“野蛮な時代”の終わり

──覚者より
ベンジャミン・クレーム筆記

 人類が今のこの時期を振り返って、“野蛮な時代”と見るようになる時が来るだろう。現在のこの死にかけている文明は可能な理想からあまりにもかけ離れているので、未来の人類は、われわれが一体いかにして、しかもこれほど長い間、それを持続することができたのか不思議がるだろう。

 この悲しい状況には多くの原因と要素が含まれている──人間の人間に対する関係の、長い、ゆっくりとした頽廃が、ますます精巧になる武器の開発と並行しており、またそれを反映している。大陸を飛び越して殺戮することのできる現在の武力を、人間は大得意とするが、それは自己破壊への盲進を確実なものにする。戦争は冷徹な非個人的なものになった。もはや戦士は犠牲者(敵)の顔に恐怖の脅えを目撃する必要はない。

 この状況の中で、政治経済の制度が、人間の生活の泉からの疎外感の増大を反映するのは不思議ではない。

 商業至上主義、すなわちあの急速に発展した、しかし陰険な、しばしば隠れた脅威が今や数え切れない何千何百万の人間の生活と運命を支配する。そして人間の天与の個人性を取るに足らないものにしている。今や人間は統計にすぎず、そこには人間の目的も必要も考慮に入らず、人間は市場エネルギーと企業の利潤というチェスゲームのポーン(歩)の駒である。

 われわれが現代世界と呼ぶところの荒涼たる砂漠は、人間を人間らしくするもの、すなわち幸せや、創造的な充足感、お互いの必要に速やかに反応する特質、自由というものを人間から奪う。破壊的な競争は人間の精神を腐食させ、そして今や、人生の“戦い”の審判の座にある。人生、すなわち「偉大なる冒険」は腐敗し、単なる生存のための苦しい不公平な苦闘に置き換えられた。

 これらの悲惨な状態がすべてに同じように存在するわけではないのは確かだが、しかし膨大な数の人間にとって、それは彼らの生活の現実を表している。そして人間が方向を変えない限り、それはますます悪化するだけである。

 マイトレーヤが世界の舞台に公に入って来られるとき、そのような苦痛と苦闘の人生は必然ではないことを、それが人間の唯一の選択ではないことを示すだろう。人間がそれを意志するならば、彼らの生得の権利として他の道があることを示すだろう。

 混乱とますます増大する貪欲の直中にあって、人間はすでに、人生の聖なる絆をそのように弱めるものに抵抗しはじめていることを、マイトレーヤは示すだろう。そして大きな新しい力(エネルギー)が新しい始まりを生じさせており、現在の混迷の中から、時代の挑戦に対処し、困難に打ち勝つために、生まれ備わった人間の能力がより高位に、より本当のすがたで徐々に現されつつあることを示すだろう。

 マイトレーヤは人間に、彼ら自身の高位の出所と運命(ルビ:さだめ)を思い出させるだろう。そして新しい生活方法の創造を、融和のうちに、正しい人間関係の中で、戦争や競争の手段に訴えることなく、完全な協力と相互尊重の中で生きる道を鼓舞するだろう。そのようになるだろう。

(シェア・インターナショナル誌1999年4月号)