──覚者より
ベンジャミン・クレーム筆記
人間が初めて地上に出現して以来、その歴史は争いと葛藤、侵略と戦争の歴史であった。これらの傾向が優勢を占めなかった時代はほとんどなく、それが人間の本質的な特性を表しているように思えるほどである。しかるに、あらゆる証拠が見られるにもかかわらず、それは決してそうではない。では、なぜ人間は自分自身についてそのように歪んだイメージを提供するのか。無秩序な行動や破壊的暴力を行うこの能力は、いずこより出てくるのか。
人間は本質的に魂であり、神の完全なる反映である。言い知れない永いあいだ、数え切れない多くの転生を通して、人間の魂はその聖なる特質を時間と空間の中で表現することを求める。魂は物質界における己自身の対応物をつくり、それ自体の完成に向けて進化していくために必要な手段を賦与した。このようにして、神の大計画は成就されていく。
この発達への鍵は志向(アスピレーション)である。すべての人間に内在するものは完全無欠への願望であり、善きもの、美しいもの、真なるもの──すなわち魂の属性──を表現したいという衝動である。行動がいかにぐらついたものであろうとも、それがいかなる表現方法をとろうとも、より良いものへの欲求を持たない者は誰もいない。裡にこの願望を持たない者はいない。
それでは、人間の逸脱を、暴力や憎悪をどのように解釈すればよいのか。
その答えは、人間の独特の位置、すなわち霊と物質の出会いの場にあり、そしてそれが同時に存在することで発生する緊張にある。人間は永遠の魂であり、それが物質の中に飛び込んで、そのために物質が強いる限界に従属させられる。完全を求める人間の闘いは、これらの相対する二つの極にある特性を完全なる和合と解決に導くことを伴う。
繰り返される転生を通して、進化の過程が徐々にこの目的を達成し、ついに物質(肉体人間)の特質と輝きが霊(スピリット)のそれと一致するようになる。そうして大計画は成就され、またもう一人の「神の子」が家に戻るのである。
永いあいだ、物質の優勢が魂の主要な表現を阻み、進化の速度は遅々としたものであった。やっと永い時を経て、人間の特質の相対する極が解決を見るとき、両分法〔*〕は単にそのように感じられるだけであり、対立は非現実のものであることを人は認識するだろう。そうすると人間は、すべてが一つであることを、霊と物質は唯一なる聖なる総体の二つの様相であり、過去の限界は単なる幻覚にすぎなかったことを知る。
相対立するものの闘いと、それに続いて起こる摩擦なしには、人間の進歩はまさに遅々としたものであろう。摩擦は火であり、それが人間をその道に押しやる。志向は光であり、それが人間を絶えず向上へと招く。このようにして、人は、やがて、物質の限界を放り捨てて、その裡に霊の輝きを賦与する。人間の任務は物質を霊化し、すべての王国においてこの惑星の資質を天帝(ロゴス)の完全なる反映にしていくことである。この惑星はロゴスのからだである。葛藤や戦争、暴力や憎悪は、人間がその本当の特質をいまだ実演することができないために現れるのであり、通り過ぎていくものにすぎない。人間の真実が支配し、その美が輝き、善がすべての者の視界に顕される時が急速にやって来つつある。
(シェア・インターナショナル誌1989年7月号)
〔*〕:両分法=物事を対立的な概念に二分する論法。