ルシル・テイラー・ハンセン著
ベッティ・ストックバウワーによる書評
1918年、『主はアメリカを歩めり』の著者ルシル・テイラー・ハンセンは学生で、夏休みをミシガン州のチッペワ・インディアン族と共に過ごしていた。彼らの言語や舞踏、文化や宗教は、彼女の魂の琴線に触れ、調和した調べを与えた。酋長のダーク・サンダーは、部族の知識の多くを彼女と分かち合った。彼はある日、遠い昔に部族を訪れた聖なる人物について彼女に語った。この人物は、インディアンの帝国が統一され、巨大な都市が何マイルにもわたって広がっていた時代に現れた。彼の行くところすべてに奇跡が起こり、彼は常に「父の御国」について語った。
第一部は、偉大な聖なる教師が訪れた古代文明の素晴らしい光景を想起させるものだった。この教師はイエス覚者であった、とベンジャミン・クレームの師は確認している。第二部では、「奇跡の主」と共に中央アメリカ、メキシコ、カナダ、そしてさらに遠くへと旅することになる。彼はこうしたあらゆる地域の種族を訪問し、知恵と驚くべき未来のビジョンを授けた。
名声が高まるにつれて、さまざまな名前が広まることになった。彼は常に、自分をどう呼んだらよいかを人々に選ばせていたからである。彼は「ワケア」または「ワカン」という、水への支配力を讃える名前で呼ばれていた──「ワ」は水を意味する。ホピ族にとって、彼は「ター・コ・パー」(治療者)であり、セリ族にとっては「トラゾマ」(奇跡の働き人)であった。チェロキー族は「イー・メ・シー」(風の神)と呼び、パパゴ族は、「エ・シー・コトゥル」(偉大な治療者)と呼んだ。アルゴンクィン族は、独自の名前を付ける代わりに、彼が海の向こうで暮らしていた頃の幼名で呼んでいた──「チェー・ズー」(夜明けの光の神)と。
中央アメリカでは、彼の愛称は「カテ・ザール」だったが、最も祝福された名前は「ケツァルコアトル」(羽毛で飾られた蛇)であった。「ケツァル」は珍しい生き生きとした緑色の鳥のことで、「コ」は蛇、つまり水の象徴を表し、「トル」は「主」を意味する。したがって、彼は「風と水の主」として知られていた。教えを伝えたそれぞれの高僧も、彼の名前を同じように推測した。
彼はカナダを通って太平洋のヤキマまで、西へと旅した。彼は非常に尊敬されていたので、人々は彼の名前「トラ・アコマ」(奇跡の主)を讃えるために、自分たちの最も高い山を「タコマ」と呼んだ。南に向きを変えて、彼はヤクイ族とズーニー族、ハヴァス族とアコマ族を訪れた。バハ・カリフォルニアのセリ族はいまだに、トラゾマがまぶたの上に濡れた砂を置いて盲人を癒した時のことを語り伝えている。彼らは一体となって彼を崇拝した。
トゥーラへの入場
預言者が中央メキシコにあるトルテク帝国の首都トゥーラにやって来た時、彼の名声はすでに知れ渡っていた。「すでに至るところで人々は待っていた。人々は山の上まで埋め尽くし、道路に列をつくり、歌を歌っていた。数々の物語が何千マイルも離れたところから大衆を引っ張り出し、すべての町や村は空になった」
「彼が花を好んでいることを人々は以前から知っており、今や花々の香りが空気を満たし、雨のように彼の上から花が降り注がれた。彼がトゥーラに近づくにつれてこの雨の勢いは強まった。厚い花のじゅうたんが道路を覆った。……彼が花びらの上を歩くやいなや、人々は走り出し、一瞬でも彼の体の重みに耐えた花びらを得ようとして奪い合った」
「……彼は入口の門の前で、その素晴らしい美しさを見つめるために立ち止まった。それから、真珠やエメラルドで飾られた重々しい鉄の門をくぐった。君主が彼の前に低く頭を垂れ、彼を黄金のトゥーラに付き添い導いた。そうすると、100万人の群衆から海鳴りのような叫び声が上がった。トルテク人の口からその声は沸き起こった」
「……彼が話し始めた時、一つの奇跡が起こった。トルテク人に語りかける美しい音楽的な声は、丘の上から街の向こうまで、壁や山の上まで響き渡ったのである。一人の人間の声がかくも遠くまで伝わったことはなかった」。彼は自分の旅について語った──自分の得た友人たち、そして愛と理解を通じて和解した自分の敵たちについて。彼は指導者たちに向かって、奴隷制と人身供養を放棄することによって聖なる道を守るよう訴えた。トゥーラでの最初の日にこのように語り、人々はその高慢な頭を一つひとつ垂れた。トルテク人の間での滞在は何年も続いた。テオティワカンにある太陽の寺院とチョルーラにある聖なるピラミッドは彼の特別な神殿であり、そこで僧たちに古のイニシエーションの儀式を教えたと言われている。彼の言葉と奇跡はその地の思考と習慣を通じて一つの共通のパターンに織り込まれた。
平和と和解の中で、トルテク人は国家としての真の力を見いだした。彼はトゥーラを去り、ユカタン半島を通って東に向かい、この半球における最後の日々をコスメル島で過ごした。壮麗なアカスギの船に乗って日の出に向かって漕ぎ出し、海の向こうにある自分の故郷、トラパリャンに向かった。
アメリカにおける伝説
彼は去ったが、彼が残した伝説は多くの形を取った。それを神話と呼ぶ者たちもいるが、彼の歴史的実在を確信する者たちもいる。ハワイの学者、故フランク・バック博士は、彼の衣装と彼が乗っていた船の型は紅海に起源を持つと考えた。バック博士は、中国やインド、日本の伝説の中の青白い皮膚の教師についての同様の物語を引用した。日本のワコヤマ(Wakoyama)山は、そこで教えを説いた白い神にちなんだ名前であると言われている。
『モルモン書』*は紀元前600年から紀元421年までのアメリカにおける出来事を記録している。その中には、キリストの再臨の予言と磔刑後のアメリカでの出現についてのいくつかの章が含まれている。聖書やインド教典のように、彼は奇跡を起こし、自分の仕事を引き継ぐ12人の弟子を選んでいる(第三ニーファイ第28章)。
ハンセン自身は、この教師は初期キリスト教時代の宗派であるエッセネ派のメンバーであると思った。エッセネ派の人々はトーガに似た衣装を着て、常に「我が父」としての神について語った。彼女がインタビューをしたアメリカ先住民はエッセンという言葉を知っており、彼らがこの預言者に付けた名前、「エ・シー・コトゥル」と「エ・メ・シー」は、この派生語とも考えられる。
未来のビジョン
旅行全体を通じて、カテ・ザール──中央アメリカではこう呼ばれていた──は時々、この地の人々の残酷で悲惨な未来を予言した。彼は、トゥーラの上にあるポポカテペトゥル山でしばしば祈った。ある日、この白い雪に覆われた山の上で見たビジョンのため、彼自身の髪が白くなった。
下方の平野を見つめている時、幕が開き、彼は未来を見た。奇妙なお祭り騒ぎが街路を満たし、寺院では不浄な儀式が行われていた。美しい花々や珍しい羽をつけた鳥たちはもはやいなかった。人々の微笑みは消えていた。儀式の際には詠唱していた、彼が注意深く教えた僧侶たちもいなくなっていた。カテ・ザールは忘れ去られ、彼の教えはほのかな記憶でしかなかった。
彼が見つめていると、力強いポポ山自体が揺れ始めた。大地震が大地を裂き、黄金のトゥーラはよじれて死に絶えた。猛火が生命の最後の痕跡までも焼き尽くした。もう一つの幕が開き、移民の広大な波が大地を覆い、略奪者たちが到着して王国を荒廃させた。これらの侵略者たちは、戦争を持ち込んで寺院を汚した。それぞれの軍隊はその前の隊よりも強力だった。人身供養が彼らの文化と信条の土台となった。
彼が恐怖のうちに見つめていると、もう一つの周期が開いて、彼は日付をはっきりと見た。それはテ・テク・パトゥルの年──1519年──であった。東岸には、武器に身を包んで遠くから人を殺すことのできる杖を持った白い肌の男たちがいた。彼らは十字架を持っていたが、愛しているのは武器と戦争だけであることが彼には明らかであった。これらの者たちが非常に素早く残酷に広がってこの土地の表情を永遠に変えてしまうのを彼は悲しく見つめた。五つの周期の間(520年間)、侵略者たちがかつてないほど破壊的な武器を作り、神々にさえ挑戦しているかのように貪欲のままに振る舞うのを彼は見た。これらの光景を見ながら、自分が築いたものすべてが無駄で不毛なことのように感じた。色彩豊かに輝く彼の都市はどこに行ってしまったのか。彼の法に喜んで従った人々、彼の一触れに喜んだ幸せな子供たちはどこに行ってしまったのか。嘆きの叫びと共に、彼は民衆のために祈った。
トゥーラを去る時、カテ・ザールは自分のビジョンについて人々に語った。未来の世代がその言葉を見つけだすことができるように、隠れた洞窟の中に神聖な書き物を保存するよう人々に警告した。ポポ山が来るべき大崩壊の時を告げるであろうことを子供たちに伝えるようにと語った。これらの災害を避けるために彼の道に忠実であるように訴えた。
それから巨大な岩をつくり、「夜明けの星」の未来の周期を複雑に彫りつけた。その上に警告の時を記し、すべての者が白い皮膚の略奪者たちに気づくことができるようにした。
これらのことを信じない者もいたが、信じて泣いた者もいた。すべての者が、自分たちの周りの美しいものがかくも容易に失われるかもしれないことに当惑した。しかし、ポポ山の頂で預言者にはさらなる未来の周期が明かされた。その年は2039年で、彼が谷を見下ろした時、生まれ変わった土地を黄金の太陽の光が照らしたのである。ついに人類の試練の時は終わり、その幼児期の戦いから脱却した。彼の前にあるものすべてが美しかった。
あらゆる国々の書物を学ぶ大きなセンターが点在していた。彼の言葉がすべての者に見えるように壁に刻まれていた。彼の神聖な寺院は美しく復興されていた。再び僧たちは「神聖なる道」を守っていた。こうした周期についても、彼はトゥーラで明らかにした。その日は招待の日であり、来るべき年月の贈り物であるという彼の最後の言葉を与えた。
「この未来の時代を私と共に歩きなさい。未知の物質でできた輝く建物と新しい輸送形態を見なさい。鳥や花に囲まれた公園をわたしと共に歩きなさい。もはや恐怖に脅えてはおらず、わたしの光に輝いている人々の顔を深く見つめなさい。人類が胸を張ってその運命に向かって──学びの黄金時代へと──歩む時代として、この時代を見なさい。時代時代を通じてこのビジョンを語り継ぎ、預言者カテ・ザールを常に覚えておきなさい」
アメリカの砂漠の村落の中には、これらの言葉を忘れない人々がいる。というのは、彼は遠い将来に再び戻って来るとも約束したからである。彼らは辛抱強く待ち、毎夜、彼の再来のためにろうそくを燃やしている。「もしあなたたちがわたしの教えに忠実であり、毎日を正しく生きていることを示すならば、わたしが『夜明けの光』の中で戻って来るまで、夜に光を燃やし続けなさい。そうすれば、汝らを『我が父の王国』へと導こう」
ユカタン半島の深いジャングルの中には、聖なる僧たちが隠れ住んでおり、彼の道を何世紀にもわたって守り続けている。彼らの寺院の中でも、預言者が最初に炎をつけた日から2,000年間、絶えず光が燃え続けていると言われている。
L. Taylor Hansen, He Walked the Americas. Amherst Press, Amherst, Wisconsin, 1963.(現在も入手可能)
(ベッティ・ストックバウアー氏の許可を得てシェア・インターナショナル誌1994年8月号の記事を再掲載[日本語訳は表記等を一部変更して再掲載])
【編註:ベンジャミン・クレームの師は、イエス覚者が実際に6世紀と7世紀において長年にわたり、ポリネシアと、北、中央、南アメリカで教えを説いたことを確認した】
[*『モルモン書』──末日聖徒イエスキリスト教会や他のモルモン教会において、聖書に加えて聖典として受け入れられた書物。ニューヨーク州パルマイラで1830年に初めて出版され、その後、広く転載され翻訳された。信奉者たちは、本書がこの宗教の創始者ジョセフ・スミスに対して啓示され彼によって翻訳された、神の霊感を受けた書物であると考えている。britannica.comより]