弟子道——選集

The Path of Discipleship ── a compilation

「弟子道」というテーマに関する引用文の選集を掲載する。これはマイトレーヤのメッセージ(『いのちの水を運ぶ者』と『いのちの法則』)、ベンジャミン・クレームの師の言葉(『覚者は語る』 ㈵ と ㈼ )、およびベンジャミン・クレームの著書から抜粋したものである。

わたしの覚者たちはいのちの規律を、あなたがたに教えるであろう。わたし自身は人類を招くあのより高度の光を、あなたがたに見せるであろう。わたしの教えは二重である。一つは、人間の物質面にかかわることであり、人生の必要事項である。もう一つは、我々が神と呼ぶあの聖なる存在と人間との関係についてである。わたしの言語の中では、これらは同じものである。なぜなら人間同士が正しい関係を築いてこそ、神との正しい関係を築くことができるのであるから。わたしの計画は、これをあなたがたに示し、人が己自身の裡に、分かち合い、愛し、信頼する能力を見いだす時、その瞬間から神へ向かう登り道が始まることを教えることである。(『いのちの水を運ぶ者」メッセージ第29信より)

今日、進化の道をより速く進みたい者のために、これまでかつてなかったほどに、奉仕して成長するユニークな機会が提供されている。変換の仕事を引き受け、大計画と世界に仕えることによって、彼らは新しい霊的進歩の基準を設定し、そして全体としての人類のためにそのプロセスを速めることができる。これが今の時のチャレンジ(挑戦)である。今日の弟子たちは、後に続く者すべてのために進化の過程を速める機会を持つ。このようにして最も強力なかたちでロゴスの大計画に仕えるのである。奉仕して成長しなさい。奉仕して成長しなさい。これが進化の旅路における前進のカギである。(『覚者は語る 1』─新しい時代の夜明け─より)

[恐怖心なしに子供を育てることについて]……自分自身であるということは、自分自身の存在感(実在)を経験することです。もしあなたがそのような空間を与えてあげれば、子供は自分自身を真我として絶えず認識しながら、その経験の中で成長するでしょう。もちろん、それは非常に難しいことです。なぜなら、私たちはみな条件づけられているからです。両親によって条件づけられ、私たちの両親はまた彼らの両親によって条件づけられてきました。何百万年もそのように続いてきました。自分自身の恐怖心を子供に投射しないのは非常に難しいのです。近道はありません。私がこうしなさいと言えるような容易なものではありません。一つには常識です。絶えず監視することが必要です。もしあなたが自分の注目を真我に集中させることができれば、すなわち実際にあなた自身の同一化(アイデンティフィケーション)を真我に移転することができれば、そうすれば当然、あなたのグラマーや恐怖心を子供に投射することはないでしょう。子供を害しないためにはあなたが変わらなければなりません。難しいです。難しくなければ、私たちはここにいないでしょう。言うは易いが、行うことは非常に難しいのです。非常な修練が必要です。しかし、だからこそあなたは弟子(ディサイプル disciple)と呼ばれるのです。弟子(ディサイプル)とは人生の修練(ディシプリン discipline)を受け入れる者のことです。自己(真我)認識につながる修練を築き上げなければなりません。方法は自分自身の欲望に対して死ぬことです。ほとんどの人にとって、それを達成する経路は自己犠牲を通してです。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第2巻』)

弟子とは進化の旅路を意識的に辿っている人のことを指します。人類すべてが進化しているということは言うまでもありません。初期の動物人間から今日の我々の段階まで進化したのです。数え切れない永劫の間、多かれ少なかれ無意識のうちに、その過程は進行してきました。個々の魂は、進化そのものの磁力によって進化の中に押し流されて、繰り返し、繰り返し転生してきました。他方、弟子は、非常に特定の目標につながるこの過程の中で非常に意識的な役割を受け持ちます。人類大衆は終点が、目標が──少なくともこの惑星に関連する限り──あるということすら実際に知りません。弟子とは、目標があることを知り、非常に意識的方法で自分の進化をさらに進めようと努力する者であります。その目標とは、もちろん完全の域に達すること、つまりこの惑星に転生してくる必要性からの解放です。弟子はその目標に到達するために、喜んで、意識的に必要な規律に服従します──弟子(Disciple)とは規律のとれた(Discip-lined)者という意味なのですから。(ベンジャミン・クレーム『伝導瞑想──21世紀のヨガ』)

完全に到達する道はたくさんある。しかし単純な道が最良である。わたしの道が、愛の道が、人間を最も速やかに本源なる神に至らしめる。もしあなたがこれを見ることができれば、間違うことのない、真なる道を進むだろう。これはすべての人間にとってそうである。(『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第58信より)

人間が彼らの世界をつくり出し、正しい人間関係を確立するために取るステップの一つ一つが、彼らを完成に導く旅路における前進のステップであることを、マイトレーヤは人間に示されるだろう。そして弟子たちにとっての内的なステップは、いまだイニシエーションの過程に従事していない人間の外的なステップによって調和されなければならないことを、すべてが相互に関連しており、統合された全体であることを、示されるだろう。一歩一歩、人は各々のペースで自分の行路を歩む。一歩一歩、人は無知から知識へ、不正義から正義へ、隷属から自由へと動く。(『覚者は語る 2』─ 一歩一歩─より)

わたしの計画は、あなたがたの真なる姿をあなたがたの裡に気づかせ、あなたがたが神御自身そのものから出でた者であり、その聖なる本源へ戻らねばならないことを示すことである。わたしの任務は、その行程を、正当なる嗣業に辿りつくためのあの長い道程を、楽にしてあげることである。わたしたちがお互いに兄弟として出会うときに、我が友よ、あなたがたはわたしの中に、その道をよく知っている案内人を、教師を、見るであろう。なぜならわたし自身ずっと昔にその同じ道程を辿り、その道の道標をよく知っている者である。(『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第66信より)

すでに授けられた教えを使いなさい、それを実践しなさい、そうすれば自分が期待した最高の速度よりも速い速度で向上するでしょう。あなたがそうするとき、教えをそのように実践するとき、それはあなた自身のものになり、もはや抽象的な教えではなくなります。もはやアカデミックな主題ではなくなります。それはあなたのものになります。あなたが道になります。あなたが弟子道の必要条件を実践していくにつれて、道はあなたの前に開けていきます。道はあっちにあるのでもこっちにあるのでもなく、またあの本やあのテクニックの中にあるのでもありません。それはあなたの意識の中から開かれてくるものです。すべての者にとって道はそれぞれにユニークです。もちろん、不変の基本的な根本条件があり、それは神性の特性そのものです。ディサイプルの道はイニシエーションにつながり、イニシエーションの道は覚者道につながり、それは神への道であることを覚えておきなさい。己の神性が花開いていく道であります。このことを忘れるべきではありません。ほとんどの人がそのことを忘れがちです。それが彼らの人生にとっての枝葉になっております。ということは、自分の本質が自分の人生にとって枝葉であると言うようなものです。私のいのちの本質は、私にとって枝葉であると言うようなものです。しかし、私が私のいのちなのです。そうでなければ私は無です。あなた自身のいのちと神性の表現に向かうあの動きが、どうして日常生活の付随的なものであり得ましょうか。あなたはそれを自分の天職にしなければなりません。もしあなたがディサイプル(ハイアラキーの弟子)になりたければ、感激で燃えなければなりません。歓喜の状態で、固い決意で、イニシエーションの門につながる道をたどっているという高い期待の状態で進まなければなりません。そうでなければ、あなたの行動は非常に生ぬるくて、今のこの転生で達成できるはずの段階にまでたどり着くのに、次の50回の転生が必要かもしれません。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第2巻』)

神に到達する道はたくさんある。しかし、もっとも速く確実なのは奉仕の道である。これほど神の特性を十分に宿す道は他にない。この道の上にあなたの位置を占め、あなたの魂の指図を遂行しなさい。あなたの心(ハート)の命令に従い、世界の必要に目覚めなさい。奉仕の道に入り、大計画の中におけるあなたの位置を受け入れなさい。そして神への道にしっかりと足を踏みしめなさい。(『覚者は語る 1』─勝利は保証されている─より)

あなたがたに新しい生き方を見せてあげたい、人間に生来そなわる同胞愛に基づく生き方を、愛し、分かち合う能力と、人間の本質的な神性に基づいた生き方を。聖なる人間になる過程は、単純で自然なものであり、すべての人間に開かれている。それは、あなたがたの裡にはじめから宿るあの神を解き放つ過程である。わたしは約束しよう──もしあなたがたがわたしに従いて新しい時代に前進するならば、あなたがたの裡に宿る聖なる本質を解き放ってあげよう。(『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第28信より)

理由なくして、「生徒の用意ができたときに師はやって来る」と言われてきたのではない。このことは個人におけると同じく、集団の規模においても真実である。今日、生徒としての人類は、試され、試練を通過した世界の弟子としての人類は、新しい人生に、人類種族への奉仕の人生に入る用意がある。現在起こっている意識の転換によって、彼らは自分たちの分離感は幻覚であり、すべての被造物の中で総体とつながっていないものは何も存在しないことを悟るだろう。この発達しはじめた認識と変化を受け入れる用意が、大教師と教師たち(覚者たち)を呼び招いたのである──わたしたちは教師である。(『覚者は語る 1』─新しい光、新しい理解─より)

であるから、未来への前進を、そしてあらゆる国々の民の間の正しい関係の確立を阻むことのできるものは何もない。そうして、人間を彼らの予め運命づけられた完成への道へ復帰させるための一つの計画が展開するだろう──大胆でしかも単純、複雑でしかも明確、古来のものでしかも輝かしく現代的である。このまったく同じ道をたどってきた者たちの多くが今あなた方の中にあり、法の許す限界まで援助し、そして導く用意が整っている。わたしたちはあなた方の問題や恐怖をよく知っており、慰め、鼓舞することを求める。人々がわたしたちを見るとき、人間のあらゆる苦悩や痛み、屈辱や歓びをも知り、しかも途上にあるこれらの繰り返し現れる障害物を乗り越えるのに成功してきた者たちを見るだろう。彼らは人間が同等の達成を成すことを保証する者たちである。(『覚者は語る 1』─世紀の終わり─より)

弟子道とは、ディサイプル(ハイアラキーの弟子)としての生き方に専心することを意味するのであり、それは平均的な人間の生き方と明確に異なります。弟子は世界の中に生きており、世界の一部であり、世界と完全に同一認し、そして世界に仕える者でありますが、しかし不思議にも彼は世界から隔離されています。日常の生活の大渦巻きの真直中にあって隔離されているという特異な位置におります。しかも弟子は、世の中の苦悩や苦痛を他の人々よりも一層強く感じます。誰もが世界の苦難や痛み──何百万人もの飢えた人々や、貧困や、地震や、人類を襲うひどい病気など──を見ることができます。誰もがそれに心を動かされます。しかし弟子は、非常にしばしば他の人々よりもずっと明確にそれを見るのです。そしてその苦難に対してより敏感です。なぜなら、弟子は自分が肉体をもって転生している魂であることを認識しており、世に奉仕し苦悩を緩和する決意を持つので、大多数の人間よりも一層強くそれを感じます。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第2巻』)

弟子は、何にも増して、勇気と着実性と忍耐と「そこに留まる」ことのできる能力を持たなければなりません。そして私たちの裡にある最高のものを引き出すために自分の前に置かれた困難から逃避してはいけません。人生において様々な困難に出会うのは、私たちがそれらを克服していくときに進歩があるように魂が整えるからです。進化の旅路において前進へのステップを踏むことになるからです。弟子はまた謙虚さと飾り気のなさが必要です。そして何にも増して、低位の特性を高位の特性のために放棄する能力を必要とします。(ベンジャミン・クレーム『協力の術』)

わたしの使命は、あなたがたに神への道を示し、本源への単純なる道を示すことである。多くの者にとっては、その道は終わることのない困難に満ちたものに思えることを、わたしは知っている。まことに、我が友よ、そうではないのである。その道に入り進むにつれて、わたしたち自身がそれを規定するのである。わたしたちが道であるとき、道はわたしたちの前に、法に基づいて開かれていく。非常に単純なのが神への道である。非常に単純なのがその上のステップである。そしてその聖なる道には多くの手伝人や案内人が居る。(『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第126信より)

三つの非常に重要な原則が弟子の進化を支配する。それは不動性(ぐらつくことなく、決して後戻りすることなく、大計画に、そして弟子としての誓願に完全に不動の姿勢を保つこと)と奉仕と自己犠牲である。これらが支配的原理である。もちろんこれらは関連しあっている。時々思い出したように奉仕することはできない。……弟子は少しでも前進するためには不動性を示さなければならない。もしそれをしなければ、弟子にはなれない。単に奉仕することを欲するだけではなく、実際に奉仕しなければならない。そうでなければ何の進歩もできない。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命  第1巻』)

ディサイプルには二重の責任があります。彼らは普通の人間としての責任を持つほかに、さらに余分の責任があります。なぜなら彼らは、真理のある側面を知っているからです。彼らは世界に存在する状況を変えるために何かをすることを自分自身に課しているのであり、そして大計画と共により賢明に働けるように自分自身の特性を変えることを決意しているのです。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第2巻』)

自分がディサイプルであることを知るとき、弟子道の必要条件を自分自身の中に意識的に積み上げることができるなら、どれだけ余計にできるでしょうか。平均的なディサイプルの生活の中に欠けるものは使命感です。ディサイプル(ハイアラキーの弟子)としての天職という意識です。ある意味で弟子道というのは天職です。あなたはそれに召されたのです。神に召されたのではなくて、あなた自身の魂にです。あなた自身の魂があなたをディサイプルにするのです。あなたが自分の魂との接触をつけるや否や、あなたはディサイプルなのです。そして魂があなたを先へと押しやるのです。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第2巻』)

人間一人ひとりが燈台であり、その灯を同胞のために遠くまで照らすのである。あなたのランプの灯を明るくともし、輝かし、道を示しなさい。一人ひとり、すべてが必要である。この世界を救済し、復旧するためのこの偉大な計画に参加するのに、小さすぎる者も、若すぎる者もいない。これをなす決意をしなさい、そしてわたしの援助があることを確信しなさい。如何にして始めるか、あなた自身を、あなたのすべてを、世のために、あらゆる所にいるあなたの兄弟姉妹たちのために、捧げることから始めなさい。一日たりとも真の奉仕の行為をなさずに過ごすことのないようにしなさい。そしてわたしの援助があなたに与えられることを確信しなさい。奉仕の道こそ、真なる人としての唯一の道である、なぜなら、この道は神につながる道であるから。(『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第13信より)

賢明なリズムを培いなさい。それが奉仕の自然な拡大を可能にするだろう。時々思い出したように奉仕をすることを慎みなさい。なぜならそのようなやり方では、勢いはみな失われてしまう。あなたは大計画に奉仕するためにここに存在するのだということを覚えておきなさい。あなたは気づかないだけであって、それがあなたの魂の願いである。あなたが自分の魂との接触をつけていくにつれて、経験の客観化が起こりはじめる。魂は好みも欲望も持たない。その目的と一致調和するものとだけ交わる。その目的とは、進化の大計画に最大限に仕えることである。(『覚者は語る 1』─奉仕への召集─より)

どれを最優先すべきかを認識し、あるいはいずれも重要なことの中から、さらにどちらかを選ばなければなりません。人類の真の奉仕者は(すなわち単に奉仕したいと願うだけでなく、実際に奉仕する者は)、意識しようがしまいが、ハイアラキーの弟子たちであり、そして弟子は自分自身とか家族とか友達に属する存在ではなく世界に属するということを覚えておくことは役に立つでしょう。しかしながら、真の弟子は物事の釣り合いの感覚を持ち、強い義務感と多くの責任を受け入れる能力を持つでしょう。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第1巻』)

山の麓にいると、我が兄弟たちよ、登りは実に険しいように見える。しかし最初のステップを踏み出すと、前進は速く、頂上近くに至ると、あなたは羽の生えた足を持つようになる、そしてその高所から神の栄光を見る。必ずそうなることを、我が友よ兄弟よ、わたし、マイトレーヤは約束する。(『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第89信より)

前方に横たわる仕事は明確である。魂の窓を開き、魂の光があなた方の生活を輝かせるようにしなさい。覚醒した直観を通して、魂の知識と目的が表明されるようにしなさい。慈悲の意味を知り、その愛を広範囲に広めなさい。魂の叡知ですべてのイリュージョン(錯覚)を消散して、兄弟同胞のために光となりなさい。これが光の道を歩む者すべての務めである。(『覚者は語る 1』─理性と直観─より)

ディサイプル(ハイアラキーの弟子)が、あるいはディサイプルになる志向を持つ者がまず最初に認めなければならないことは、自分は普通の人間であるが誓いを立てた者であり、自分自身の進化の状況を自分自身の手のうちに握った者であるということです。ディサイプルは魂と共に働き、その目的を遂行することを学んでいます。その魂の目的とは、他にどのような目的があろうと、まず「犠牲の法」によって導かれており、ディサイプル自身が直観的に知り得る範囲内で進化の大計画と共に働くことであり、そしてそれを自分の人生の中で実践していくことであります。彼の意識の中では大計画のほんの基本的なことしか実感を伴わないかもしれないが、それらの側面が実感される限り、それを自分の人生の中で実践していく甲斐があるのです。しかし実際にそれを実行することは非常に稀であります。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第2巻』)

瞑想は魂との接触への王道であるが、いったんこれが達成されたら、真の志向者が弟子道へと進む道は奉仕の生活をも共に受け入れることである。内的焦点と外的焦点との均衡が保たれなければならない、そして最も低い弟子からキリスト御自身、そしてさらにその上位のすべての真なる神の子たちを招く無限の道、奉仕の道の上の歩みが始まるのである。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第1巻』)

帰還の道は、今あるがままのこと(WHAT IS)についての意識、そしてそうあるかもしれないところのこと(WHAT MIGHT BE)についての意識が、進化しつつある個人としての探求者に知られるようになっていく道であります。 言い換えれば、あなたが探求するにつれて、志向するにつれて、自分の前に、ジュワル・クール覚者の言葉によれば「蜘蛛が自分自身の存在の裡から絹のような糸を創る」ように、それと全く同じように帰還の道を、まだ敷かれていない道を創っていくのです。それは全体に対する己の関係を構成するところのものについての認識の増大です。それによって私たちが自分たちと全体との、大宇宙との連結性についての認識と経験をますます深めていく手段であります。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第3巻』)

神への道は非常に単純であることを告げるために再びやってきた。わたしの道が、愛の道が、最短コースである。還りの径は喜びの径である。この喜びを知り、神に還りなさい。(『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第139信より)