、私たちは自分たちが誰であると思っているのか、そして、それをどのように知るのか、ということです。文明が何千年も続いているのにもかかわらず、依然として欠けているものは、多かれ少なかれ、人間の本質的な性質のビジョンと、その結果としての社会の目的です。個人と社会の両方にとって何が本当に重要であるかについての意見は、依然として大きく分かれています。私たちは、何を開発すべきなのかについて明確でないままに「持続可能な開発」について議論します。ビジョンが欠けているため、一方的な力が優位に立ち、漂流している社会が自分自身の戯画になります。そして、安定への模索は、しばしば原理主義的な宗教や全体主義の形を取り、別の場合には、物質主義、快楽主義、同様に原理主義的な資本主義の形を取ります。社会や文明を維持するためには、人間や社会にとって不可欠な価値観に基づく新しい倫理と「持続可能性」という新しい視点が必要です。アルベルト・シュヴァイツァーは、著書『文明の哲学(The Philosophy of Civilization)』の中で、文明を次のようなものとして描写しています。「進歩が各個人の霊的完成のために役立つ限りにおいて、あらゆる視点から、あらゆる行動を行う人間と個人によって成されたすべての進歩の総和」として。