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世界から最悪の惨劇をなくす

ベアトリス・フィン氏へのインタビュー
アナ・スウィーストラ・ビエ

核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)は、国連核兵器禁止条約の遵守と実施を推進する非政府組織の連合である。2017年には、ICANはその業績に対してノーベル平和賞を贈られた。アナ・スウィーストラ・ビエが本誌のためにICANのベアトリス・フィン事務局長にインタビューを行った。

シェア・インターナショナル(以下SI): ウクライナ戦争は、核兵器が戦争を抑止するという主張が間違いであることを明らかにしました。代わりに、侵略国にとって核兵器は白紙委任状のように機能しているように見えます。状況の悪化を恐れる他の国やNATOによる干渉を妨げているのです。

ベアトリス・フィン:相互抑止の概念に頼ることができるという仮定は、確かに間違っています。核による抑止は、望むものを手に入れるために民間人を一斉に殺害すると脅迫する準備ができていることを背景に常に行われています。現在の制度を擁護する人の多くは、この相互抑止が安定をもたらすと主張します。私は全く違う意見を持っています。プーチン大統領の脅威は、他国への侵略を伴います。それは恐喝です!  これは、私たちがどれほど脆弱であるかを示しています。アメリカは核兵器を持っているため、ウクライナを援助することができません。この状況は、核兵器が不利であることを示しています。
 抑止理論は非常に非合理的です。それは地球規模での自殺の準備ができているだろうという考えと関係があります。これは決して正当でも合理的でもありません。そして相手側はそれを知っているのです。

SI:ヨーロッパの治安情勢は、ロシアのウクライナ侵攻によって大きく揺らいでいます。フィンランドやスウェーデンのような国々は現在、NATOに加盟するための措置を講じており、核兵器を保有している潜在的に攻撃的な国から身を守るためには核兵器が必要であるという考え方が広まっているようです。核兵器がなければ、そうした状況が利用される可能性があるといいます。現在の地政学的な情勢では、多くの人によって、核兵器の廃止は考えが甘すぎると思われています。どうすればそのような考え方から脱することができるのでしょうか。

フィン:ロシアのウクライナ侵攻は、ロシアが核兵器を持っている限りヨーロッパの安全はあり得ないことを示しました。そして、核戦争を解決するために核戦争を開始するという脅しにいっそう依存することは、エアコンが地球温暖化を解決すると信じていることに少し似ています。核抑止力に依存することは、私たちがすべての安全保障をプーチンの手に委ね、彼が正しいことを行うことを永遠に信頼することを意味します。それは考えが甘く、無責任です。プーチンが常に「合理的に」行動するだろうと信頼することはできません。また、私たち全体の運命について彼を信頼することはできません。
 1回の核爆発で数十万人の民間人が死亡し、さらに多くの人が負傷する可能性があります。放射性降下物は、複数の国の広い地域を汚染する可能性があります。広範囲にわたるパニックは、人の大規模な移動と深刻な経済的混乱を引き起こすでしょう。複数の爆発の場合は、もちろんはるかに悪いでしょう。国連機関と赤十字国際委員会による長年にわたる研究と分析では、核兵器の使用後には効果的な人道的対応が行われない可能性があることを一貫して指摘しています。医療と緊急時の対応能力はすぐに限界を迎え、すでに膨大な数に達している死傷者をさらに増加させることになるでしょう。
 スウェーデンやフィンランドに対する核攻撃は明らかに完全に壊滅的なものであり、私たちはその結果に対処することができないでしょう。しかし、ヨーロッパの他の場所での核爆発も、スウェーデンとフィンランドに深刻な影響を及ぼすでしょう。このような大惨事を回避する唯一の方法は核兵器を完全に廃絶することであり、これに向けた最善の手段は国連核兵器禁止条約(TPNW)です。この条約は核兵器に関連するすべての活動を禁止し、核兵器を排除する計画を打ち出しています。

SI:メディアでは「戦術核兵器」についての話があります。それはどういう意味で、どのように機能するのでしょうか。

フィン:戦術核兵器は戦場で使用するように設計されており、一般的に爆発力が比較的弱いものです。しかしながら、核兵器の使用は、特にヨーロッパのような人口密度の高い地域では、壊滅的で広範囲にわたる結果をもたらすでしょう。いわゆる「戦術」核兵器や「戦場」核兵器でさえ、通常は10から100キロトンの範囲の爆発力を持っています。それに比べて、1945年に広島を破壊し14万人の死者を出した原子爆弾は、ちょうど15キロトンの爆発力でした。このスケール感を背景に持つことは重要です。私たちは「小さな」爆弾について話をしているのではありません。その影響は依然として巨大です。それらは都市を一掃することを目的としています。

SI:現代は、未熟で、無責任で、衝動的で、権力に飢えた指導者が核のボタンに指を置くとき、人類の見通しに最も恐ろしい光が投げかけられる時代です。しかし、現在の指導者の性質に関係なく、どの国であっても、そのような兵器を保持することがどれほど正気で責任あることなのかについて、私たちは確かに等しく心配する必要があるでしょう。そしてもちろん、サイバー攻撃やその他の技術的進歩という現実もあります。

フィン:核兵器に対して良い手はありません。人が常に合理的な決定を下すとは限らないことを私たちは知っています。また、事故が発生する可能性があることも知っています。世界は現在、プーチンが正しいことを行い、核兵器を使用しないことを望んでいます。これが、米国など多くの国の安全保障戦略です。しかし、これは非常に壊れやすいものです。私たちは、それが再び起こることはないだろうという希望的観測の下に生きています。

SI:技術的、機械的、人的エラーは発生するものです。世界中で貯蔵されている膨大な核兵器に関連して大規模な災害がまだ発生していないのは、大きな幸運のおかげなのでしょうか。

フィン: はい、私たちは非常に幸運でした。これまでに多くのニアミスや事故がありました。多くの科学者は、今日生まれる子供たちは核戦争を経験する可能性が高いと述べています。それはとても恐ろしいことです!  また、最近、インドがミサイルをパキスタンに誤って発射したことも分かりました。もしそれが米国の基地とロシアの間で起こっていたら、私たちは核戦争に巻き込まれ、壊滅的な結果となる可能性がありました。もしこの道を進み続ければ、非常に危険な旅をしていることになります。人は非合理的で予測不能な行動を起こすものです。それが起こらないことを保証できないので、その代わりに核兵器を取り除く必要があるのです。

SI:原子爆弾の使用について考えると、すぐに広島と長崎が思い浮かびます。それは恐ろしいことでしたが、1945年に爆発したものと比較して、今日の原子爆弾の威力はどのくらいでしょうか。核戦争後には、生存者に対してどのような世界が残されるのでしょうか。

フィン:開示されている情報は多くはないです。現在までにソビエトが実験を行った最大の爆弾は、メガトン単位の威力を持つ「ツァーリ・ボンバ」でした。すべての核保有国は兵器の近代化を続けており、これに何十億ドルもの投資をしています。今日の核兵器の威力ははるかに大きく、軍縮の取り組みがあったという考えを否定するようなものです。確かに冷戦以来、核兵器の数は減少していますが、既存の弾頭の威力は、1980年代の爆弾と比較してはるかに大きくなっています。したがって、核兵器の1回の使用による影響は、広島と長崎で見られた影響よりはるかに壊滅的なものになるでしょう。
 一方で、核爆発の短期的および長期的な恐ろしい影響にもかかわらず、生存者がいることを忘れてはなりません。人々は残骸を片付ける必要があるでしょう。……

SI:戦争を抑止すると思われている核兵器の背後にある論理は、核兵器が悲惨すぎるのでこれまで一度も使用されなかったというものです。しかし、それでも私たちは、点と点をつないで全容を明らかにすることはなく、核兵器は危険すぎるので維持できないことをこの論理がほのめかしていることを認識しません。その代わりに、多くの国では一般的に、核兵器は「必要悪」であると考えられているようです。そのような兵器が引き起こす破壊の規模を知っているので、核兵器について議論したり、核兵器の存在と開発に対する国民や有権者の支持を得たりする方法を理解することは困難です。これらの兵器が私たち全員にもたらす存亡にかかわる脅威に関係した真の事実について、国民やメディアの認識が不足しているのでしょうか。核兵器が「安全な手」の下にある限り何も悪いことはなく、核兵器が存在している限り確かに今までに悪いことはなかったと信じ、私たちは誤った安心感に落ち着いているようです。私たちは無知、偽情報、神話、プロパガンダの犠牲者なのでしょうか。

フィン:私たちはこの爆弾について、ほとんど神話的で強力な物体として話をしてきました。しかし、それは依然として人間が造った爆弾であり、私たちは核兵器をどうするかを決めることができます。
 多くの政治的圧力を生み出し、核兵器を非難しなければなりません。私たちは核兵器を権力の象徴と見なしてきましたが、恥の象徴と見なすべきです。誰にも武装解除を強制することはできません。しかし、核兵器の保有をより困難でよりコストのかかるものにすることはできます。そうすれば、最終的には核兵器を取り除くことがより簡単になることに気づくでしょう。また「核兵器」は、全く使用に適さないものです。大惨事と混乱を引き起こすもので、現在の軍事開発の傾向に反しています。核兵器の価値は徐々に下がっていくでしょう。核兵器の価値が下がれば下がるほど、より多くの国家が核兵器をなくしたいと思うでしょう。
 私は、そこに到達できるだろうという希望を持っています。私たちは、人権や国際法に関して非常に大きな進歩を遂げました。これらの制度と規則は完璧ではなく、ロシアの侵略のような出来事を妨げることはできません。しかしながら、それらは国際的な対応の枠組みを提供します。

SI:兵器産業にはどのような影響がありますか。巨額の資金が他の用途から逸れ、決して使用してはいけないと私たち全員が同意している核兵器や核装備の生産、開発、保守に注ぎ込まれています。

フィン:兵器産業は間違いなく既得権益を持っており、核抑止力が、人々が疑うことのない政策であり続けるように取り組んでいます。政治選挙キャンペーンに寄付し、シンクタンクや研究機関に資金を提供し、これが優れた安全保障戦略であるという考えを維持しています。兵器会社によって資金提供されたあらゆる政策や研究活動に疑問を持ち、それはただ兵器会社の莫大な利益を維持するためではないかと問うことが絶対に必要です。

SI:核兵器は、現在では違法なものです。TPNWには、現在までに86カ国が調印し、60カ国が批准しています。この成果の背後には、大規模な作業と根気強いたゆまぬ努力があります。世界的な核軍縮運動、責任ある国家や市民社会のすべてがその役割を果たしており、もちろんICANも大きな役割を果たしてきました。2022年6月21日から23日にウィーンで開催される最初の締約国会議では、あなたは何を達成することを目指していますか。

フィン:ウィーンでは、核兵器の完全な廃絶の基礎を具体的にどのようにつくっていくかを議論する予定です。世界がウクライナ戦争を心配して見守り、プーチンが実際に核兵器を使用するかどうかを見守っている間、私たちはそれらを取り除く計画について話し合う予定です。TPNWはそのような計画なのです!
 軍縮と核兵器の廃絶に真剣に関心を持つ国は、会議に参加すべきです。最初の締約国会議は、50カ国目の批准により昨年初めに発効したTPNWの祝典になると想定されていました。今ではこの会議は、新しい力を生み出すことができます。核兵器をめぐる闘いが始まって以来、初めてのことです。別々の依存関係にある非常に異なった国々、一部の国は米国に、一部の国は中国に、一部の国はロシアに依存する国々が、プーチンの脅威を非難できる局面です。ドイツやスウェーデンのように今のところ禁止条約を施行したくない国でさえも、ウィーン会議への参加を発表しました。これは最初の重要な段階です。

SI:核兵器の惨劇から解放された地球への道に必要な次の段階は何でしょうか。

フィン:多くの人は今、私たちが核兵器のせいでどれほど脆弱であるかを認識しています。家族の未来をプーチンや核保有国の指導者の手に委ねることを安全とは感じていません。歴史上、核軍縮においてなされた最も大きな進歩は、危機の後に達成されました。今こそ人々が活動すべき局面だと思います。甘い認識を持つことをやめなければならないことを政治家に伝える必要があります。核兵器をどのように取り除くかという計画を立てなければなりません。
 大衆が立ち上がったとき、権力者は常に権力を失ってきました。TPNWはそのような革命なのです。少数の核保有国が条項を決定し続けることはできません。あまりにも長い間、少数の国家が、核兵器の保有と核抑止という考え方を通して他国の運命を決定してきました。残りの世界はこの状況の人質になってきました。TPNWはこのことに関係しており、地球の未来を切り開くことに関係するものなのです。今、私たちは情勢をがらりと変えようとしています。新しい法律を作り、制度を変えようとしています。安全のためには、核兵器を禁止し、排除する必要があるのです。

詳しくはwww.icanw.orgを参照してください。

「国が国に相対立することなく」

1977年9月6日にベンジャミン・クレームを通して一般大衆に伝えられたまさに最初のメッセージで、世界教師マイトレーヤは、世界が直面する主要な問題を指摘した上でこう説明された。「これらすべてを変えるためにわたしはやってきた。あなたがたに前進への道を示そう、もっと簡素で、健全な、より幸せな生活へ向かって、共に進む道を。もはや人が人に、国が国に相対立することなく、兄弟同胞として、共に新しい御国へと前進しよう」

 今や、これまで以上に、こうした言葉を心に受け止め、分断や憎悪、戦争のない世界において同胞愛と健全さは選択的なものではなく、必須であることを改めて思い起こす必要がある。しかし、現状はこうである──私たちは最初の四半世紀の終わりにかけて、破滅的な戦争の真っ只中にいる。
 四半世紀の終わりのこの2025年という年、そして今の時期は、不朽の知恵の教えや、知恵の覚者方の働き、ベンジャミン・クレームと彼の師との緊密な協力関係に親しんでいる読者にとって重要である。シェア・インターナショナル誌は、マイトレーヤの存在の事実や、この惑星のための聖なる大計画の存在の事実、その大計画の管理者たち──知恵の覚者たち──の活動を知らせるために存在する。私たちはマイトレーヤの出現の過程の概略を描き、その過程に伴う困難について説明してきた──そうした困難をつくり出したのは、人類の全般的な洞察力の欠如、物質主義を超克する能力のなさ、恐怖や貪欲、分離主義という習慣である。
 「物質性の勢力」の影響に加えて、こうした要因を考えると、マイトレーヤがいつ御自身を世界に示されるのかに関して具体的な日付を発表することはできない。しかし、アリス・ベイリーを通して教えを伝えたジュワル・クール覚者は、2025年がマイトレーヤの出現の過程において重要な年であることを示唆した。それは四半世紀の終わりでもあり、古代からの伝統に従って霊的ハイアラキーの覚者方が特別な会議を開き、過去を評価すると共に、自分たちの仕事の次の局面とこの惑星の大計画のために調整を行い、計画を立てる時期である。
 マイトレーヤが前面に出るのに好ましい状況のように思われたちょうどその時に戦争が勃発したのは、おそらく偶然ではないだろう。「混沌の勢力」は、マイトレーヤと覚者方が完全に認知された公の生活へ入るのを阻止するために土壇場の抵抗を試みているのである。そうした勢力は何よりもまず、心を動転させ、恐怖と分断を通して弱気にさせ、人類を行き場のない混沌の状態へと追い込もうともくろんでいる。事実であれ偽情報であれ、主流メディアであれ代替メディアであれ、惨事が伝えられている。必然的な出来事──キリストの「再臨」──を押しとどめようと働いている勢力にとって、このすべては好都合である。この重大な出来事は、新しい霊的な摂理の確立を合図するものである。その摂理の中で私たちは皆、自分自身が唯一なる大生命の一部であることを知る──すべての人が必要とされ、相互につながり合い、目的と意味を捉え、「私たちがその中で生き、動き、存在する」唯一なる大意識の計画に沿って進むことになる。

妨害のパターン

 過去40年間、条件が整うたびに、ある重要な出来事のパターン(様式)が展開するのを協働者たちは目にしてきた。1982年、機会の窓が開いて、マイトレーヤの公の生活への完全な出現が可能になったとき、ちょうどその瞬間、世界のメディアと一般大衆の注目を逸らすようなことが起こった。戦争が勃発したのである。その結果、その特別な機会の窓は閉まってしまった。
 マイトレーヤが前面に出てくることができるほど十分に状況が好ましくなるとすぐに、混沌と雑音のパターンが再発する──いつも戦争とは限らず、国際情勢を乱すような何かであり、メディアと一般大衆の注目がそれに奪われることになる。志向と焦点が散漫になり、その後の苦悩や混乱、憎悪の雰囲気の中で容易に操作される。生贄がすぐに見つかり、敵が容易につくり出される。
 1982年以降、これが繰り返し起こるのを私たちは見てきた。この過程が遅れるたびに、マイトレーヤと覚者方は待ち、計画を適応させなければならなかった。さらに、私たちが希望を失い、昔からの敵対的なやり方に逆戻りしてしまわないように、人類を励まし、奮い立たせ続けなければならなかった。人類には自由意志がある。私たちの本来の姿である潜在的な神々にふさわしい社会へと進歩していくかどうかを任せられている。「混沌と物質性の勢力」は分断をつくり出すために恐怖を利用する。協力と和合の報酬や恩恵がやがては、善意の勝利を必然的なものにすることを知っているからである。
 次に述べることを証明することはできないが、繰り返し起こるパターンから判断すると、マイトレーヤがもっと完全に公の場に進み出ることを可能にする機会の窓がまさに開いていた(おそらくまだ開いている)と仮定しても、突飛すぎるというわけではないようである。
 戦争が再び勃発し、世界の注目がそれに集中していることは、繰り返し起こるパターンがぶり返していることを示唆しているのかもしれない。このように述べることで、不正で悲惨な戦争を軽く考えようとしているわけではない。また、情勢に対するこのような見方をすることで、いずれかの「側」との連帯を宣言しようとしているわけでもない。私たち一人ひとりが人類のカルマの一部を担っている。すべての国に失敗や過ち、怠慢がある──  一部の国では他国よりもひどいが。私たちが戦争や気候危機、飢餓、テロ、暴力を抱えているのは、進行中の諸問題に公正に対処するのに集団として失敗しているからである。私たちはあらゆる国で、社会正義に対する要求を無視してきた。
 人々は「事実」をめぐって争い、戦時中だけでなく、何年も前に無節操な操作の餌食になった真理をめぐって論争を重ねている。そのため、真理と事実は随意的になり、意見の問題になってしまった。ベンジャミン・クレームの師は、意見が事実となる時代について警告を発していた。「第一の優先事は、事実についての本当の知識である。しかしながら、これは見つけることが難しい。非常に多くの声が、様々に矛盾する情報を繰り返し唱え、または叫んでいる。あまりにも多くの意見が、あたかも事実であるかのように扱われており、尊重して耳を傾ける価値のあるもの、信じられるものはほとんどない。そのような状況のもとでは、慎重さと抑制を促すことが賢明である」(ベンジャミン・クレームの師、「権力のグラマー」、本誌2002年11月号)
 シェア・インターナショナル誌は、人類全員の味方であり、一方の側にはつかない(片方の考えが不快だとしても)。一方の側につくという問題ではなく、ただ単に、苦しんでいる人々に対して自然な同情心を表すという問題である。
 ロシアを弱体化させようとするあからさまな政策があり、また、交渉しないという公表政策が米国側にあることによって、ウクライナの人々への共感が妨げられてはならない。世界の大半は、米国と北大西洋条約機構(NATO)が挑発的であったことを知っている。同様に世界の大半は、独裁体制下にあるロシアでは、あらゆるものが公正でも自由でもないことを知っている。世界は確かに、オリガルヒ(ロシアの新興財閥)とその資金を歓迎する一方で、本当に困っている難民を拒絶するイギリスの日和見的な姿勢のことを知っている。ヨーロッパは、可能な限り米国とNATOに歩調を合わせると都合が良いことを知っている。謀略と武力外交が進歩を押しとどめていることは、一般に受け入れられている事実である。悲しいことに世界は、腐敗が至るところに、社会のあらゆるレベルと部門にはびこっていることを知っている。
 本誌がこれまで行ってきたこと、そしてこれからも行うことは、同胞の人間の苦しみに対する心からの反応を表現することである──国籍や肌の色、信条がどうであれ。それ以外ではあり得ない。これまでかすかに把握することができたにすぎないにしても、もし私たちが、愛そのものである途方もない御方と一体となり、自分自身がその御方の一部であることを知っているのであれば、他の人々の苦しみと必要に対する私たちの自然な反応は、その同じ愛を降り注がせることであるだろう──私たちにできるどのようなレベルにおいてであれ。
 一方への同情を示すことは他方を憎むことである、という思い込みがあるようである。分かち合いに基づく信頼がない限り、戦争があるだろう。地球上のどの国にも、他国を理不尽に破壊する権利はない。自衛権は、国連憲章を含めて法律に明記され成文化されている。
 志向と理想は行動へと変換され、実際に適用されなければならない。ベンジャミン・クレームと彼の師である覚者、そしてマイトレーヤによって世界に伝えられた情報は、単なる理想や秘教理論ではない。進化とは、高位我をより反映することができるように自分自身を変えること、徐々に成長することである。マイトレーヤは、私たちの裡で私たちを通して働かれる可能性について話された。必要な変化を成し遂げ、分かち合いを新しい文明の基盤にしない限り、永続的な平和は私たちをすり抜けていくだろう。

ベンジャミン・クレームは、現在の危機に関連するいくつかの質問に答えている。

Q:(1)ウクライナに関して、あの国はロシアの勢力圏内の一部ではないのですか。(2)EUとアメリカは彼らの内政事情に干渉すべきではないのではありませんか。(シェア・インターナショナル誌2014年10月号)

A:(1)はい、そうです。(2)はい。しかしながら、ウクライナはもはやソ連の一部ではなく、ロシアの勢力圏内にとどまってはいますが、その主権は尊重されなければなりません。

Q:ロシアはかつてのソビエト連邦時代の諸共和国をどのように扱うべきでしょうか。チェチェン(そしてモスクワに対して同じ関係にある他の国々)の独立は聖なる計画の一部ですか。(シェア・インターナショナル誌2004年10月号)

A:すべての民族が彼ら自身の進化と運命を決める自由を持つことは、聖なる大計画の一部です。ロシアはずっと以前に何らかの形の自治権を求めるチェチェンの要求に応じるべきでした。

Q:民衆の力という潮流にメディアはますます注目し始めています。キルギスタンはその最新の例です。(1)これは扇動者たちによって“支援”されたものですか。(2)ウクライナの“オレンジ革命”は扇動者たちによって煽られたのですか。(3)キルギスタンの事例は、これまでの民衆の力の事例が次の蜂起を鼓舞したように、地域全体にドミノ効果をもたらすでしょうか。(シェア・インターナショナル誌2005年5月号)

A:(1)いいえ。(2)はい、両方の側で煽られました。(3)はい、おそらくそうなるでしょう。

Q:マイトレーヤの任務の一つは私たちのハートを他の人々の苦しみに対して開くことでしょうか。……(本誌2000年12月号)

A:確かにマイトレーヤの願いの一つは私たちのハートを他の人々の苦しみに対して開くことです。彼は世界にエネルギーを放出するたびにそうしておられます。それが彼の言われるすべてのことの中心にあり、私が本や講演の中で言ってきたすべてのことの中心にあります。私たちのハートを他の人々の苦しみに対して開くこと、それこそまさに彼の望んでおられることです。そのようにしてあなたは世界を変えるのです。彼はこう言われました。「あなたの兄弟の窮乏をあなたの行動の尺度となし、世界の問題を解決しなさい。その他の道はない」(メッセージ第52信)。彼はそのことをはっきり言われています。

Q:1982年、大宣言が最初に予定された時期には、イギリスとフォークランド島の戦争が起こりました。今、マイトレーヤの出現が再び間近になっている時、リビア、アメリカの問題やテロリズムが緊迫しています。これに関係がありますか。(シェア・インターナショナル誌1986年11月号)

A:はい、マイトレーヤの出現によって失うものが最も多い者たち、つまり物質性の勢力、悪の勢力は、それを妨げようと力の限りのことをします。戦争、テロリズム、緊張、恐怖、混乱は彼らの主な武器です。多くの世界の指導者たちは彼らの手の内に見事にはまります。指導者たちが悪だからではなく、しばしば無知で、独善的で、愛国主義的であり、世界観に欠けているからです。

エコロジー経済学

持続可能性、公平性、自由に向けた変化の過程なのか? ー第一部

オーヴェ・ヤコブセン教授へのインタビュー
アンネ・マリエ・クヴェルネヴィック

 オーヴェ・D・ヤコブセン氏は、ノルウェーのボドにあるノルド大学ビジネススクールの生態経済学教授である。彼は、マーケティングと哲学の修士号、経済学の博士号を取得している。社会科学・人文科学における研究倫理に関する国家委員会(NESH)など、いくつかの国家委員会のメンバーでもあり、そして、ノルド大学のエコロジー経済学・倫理学センターの創設者の一人であり、そのリーダーでもある。
 ヤコブセン博士は、『アナキズムとエコロジー経済学──エコロジー経済学のための政治的プラットフォーム』『インテグラル・エコロジーと持続可能なビジネス』『変革するエコロジー経済学──プロセス哲学、イデオロギー、ユートピア』など17冊の著書を出版している。
 アンネ・マリエ・クヴェルネヴィックがシェア・インターナショナル誌のためにオーヴェ・ヤコブセン教授に、著書『エコロジー経済学──未来からの視点』についてインタビューを行った。

 私たちが世界をどのように見ているか、どのようなパラダイムを持っているかによって、私たちの態度や行動、そしてミクロ、マクロの両レベルでの、さらには地球規模での選択に影響を与えることになる。
 著書においてヤコブセン氏は現在の世界で重要な中心的世界観、つまり、現在支配的な機械論的パラダイムと、現在の世界情勢に変化をもたらす有機的パラダイムを紹介している。
 これらの考え方は、今回のインタビューの中心でもあるため、著書の中から簡単に要約して紹介する。
 この二つの優位な考え方は、歴史の中で優位性を変化させてきた。機械論的パラダイムは17世紀に支配的になり、今日もなお支配的である。デカルト(1596-1650)などが、人間と自然との関係に着目して、その中心的な原理を打ち立てた。この考え方では、人間は自然から切り離され、優位に立ち、人間の特定の利益のために有益であれば、自然のプロセスに介入し、操作する権利があるとされる。このようにして、自然界に対する一般的な搾取的見解が生まれたのである。すべての部分は自然の法則によって結び付けられている──「全体は部分の総和と同一である」。デカルトはリアリティの物理的な部分と霊的な部分の間に明確な線を引いた(二元論)。つまり、神(創造するフォース)は引き下がっており、科学では理解できないとした。科学の使命は、人間の欲求を満たすために「頑固な」自然を克服することであり、今日の経済モデルの主流である市場自由主義は、この機械論的世界観に支配されている。経済的に利益が出る限り、自然を利用し、搾取することができるとしている。
 有機的パラダイムには、アリストテレスまでさかのぼる長い伝統がある。哲学者スピノザ(1632-1677)は、この考え方をさらに発展させ、人間も自然の一部であることを強調した。リアリティの物理的な部分と霊的な部分は同じシステムの二つの面であり、全体は部分の総和を超越している。自然、生態系、人間は一体であり、人間は自然の不可欠な一部であり、直観的な認識を通じて自然から学ぶ。自然の一部であるという経験が、すべての生態系を尊重することに自動的につながる。エコロジー経済学は、主にこの有機的パラダイムに基づいている。

シェア・インターナショナル(以下SI):「エコロジー経済学」とは何でしょうか。いくつかの重要な原則を説明していただけますでしょうか。

オーヴェ・ヤコブセン:エコロジー経済学は、経済学だけでなく、様々な立場や要素を含んでいます。それは、経済学、生態学、哲学、自然科学などを組み合わせた学問です。重要なのは、経済学が自然と文化の両方の状況で提示されることです。この点が、自然や文化の状況から多少なりとも切り離された主流の経済学とエコロジー経済学との大きな違いです。
 過去10年から15年の間に、私は53人の異なる貢献者たちに、エコロジー経済学の幅広い定義について尋ねてきました(1)。その結果、すべての人が、私たちの住む世界の捉え方を変えなければならないと言っています。私たちは生態系に統合され、文化的伝統に基づいているため、これらの要素を経済に統合しなければなりません。また、「経済人」の行動として定義される合理性の考え方も変えなければなりません。その定義によれば、合理的な経済的行為者とは、自分の利益を最大化する人のことですが、その代わり、私たちはエコロジカルな人間であり、すべての人間や自然全体に対して責任を持たなければなりません。
 エコロジー経済学には二つの重要な原則があります。第一に、有限な地球上では不可能な絶え間ない物理的な成長ではなく、自然な成長が必要です。私たちは、生態系の制限内で可能なもの以上を使用することはできません。第二に、資源を公平に分配しなければなりません。富裕な世界の大半は、資源の消費を減らし、生活の質に重点を置く必要がありますが、経済的困難に直面している人々は、より多くのものを必要としています。つまり、「公正な分かち合い」の問題であり、私たちは公平な方法で資源を共有しなければならないのです。これを獲得するために、責任、公平性、そして質的側面にもっと焦点を当てなければなりません。とはいえ、これらの原則は、物理的資源の生産に焦点を当てる必要性とも相反するものではありません。私たちは、より良く生きるために物を生産する必要があります。しかし、今日の問題は、生活の質的側面にあまりにも焦点が当てられていないことです。

SI:エコロジー経済学の目標は何だと思いますか。

ヤコブセン:目標は、人間と生態系全体の他のすべての生き物の生活の質の高さに基づいた、持続可能な開発に貢献することです。また、資源の公正な配分を確保し、生きた経済──長期的な展望を持った経済──を発展させることです。

SI:エコロジー経済学の最近の歴史とその貢献者について教えてください。

ヤコブセン:アリストテレスは「良い社会における良い生活」と表現しました。1900年から今日までの100年間、様々な貢献があり、進化経済学、フェミニン経済学、協同組合経済学など、様々な名称がついています。今日、私たちは、シェアリング・エコノミー(共有経済)や循環型経済についても話をしています。これらの考え方はすべて相互に関連しており、国際生態経済学会の活動や科学雑誌『エコロジー・エコノミックス』の発行に反映されています。
 エコロジー経済学の背景にあるインスピレーションは、熱力学*、進化論、ダーウィニズムの考え方、ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)が開発した人智学の考え方から得ています。仏教思想や他の伝統に由来する要素も見受けられますが、私としては、この四つが非常に重要であると考えてます。

* 熱力学:エネルギー、エネルギー変換、および物質との関係に関する学問。自然界の最も基本的な法則の一つにエネルギー保存の法則がある。これは、ある相互作用の間にエネルギーはある形態から別の形態へと変化し得るが、エネルギーの総量は一定であるとするものである。

SI:グリーン経済、つまりグリーン・シフトについてお聞かせください。エコロジー経済とはどう違うのでしょうか。

ヤコブセン:グリーン・シフトは、既存のパラダイムの中で持続可能な開発を目指すものです。エコロジー経済学はこの取り組みに批判的な問いを投げかけています。グリーン経済学は、既存のシステムの中で活動するもので、しばしば「ゲームのルールの中で」活動することを指します。言い換えれば、彼らは現在の経済システム、市場自由主義の悪影響を軽減し、国連の17の持続可能な開発目標に基づく、最も広い意味での持続可能な開発につながる前向きな発展を得ようとするものです。しかし、エコロジー経済学の貢献者の多くは、システムそのものに批判的で、「ホモ・エコノミクス(経済人)」から「エコロジー的な人間」への意識改革を望んでいます。

SI:では、グリーン経済は現在の経済システムを「支える」ものなのですね。

ヤコブセン:グリーン経済は、現在の課題による悪影響を軽減し、より根本的な問題を解決するための時間を与えてくれるでしょう。私たちは、この二つの考え方を同時に実現しなければなりません。私たちは、気候変動や生物種の絶滅を食い止め、資源をより公正に分配し、国連の第一目標である「世界中で貧困をなくす」という持続可能な目標を達成しなければならないのです。これらの変化は間違いなく必要なものですが、同時に、このシステム自体についても問いかけなければなりません。デカルトから今日までの西洋の考え方、つまり機械論的な考え方を変える必要があるのでしょうね。おそらく、例えば、有機的な世界観など、他の解決策を考えるべきかもしれません。

SI:エコロジー経済学を代表する有機的パラダイムと、今日の主流派経済学を代表する機械論的パラダイムとの違いについて教えてください。

ヤコブセン:主流派の経済学はデカルトにさかのぼる機械論的な考え方と結びついており、エコロジー経済学は有機的な考え方と結びついています。機械論的な考え方が個人主義的であるのに対して、有機的パラダイムではシステム論が語られます。デカルトは有名な言葉を残しています。「私は全宇宙を機械のように説明した」と。多くの科学は、物事を小さなパーツに分け、それぞれのパーツを個別に研究し、そのパーツをつなげることですべてを説明できるという考えに基づいています。
 有機的な視点とは、より全体的な視点を受け入れることであり、それは手法にも影響を及ぼします。還元主義的な科学は厳密な学問分野に基づく科学ですが、エコノミー経済では複数の科目を含んだ学際的なアプローチをとります。経済学、生物学、生態学、哲学、社会科学など、様々な科学の垣根を越えて研究を行います。ですから、私たちの住む世界をどのように理解するかという点でも、また、社会に関する知識をどのように集めるか、社会、自然、社会における文化的な考え方や価値観との関連性についても、多くの相違点があります。エコロジー経済学とは、全体論的思考、システム思考、有機的思考を意味します。ですから、私たちは循環型経済について話をしているのです。直線的な考え方ではなく、生態系に見られるような循環的な考え方です。そのため、私たちは「循環型」経済について話しているのです。このことは、エコロジー経済学では、原子論的、個別的な競争よりも、協力的なネットワークを重視することを意味します。エコロジー経済学では、解決策、地元産の食品、地元市場、生産、流通、消費の間のより密接な関係について話します。また、富の公正な分配、各主体の利益の最大化ではなく、共通善のための共通の解決策を見つけることについて話します。アリストテレスの言葉を引用しますと、「良い社会には良い生活がある」ということです。すべてが統合されています。個人と社会のつながり、それに加えて、より大きな生態系の一部としての社会、つまり、すべてが統合されているのです。

SI:エコロジー経済学の焦点は一体性にあるのですね。

ヤコブセン:そうです、統合性です。物事がどのように相互に結び付いているか、物よりも関係性です。関係性が重要で、すべてのものはつながっているのです。

SI:著書の中で、あなたはエコロジー経済学の一部としてユートピアという考え方に焦点を当てていますね。ユートピアとは何なのでしょうか。

ヤコブセン:ユートピア思考は、1516年に『ユートピア』を出版したトーマス・モアというイギリス人に由来しています。イギリス社会を発展させるためには、「ユートピア」という考えを持たなければならないというのです。彼の定義によれば、「ユートピアを考える」とは、現在ある社会とは異なる社会を描写することです。これは、ユートピアと言われてほとんどの人々が考えるもの、つまり実現不可能なもの、実現できない理想とは異なります。ユートピアについての私たちの解釈は、私たちが今日直面している大きな課題を解決し終えた、現代とは異なる社会を指します。
 このユートピア思考は、1936年にハンガリーの社会科学者であるカール・マンハイムによって発展させられたものです。彼は『イデオロギーとユートピア』という本の中で、「あるもの」と「あり得るもの」の間の緊張関係を論じています。あり得ること──この社会がどのようにあり得るか──を描写することが非常に重要であり、これを彼はユートピアと呼びました。今日ではイデオロギーと社会の関係を理解することは非常に重要ですが、同時に、ユートピア、つまり、今あるものとは異なるものを描写しなければなりません。現在あるものと将来あり得るものとの間の緊張関係が、私たちの発展にエネルギーと方向性を与えるのです。
 マンハイムの50年後、フランスの哲学者ポール・リクールは、「ユートピア的思考を持たない社会は、発展を停止してしまうだろう」と言いました。おそらく、それが今日の問題なのでしょう。私たちは代替的な思考に対してオープンではないのです。イデオロギーの代わりにではなく、既存のイデオロギーに追加する形で、ユートピア的な解決策を描写つまり想像するよう人々を鼓舞することが非常に重要なのです。イデオロギーとユートピアの間の緊張関係は、エネルギーを生み出し、発展のための方向性を与えます。
 ベルゲン、トロンハイム、トロムソといったノルウェーの大都市の小さなコミュニティーや小都市でユートピア対話を行う際、私たちは代替的な未来を描写し、人々が自分たちの住みたい未来についての考えを発展させるきっかけとなるように努めています。問題に焦点を当てるのではなく、ただ一つのことを尋ねます。「あなたが本当に参加したいと思う社会をどのように描けますか」と。現在の社会とこの代替案を区別するとき、私たちは方向性が得られ、必要な変化のためのエネルギーを得ることができるのです。
 ユートピア思考と呼ばれるこの研究の伝統は、過去500年にわたりヨーロッパで非常に重要なものでした。未来がどうなるかを問うのではなく、未来がどうありたいかを問うのです。アメリカの社会学者ロバート・マートンは、自己成就予言という言葉を使いました。もし未来について考えがあるのならば、それが起こるかのように行動し、その描写に従って行動すれば、成功の可能性は非現実的なものではありません。大切なのは、未来はまだ終わっていないということです。すでにある未来に向かって歩いていると考えるのではなく、どこに行きたいかを考えることが大切なのです。自分たちの手で未来を切り開いていくのです。それがユートピア的な発想の重要な部分です。システム・レベル、個人レベル、意識レベルでの変化が必要です。このような変化は決して不可能ではないと思います。人類は歴史の中で変化に直面しましたし、私たちは今、変化する時代に生きています。

参考文献
オーヴェ・ヤコブセン『エコロジー経済学──未来からの視点(Ecological Economics──A perspective from the Future)』、フラックス・フラッグ社発行

(1)pengevirke.no

詳しくは、www.ovejakobsen.com をご覧ください。

「分離は全くありません……」(第二部)

エベン・アレグザンダー博士へのインタビュー

シェリーン・アブデル=ハディ・テイルズ

脳神経外科医であるエベン・アレグザンダー博士は、臨死体験(NDE)をし、奇跡的な完全治癒により世界観が一変するまでは徹底した唯物主義者であった。博士は今、幸福と治癒において意識が果たす役割に関する著名な講演者となり、国際的に活躍している。シェリーン・アブデル=ハディ・テイルズによるエベン・アレグザンダー博士へのインタビューの第一部(シェア・インターナショナル誌2022年2月号)において、アレグザンダー博士は、科学と宗教を合致させるという自分の仕事のきっかけや、生まれ変わりに対する信念、すべてのいのちが一つであるという理解について語った。

シェア・インターナショナル(以下SI):『癒し』という言葉は、実は『全体性』を意味するという、あなたの著書の中にあるこのシンプルな言葉が気に入りました。言い換えれば、『完全にする』ということです。肉体の生命を持続させることが最高の目標ではないということを、私は思い出します。むしろ、寿命が長かろうが短かろうが、愛をあらわす度合いや正しい人間関係をつくることの方が、もっと重要なのです。医師として、治療家として、これは正しい生き方の哲学であるとお考えでしょうか。

エベン・アレグザンダー:はい、それは決定的に重要なことだと思います。こうしたすべてのことを捉える最も良い方法は、個人の魂を見ることだと思います。もちろん、どの魂も本当のところは、個人的ではありませんが。これは、自身の目的を遂行しようとする魂の進化ではあり得ません。すべて、関係に関わることだからです。現代物理学とちょうど同じです。現代物理学が見いだしたことは、一つの電子や陽子について話しても意味がないということです。実際のところ絶えず起こっているのは、そうした電子や陽子の間の様々な関係だからです。この点において、意識の進化はとてもわくわくするものになると思います。意識の進化を成り立たせているのは、感性を持つ個別の存在者が、お互いとの関係や世界全体との関係、宇宙全体との関係について学ぶときに経験する事柄だからです。すべてのものが、こうした変容と意識の進化を経験する過程にあります。
 覚えておきたい大事なことは、それは旅路や、学ぶことと教えること、大きな規模での変容と意識の成長に関わるということです。つまり、多くの方法で、感性を持つ存在が自分自身の生きる目的や、自分と宇宙との関係についてのより深い理解に到達するということです。また、あなたがおっしゃるとおり、あらゆる犠牲を払ってでも肉体を生かしておくことに関するものではありません。それは、私たちが参加しているこのドラマ全体の最終目標ではありません。ドラマはもっと壮大であり、魂の集団としての私たちの共同の使命は数多くの転生にまたがるという認識を伴います。ですから、肉体が終わりを迎えることは、思い悩まなければならないことではありません。
 幼い子供を亡くした人々のケースがたくさんあります。そのような家族と突っ込んだ話し合いをした時に私が認識するようになったことは、旅立った子供を家族の中で最も強い魂、家族を実際に一つに結びつけた魂と見なされていることがよくあるということです。それは実際のところ、教訓を学ぶことに関係しているということが多くの例から明らかです。子供を失うという恐ろしい悲劇は、何らかの教訓と整合していることがよくあるということが分かるようになりました。家族同士が関係し合いながら、意識はずっと続いていくという教訓であり、そこから家族は恩恵を得るようです。旅立った愛しい子から得た最大の贈り物は、死についての展望、死の体験の共有、死後の意思疎通であった、と人々はよく私に言います。つまり、魂がまだつながり合っているという非常に具体的で力強い認識です。どのような喪失であったとしても、そのことによってすべてのことが価値を持つようになることが多いのです。

SI:「バイノーラルビート(両耳性うなり)」*についての章にとても興味を覚えました。バイノーラルビートの背後にある理論と、それが様々な精神的または肉体的な疾患で苦しむ人々をどのように助けることができるのかについて説明していただけますか。

* 〔編集者の註:バイノーラルビートはヒーリング・アコースティックス(治癒のための音響)の一形態であり、特に不安症や不眠症、その他の精神的ストレスの症状を和らげるということが証明されている。カレン・ニューウェル氏によると、『バイノーラルビートは、脳幹下部で相互作用する二つの別々の周波数が集束することによってつくり出され、脳の大脳皮質野によって感知されるうなりが生じる』──詳しくはsacredacoustics.comを参照〕

アレグザンダー:一つの非常に重要な点を指摘しておきたいと思います。バイノーラルビートは脳幹下部の神経回路に影響を与えるということです。それは独特なものです。今まであなたが耳にしたことのある、超越的な体験を授けたあらゆる音──聖歌、国歌、賛美歌など──は、聴覚を司る大脳皮質の側頭葉で処理されていました。
 セークリッド・アコースティックス(聖なる音響)とバイノーラルビートは──3億年前からある──脳幹下部を通ります。そこが、大きな力が入ってくるところだ、と私は考えます。このとても原始的なレベルにおいて意識に取り組むことができます。そこは、私たちの自由意志とプラシーボ(疑似薬)効果に関係するところでもあると考えています。例えば、プラシーボ効果を見てみると、それは非常に現実的なものであり、信念や態度、思考が健康状態や健康回復に途方もない影響力を及ぼすことがあるということが分かります。プラシーボ効果は始まりにすぎません。例えば、病気の自然回復のことを考えてみてください。意識科学研究所(IONS)に行って「自然回復」について調べれば、特定の霊的実践を通して自分のがんや感染症などを癒した人々の3,500件の症例を記述した、その研究所が発行した本が見つかるでしょう。セークリッド・アコースティックスは意識的な認識のこうした非常に深いレベルに入っていき、高次の魂と一つになるためのとても強力な手法です。そうすれば、魂はそのような治癒を可能にします。それは不安症の研究で分かっていることに似ています。
 臨死体験や、私の場合のような奇跡的治癒について検討しても、現代医学では説明できませんが、そのようなものは起こっています。霊的体験を伴うので、それは起こっているのです。ですから、これはすべて、このような最善の結果へと私たちを案内し導いていくことのできる私たちの精神と魂の本質についての、はるかに豊かで深い認知に関わるものです。そのような場合に、バイノーラルビートはとても効果的になり得るのだと考えています。

SI:バイノーラルビートを通して臨死体験のような体験を引き起こすことはできるでしょうか。これは医療分野での将来の治癒の一部になると思いますか。

アレグザンダー:こうした臨死体験のような体験をするために臨死体験をしなければならないか。私の答えは、いいえ、です。あなたは意識の探検者にならなければなりません。あなたが瞑想を行う人であれば、あるいは心を集中させる祈りを使用し、内面に深く入ってあの自我の声を休止させる方法を持っていれば、霊的な通路の実態や、それと自分との関係について知る必要のあるあらゆることを学び、そして知る道の途上にあるでしょう。ですから間違いなく、すべての人がそれに近づくことができます。瞑想や心を集中させる祈りはとても重要なものになり得るでしょう。もはや「ここ」や「今」に閉じ込められることのない、拡大する認識を実際に再現し、抱くことができるようになるからです。この点で、瞑想や心を集中させる祈りはとても大きな役割を果たすことができると思います。そうした魂の高次の様相は非常に、非常に強力です。私は瞑想の体験でそれにかろうじて触れただけですが、それでも、その様相がいかに強力になり得るかを認識するようになりました。
 1970年代中頃の当初の臨死体験研究者の一人であったケネス・リング氏は素晴らしい記事を書いています。必ずしも臨死体験をする必要はなく、臨死体験に気づき、こうした話を研究すれば、自分でより深い理解に達するのに大いに役立つということを明らかにしました。それが本当に大切なことだと思います。私たちの誰も、個人的にあらゆる体験をすることを期待すべきではないでしょう。他の人々の体験にも注意を払うとよいでしょう。
 私は他の人の体験に関心を抱いているだけでなく、こうした体験をできるだけ多く学びたいと思っています。何が可能であるかを理解する手助けとなるからです。瞑想と、心を集中させる祈りを通した体験のための舞台を、私が個人的に設定するための環境を整えたいとも思っています。カレンと私はワークショップでいつもこのようなことを考えています──臨死体験をしたことがない人々が瞑想で、特にセークリッド・アコースティックスを用いて、物質界を去った愛しい者たちに出会うという非常に現実的な体験をします。それはとても、とても助けになることがあります。このようなことをしょっちゅう目にしますので、瞑想だけでも、こうした人生が変わるような体験をすることがある、と確信をもって言うことができます。

SI:あなた自身の臨死体験に基づいて、医療分野でどのような変化が起こることを期待しますか。

アレグザンダー:私が期待する大きな変化は非常に急速に起こっています。『プルーフ・オブ・ヘブン』という本を書いた主な理由の一つは、医学界がこのようなことすべての現実性に目覚める一助になればよいと思ったからです。カレンと私はたくさんの医師や看護師、他の科学者からの声を聞きます。しかし確かなことは、『プルーフ・オブ・ヘブン』『マップ・オブ・ヘブン』『マインドに満ちた宇宙に生きる』という本で私たちがメッセージを発信したことについて、治癒を専門とする人たちが感謝の言葉を述べているということです。
 特に3冊目は、科学的な思考をする人や医学界にとって、前方への大きな飛躍となっています。そうした人々がこう言うのに役立つからです。マインドが根本的な要素となるこうしたより大きな現実こそが、最初から想定し理解すべき現実であり、マインドによって健康や治癒に途方もない力を及ぼすことができる、と。これは、そうしたことはあり得ないと主張しようとする馬鹿げた限定された唯物的モデルよりも、私たちが持つあらゆるデータと整合します。
 ですから、私が医療関係者をそのことに目覚めさせ、この世界の至るところで毎年起こっている何百万件もの臨死体験のふたを彼らが開けるのを手伝えば手伝うほど、この世界は変化するでしょう。私にとって、医学界の扉を開けることは、世界全体の扉を開けるための鍵となる要素の一つです。医療関係者はとても多くの形で、こうした話の門番の役目を果たしてきたからです──昏睡状態になる前の自分のように。私は唯物主義的な医師の一人でした。誰かの背中をたたいて、例えばこう言っていました。「そうですね、あなたはとても具合が悪かったのです。死にかけた脳はあらゆる種類の幻覚を起こします。だから、そのことを忘れてもいいのですよ」と。しかし、それは真実ではありません。こうした話や体験にはずっと多くのものがあるということを私たちは知っています。それは何らかの深い説明を必要とし、私たちの存在そのものについての真実を理解するのを助けてくれます。このような理由で、医学界の扉を開けることが私の大きな目標の一つとなっています。
 意識の研究において世界的に非常に尊敬されているたくさんの科学者が、私たちの本『マインドに満ちた宇宙に生きる』を推奨してくれていることを知っています。究極的には、それは科学の革命なのです。
 このより大きな見方は、個人だけでなく人類全体にとってもとてもわくわくするものです。私たちは肉体であり、誕生して死ぬだけの存在だと仮定する唯物主義のわびしくつまらない作り話よりもはるかに理に適った、ずっと大きな領域を提供してくれるものです。そうした作り話のすべては間違っており、実験データと合致しません。そのようなわけで、この革命が実際に、科学を根拠とした革命であるというのは非常に重要なことです。
 ここでは、はるかに深い何かが進行しています。それは、私たちが達しようとし始めたばかりのものですが、やがて人々は、これが信仰の革命ではないことを理解する必要があります。それは実在の本質、マインドと脳の関係、意識そのものについての科学的理解という革命なのです。そのようなわけで、きちんと理解することが非常に重要です。

「分離は全くありません……」

エベン・アレグザンダー博士へのインタビュー
シェリーン・アブデル=ハディ・テイルズ

 ハーバード・メディカル・スクールや評判の高い大学病院で数十年にわたって医師や准教授として働いた経歴を持つ脳神経外科医、エベン・アレグザンダー博士はかつて、唯物的な世界観──物質世界が存在するすべてのものだという信念──を断固として支持していた。彼の科学的な信念体系は2008年の超自然的な臨死体験(NDE)によって一変することになった。それは1週間続いた昏睡状態の間に体験した別の領域への旅である。病気の経過予想は厳しいものであったが、不可解なことに、アレグザンダー博士は目覚めると完全な健康を回復した。彼の症例と回復は、論文審査のある「神経・精神疾患ジャーナル」で検証された。
臨死体験以来、アレグザンダー博士は自分の豊かな霊的体験と、量子物理学や宇宙論、マインドの哲学との折り合いをつけてきた。意識が健康や治癒、回復で果たす役割について教えるために、アレグザンダー博士は世界中で講演を行っている。
 アレグザンダー博士は先駆的な科学者、現代思想のリーダーとして、ワトキンスブックスが選ぶ「2020年度マインド・ボディ・スピリット・リスト(精神世界で最も影響力のある人物ランキング100人)」に名前が挙げられている(ダライ・ラマやフランシスコ教皇、エックハルト・トール、デズモンド・ツツらと共に)。2013年以来、このリストには何度も登場してきた。アレグザンダー博士は400回を超えるメディアのインタビューを受けてきた。その中には、ABCテレビの「グッドモーニング・アメリカ」と「20/20」、「ドクター・オズ・ショー」、オプラさんの「スーパー・ソウル・サンデー」、「ラリー・キング・ナウ」「フォックス・アンド・フレンズ」「ディスカバリー・チャンネル」「バイオグラフィー・チャンネル」、ラジオやデジタル、ポッドキャスト番組の数多くの国際インタビューが含まれる。シェリーン・アブデル=ハディ・テイルズがシェア・インターナショナル誌のためにエベン・アレグザンダー博士にインタビューを行った。

「他に言いようがありません──神と私との間に分離は全くありませんでした」
──アレグザンダー博士

シェア・インターナショナル(以下SI):あなたは著書『マインドに満ちた宇宙に生きる』の中で、レイモンド・ムーディ博士が臨死体験という主題についてさらに探求することにつながった彼自身の体験について書いておられます。ムーディ博士はプラトンの『国家』を読みました。プラトンがその本の中に書いているのは、死んだ後に生き返ったアルメニア人兵士の話です。彼は仲間の兵士たちにこう語りました。人が死ぬと、人生の最も顕著な出来事を振り返る過程をたどることになるが、「審判を受ける際に最も重要となる特質は、ここ地上で生きている間に現すことのできた愛だ」と。これは、あなた自身や他の人々の臨死体験において共通の特徴なのでしょうか。結局のところ、最後に残るのは「愛」なのでしょうか。
エベン・アレグザンダー:これは、臨死体験を通して明らかにされた霊的領域の核心を突くいい質問だと思います。レイモンド・ムーディ氏の本を読んで直接お会いし、この探求に深く関わり始め、さらに自分自身の体験を通して理解してからは、プラトンが2,400年前に起きた体験について書いたという事実には、私にとって途方もない意義がありました。今日、戦場にいる兵士にも同じことが言えるでしょう。
 もちろん、最も大事な部分は、愛が実際にすべてのものの核心にあるということです。私たちが共有しているこのつながり、私たち全員が本当につながり合っているというこの素晴らしい感覚の核心にあるのです。それはまるで、私たちが一つのマインドの夢を共有しているようなものです。このアルメニア人兵士が2,400年前に、こうした体験に関して起こっていることや、そうした体験が私たちと宇宙との関係、特にお互いとの関係について示唆することをうまく言い当てていることをうれしく思います。また、ムーディ博士がその話を紹介し、1975年に『かいまみた死後の世界』(評論社、1989年)という本を執筆する勇気を持っておられたことを本当にうれしく思います。その本をきっかけにして、この途方もない研究の傾向全体が実際に生じることになったと思います。
 臨死体験で感じられる一体感は、まさしく普遍的なものです──あの愛の感覚、愛の癒す力のことです。人生を振り返る瞬間に、それは感じられます。とても大事な要素の一つは、その人自身の見方ではなく、その人の行動や思考によって影響を受けた周りの人々の観点から人生を振り返ることになるということです。ですから、この人生の振り返りによって明らかになるのは、こうした人々に大きな影響を与えていると考えられる自我の境界とは実際のところ、私たちが生きているドラマを支える架空の話のようなものだということです。もっと深いところでは、そうした自我の境界は偽りのものであり、私たちは実際、全員が一緒に学び合ったり教え合ったりするこのドラマの一部なのです。このことを理解するのに臨死体験をする必要はありません──これについて知り、それから自分自身の意識を探究するだけでいいのです。そうすれば、必要なものすべてがしばしば与えられます。
 多くの方法で、この臨死体験についての現代の研究と意識の科学は、一つのマインドという概念へと間違いなく収れんしつつあります。つまり、私たちは一つのマインドを共有しているということです。2,400年前のアルメニア人兵士の話だけでなく、今日の非常に多くの体験で描写された、人生を振り返る瞬間の話を聞けば、そのことが分かります。それは実際のところ、人にされてうれしいことを人にしなさい、という黄金律です。これはまさに、宇宙の基本構造の中に書き込まれてい
ます。

SI:それはまさに、時間は存在しないことを実証しています。この生きるという体験は個人的なものではなく集団的なものです──たとえ大抵の人が個別の体験をしていると本気で考えているとしても。しかし、それは見当違いの信念です。
アレグザンダー:そのとおりです。そうすると、意識そのものの進化の力を垣間見始めることができます。それはまさに、この対談全体の主題にほかなりません。意識は脳の一部ではないため、意識は死で終わらないということです。無に反するものが宇宙にあるのはなぜでしょうか。それはどこかに行くのでしょうか。
 そのようなわけで、カレン〔『マインドに満ちた宇宙に生きる』の共著者であるニューウェル氏のこと〕と私はよく、スティーブ・ジョブズがこの世を去ろうとしていた時に発した最後の言葉が「すごい、ああ、すごい。ああ、すごい」であったことを指摘するのです。彼が目撃していたのは、単にあらゆるものが暗くなるということではなく、信じられないような認識の拡大だったのです。

SI:死の瞬間に人の信念体系が果たすことのある役割について話していただけますか。信念体系はそうした体験の解釈の仕方に影響を及ぼしますか。
アレグザンダー:いい質問だと思います。私たちの信念はとても大切だと思います。信念は一定の枠組みを定めるからです。その枠組みは例えば、死ぬ時に、最初の段階をどう解釈するか、あらゆることが起こるということをどこで学ぶかを決定づけます。信念は人々を袋小路に迷い込ませるような可能性がある、と私は考えています。もしあなたが筋金入りの唯物論者であれば、死につつある時に、自分の存在は続くということを認識し、戸惑いがそこでの何らかの閉塞へとつながるかもしれません。しかし、ここで是非とも指摘しておきたいのは、例えば私自身の場合は、宗教教育はノースカロライナ州の伝統的なメソジスト教会の中で行われたということです。私は脳神経外科での25年間にわたる学者生活の中で聞いたことの多くを信じたいと思っていました。私がそのことで苦労したのは、意識的な認識が脳と肉体の死を超えて存続することがいかに可能となるのかを、科学的な観点から全く理解することができなかったからです。そのようなわけで、臨死体験は自分にとって非常に重要だったと思います。臨死体験は、肉体脳の束縛から解放されることによって意識が実際に豊かになることをはっきりと示しました。
 ここで指摘しようとしているのは、私の宗教的な信念に従えば、神と本当に一体になる、あるいは、あの神聖な存在者、あの創造的な源と一つになるという概念を心に抱くことはないということです。しかし、それこそ、昏睡状態の中で体験したことです。他に言いようがありません──神と私との間に分離は全くありませんでした。
 重要なのは、何が起こり得るかに関して、昏睡状態以前の信念には制約されなかったということです。実際に起こることは、とても現実的な世界を目にし、自分が見ているもっと大きな世界──霊的な宇宙と、霊的な存在としての私たちの実相──について容易に説明できるよう、自分自身の信念を修正しなければならないということです。そのため、こうした体験は信じられないほど貴重なのです。私たちは本当に、現代の個人的体験とこうした体験の科学的説明の時代にもっと十分に順応できるよう、様々な宗教体系を拡大させていくことができます。
宗教はこの世界を正しい軌道に乗せるのに5,000年余りを費やし、最善を尽くしました。この現在の革命について私が気に入っている点は、意識と実在の性質についての理解──私たちは本質的に、はるかに理に適った前進の道を見つけようとしているという理解──が深まっていることです。この唯物主義は、究極的には崩れ去らなければなりません。紛れもなく人を惑わしているからです。
 しかし、こうした古代の霊的伝統の一部は最もなことを述べており、現代科学はそれと完全に一致します。そのようなわけで、この革命はとても異なったものになると私は考えます。この革命は意識に関わるものです。それはまさに、人類すべてが進んでいく道であり、科学に基づくものです。一つであることと愛の癒す力に関して、科学は何千年も前の深遠で神秘的な教えと実際に一致しており、そうした教えを支えています。

愛の大海の中での日光浴

SI:あなたの体験と教えは、死の恐怖、したがって生の恐怖を根絶するのを助けるために非常に有益であると思います。また、それは魂の存在の事実を確立するのに役立ち、私たちが本来の自分と正しく同一化するのを助けてくれます。また、少なくとも、本来の自分でないものに気づかせてくれます。あなたの体験や他の人々の臨死体験は、そうした体験をしていない人々を他にどのような方法で助けるとお考えでしょうか。その体験はあなたと共にあるのでしょうか。
アレグザンダー:そうですね、それが本格的に役立つのは、何千件もの臨死体験を見渡してみて、人生を振り返る瞬間について聞き、人々が愛──あの限りなく愛情深い力──の中に浸ることについて聞く時でしょう。それを神やアラー、ブラフマン、ヴィシュヌ、エホバ、ヤハウェ、偉大なる霊など、何と呼ぼうと変わりありません。それにどんな名前を付けたいと思おうと私は気にしません。実際のところ、それらは同じものを描写しているからです。それだけでなく、その力と一つになった感覚や、その愛の大海の中で日光浴をすることについてもよく描写されます。それこそが、次のことを認識する勇気を与えてくれるのです。つまり、死について恐れるものは何もないということ、私たちの意識的な認識そのものがそうした神の力に由来するということ、そして本質的には、私たちは全員、自分たちが進化していく未来を共に創造している者たちであるということです。
 ご存じのとおり、唯物主義の科学は、自由意志のようなものはない、とあなたを説得しようとします。意識は脳内の化学反応と電子束の付帯現象にすぎない、と唯物主義の科学は誤認しています。その場合は意志が全く働いておらず、だだの偶然にすぎないように見せかけようとします。意識は、自然法則や物理学、化学、生物学の法則に従っている脳内の質料にすぎないといいます。それから、そうしたあらゆるものから漏れ出すものが意識の体験であり、それは偶然にすぎず、何の意味も目的もないといいます。そこが、明らかに焦点が大幅にずれているところです。というのは、神との一体性と共同創造の精神というこの概念は、この宇宙が進化していく中で私たちが目撃するすべてのもの、すなわち、すべての人類の歴史、宇宙の歴史、私たちが知り記録し理解できるすべてのものの歴史は、私たちの意志を表すものであることを認めるための方法なのです。そこにはとてつもない規模の意志が作用しているのです。電子や陽子、クォークが衝突するだけではなく、そうしたすべての中にはとてつもない規模の意志と目的があります。そういうわけで、私たちの対談は宇宙の心理層に近づくことにとても関連しているのです。
 そうした宇宙との一体感のようなものに触れれば、決して忘れることはできないと思います。なくなりようがありません。そうした体験は、人生の出来事の記憶や夢、あるいは幻覚よりもずっと現実的であり安定しています。脳と連結した目や耳によって情報にフィルターがかけられることはもうありません。こうした霊的な旅においては、そのようなフィルターは作用しません。それはまさしく、情報の膨大な流入なのです。それが、説明するのがとても難しい理由の一つであり、そのようなわけで言語に絶すると言われます。そうした体験は空間と時間の外で起こります。それは言葉で物語ることができる単純過ぎる小話のようなものではありません。その体験はそのようには流れないからです。情報の流れははるかに壮大であり、そのようなわけで人々は人生のすべての主要な出来事を完全に振り返ることができます。すべてのことが、心停止した2分間で起こり得ます。
 しかし、臨死体験をしている人にとって、2分は1年のように思えるかもしれません。とても効率良く機能するのは、物事を知るための方式が全く異なっているためです。同一化するような知識であり、あなたは周囲の場面そのものになります。この人生の振り返りの瞬間には、あなたは他の存在者になり、自分の行動と思考が周りの人たちに与えた影響を、そうした人たちの観点から目の当たりにします。そうした瞬間をとても確固とした、詳細な、超現実的な形で再度生きるのです。こうした信じられないような和合があります。それによって明らかになるのは、地上での時間の流れという概念そのものが間違っているということです。ここで、こうした人生を生きることが進行中の架空の話だということが裏付けられます。しかし、時間と空間の外にあるはるかに深い現実が存在します。そうした現実においては、精神的観点から舞台装置を見ることができ、脳内にいるという意味での「ここ」や「今」にはそれほど限定されません

生まれ変わり

SI:あなたの研究を通して、生まれ変わりに対する信念を支持するような情報や体験はありましたか。
アレグザンダー:生まれ変わりがよく話題になりますが、私自身の観点から、大事なことを指摘すべきでしょう。昏睡状態以来の13年間に私が調べたあらゆることや昏睡状態そのものによって非常にはっきりしたことは、生まれ変わりは現実だということです。
 当時は、生まれ変わりを裏付けるあらゆる科学的データがあることや、生まれ変わりは合理的疑いの余地なく証明されていることを認識していませんでした。生まれ変わりにはどうやっても反論できません。これまで科学界で却下されてきたのは、当然ながら、唯物主義がそれを支持しないからです。ところが、生まれ変わりは実証的なデータに基づき、絶対に現実のものです。私たちはもっと深い理解に到達しなければなりません。生まれ変わりは確かに、この意識の進化の科学と合致しています。脳はフィルターである一方、意識は宇宙全体を通してもっと統合されているようです。すべてはこうした思考の進化と完全に符号しています。
 最近執筆された論文もいろいろあります(bigelowinstitute.orgを参照)。そうした論文を読めば、死後の生命だけでなく生まれ変わりも支持する途方もない量の科学的データがあることが分かり始めるでしょう。そうした論文の多くが、この難題の非常に大きな部分としての生まれ変わりについて深く研究しています。これは大ニュースです。唯物主義の科学者が全く無知なことに、文献をろくに参照しないで「こんなことはどれも現実ではなく全部妄想だ」と言い放つという馬鹿げたありさまを、私たちはついに乗り越えようとしているからです。ですから、文献を理解する人たちと一緒に前進していきましょう。また、そうした論文は良い出発点となります。生まれ変わりは本当に現実だということを確認せずに読むことはできないでしょう。信じてください、皆さん──生まれ変わりは私たちの現実です! 生まれ変わりについてもっと理解を深めましょう。
 覚えておきたい大事なことは、メソジスト教会での私の宗教教育において、生まれ変わりのようなものは決して認められていなかったということです。しかし、私の旅を通してやがて非常に明白になったことは、生まれ変わりが果たす非常に幅広い普遍的な役割を認めることなく、こうしたことについて何かを理解することはできないということです。その役割とは、私たちの魂が何度も何度も戻ってこられるようにすることです。
 生まれ変わりは、こうしたすべてのものを支える一連の科学的データの絶対に欠かせない部分ですが、『マインドに満ちた宇宙に生きる』で指摘していることは、この話は生れ変わりだけに関するものではないということです。2冊目の本『マップ・オブ・ヘブン』で指摘されているように、ある種の恩寵が存在するということと、このすべては実際の進化に関するものだということを認識することが決定的に重要です。私たちは何かに向かって進んでおり、目的を共有しています。宇宙全体がこのような変容の過程に従事しているのです。
[第一部終わり]

詳しくは ebenalexander.com をご覧ください。

参照文献
エベン・アレグザンダー著、白川貴子訳『プルーフ・オブ・ヘブン──脳神経外科医が見た死後の世界』早川書房、2013年
エベン・アレグザンダー&トレミー・トンプキンズ著、白川貴子訳『マップ・オブ・ヘブン──あなたの中に眠る「天国」の記憶』早川書房、2015年
エベン・アレグザンダー&カレン・ニューウェル著『マインドに満ちた宇宙に生きる──意識の中核への脳神経外科医の旅(Living in a Mindful Universe: A Neurosurgeonユs Journey into the Heart of Consciousness)』ピアトカス、ロンドン、2017年

余暇の真の価値

エリッサ・グラーフ

パンデミックの中で生きることで得られる希望の兆しがあるとしたら、時間をより重視することを学んだことが、その一つかもしれない。相次ぐロックダウンにより日常生活が立ち往生する中で、何百万もの人々が自分にはもっと時間があることに気づいた。多くの職が失われ、企業が倒産したが、こうした厳しい状況下で、多くの人々が優先順位を再考する機会を得ることにもなった。

 キャスリン・ハイムズ氏は、ワイアード誌の2021年11月号の記事でこう述べている。人々は現在、「……転職したり、キャリアの梯子上で『ダウンシフト(ゆとりある生活への切り替え)』をしたり、労働から完全に離れた時間をとったりしています。一部の労働者は、新型コロナウイルス時代以後の新たな明晰さと貯蓄により、パンデミックで大変な重労働となった最前線の不安定な仕事から退きました。他の人々は、より大きな柔軟性や自己決定と引き換えに金銭や地位を得る機会を放棄したことを報告しています」。その結果、記録的な数の人々が退職している。米国労働省によると、2021年4月だけでも、かつてない400万人の人々が仕事を辞め、観測筋はこの時期を「大量退職時代」と呼ぶことになった。ハイムズ氏は、この呼び方は的外れであるとして、次のように述べる。「大量退職は、表面上は職業上の地位の用語を前提としていますが、同時に存在する間違いなくより大きな物語を見落としています。それは価値観の根本的な再編であり、そのために、家庭での生活、家族や友人との生活、そして労働以外の生活との関わり方に人々は直面し、それを見直しているのです」
 約1世紀前のもう一つの同様の歴史的瞬間──大恐慌のために数百万人が突然失業した時──には、哲学者、バートランド・ラッセルは著書『怠惰への讃歌』の中で、すべての人間にとって意味のある余暇の必要性を概説し、人の価値はその人の経済的生産性によってのみ測定可能であるという依然として根強い文化的仮定に挑戦した。シェフィールド大学の哲学講師、マックス・ヘイワード氏は、2020年のニューステイツマン誌の記事でラッセルの議論の今日における関連性を指摘し、こう説明している。「ラッセルは、一部の人が身を粉にして働き、他の人が失業中の貧困に苦しむような経済制度を改革するだけではなく、『経済的に生産的な』労働の能力に応じて自分自身を評価するような文化的倫理に挑戦する必要があると考えました。人間は単なる労働者以上の存在です。私たちは怠惰を評価する方法を学ぶ必要があるのです」
 ヘイワード氏はこう指摘する。GDPを成功の標準的な尺度だとすると、「……その市民が隣人よりも収入が年平均で1,000ポンド少ない場合に、ある社会を相対的な失敗と考えなければなりません。たとえ、その市民がより多くの余暇を過ごし、より多くのスポーツをし、より多くの散歩をし、より多くの本を読み、より多くの音楽を聴き、より多くの絵を描いたとしてもそうなのです」。しかし、この考え方は次のように私たちを運命づけている、と彼は述べる。「ラッセルが想像する社会──意味のある怠惰に投資する社会──は真に革命的です。その経済構造が刷新されただけではなく、それが社会の理解の仕方と価値観そのものを変えたために革新的なのです」
 ベンジャミン・クレームは著書『生きる術』で、余暇を神に賦与されている特質と定義している。「……〔余暇とは〕あなたが本来やりたいことをやることです。それは創造的です。それは創造的になる機会です」。彼は、魂から来る創造的な活動を人生の本質と説明し、生きる術は実際には創造的に生きることであり、それは人生のあらゆる側面に関係していると言う。これが、余暇が不可欠である理由であると彼は言う。しかし、今日のストレスの多い生活環境の結果として、「ほとんどの人が、反復的な作業プロセス、劣悪な環境、日々の活動の空虚さと反復性によって全く活力を失っているため、創造性はほとんど期待できません」とクレーム氏は付け加えている。
 さらに、広範囲にわたる貧困と社会的不公正の結果、地球上の大勢の人々は深く満たされない人生を送っている。彼らは、生き残るために十分な収入を得ることにのみ専念し、したがって余暇の機会を見つけることもない。クレーム氏は、人類の内なる真の霊的特質が現れるのを妨げているのは、この強制された貧困であると主張している。解決策は、世界の資源を分かち合うことである。これにより、すべての人が自分の基本的ニーズを満たすことができる物品を利用できるようになる。これは、国連の世界人権宣言に定められている基本的権利でもある。
 ベンジャミン・クレームは次のように書いている。「余暇のための教育は、内面のスキル、才能、潜在能力を伸ばす可能性を、現在では想像もできないようなやり方で人々に解放します」。そうした教育はどのようなものだろうか。バートランド・ラッセルにとって、創造的な余暇を楽しむために必要な能力、知識、習慣を人々に身に付けさせることは、教育の主要な目標の一つでなければならない。マックス・ヘイワード氏は次のように示唆する。「これは改革を意味します。高等教育の機会を大幅に拡充する必要がありますが、大学や学校のカリキュラムは、雇用に必要なスキルと同様に、創造的な芸術と純粋な好奇心の追求に重点を置く必要があります」
 この余暇教育の時代は遠い夢ではないかもしれない。今日利用可能なオンライン教材の膨大な多様性──あらゆることに興味を持つ人々が新しいスキルを学べるYouTubeのDIY動画、生涯学習の探究に利用可能な無料の大規模公開オンライン講座(MOOC)の拡大など──を考慮すれば、それはすでに進行中である。
 この前例のない地球規模の危機の時代において、より多くの余暇を可能にし、人間を解放することは、ルネッサンス──世界を真に変えることができる人間の創造性の繁栄──を推進する可能性を秘めている。

参考文献

ニューステイツマン誌およびワイアード誌
ベンジャミン・クレーム『生きる術』シェア・ジャパン出版、2006年
『いのちの水を運ぶ者』シェア・ジャパン出版

「当面の必要は、仕事の過程を変革し、日々の仕事の他は何も知らない無数の人々を、単純作業の苦痛から解放することです。……『道を示させてください──誰も窮乏することのない、より簡素な生活に至る道を。そこでは、同じ日が二度と繰り返されることなく、同胞愛の喜びがすべての人間を通して顕されるのである』(マイトレーヤ、『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第3信)

余暇とは、やりたいことをやり、肉体やマインドやハートを休ませることをやり、あるいは共同体のための仕事以外にあなた自身のために何かをやる時間を提供するものです」

──ベンジャミン・クレーム、『生きる術』

ジェレミー・レント氏との対談 疎外に対する解毒剤

フェリシティ・エリオットによるインタビュー

ジェレミー・レント氏は作家、講演者、非営利団体「リオロジー研究所」の創設者である。著書『意味の網』の書評がシェア・インターナショナル誌8月号に掲載された。

シェア・インターナショナル(以下SI):あなたの本について、聞かれればどんなコメントができるだろうかと考えていました。次のものに落ち着きましたが、あなたはどのように思われるでしょうか。ジェレミー・レント氏の最新刊『意味の網:宇宙での私たちの場所を見つけるために科学と伝統的な知恵を統合する』は、疎外に対する解毒剤である、というものです。

ジェレミー・レント:素晴らしい描写の仕方ですね。この本の本質的なテーマは、現代の世界観がいかに分離だらけであるかということです。この本は、分離が人間の経験や文明の方向にとって危険で害悪があるということだけでなく、全く間違ってもいるということを明らかにしています。別の世界観があります──つながりという世界観であり、世界中の伝統的な知恵の文化だけでなく、現代科学も指摘しているものです。それは、個人としての私たち自身や、地球に関連してすべての種にとっての、信じ難いほど肯定的な前進の道を示している見方です。

SI:現在の支配的な現実観は危険だと述べておられますね。どうしてそうなのか説明していただけますか。

レント:最も明白な理由の一つは、その現実観が文明そのものを、私たちが一部である「生きている地球」との、このような信じ難い不均衡へと追いやっているということです。私たちは皆、この状況が今世紀になって突きつけている気候崩壊と恐ろしい危険のことを知っていますが、それよりもさらに広範なのは、私たちが引き起こしている生態系全体の破壊です。もし転換を図らなければ、何らかの形の文明の崩壊へと至るでしょう。それよりさらに重要かは分かりませんが同じくらい重要なのは、この惑星上のいのちの豊かさと多様性の多くの崩壊です。とてつもない規模で起こっているため、極めて危険です。
 しかし、それは一人ひとりにとっても危険です。幸福感を奪い去ってしまうからです。現代の消費文化は、私たちが人生に満足しないように設計されており、長期的な幸福の道から私たちを遠ざけます。

SI:広告や大量消費主義の仕組みはとても狡猾です。一つの側面は次のような宣伝文句です。「欲しいでしょう。必要でしょう。あなたはそれに値しますから、買った方がいいですよ」。人間のいのちの価値は、知らぬ間にそうした考えと結びつけられ、人々はつい買ってしまいます。

レント:それは全く真実です。本当の統合的な幸福を培うことを取り上げた章で、このことについて詳しく掘り下げています。幸福とは実際のところ何を意味するのかを見てみると、消費社会はまさしく幸福をかき乱すように設計されているということが分かります。もっと油断がならないのは、私たちが集団として生活し、何百万年もかけて発達させてきた特定の中核的な人間の特徴があるということです。私たちは強力な道徳的感情を発達させてきました──周りの人から敬意を払われたい、のけ者になりたくない、自尊心を持ちたいという欲求のような感情です。しかし、広告戦略家が行ってきたことは、そうした感情を分析して倒錯させ、社会の福祉について私たちが持つ感覚をかき乱そうとすることです──そのようにして、必要だと告げられる商品を購入することで自己有用感が得られます。しかも、感情のレベルだけでなく、甘いものや油っぽいものを求める生理的な欲求までも利用し、心理面にも同じ働きかけをします。今では、金もうけのためだけに、私たちの性質のこうした多様な要素を操作するための洗練されたアルゴリズム(一連の手順)さえも存在します──これは本質的に、私たちをコンシューマー・ゾンビ(次から次へと買い続ける消費者)になるよう仕向けるものです。

SI:そのとおりです!  それをお聞きしたところで、あなたの本の構成の話に入りたいと思います。とても魅力的な構成になっていますね。「私は誰か」という、ちょうどあなたが書き始めているところから話し始めるべきでしょう。私たちのアイデンティティー(独自性)が操作されていることについて話しているからです。

レント:この本は実際、いくつかの大きな疑問を中心に構成されています。「私は誰か」「私はどこにいるのか」「私は何なのか」「私はどのように生きたらよいのか」「私はなぜいるのか」といった疑問です。いずれの場合にも、こうした疑問に対する現代の主流の答えを見ていくと、その答えは科学的に間違っているだけでなく、有害であるということが分かります。それからこの本は、こうした疑問に対する異なった答えの可能性を探っています。
 「私は誰か」について検討するときは、現代の世界観が私たちに告げていることから始めるのが最適でしょう。それは実際のところ、デカルトの有名な言葉「我思う、故に我あり」で始まり、そして終わります。デカルトや彼に続く多くの人が述べたことは、私とはその思考能力であり、概念化する能力を持つ脳のその部分であり、知能テストで測定できる部分であるということです。それが本当の自分であり、「私」のその部分はこの肉体に宿っている。肉体は機械であり、私の思考を司る部分を支えるためだけにあるというのです。
 もちろん、もしそれが本当なら、動物は私たちのように象徴的な方法で考えることができないので、動物が実際のところ存在しないのは明らかだということになります。動物は単に、私たちが搾取する物的資源として存在するということになります。私たちは本当のところ、自分自身の肉体存在から分離し、自然界から完全に分離しているというのです。自然界のすべてはただ私たちのために存在するものと考えられます──私たちだけが真の存在だというのです。しかし、それが根本的に間違っていることを現代生物学は明らかにしています。
 私たちは確かに、デカルトが語ったその部分でありますが、「生きた意識」でもあります。私たちは生きた存在であり、それをすべてのいのちと共有しています。

SI:「生きた」という言葉は、意識や認識を意味するために使っているのですか。

レント:はい。知覚、感受性のことです。生きているすべての存在に内在するものです。現代生物学が明らかにしたのは、私たちが自慢することのある概念的知性よりも、この知覚は多くの点でずっと賢く、ずっと深く、より複雑であるということです。概念的知性は私たちの一つの側面にすぎません。氷山のてっぺんを見て、そこにあるけれども目に見えない広大な知性を考慮に入れないようなものです。
 知性を持つのは特定の動物だけではなく、樹木さえも知覚を持つことを生物学者たちは明らかにしています。樹木はおよそ30~40の異なった感覚を持っています──私たちよりも多く持っています。それらをすべて統合し、そうした感覚に基づいて一瞬一瞬、判断を下します。樹木は一種のワールド・ワイド・ウェブ(世界に張りめぐらされた網)の中でお互いに意思疎通を図ります──  一つの共同体として意思疎通を図り、資源を共有し、知性を共有しています。樹木だけではありません。細胞生物学者たちが発見したのは、すべての微小な細胞(人体にあるのはおよそ40兆個)には何十という通路があり、細胞はそれを通して周囲の状況を監視し、何を取り込み、何を外に出すかを決め、複雑な方法で自らを組織立て、周りの細胞の共同体と一緒に働いて、何をしたらよいかを決めます。それが自然界のすべてにある知性であり、私たちが共有しているものです。
 私たち自身のこうした二つの部分──生きた知性と概念的知性──を認識し、私たちとは統合された心身の知性だということを認識すれば、もっと統合的な人生を送り始めることができます。

SI:それをお聞きしたところで、あなたが取り上げている次の疑問、「私はどこにいるのか」に移りたいと思います。

レント:私たちが当然と見なしていること、つまり、私たちは連結していないバラバラの宇宙に生きているということを検討することから始めるのが最適でしょう。ここ数百年間、現代科学は、事物を理解するために事物を分析し、より小さな部分へと分解することを大がかりに行ってきました。それは還元主義です──あらゆるものをできる限り分解することです。私は還元主義に何の反感も持っていませんが、人々は宇宙全体を説明するのにこの方法を用います。私たちはバラバラの宇宙に生きており、分離した別々の部分を見ることによって宇宙を理解することができるといいます。現代科学はそうした概念を拒絶します。システム科学、複合科学、システム生物学、そしてネットワーク理論さえも、すべてが事物のつながりを調査する科学です。そうした科学が明らかにしたのは、事物のつながりが、事物そのものよりも理解にとってはるかに重要だということです。
 中国の「理」という概念は、仏教や道教、儒教を、宇宙を理解するための統合的な方法にした賢者たちの学派、朱子学派に由来します。宇宙は「気」から成っていると彼らは理解しました。気は、エネルギーと物質であると考えることができます。「理」は、すべてのそうしたエネルギーと物質が結びつき合って、私たちが経験するあらゆるものを形成する拠り所となる原理と考えることができます。同じように、現代において科学者たちは、いのちや全宇宙を創造するためにすべてのものが自らを組織立てるための原理を調査しています。そうした自己組織化の原理は、複雑なシステムを理解するための鍵です。複雑なシステムとは、私たち自身や私たちの社会、いのち全般のことです。
 ですから、「私たちはどこにいるのか」という疑問に対しては、複雑な、結びつき合った宇宙に生きているという答えになります。他のすべてのものが生きる拠り所となる同じ原理により私たちは生きています。何十億年もかけて発達してきたいのちの複雑さと、現代生物学が明らかにしているその複雑さにおける大きな飛躍はすべて、より良く協力する方法を学んだ異なる有機体から生じた飛躍でした──自らの技能と能力を分かち合うことによって、相互に有益な共生関係を発展させることができたのです。そうした共生関係は、いのちの豊かな多様性の基盤になるものです。

SI:あらゆるものには居場所や意味、目的があるということや、すべてが組み合わさっているということ、すべてが必要とされているということを、人々は理解し始めていると思います。私たちは不幸にも、自分たちが自然界に引き起こした破壊を通してこれを理解しました。連鎖の一つの小さな連結部を壊せばどうなるかを理解しています。
 私たちが誰であり、何であり、どこにいるかをいくらか知ったところで、あなたが問いかけたとても大きな疑問を扱うところまで来ました。もしいのちがそれ自体により自ら組織立つとすれば、「私はどのようにあるべきか、どのように生きるべきか」という疑問です。あなたのような多くの思想家はこう述べています。「今は極めて重要な瞬間である。私たちは移行しなければならない。変わらなければならない。この機会をつかむ必要がある」と。それでは、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。

レント:私たちすべてがこのような問いかけをすることが、これほど大切になったことはかつてほとんどありませんでした。またしても、主流の文化からは、自然界を最大限に搾取すべきだと聞かされます。別々の個人として、他のあらゆるものを犠牲にして、自分自身の幸せと自由を追求するためにどんなことでもすべきだといいます。そのようにしていると、何かの魔法によって、もっと効率の良い社会が創造され、すべての人が勝者になるというのです。

SI:こうした支配的な神話がどのように資本主義を益することになるかを理解しておられますね。こうしたアイディアは互いに完全にかみ合っています。

レント:おっしゃるとおりです。実際に、偶然ではありません。その二つがかみ合っているのは、存在論的に見て同じ根から形成されているからです。今日の私たちの価値観や経済、グローバル文化を駆り立てている世界観の鍵となる要素のいくつかは、17世紀以降、あらゆるものを変革した科学革命に由来します。ヨーロッパの数カ国が自国の利益のために世界を支配した際の資本主義、植民地主義をご覧ください。人種差別、白人優越主義さえも、すべて17世紀あたりにヨーロッパの同じ場所で始まりました。それらはすべて、同じ根本的な理解に由来します。つまり、採取、搾取はやってもよいことであるだけでなく、人間がやるべきことだという考え方です。
 他の生き方はあるのでしょうか。非常に多くの偉大な知恵の伝統が私たちに示していることを私は伝えているにすぎませんが、別の生き方は確かにあると私は信じています。それは、私たちが相互に深く結びついているという認識に基づいています。私たちは、いのちであるということや、周りすべてにあるこの偉大な生きた知覚の一部であることをいったん認識すれば、次に認めなければならないことは、私たちがすることの多くは人間優位の考え方に基づいているということです。人種差別の土台となっている白人優位だけでなく、自然界のすべてが私たちのためだけに存在するという考え方です。現時点においてより啓発されている人々でさえ、いまだに主流派が考えるように考え、次のようなことを思いつきます。私たちはもっと持続可能になる必要がある。そうすれば、数世代だけでなく、ずっと長く繁栄できるようなやり方で自然界を利用することができるといいます。それは地球を破壊するよりはましですが、アルネ・ネスの言う「エコロジカル・セルフ(生態学的自己)」についての理解へはまだ移行していません。アルベルト・シュバイツァーの言葉を借りれば、「私は、生きようとする大生命の只中にいる、生きようとするいのちである」ということです。彼は続けてこう述べています。「したがって、私はすべてのいのちに畏敬の念を抱かざるを得ないのである」と。「私たちはいのち全体だ」というような理解へと移行するとき、すべてのものとの関係の仕方が完全に変わります。
 世界を見て、人間には何か本質的に悪いものがある、と考える人もいます。私たちは地球上のがんだ、と。そんなことはありません。社会のがんは、非常に支配的になっている資本主義的搾取の世界観です。地球との共生関係を保ちつつ生活する方法を見つける方向へと、私たちは自然に引き寄せられているというのが本当のところです。先住民の文化では常にそうしてきました。仏教や道教のような伝統もそうしたことを指摘しています。

SI:ご存じのように、私はいわゆる「不朽の知恵」の教えの背景から語り、働いています。一つの根本的な教義は、分離は非現実だということです。それは科学的にも、哲学的にも、生物学的にも現実ではありません。分離は存在しません。人々はこのことを経験し始めています。あなたは疎外に対する解毒剤である、と述べることから私は話し始めましたが、私たちの多くはまさにそうした疎外に苦しんでいます──自然界からの疎外、お互いからの疎外に。私たちは今、いのちと関係し合い、居場所を見つける正しい方法を見いだす必要があります。

レント:確かに。私たちに希望を与えてくれるのは、そうするための既知の道筋があるということです。(植民地主義以前の)世界中の先住民の伝統は、自然界と関係する方法を見いだしていました。それは、人間と自然界の残りの部分が互いに恩恵を受ける共生関係でした。現代版は、古代からの伝統的な知識に啓発されつつも、現代の知識と技術を取り入れたパーマカルチャー(永続可能な農業をもとにした永続可能な文化)でしょう。そのようにして、自然界と闘ったり自然界を支配したりするのではなく、自然界と協力していくのです。これによって、人間が生態系と共に栄える状況がつくられます。私たちは生態系の中に組み込まれているわけですから。

SI:こうして、「私はなぜいるのか」という大きな疑問に至りました。

レント:私にとって、それは究極の疑問です。他のすべての疑問がそれにつながります。現代の見方がどんなものかを振り返ると、その見方はかなり悲観的です。ノーベル賞を受賞した物理学者、スティーブン・ワインバーグのような還元主義の科学者たちは、「宇宙について知れば知るほど、宇宙はますますつかみ所がなくなるように思える」と言います。彼やリチャード・ドーキンスらはこう言います。「まあ、そんなものですよ。選択をしなければいけません。何らかの空想的な『超自然的な』考え──神や霊、他の次元など──を信じたければ、信じてください。それで気分が良くなるのであれば。しかし、そういうものはすべて、でっち上げられたものだということを知った方がいいですよ。これが現実です。この現実と共に生きなければなりません」と。こうした実存的な絶望が現実であると私たちは教えられます。しかし、相互に深く結びついた場所として世界を見ると、私たちの人生の意味がそこから生じていることが分かります。意味そのものが、つながりの一つの働きだということを私たちは知っています。これは、知覚力のある存在として、意味への波長の合わせ方を通して私たちがこの宇宙の中で行っていることです。意味は、私たちの周りすべてに潜在しています。私たちには選択の余地があります。目を閉ざして、マヒ状態に陥ったままでいることもできるし、この宇宙に本来備わり潜在しているそうした意味に満ちた世界に精神を同調させることもできます。私たちがそうしたものとつながることを選択すれば、ですが。

ジェレミー・レント『意味の網:宇宙での私たちの場所を見つけるために科学と伝統的な知恵を統合する(The Web of Meaning ── Integrating Science and Traditional Wisdom to Find Our Place in the Universe)』プロフィール社、ロンドン、2021年6月

「あなたは確かに知っているから」

「プロアクティバ・オープンアームズ」は、海上での探索救難(SAR)に専念するスペインの非政府組織(NGO)である。このNGOはレスボス島に恒久的な基地を持つだけではなく、エーゲ海や地中海中央部で救助活動を行っている。サビナ・クレシが、本誌のためにプロアクティバ・オープンアームズのマール・サベ氏にインタビューを行った。

シェア・インターナショナル(以下SI):オープンアームズはどのようにして始まったのですか。
マール・サベ:オープンアームズは一枚の写真に応えて始まりました。それは、2015年9月にトルコの海岸で遺体で発見された3歳のアラン・クルディちゃんの写真です。当時、スペイン東岸のバダロナを拠点とする海難救助会社を経営していたオスカー・キャンプスは、その写真がメディアに出された日に11歳の娘と一緒にいました。娘はオスカーに対して、彼がライフガード(水難救助員)であるのに、なぜ海岸に亡くなった子供がいるのかと尋ねました。オスカーは自問しました。「何が起こっているのだろうか。自分はライフガードであるが、亡くなっていく子供がいても、自分は何もしていない」
 そして、彼と会社のもう一人のライフガードはギリシャのレスボス島に行きました。スペインや他のヨーロッパの人で、レスボス島で何が起こっているのかを知る人は誰もいませんでした。彼らに分かったことは、想像よりもはるかに酷いものでした。そこには、NGOや政府関係者など、人々を救う人は誰もいませんでした。このことがはっきりと分かったのは、2015年10月28日にギリシャで最悪の難破事故に直面した時でした。400人以上の人が乗った船がエーゲ海で転覆しました。オープンアームズのわずか4人のライフガードと何人かの地元の漁師がそこに行き、乗船していた人々を救助しました。漁師は網を使って海中から人々を救出しました。しかし、多くの人が溺死してしまいました。
 ギリシャ政府は次の日、死亡者はわずか5人であったと発表しました。オープンアームズのライフガードは、それが真実でないと知っていました。彼らは人生で初めて、誰を救うかを選ばなければならなかったのです。起こっていることを世界に知らせなければならないと悟りました。もちろん、海の中では誰もいなかったので、そうしなければ誰も知ることはなかったからです。そのためオープンアームズは、乗船しているジャーナリストにその任務についてすべてを語り始めたのです。コミュニケーションは活動の非常に重要な部分です。
 オープンアームズは、決してあってはならない存在です。その目標は常に変わらず、無くなることです。しかし、オープンアームズの船が外洋に出るときは、いつでも手遅れです。各国政府が関わりを持ち、移民する人々を守るべきだと思います。

S I:オープンアームズの活動中に、地中海の状況に変化はありましたか。
サベ:はい、状況は悪くなりました。2015年には、エーゲ海の状況は非常に困難でした。多くの人がギリシャの海岸に辿り着こうとしていました。オープンアームズは、毎日何千人もの人々を援助していました。そして2016年3月には、欧州連合はトルコとの間で、60億ユーロと引き換えにEUへの非正規な移民者の流入を制限する協定を締結しました。ギリシャの海岸に辿り着こうとする人の数は、すぐに1日に数千人から数十人に落ちました。オープンアームズは、必要な場合に備えて現地にチームを一つ残していましたが、必要がより大きな地域に活動を集中することを決定しました。
 地中海中央部の移民ルートは世界で最悪の移民ルートであり、当然の選択でした。わずか4カ月の内に、オープンアームズは1万5,000人以上の人々を救助しました。当時は複数のNGOから13の船が来ており、すべてがイタリアの湾岸警備隊と協力していました。これらすべてのNGOが一緒に、そして各国政府と協力してよく働きました。彼らは多くの人の命を救い、保護することができました。
 しかしながら現在では、このルートにはオープンアームズの船が一つあるだけです。なぜでしょうか。それは関係各国の政府が、基本的には政治的理由で他のNGOの活動を強制的に停止させたからです。オープンアームズは人々の命を救うだけではなく、何が起こっているのかを世界に伝えているので、政府はオープンアームズに出て行って欲しいのです。
 ヨーロッパは現在、何が起こっているのかを知りたいと思っていません。もしヨーロッパの人々が知れば、それについて何かをしなければなりません。そこはヨーロッパの海岸であり、それはヨーロッパの責任です。ヨーロッパに流入する移民を防止する条約に調印したヨーロッパの国々は、彼らが来ないようにすることにも取り組んでいます。そのため、オープンアームズは歓迎されていないのです。それは、オープンアームズがなぜ多くの困難に直面しているかという理由でもあり、その困難は年々大きくなっています。そして現在、新型コロナウイルスにより、すべてが悪化しています。移民者がコロナウイルスを持っているかもしれないという言い訳を各国政府が使用できるからです。オープンアームズは、それぞれの任務の前後で乗船するすべての人に検査を実施していますが、乗組員が次の任務を開始できるようになる前に、2週間の検疫期間を強制しています。これは、オープンアームズのすべての船に適用されます。(移民者は他の船で、または上陸後に検疫を受けます)

S I:オープンアームズが救う人々には、あらゆる年齢の人がいますか。
サベ:今はそうではありません。ギリシャでは[2015年には]様々な年齢の人がいましたが、現在では違います。オープンアームズが出会う移民者は何年も旅を続けてきた人々であって、拷問や迫害を受け、泥棒に合い、レイプされてきた人々だということを理解する必要があります。最後までやり抜く人々は最も強い人々であり、残念なことにすべての人がやり抜く訳ではありません。私たちは多くの子供を救助しており、それはもちろん悲惨なことです。オープンアームズの最後の任務では6カ月の赤ちゃんが救助されましたが、その男の赤ちゃんは2時間の心臓蘇生の末に結局は亡くなりました。残念なことに、妊娠した女性もたくさんいます。その多くはレイプされた結果です。それは狂気の沙汰であり、本当に辛いものです。

S I:オープンアームズは、より良い生活を求めて移民する人々の他に、戦争や紛争から逃れる人々にも遭遇しますか。
サベ:人がなぜ逃れるのかは、オープンアームズとは関係ありません。あなたがロンドンに行って英語を学ぶ権利があるのなら、なぜこのような人は、行きたい場所に行き、したいことをする権利を持たないのでしょうか。

S I:オリジン・プロジェクトは、現在オープンアームズの活動の大きな部分です。その目的は何ですか。
サベ: オープンアームズが始まったとき、救助した人々を最も近い安全な港に連れて行くことができませんでした。船にはその港に入港する準備がなかったため、何時間も離れた場所に行きました。後に(2017年)オープンアームズは船を取得し、それが可能になりました。その結果、オープンアームズの人員は、救助した人々と一緒に時間を過ごしました。多くの人は戦争中ではない国、どのような形でも紛争中ではない国から来ました。これは、戦争中であるシリア、イラク、イエメンから来てギリシャで救助された何千人もの人とは対照的でした。
 オープンアームズのボランティアは、セネガル、モーリタニア、コートジボワールから来た人々に、もし旅の行き先がリビアだろうと知っていたら国を出ていたかどうか質問することを始めました。リビアは完全な地獄です。そこでは人が奴隷として売られ、拷問され、レイプされます。このことはリビアにいたことのある多くの組織が示しており、ジャーナリストが非難しており、オープンアームズが救助するすべての移民者がこれを確認しています。オープンアームズのボランティアは、このような移民者に次のような質問をします。「もしこれらすべての問題と遭遇すると知っていたら、砂漠を横断しなければならないと知っていたら、あなたは家を出ていましたか」。彼らは知らなかったと答えました。もし知っていたら、絶対に国を出ることはなかった、絶対に旅を、少なくともこのような形で始めることはなかったと言いました。オープンアームズは、この情報を知らせる必要があると考えました。砂漠で起こることを誰も話しません──それは広く知られていません。しかし、多くの人が砂漠で亡くなっているのです。
 そのためにオープンアームズは、オリジン・プロジェクトを開始したのです。オリジン・プロジェクトは、移民問題に長年取り組んできた、移民者が出発した国の地元NGOとの協力関係をつくり出します。人々がこの旅に出れば遭遇することが予想されることについてうわさを広めるのに役立つよう、手段や戦略、方法論は共有されます。地元企業との協力で経済的な機会が生み出され、移民とは別の選択肢を提供します。通常の移民に関する情報も提供されます。しかし、オープンアームズは、人々に何をするのかを伝えるわけではありません。彼らは自由に判断を下さなければなりません。

S I: 欧州連合はドローンを購入して地中海で飛ばし、そこで何が起こっているかを観察しています。(1) あなたはEUが何をしようとしているのかをご存じですか。
サベ:2013年にランペドゥーザ島の近くで大規模な難破事故がありました。イタリア政府は乗船していた人々を救うことが可能であったのに救わなかった、とする報告書を国連は発表しました。移民分野で法的義務の遂行を怠ったとして国連がヨーロッパの国を直接に非難したのは初めてのことです。
 その難破事故の後、イタリア政府は海洋で遭遇した人々の命を守るための「マーレ・ノストラム」と呼ばれるプロジェクトを開始しました。1年後、EUはマーレ・ノストラムへの支援を停止し、(2)「フロンテクス」(3) が運営する新たなプロジェクトを開始しました。しかし、フロンテクスの目的は国境を守ることであり、人権を守ることではありません。そのためフロンテクスは、多くの労力とお金(船舶、ヘリコプター、航空機)を、他のどの場所でもなくヨーロッパの海岸に注ぎ込んだのです。
 もちろん、アフリカからヨーロッパに行くためには、長い距離の国際水域を横切る必要があります。これらの海域で発生する可能性のあるすべてのことは、自分たちの責任ではないから「知らない」という考え方でした。欧州連合はその加盟国が調印した条約をもはや支持しておらず、むしろヨーロッパ人の特権を保護しているとオープンアームズが認識したのは、その時でした。オープンアームズは現在、ヨーロッパには人権は存在しないと主張しています。その代わりに、ヨーロッパ人の権利、むしろ特権があります──それはアフリカの様々な地域から逃れてきた人々の特権や権利とは反するものです。
 オープンアームズは、このことを2014年に初めて知りました。このことは、フロンテクスが新たな業務を作り続けるにつれてさらに高まりました。フロンテクスが最後に人を救助したのは、オペレーション・ソフィアと協力していた時でした。オペレーション・ソフィアは船を使いました。海洋法では、どのような船に乗っていようとも、もし難破した船を見た場合には、乗船している人々を救助する義務があるとされています。それを見なかったふりはできません。そうすると、罪を犯していることになるからです。オペレーション・ソフィアは海で人々を救助しました。それでも、移民者が辿り着くには困難な地域であったので救助された人は少数であり、多くの人がすでに溺死していました。
 2020年3月、オペレーション・ソフィアは終了し、オペレーション・イリニが開始されました。このオペレーションでは、船を使わずに飛行機のみを使います。上空から移民者を見ることができますが、救助はしません。海上の船の上にいるわけではないので、救助する義務はないのです。(4)
 それは、地中海で何が起こっているかを調査する範囲を完全に変えることに向けて、さらに一歩踏み込むものです。フロンテクスが地中海での移民者の状況へのアプローチを変えていることを前提とすると、フロンテクスはおそらくこのような方法、ドローンを使用した活動を続けるでしょう。

S I: NGO「アラームフォン」(5) は、このように主張しています。「ヨーロッパの活動主体は、義務に縛られないように、海での存在感を無くそうとしていると私たちは考えています。彼らは存在感を示し続けていますが、それは空からの探索であり、そうすればリビアの海岸を出発する複数の移民船に気づき、その情報をリビアの沿岸警備隊に提供することができます」
サベ:オープンアームズは、アラームフォンと非常に密接に連携しています。オープンアームズは人々を救助できますが、何が起こっているのかをアラームフォンに伝えてもらう必要があります。
 2017年にイタリアとスペインは、リビアのいわゆる沿岸警備隊のトレーニングを開始しました。その当時はリビアに政府が存在しなかったので、それはリビアの本当の沿岸警備隊とは言えませんでした。イタリア、スペイン、ヨーロッパ全般が行っているのは、リビア内の他のグループと共謀している反政府軍に物資とトレーニングを与えることです。その結果、これらの国々はリビアの内戦に参加していることになり、最も苦しむのは常に移民者なのです。リビアの沿岸警備隊は、リビア政府と共にある現在でさえ、リビア沖の移民者の命を救うことができません。(6)

S I:オープンアームズは危機の解決策は何だと考えていますか。解決策はどこから生まれますか。それはどのように機能しますか。
サベ:多くの可能な解決策があります。もしヨーロッパの各当局が、壁を建設し国境を守るために現在使用している予算や資源を命を守るために投入すれば、全く新しい戦略となるでしょう。戦略の完全な変更が必要です──もしヨーロッパが本当に人権を気にかけるのならば、ですが。
 ヨーロッパでのポピュリズムとフェイクニュースの高まりは、極右政党がヨーロッパの政治分野で立場を得ることにつながっています。ヨーロッパ中で右翼への段階的な移行があり、それまで一度も右翼的でなかった政党でさえも、今ではこの種の話法を受け入れ、この動きに応答しています。現在では、白人の人権はありますが、黒人の人権はありません。人権が普遍的なものに違いないと認められれば、すべてが変化するでしょう。

S I:人権侵害の多くは、地元レベルでも国際レベルでも、少なくとも当初は法廷を通して解決されます。ヨーロッパの各国政府や欧州連合に対して起こされている海洋の移民分野での人権侵害に関わる裁判の事例はありますか。
サベ:オープンアームズは、2019年にイタリアの副首相、内務相であるマッテオ・サルヴィーニ氏を提訴しました。オープンアームズの船は、サルヴィーニ氏がつくった治安判決が理由で2019年8月にランペドゥーザ島のドックへの入船を許可されませんでした。(7)
 19日間、彼は私たちの船のドックへの入船許可を出すことを拒否しました。私たちは、誘拐、政治的虐待、文書詐欺で彼を告訴しました。この裁判は進行中です。(8)法廷を通して裁判を進めることは重要ですが、何が起こっているのかを説明することで人々の考え方を変えることも重要です。メディアはそれを行う力を持っています。
 オープンアームズの第一の目的は無くなることですが、その活動が必要とされる限り無くなることはできません。この仕事を確実に実行する政治家、人命を守ることに本当に集中する政治家が選ばれるまで、オープンアームズは必要とされ続けるでしょう。こうした変化を起こすために、社会は力を持つ必要があります。そのために、オープンアームズと一緒に活動を続けるすべての人が、自分が見てきたものを、戻った時に話すのです──子供の学校や職場で、そしてオープンアームズの活動について話すことを求められたらどこでも。そうすれば、地中海で何が起こっているのかを知らせることができます。

S I:オープンアームズは、多くの賞を受賞しました。市民社会がオープンアームズの活動を評価しているのは明らかです。課題は、これをアイディアに対する政治的支援、人命を尊重し救うプロジェクトに変えていくことです。国連はこれを支援するために、何らかの声明を発表したり、何か前向きなことをしたりしたでしょうか。
サベ:オープンアームズは国連に登録されており、欧州議会、欧州委員会、多くの国の政府から表彰されています。しかし、オープンアームズには、表彰は必要ありません──必要なのは彼らに仕事をしてもらうことだけです。オープンアームズは賞を受けるたびに、このことを公に主張しています。
 オープンアームズは、寄付者の支援のおかげで活動をすることができます。予算の90%以上が小規模な寄付で賄われており、それが推進力なのです。オープンアームズは完全に独立しており、どの国の政府にも依存していません。

S I:今現在、オープンアームズの最大の課題は何でしょうか。
サベ:いつもどおりに、海上と陸上で人権を守り続けることです。各国政府、メディア、フェイクニュース・キャンペーンがこれに反しており、オープンアームズのボランティア個人の命にも反しているので、これはとてつもない課題です。課題は単純に継続することです。

S I:他に何か付け加えることはありますか。
サベ:オープンアームズに声を与えていただき、ありがとうございます。一般のヨーロッパ人にとって最も重要なことは、これは私たちが招いたのだと認識することであると、私は思います。人はしばしば、自分には何ができるのだろうか、何が最も必要なのだろうかと自問します。まず初めに、それが起こっていることを認識することです。20年か30年後に誰かがあなたの家に来て「あなたのまさに目の前でこの虐殺が起こっていた時に、何をしていたのですか」と尋ねたときに、知りませんでしたとは言えません。あなたは確かに知っているからです。オープンアームズはあなたに伝えていて、このことのすべてを説明しようとしているのです。情報はここにあります。問題は、それがかなり隠されている場合があることです──それを隠そうとする意思が存在するからです。
 それについて知ることは、ヨーロッパ人として私たちの責任であり、また、それが起きていることへの責任が私たちにあります。なぜなら、私たちは皆変化の一部であるからです。

S I:つまり、私たちはそのような政治的な声を使う必要があるのですね。

サベ:はい!

参照文献
(1) 英国、ガーディアン紙
(2) イタリア政府はマーレ・ノストラムに、その活動中の12カ月間で月に900万ユーロを費やした。欧州連合はその年、外部国境基金から180万ユーロを供出した。(ウィキペディア)
(3) フロンテクスは欧州連合の国境安全保障機関である。
(4) 「2021年の地域の犠牲者数が1,000人に近づく中で、リビア沖で難民船が転覆し、57名が死亡した。国際移住機関は、死亡者数の増加を海域パトロールの減少と関連づけている」(英国、ガーディアン紙)
(5) 活動家プロジェクト「WatchTheMedアラームフォン」が2014年秋に開始され、海上で困難な状況にある移動者のためのホットラインとして機能している。(「ムーブメンツ──移民・国境体制に関する批判的研究ジャーナル」)
(6) 「今日は休日だ──地中海の移民者が置き去りにされ亡くなったことが盗聴により判明」
スクープ: 流出ファイルに含まれていたイタリア当局者とリビア沿岸警備隊との会話記録(英国、ガーディアン紙)
(7) 2019年8月5日にイタリア上院で可決されたいわゆるサルヴィーニ法は、地中海で救助されたアフリカの移民者をイタリアに連れて来ようとする人道的慈善行為に対する制裁を強化した。(テレスール・イングリッシュ)
(8) イタリアの前内務相、マッテオ・サルヴィーニ氏は、2019年8月にスペインの移民救助船を2週間以上も海上で足止めした罪で公判に付される命令を受けた。シシリアでの法廷審問では、ロレンツォ・イアネリ判事は2021年9月15日を公判期日と設定した。パレルモの検察は、サルヴィーニ氏を職務怠慢および、オープンアームズの船舶と147名の救助された乗客がイタリアのドックへ入船するのを19日間拒否したことによる誘拐の罪で告発した。入船拒否の間、船長が安全な最寄りの港を必死に求める中、絶望のあまり船外に身を投げる移民者たちもいた。最終的には裁判所の命令により、残りの89名の乗船者は2019年8月20日にランペドゥーザ島への上陸を許可された。
(euronews.com)

リチャード・D・ウルフ著 『病んでいるのは制度である』

セバスチャン・ヴィユモによる書評

新型コロナウイルス感染症の大流行は、私たちの経済制度の欠陥について何を明らかにするのだろうか? この悲劇は、重大なシステム変革のきっかけとなり得るのか? マサチューセッツ大学アマースト校経済学部の名誉教授であるリチャード・D・ウルフ氏は、最新の著書『病んでいるのは制度である──資本主義がパンデミックや資本主義そのものから私たちを救えないとき』でこれらの疑問に答えようとしている。

 ウルフ氏はこの短いエッセイ集で、現代の問題の多くが、私たちが生きている経済制度、すなわち資本主義に根ざしていることを論じている。
 今や世界中で主流となっている資本主義制度は常に様々な問題に悩まされているが、本質的に不安定であることは最も重要な問題の一つである。ウルフ教授は、資本主義は定期的に、ひどさに程度の差はあるものの、崩壊していると指摘しているが、これは通常「景気循環」と呼ばれる現象だ。このような危機は、平均して4年から7年に一度の割合で起こる。21世紀だけを見ても、2000年から2001年のドットコムバブル、2007年から2008年の世界的な金融危機、そして現在のコロナ危機と、すでに三つの大きな景気後退を経験している。興味深いことに、これらの出来事は、そのきっかけとなった要因にちなんで命名されることが多く、資本主義そのものの崩壊として紹介されることはない。しかし、崩壊が繰り返し起こっているという事実そのものが、崩壊が資本主義制度の本質的な特徴であることを示している。特に、コロナが引き金となって現在の不況を悪化させたことは事実だが、いくつかの経済指標は、コロナのパンデミック以前に資本主義はすでに危機に瀕していたことを示している。もしコロナウイルスがなければ、別の引き金が崩壊を引き起こしていただろう。
 もちろん、このように繰り返し起こる危機は、抽象的な出来事ではない。何百万もの人々、特に社会階層の底辺にいる人々の生活に、はっきりと目に見える形で、しばしば悲劇的な結果をもたらす。収入や仕事が失われ、個人やビジネスのプロジェクトは失敗に終わり、家族や社会的なつながりはなくなり、身体的・精神的な病気が発症する。資本主義制度の不安定性にかかる人的・社会的コストが莫大であるため、何十年にもわたって様々な解決策(ケインズ主義的な政府支出計画、新自由主義的な緊縮財政と構造改革、積極的な金融政策)が試みられてきたが、いずれも資本主義の好不況を抑えることはできなかった。
 ウルフ氏は、現在の経済的・社会的危機に対する責任は、コロナウイルスよりも資本主義制度の方にあることを示した上で、資本主義がいかにしてコロナウイルスへの備えと封じ込めの両方に失敗したかを暴露している。
 歴史上、人類は新興の病気に繰り返しさらされ、時には非常に多くの犠牲者を出してきた。さらに具体的に言えば、ここ数十年で、新しい呼吸器系ウイルス(SARS:重症急性呼吸器症候群、MERS:中東呼吸器症候群)が出現した。そのため、おそらくコロナウイルス系列の別の呼吸器系ウイルスが大規模なパンデミックを引き起こし、私たちの社会生活を混乱させるのは時間の問題にすぎないと、科学者たちは警告していた。警告されていたにもかかわらず、なぜ私たちはコロナが発生したときにほとんど準備ができていなかったのだろうか。その理由は、やはり社会経済的な構造にある。資本主義の論理では、企業は利益が見込まれる場合にのみ生産を行う。新しい呼吸器系ウイルスの出現に備えるには、マスクや人工呼吸器を備蓄したり、予めコロナウイルス向けのワクチンや治療法を研究したりする必要がある。しかし、このような活動は、経済的にリスクが高すぎるのだ。パンデミックはいつ、どのように起こるか前もって分からないため、民間の医療機関はパンデミック予防に関するリスクをとりたがらず、むしろ、別のより利益を多く生むチャンスに重点を置きたいと考えている。
 このように資本主義が不完全であることを考えると、政府が介入してマスクや人工呼吸器を購入して備蓄したり、医療研究に直接資金を提供したりすることが解決策となるだろう。興味深いことに、ウルフ教授は、軍事分野ではすでに政府がこのようなことを行っていると指摘している。なぜなら、軍事的な紛争は予測不可能であるため、民間企業が武器やさまざまな機器を製造したり、新しい技術を研究したりしても利益にならないからである。国家安全保障があまりにも重大であるため市場原理に任せられないならば、なぜ間違いなく同じくらい重要である医療について同様のことが行われていないのだろうか。その答えは、特にアメリカでは、民間の医療機関が政府に自分たちの怠慢を暴露されたくないからであろう。彼らは医療から利益を得続けたいと考えており、持ち得る政治力をすべて使ってあらゆる公的介入を「社会主義」として悪者扱いすることに成功している。
 したがって、資本主義は崩壊しやすく不十分なものであり、公衆衛生上の緊急事態から私たちを守ることができない。しかし、ウルフ教授が示すように、資本主義は、不平等、失業、民主主義の危機、人種差別、性差別など、社会的な病気の多くに関しても責任を負っている。
 不平等は資本主義につきものである。ごく少数の人々と雇用者だけが経済的意志決定権のほとんどを握っているので、当然、彼らが最も多くの収入を得ることになる。さらに悪いことに、このような不平等が放置されたままだと、時がたつにつれて何世代にもわたって不平等が拡大していくという制度の論理がある。歴史的に見て、この傾向は1930年代のように人々が大規模に抗議して立ち上がった時にのみ中断されてきた。
 このような構造上の不平等は、それ自体が問題であるだけでなく、民主主義の質にも悪影響を及ぼす。より経済力のある人々は、献金を通じて直接的に、あるいは政府が従わなければ「投資ストライキ」を行うと脅すなど間接的に、政治的決定に影響を与えることができる。したがって、資本主義は、政治の世界において私たちを不平等にするため、民主主義の原則を揺るがすものと言える。
 大量の失業は、資本主義の構造的特徴の一つだ。すべての人を働かせることが、社会全体の利益になることは明らかであり、より多くを生産することでより多くの利益を得ることができる雇用者にとっては短期的な利益になるかもしれない。しかし、資本家は失業者の「予備軍」を維持することでも利益を得ている。失業の脅威は、従業員に言うことを聞かせるために利用されている。従業員は、解雇されて、より低賃金で働くことを希望する失業者候補にすぐに取って代わられないように、低賃金と悪い労働条件を受け入れざるを得なくなる。したがって、資本主義制度は定期的に非常にたくさんの失業を発生させており、これが利益率を維持し、従業員に対する雇用者の支配を強化するのに役立っている。
 このような考え方に基づいて、ウルフ氏は性差別や人種差別が、それぞれの原因が経済分野の外にあるにもかかわらず、資本主義の利益のために利用され、加速する過程についても述べている。
 資本主義制度は極めて不適切であるため、どのようにして私たちはより良い制度に移行するのか。様々な改革の試みがこれまでになされてきた──特に米国のルーズベルト大統領の時代に顕著であった──が、それらは短命に終わってしまった。社会運動からの圧力が弱まると、資本家はそれらの改革をほとんど元に戻すことができたからだ。したがって、より構造的で永続的な変化が必要であり、ウルフ教授は、より良い制度への移行を達成するためのシンプルかつ広範囲に及ぶアイディアとして、職場の民主化を提唱している。
 資本主義は確かに、ごく少数の株主や取締役が、大多数の従業員に対する責任を取ることなくすべての重要な決定を下すという点で、根本的には非民主的な社会組織だ。代替案としては、企業を労働者協同組合として運営し、何をどのように生産するか、利益をどうするかなどの決定を、一人一票制を用いてすべての労働者が行うようにすることだ。これは、民主主義の理想とより一致しているだけでなく、資本主義の核心であり、先に述べたすべての問題を生じさせている、雇用者と被雇用者の間の矛盾を解決するものである。
 今回のパンデミックの教訓の一つは、資本主義は利益目的であるために基本的な健康ニーズに十分に応えることができないということだ。実は、同じことが、食料、住宅、教育、エネルギー、高齢者介護など、他のすべての基本的ニーズにも当てはまる。したがって、これらの分野の企業は、労働者協同組合に変えられるべきだ。すべての人の利益になる結果が出るように、消費者やコミュニティーも、労働者と共に経済的な意思決定に関わるべきである。しかし、それ以外の日常生活に必須ではない経済分野では、資本主義企業が存続することになる。このようにして、社会は両タイプの企業がどのように行動するかを監視し、資本主義と協同組合社会主義の望ましいバランスについて十分な情報を得た上で決定することができる。
 ウルフ氏はこの本で、現在のような制度を理解するのに大いに役立つツールを提供してくれた。同時に、実用的で魅力的な代替案のビジョンも提示してくれた。そしてそれを、非常に明快で直接的、かつ理解しやすいスタイルで表現しているので、幅広い読者にアピールすることができるだろう。

リチャード・D・ウルフ『病んでいるのは制度である──資本主義がパンデミックや資本主義そのものから私たちを救うことができないとき(The Sickness is the System: When Capitalism Fails to Save Us from Pandemics or Itself)』デモクラシー・アット・ワーク、2020年9月
www.democracyatwork.info/books参照

氷山の雄大さと人間の静けさ

アリアン・イーロイによる カミール・シーマン氏へのインタビュー

写真家のカミール・シーマン氏は1969年、アメリカ原住民(シネコック族)の父とアフリカ系アメリカ人の母との間に生まれた。ニューヨーク州立大学で写真術を学び、1992年に卒業した。それ以来、シーマン氏は受賞歴のある写真家となり、首都ワシントンにある全米科学アカデミー博物館で作品が常設展示されている。何十年もの間、北極と南極を旅し、氷山の写真を撮影したり、そこで起こっている急激な環境の変化を記録したりしてきた。
 「カミール・シーマン氏は、人間が自然から分離していないことを雄弁に物語る写真を撮ることを強く信じている」と、彼女のウェブサイト(camilleseaman.com)には書かれている。アリアン・イーロイがシェア・インターナショナル誌のために彼女へのインタビューを行った。

シェア・インターナショナル(以下SI):「私はとても幼い頃から、私たちはすべてのものとつながっており、すべてのものがライフ・フォース(生命力)を持っていると教えられた」と、あなたは述べたことがあります。このことについてもっと話していただけますか。

カミール・シーマン:私の祖父は、真の人間であるとはどういう意味かを孫たち全員が理解すべきだ、と非常に真面目に考えていました。彼にとってそれは、私たちがすべての人や──人々だけでなく──すべてのものと相互に関係し、つながり合っていることを知ることを意味しました。そのため、祖父は私たちにただ言うだけでなく、示すことによって教えようとしました。何かを信じることと何かを知ることの間にある違いは、実際の体験だということを理解していたからです。そうした物理的なつながりこそが、知るための方法です。
 私にとっていまだに印象深いのは、祖父が私を森の中に連れて行った時のことです。私たちはよく、それぞれの木の前で立ち止まりました。祖父は文字通り、私をそれぞれの木に紹介し、私の手を木に当てさせ、こう言いました。「私があなたの親戚であるのと同様に、この者はあなたの親戚です。敬意を払っていただきたい」と。木にはそれぞれ、顔や個性があると私は考えます。
 英語については大きな問題があります。英語は「所有」の言語だからです。英語は物を、従属させて「資源」へと転化できる物体にします。もし森を自分の親戚と見なすなら、親戚である森をどうやって伐採できるでしょうか。そのようにして木に紹介されるのは本当に強烈な体験でした。多くの人はいまだに、すべてのものが「管理」されるべきだと考えています。魚も管理されるべきであり、海も管理されるべきであり、川も物として──文字通り物体として──管理されるべきであると。
 私たち[シネロック族]と関係するワンパノアグ族から学んだ驚くべき話があります。ヨーロッパ人が来てから最初の10年で、ヨーロッパ人は直径6フィート(180cm)以上のすべての木に対する権利を王の名のもとに主張しました。そのため、王は伐採する権利を持つことになりました。そうした木材はすべてイギリスへと出荷されました。ニューヨーク州から沿岸部にかけて、すべての大木、こうした大原生林がなくなり、天候さえも変わりました。そこに暮らす動物さえも変わりました。
 ですから、こうしたつながりの話になるのです。私たちはつながりをますます感じ始め、気候変動を認識するようになります。しかし、幼い子供の頃、これは私がいつも認識させられていたことでした。子供の頃、祖父は、私が何も考えずに木から葉を引き抜くところをつかまえました。祖父は私をやめさせて、こう言いました。「何の結果ももたらすことなく、自分がやりたいことをその木に対してやることができると思うのか」と。祖父はこう言いました。「お前がその木から分離していると思うなら、自分の息をどのくらい止めていられるか確かめなさい」。そして実際に、私に息を止めさせたのです!
 祖父は雲のない晴れた日に、ロングアイランド(ニューヨーク)の暑さの中、私たちを屋外で座らせました。数分もすると、汗をかき始めます。小さな白い雲が現れると、祖父は空を指さしてこう言います。「あれが、雲になろうとしているお前の汗だ。それは雨になり、植物に水をかけ、動物を養い、動物は私たちを養う」。それは周期です。分離はありません。このことを知り、幼い者には多くの混乱──多くの怒り──が生じました。それは認知的不協和だったからです。ここに自分が知っている一つのことがあるけれども、周りの世界のとても多くが、全く違ったやり方で行動しているのが目に入ります。ですから、知るのは簡単なことではありませんでした。認識するのは簡単なことではありません。

SI:あなたは地球上で残っている最も孤立した、汚されていない地域へと導かれました。他の人々とどのように関係を確立したか、そしてこうした調査船で女性として、あるいは観光船で芸術家として働くことはどのようなものか教えてください。

シーマン:メディアで読んだり見たりしただけでは分からないかもしれませんが、極地では実際、科学者としても乗組員としても女性の存在が非常に大きいのです。ですから、女性の代表者がいることが大事です。海洋生物学者や地質学者、氷河学者の隣に立ち、見たり考えたりしたことのないような熱心さで彼らが説明してくれるとき、最も情熱的で、わくわくするような方法でこうした場所に招待されていることになります。
 データは[あまりに多くのものを]与えることしかできません。人によっては、数字やアイディアがあまりに大きすぎます。芸術が──画像であれ、著作や音楽であれ──科学と結びつかなければ、十分に消化されません。ですから、こうした船が、探検写真家となるよう私に依頼してくれたことをとてもありがたく思いました。このような関係はおそらく、フランク・ハーリーと一緒だったシャクルトン[20世紀初めの南極探検家]にまでさかのぼるでしょう。シャクルトンの冒険について私たちが知っているのは、彼が写真家を抱えていたからです。写真が登場する前は、人々がスケッチしたり絵を描いたり書いたりしていました。しかし、探検画家の役割は依然として決定的に重要です──調査船だけでなく観光船でもそうです。ですから、私は解説者のような者です。

SI:目撃者の役割のようですね。その役割はあらゆるものを変えてしまうのではないですか。

シーマン:どこに行くのであれ、私がまず行こうとするのは、このような引っ張る力、このような磁力的な呼びかけがあるためです。何らかの理由である場所に引き寄せられるように感じるのです。または、そこにいたいという必要性や好奇心を覚えます。数カ月か数年が経過した時でなければ、それが、私が記録し、写真に収めてきた長年の目標であったということは分かりません。

氷河と氷山の生命周期

SI:氷山は棚氷から分離してからおよそ3年から6年生きており、氷河ができるには雪がひとひらひとひら積もって10万年かかっている可能性がある、とあなたは述べておりました。氷河の発達度合いや氷山の生命について話していただけますか。

シーマン:二つの物語があります。北極の氷河と氷山があり、また、南極の氷河と氷山があるからです。同じ言葉ですが、非常に異なった生き物です。* グリーンランドでは、景観ははるかにゴツゴツしています。ですから、こうした氷河が移動すると、もっとゴツゴツし、もっとひびが入ります。氷河が割れて──終局を迎えて氷山として分離すると──多様な形を取る傾向があります。すべての氷山は独特だからです。誕生日ケーキのようであったり、王冠のようであったり、とがっていたり、あらゆる形があります。
 南極には、広い範囲を占めるロス棚氷があります。それは文字通り、南極点から始まり、幅が約500マイル(800km)あります。それだけこの氷のかたまりは大きいのです。しかしそれは、雪がひとひらひとひら積もってできたものです。その構造を形作るものは、実際のところ南極の風です。非常に乾燥しているため、フワフワした雪を風が巻き上げ、行ったり来たりして雪の層がゆっくりと形成されます。しまいには、何層にも重なったこうした雪のケーキができます。何千何万という層が圧縮され、重力によってゆっくりと海へと引っ張られていきます。それが海に達すると、ロス棚氷が出来ます。この棚氷から一つのかたまりが割れると、それは文字通り、ロードアイランド(アメリカの一つの州)の大きさとなることがあります。いわゆる板状の、平らなテーブルのようになる傾向があります。沈んでいた部分が上に出てきて、三角形になるものもあります。

SI:それらが生まれて死んでいくという感覚はありますか。

シーマン:誕生と死のようだとは言えません。まさしく、連続した過程の一部だからです。生と死の区別はほとんどありません。このように述べたいと思います。それは雪のひとひらとしての生活をし、次に氷河の一部としての生活を送り、それから氷山としての別の生活を送ります。その後、再び水としての生活があり、その水は雪のひとひらとなります。死があると言えるでしょうか。
 最終段階にあるこうした氷山を見ると、海底に引っかかっているものや、文字通りいつ崩壊してもおかしくないので近づけないものもあります。とても不安定で、多くの亀裂が入っています。こうしたものが海へと崩れ落ちていく最後の段階を目撃したことがあります。少しだけ、死のように感じられます。しかし、私はほとんど、この発言を別の言葉で表現する必要性を感じます。それは実際、もう一つの変容なのです。こうした連続的な変容の過程にあります。

静けさについて

SI:あなたの写真のテーマは、自然の雄大さと畏敬、人間のもろさ、孤独、すべての存在のはかなさと独特さ、老化と死を中心に展開しているように見えます。静けさと光についても話したいと思います。

シーマン:いつも信じていたわけではありませんが、写真は実際、写真家の反映だと誰かが言っていました。全く同じ被写体を撮影するよう10人の写真家が派遣された実験が行われたことがありましたが、異なった10枚の写真が出来上がることになりました。私の画像のすべてに、私の世界観や育てられ方が反映されていることは分かっています。
 静けさについて触れたいと思います。それは私の仕事のとても大きな部分を占めていて、祖父のもう一つの教えだからです。およそ5歳の時から13歳の時まで、毎日、寒くても、日が照っていても、雨が降っていても、雪が降っていても──それは関係ありませんでした──私は外に座らされ、1時間、じっとしていました。お気に入りの場所がありました。大きなカエデの木の下にあったテーブルの上によく座っていました。1時間が過ぎると、祖父が私を呼びに来て、「何を見たか」と聞きます。かたくなな気持ちでいて、「何も見なかった」と言うとします。そうすると、祖父は「外へ戻りなさい」と言いました。
 この経験から学んだことは、静けさの中にいると、自分と自然との間のあの境界──あの他者の感覚、あの分離感覚──が消えるということです。そうした境界は私たちによって築かれている、とはっきり述べたいと思います。自然はそうした境界を認めません。私たちが認めるのです。しかし、静けさの中にいると、その境界はなくなります。そして突然、非常に信じ難い体験をすることになります。例えば、鳥がやって来て自分の体にとまったり、蝶がとまったりします。あるいは、何となく魔法のように見えるものに気づきます。「どのようにして起こったのだろうか」。しかし、それはただ、静かにしていたから起こっただけであり、自然界はこう言います。「やあ、戻って来たね! お帰りなさい」と。そうすると、自然界はこういう接客係を派遣して、「また会おうね!」と言うのです。それが雲に起きている現象であれ、動物や蜘蛛に起きている現象であれ、あなたが静かにしていると、こうした魔法のような瞬間が訪れます。その時、あなたはただ存在しているだけでなく、再びつながり合っているからです。
 32歳で写真家になろうと決心した時以来、私が意図したのは、この人生は美しく、私たちが持っているこの惑星は信じ難いということを人々に明らかにしたいということでした。たくさんの人が私に、「フォトショップのようなものを使っていますか」と尋ねました。私の画像で最も大切なことは、あるがままに記録することです。そうであってほしいと自分が考えるものをつくり出すことではありません。ですから、フォトショップを使わないことがとても大切です。それは、私が外に出ていて、そこにいなければならないことを意味します。光がある方向から差しているとき、あるいは、動物がこちらにやって来ようとしているとき、それを写すためにそこにいなければなりません。変更を加えるためにフォトショップに頼れば何十万枚も多くの写真が取れることは確かでしょう。しかし、それは私の画像の意図することではありません。私が意図することは、人々が私たちの惑星とこの人生との自分自身のつながりや関係を築くのを手伝うことです。

より詳しい情報と写真については、
camilleseaman.comをご覧ください。