「世界中のあらゆる講演において、そして生涯のほぼ毎日、ベンジャミン・クレームは広大な範囲に及ぶ大量の質問を受けました。この大量の記録から、過去の年月にベンジャミン・クレームと彼の師である覚者によって提供された回答を掲載したいと思います。そのいずれもこれまでシェア・インターナショナル誌に未掲載のものです」
Q (公の場で)話をすることはなぜ重要なのですか。(2001年5月、滋賀の伝導瞑想会議)
A 話をするときに何が起こるでしょうか。話をするとき、明らかに言葉は多かれ少なかれ、あなたの意味やアイディアを体現します。そして大半の人々はそれが話すときに起こることのすべてだと考えています。それは重要な一部ですが、それが公の場で外的な分野で人が誠実さと知識を持ってこれらの途方もない重要な啓示、ハイアラキーの存在とハイアラキーの出現について知らせるときに起こるすべてではありません。
しかし、シェア・インターナショナル誌の手紙で報告されているような、後にマイトレーヤやイエス覚者や他の覚者と確認された方々に何らかの形で接触を受け、話しかけられ、道ですれ違うなどした体験の話について考えるならば、彼らがその話を手紙に書いて送った理由は何でしょうか。なぜ他の出来事ではなく、その出来事なのでしょうか。たとえ体験の中で何も起こっていないように思えたとしても(そしてしばしばそれは束の間で、ほとんど何も起こっていないように思えますが、マイトレーヤや覚者と手紙を書いた人との間で何かが伝わったために、それは真の体験であれば確認されます)、彼らの間では何かが起こったのです。それが話をするときに起こることです。彼らの間で体験の中で何かが伝わり、それは話の中でも伝わります。
話をするときに人々が伝える最も重要なものは、それは話し手であれ聴衆としてであれ、彼らのオーラです。あなたは話を聞きに行き、それに関心を持ち、後で何の話だったかを尋ねられたとき、それが何なのかを伝えることはおそらく難しいでしょう。しかし、あなたはその「感じ」を知り、話をした人のオーラを感じ、話し手と聴衆の間の交流を感じ、それはおそらく忘れ難いものでしょう。肉体には誰もが気づきますが、エーテル体とそのエネルギー、エーテルを通して世界に流れたフォースに気づく人はほとんどいません。チャクラを通したそのエネルギーの過程はあなたがどこへ行くときにもその個人のオーラを形成します。そのオーラは、エーテル物質体、アストラル情緒体、四つのレベルのメンタル体、そして魂の三つのレベルのどれかで構成され、もしその人が十分に進化していれば、モナッドのエネルギーの何らかの様相、つまり霊の様相も関わるでしょう。人が話をするとき、そのすべてが明らかになります。それらのフォースはその磁力を聴衆に感じさせます。伝導瞑想をしている人々やハイアラキーの再臨のために働く人々は人類の中でより進化しています。彼らのオーラはどんどん磁力的になります。
大衆に向けて話すとき、あなた自身のオーラは機能し、あなた自身の磁力が生き生きとします。あなたは鏡を見て、「私ですか? いいえ、私はあまりに臆病です」と言います。あなたが臆病に感じるのは、あなた自身を臆病にしているからです。人々は自分にはできない、話すことはできないと考えます。内気すぎて、話をすることを誰かに任せます。全体として、彼らは容易にできる話をしません。しかし、話せば話すほど、自信がつきます。自信が深まり、ますます容易になります。それはあなた自身のグラマーを克服するという問題だけではありません。それは最終的な「生産物」を見ることでもあります。それはあなたの外部にあるもの──あなた自身ではなく、仕事、大計画、あなたがそのために働いている大義──であるということを理解することです。自分がしていること(例えば本屋に本を持っていくこと)と同一認しているならば、あなたは自分自身を売っているような気になるでしょう。しかし、自分自身に集中することをやめて、仕事に集中するならば、あなたがしていることを単に大計画や大義に関連付けるならば、あなたは何でもできることに気づくでしょう。
Q どのようにグラマーを理解すべきですか。
A グラマーは、(通常私たちが定義するようなものとは)異なる方法で見れば、自由意志の誤用です。私たちは自由意志を持ちますが、その自由意志はそれが「神の意志」と呼ばれるものと一致しているときにのみ正しく用いることができます。つまり、それが惑星ロゴスの進化の大計画と一致しているということです。そして、それが私たちのレベルで理解できる大計画と調和していれば、あなたはあなたの自由意志で自分が言うべきと思うことを言ったり行ったりできます。自由意志とは権利でもありますが、責任でもあります。そしてグループにとっての責任は、あなた自身の自由意志と同じくらい重要です。
グラマーの本質は、人間は非人格的、客観的にはなれないということです。非人格性あるいは客観性はグラマーの正反対であり、それは常に、何らかの程度で、人格的で非客観的です。グラマーの本質は無知です。書物や情報の無知ではなく、自分自身についての無知です。それはしたがって、客観性と主観性の違いが分からないということです。あなたの動機が、オープンで明瞭で非人格的か、完全に個人的なものであるかの違いが分からないことです。
世界の人々の99%がアストラル偏極しているというのが事実です。それは彼らの注目がアストラル界にあることを意味します。それが人々の生きている世界です。彼らの意識はアストラル界に偏極しています。もちろん程度はあります。世界の伝導瞑想グループにいる人々の大半は、第1イニシエーションのあたりにいます。そして彼らの大部分は1から1.5の間にいます。つまり、ほとんどの人々は、大計画に沿って意識的に働こうとしている伝導瞑想グループの人々でさえ、比較的に言って、アストラル偏極しているということです。彼らは本を書くことができ、計画を立て、ロケットを月に飛ばすことなどはできるかもしれませんが、それでも1.5か1.6以下なのです。つまり彼らはある種の思考はできますが、秘教的な見地からは、本当には思考できないのです。それは真の思考というより推論です。思考のうちの最低の部分であり、(メンタル界の)最低のレベルにおける具体的思考です。
要するに、アストラル偏極していれば、それがあなたの意識の座であり、したがってマインドのレベルであり、アストラル界より上位のマインドの魂のレベルは(あなたにとって)失われます。あなたはそれ以上のレベルには行けません。行けたとしても束の間です。それは継続性の問題です。
簡潔に言えば、人々はあらゆる種類の刺激に反応し、その刺激についての「考え」を言葉にして反応しています。実際、それはまだ感覚の問題です。彼らが話している刺激に対する感情的、感覚的反応です。それは「思考」ではなく反応の感覚です。それが彼らを怒らせたり、不幸にしたりするのです。