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今月号の内容概説

 世界と地球が私たちの誤った選択による衝撃に対処しようとしている折なので、今月号のシェア・インターナショナル誌は、私たちが自らつくり上げた諸問題に根拠を与えている根本的な要因と同時に、今私たちにとって実現可能な変容に向けて希望を呼び起こす機会に目を向ける。マイトレーヤの任務を描写した記事の中で、ベンジャミン・クレームの師は、紛れもないコメントを残している。「人間にとっては、彼らが自分たちの行動の結果を理解し、それに対処しようとするにつれて、それは最大限の努力を要求される困難な時期である。様々な出来事の理路が理解できずに……」
 このことを念頭に置いて、あり方や自分についての理解の仕方を模索する人間の真の必要を検討することにした。現在と将来の教育から始めるにあたり、グラハム・ピーブルズの多岐にわたる記事「教育:目的の拡大」を取り上げ、次に、教育へのアプローチに関するフィリス・クレームによる内省的な記事が続き、そして同じテーマに関する選集が添えられている。
 人間はこれまで自分の真の性質を本当に理解したことがなく、したがって教育的な必要も理解したことがなかったため、社会的な不正義、貪欲、不平等として露顕している深刻な過ちを犯してきた(グローバル経済システムに内在する不安定さに関するセバスチャン・ヴィルモットによる専門的な分析で検討されているように)。その過ちは私たちの惑星の破壊という形でも露顕しており、それはデビッド・コーテンの記事「気候変動対策の先延ばしの期間は終了した」で見事に描写されている。ここで特集されたすべての主題は、解決策を指し示し、新たな可能性にあふれる未来を提示している。
 今月号を貫く糸の一つは、私たちは皆、転生している魂だということである。これは論理的には、すべての社会構造が変化する必要があることと、地球に対してより大きな責任を負うことを意味するはずである。今月号にはマイトレーヤからのメッセージ第120信もすべて掲載されている。心に語りかけてくるそのメッセージは、優しいものであると同時に、同じくらい力強いものである。以下はそのメッセージの一部である。「わたしは世に仕えることを願う。わたしは正義を愛する。わたしは時間に間に合った。わたしは世界の均衡を正す。わたしは任務に専念する。わたしは自由を尚ぶ。わたしは、人間が用意の整っているのを感じる。わたしは何ごとをも偶然に任せない。わたしは新しいものを喚び起こす。わたしは過去の病を治す。わたしは古いものを変容させる。わたしはあなたのひたいに触る。わたしは天使の軍勢を指揮する。わたしは神の大計画に仕える。わたしは兄弟たちを抱擁する」

対立する教育観

フィリス・クレーム

 「私たちは皆、転生している魂です」
 端的に言えば、子供を教育することに関して、長期間にわたって対立してきた二つの態度がある。一つは、概して、子供が成長してから入っていく社会へと子供を適合させるために、徐々に知識と技能を刻み込んでいくための「空白のページ」あるいは「空の容器」と子供を見なすものである。これは古いビクトリア時代の考えだと思われているが、今日の教育へのアプローチの幾つかをいまだに支えている。
 これと対立しているのが、子供は初めから、潜在的にはすでに存在している人物になるために徐々に発達する可能性のある生来の特質を持っているという見方である。もちろん、教室での実践において、「知識と技能を培う」とか「潜在能力を開発する」と言うように、こうした二つの見方は重なり合っているかもしれない。また、教師たちはたぶん、混合したアプローチが必要だと主張するだろう。それでも、こうした二つのアプローチは、人間についての二つの根本的に異なった見方──物質主義的な見方と霊的な見方──を反映している。「発達(開発)」の支持者にとって、子供は肉体以上の何かであり、頭脳も、遺伝的性質も、環境も、全体を構成するには至らない。
 ベンジャミン・クレームが述べているように、「私たちは皆、転生している魂です」。また、グラハム・ピーブルズが今月号で強調しているように、すべてが一つの聖なる全体の一部である。輪廻転生について知っていれば、つまり、私たちは転生している魂であり、この生涯は多くの生涯の一つであり、霊性を完成させる道に沿って少しだけ前進する一つの機会にすぎないということを知っていれば、教育へのアプローチは大きく変わる可能性がある。一例を挙げると、私たちが皆、魂であるという考えは、他の人々への接し方に影響を与え、生徒を判断する──あるいはなるべくなら、判断しない──別の方法を教師たちに与える。生徒ができることや生徒の知識、技能だけというよりはむしろ、生徒のあるがままの姿を基本的に尊重するようになる。多くの教師は、その信条がどうであれ、生徒に対するこうした根本的な敬意を持っているが、持っていない教師もいる。さらに時には、敬意を持っているとしても、実際の場面でそれを維持することがいつも容易なわけではない。
 「発達(開発)としての教育」という考えは、よく引用される(アリス・ベイリーを通して書かれた)ジュワル・クール覚者による『新しい時代の教育』での陳述に照らせば、かなり違った光沢を帯びることになる。「何らかの形の発達──肉体的、情緒的、知的、直観的、社会的な発達──に向けて人間を駆り立てるすべての活動が、もしそれがその人を現在の状態より前進させるならば、本質的に霊的な性質のものであり、内なる神聖な存在が活発であることを示している」。これは、「潜在能力を発達させる」と通常はかなり漠然と表現される発達という考えよりも正確である。それに含まれるのは、例えば、スポーツ選手として達成しようという努力、物質的な状態を改善しようという努力、満足のいく愛情生活を持とうという努力、より多くの知識を得ようという努力、世の中で善を行おうという努力である。この陳述はまた、人々は進化の様々な段階におり、例えば、情緒により焦点を置いている者もいれば、メンタル界により焦点を置いている者もいることを考慮に入れている。「人間を駆り立てるすべての活動」は志向的であり、すべてが「内なる神聖な存在が活発であることを示している」。つまり、その人の魂が存在し、その人に影響力を及ぼしていることを示している。教育は、すべての人に内在する、志向を表現しようとするこうした意欲を促進すべきである。個々の教師はそうしようと努めるが、技能や試験、職業に焦点を置いた、しばしば懲罰的なシステムはそのように努めようとはしない。あるいは、少なくともかなり狭い形でそのように努めている。
 長年、アリス・ベイリーの内的グループの中で働いたロベルト・アサジオリ※は次のように書いている。「他の人々の自己向上を助けることにおいて本当に成功したいと思うなら、……対処したり規律に従わせたりする必要のある諸傾向に、その個人にとっての外的な力(例えば、教師自身の意志の力)で決して対立してはいけません。……むしろ、生徒の中に潜在している高位の力を目覚めさせなければなりません。……」
 「悲しいかな、親や教育者によってあまりに頻繁に採用される第一の選択肢は、個人の中に対立の感覚を喚起します。その人は、あたかも自分の決定的に重要な発達が阻害され抑圧されるかのように感じるからです。そのため、若者たちの中に、権利の拡大や自己主張、頑固な不服従、猛烈な反抗精神の必要性を強く感じる者がよく見られるのです」
 これは、若い人々の明らかに破壊的な傾向を恐れる人々にとって、多くを語る陳述である。こうした傾向は、より良い世界のために闘っていることを十分に自覚している他の若い人々の行動とは著しい対照をなしている。否定的もしくは破壊的である若者は、自分の志向や「拡大と自己主張の必要性」を表現することを許されてこなかったのであると、したがって懲罰的なアプローチは逆効果であると、考えてよいのかもしれない。
 1960年代と70年代のイギリスでは、主流の教育において、「子供中心」のアプローチ──生徒自身の観点や段階、自分の能力や知識、性格を「発達」させようという能力から始めること──に現在よりもはるかに大きな焦点が当てられていた。しかしそれ以降は、教育課程の狭小化、「就職」や「技能」や「説明責任」への焦点化が、多くの場合、創造的な科目の減少や学習への創造的なアプローチの減少につながった。一部の生徒にとって得るところはあったが、画一性が増し、生徒のストレスが増大するという代償を払うことになった。
 教育は再び、その目的に立ち返る必要がある。グラハム・ピーブルズが指摘するように、これは、この惑星の住民としての私たちの目的を再考することを意味する。学校の生徒たち自身が大挙して告げているように、それは、私たちの内的な一体性という認識、一人ひとりが他の人々と、そしてこの地球という惑星と一体であるという認識を取り戻すことを意味する。ジュワル・クール覚者は(先の引用のあとに)次のように続けている。「人間の霊は不滅である。それは永久に存続し、進化の道を点から点へと、段階から段階へと前進し、神聖な属性や様相を着実かつ連続的に展開させていく」

※ ロベルト・アサジオリ(1988-1974)は「サイコシンセシス(統合心理学)」の創設者であり、トランスパーソナル心理学の分野で大きな影響力を持っていた。

アサジオリ「内的生活に関する覚書」、ビーコン誌、1926年と1995年

ベイリー『新しい時代の教育』(AABライブラリー、2004年)

 「第一に、教育が誰のために存在するのか、そして教育がその機能を果たしていく過程が理解されなければならない。これは見かけほど明白ではないかもしれない。なぜなら、人は長い間自分自身の本性と構成について無知であったし、部分にすぎないものを全体であるとして見、己自身の本質的存在を、大体において無視してきたのであるから。
 転生している魂としての人間は生まれつつある神である。そして『再生誕の法則』を通して、その神性をまばゆいばかりに実演するためにゆっくりと向上しつつある。教育の本当の意味は、個人が意識的な認識を徐々に拡大していくことを通して、その目的に適うようになり、また自分自身をそれに合わせるようにしていく手段である。この過程を助けるものは、その方法が公式だろうが非公式だろうが、すべて教育である。
 今日の感覚では、教育はまさに薄弱である。人間の環境を理解し、コントロールするための最小限の必要条件しか請け合わない。人生の意味と目的について初歩的なこと以上を学ぶ者はなく、ほとんどの人間が生存のための日常の闘いに気を取られている。……」
(ベンジャミン・クレームの師、「新しい教育」より、本誌1988年第1・2号)

今月号内容概説

 今月の本誌は(訳注:英語版は1・2月合併号として、日本語版は1月号・2月号別々であるが)、アグニ・ヨガや天使達の話からボランティア精神、さらに偽情報の見分け方など様々な情報を網羅すると同時に、マイトレーヤや覚者方、天使やデーヴァ、弟子などに関する記事を特集している。
 生態系と霊性に関する画期的な新しい分析は人生を概観する新しい見方について統合的なやり方を提唱し、(信念、信、直観に関しての)賢明な見解を集めた選集は、霊と物質、主観と客観の関係についてのこの理解に言及している。「われわれが新しい時代に入るにつれて、外的世界と主観的(内的)世界を探求し、(神の)創造におけるこの二つの様相の間の関係を理解することに新しい緊急性が感じられている。世界中の多くの科学者が、すべてが相互に関連し合っていることについての彼らの直観を実際に証明する必要に促されて、彼らの探求をそちらの方向に曲げつつある。超人格なるエゴ、または魂(の存在)を受け入れるという姿勢が徐々に地盤を広げつつあり、それは人間の現実観の新しい統合につながりつつある」(ベンジャミン・クレームの師、選集を参照)
 今月号の内容の多くに共通して流れる統合の線があり、同時にそれと並行してわれわれの過去の過ちを修正し、変化させようとする人類の側の実際的な努力の発展が見られる。われわれは「われらの惑星を救う」必要があることを理解し、また化石燃料からの投資引き揚げの必要があることや、環境の浄化、飢えた人々への食糧支援、社会正義と公正な制度の確立の必要があることを理解する。
 ベンジャミン・クレームの師である覚者は、「新しい日」という記事の中で、人間を「駆り立てて道を前進させるフォース(霊的エネルギー)を感知する力が一段と高まっている」ことについて語っている。「彼らは、自分たちがコントロールはもとより理解すらできないものが多くあることを、かすかにではあるが、感知する。しかし彼らは、ゆっくりと、彼らの裡にそして周りに、より大いなる意味と目的を、より大いなる和合と美を、思い描き始めている」。この号において幾人かの覚者方の教えの中に意味と目的を見いだすことができるだろう──覚者方は、ベンジャミン・クレームを通して、またエレナ・レーリッヒ(ヘレナ・レーリッヒとも)を通して、さらには第二次世界大戦がヨーロッパを席捲し非人道性が増大する状況において自分たちの師である覚者方の指導の下で日ごとに意識と霊的洞察を成長させた勇敢な若い弟子たちを通して語った。
 自分の子供が死ぬのを見て、デーヴァ(または父親は天使として体験した)がその子の周りで働くのを見たという父親の単純な証言を読んで、人生に何か格別のものがあるということを疑うことは難しい。4人の若いハンガリー人に対して天使たち(実際には覚者たち)が与えた驚くべき教えについて読むとき、読者に疑念を抱かせることは難しいだろう。8歳の少女が幻(ビジョン)として出会ったイエス覚者の顔を完全に献身的に自信をもって描くのを知ることは、最も懐疑的な読者にも驚きを与えるだろうし、新しい意味に目覚めさせることになるだろう。助けが公にあるいは背後から与えられるのを見ることは、希望の灯に火をつけるものであろう。それはまた私たちの眼を開かせ、いのちがひとつであることに気づかせるであろう。ベンジャミン・クレームが述べたように、「希望とは、すべてのものと内的につながり合っているという自覚です。あなたの生命が、日々の活動が、宇宙の計画と内的に結合していることについての自覚です」。

ベンジャミン・クレームの盗まれた絵

ベンジャミン・クレームの盗まれた絵画作品が見つかり、国際的な注目を集める

 画家でシェア・インターナショナル誌の創刊編集長であったベンジャミン・クレームのサイン入りのリトグラフ約1,300枚が、ロサンゼルスで突然見つかり、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ロサンゼルス・タイムズ、BBCなど、世界中の主要情報網や新聞の見出しを飾った。
 およそ 2,000枚のリトグラフが2012年にロサンゼルスの倉庫から盗まれた。2019年9月に一人の女性が車にその印刷物を積んで警察に盗難品として届け出をした。この発見についてロサンゼルス警察の担当官は、「こんなことは起こり得ないことだ」とニューヨーク・タイムズ紙に語ったという。実際に今日のようなご時世にそのような盗品の発見は奇跡と考えてもいいのかもしれない。
 この絵画の発見のニュースは、画家としてのベンジャミン・クレームの仕事に注目を集めさせただけでなく、世界教師マイトレーヤと覚者方がこの世におられることを伝えてきた彼の仕事にも国際的な注目を集めることになった。しかし、マイトレーヤに関する話はニュース媒体によってまちまちであったが、これらの最近の報道が再び一般の注目を集めることにつながったのである。
 ベンジャミン・クレームの情報は、1982年にシェア・インターナショナルが世界の有名な新聞の幾つかに全ページ広告を載せたことで何百万という大勢の人々に届いた。
 これは単にベンジャミン・クレームの驚くべき生涯に関連した最近の出来事でしかないと、人は言うのかもしれない。

表紙の絵

表紙の絵

太陽の風(1964年)──われわれの太陽系には全体を通して大きな風が吹き渡っている。これらの風には果たすべき特別の役割がある。それらの風は超高速で太陽系を吹き渡り、太陽の中を通ってその火を冷まし調節し、大きな通り道をつくっている。
 今年の表紙の絵のイメージに必ずしもまた明らかに関係しているわけではないが、それでも読者は幼少期に風を見ていたという(画家の)記憶に興味を覚えるかもしれない。彼の最初の本、『世界教師と覚者方の降臨』の序文でクレームは次のように書いている。
 「4、5歳の子供のころ、私の最も好きだった遊びは、窓辺に座って風を見ることであった──風が木や葉に当たる様子ではなく、風そのものを見ることであった。空気の動きをみて、それが北からか南からか、東か西から吹いている風かを当てるのである。しかし学校へ行くようになって、空気は見えないものであり、風も目で見ることのできないものであるということを学んだ。そして徐々にそうなったのか、突然だったのか覚えていないが、物質の何らかのレベルのエーテル界を見る能力を忘れてしまった」

意識に関するジョージ・アダムスキーのごく初期の教えを科学が確認する

ゲラード・アートセン

1919年に米国陸軍を除隊したあと、ジョージ・アダムスキーは米国各地で様々な職業の肉体労働者として働いた。その後、宇宙の法則を教える自称「さすらいの教師」として、カリフォルニア、ニューメキシコ、アリゾナを旅して回るようになった。この宇宙の法則については、彼自身が1904年頃から1909年までの5年間、チベットの知恵の覚者方と共に学んでいた。1928年頃、アダムスキーはロサンゼルス地域に落ち着いて、そこで「ロイヤル・オーダー・オブ・チベット」を設立し、講演や非公式の話し合い、自費出版した小冊子やブックレットを通して、秘教の知識を求める人々に教えた。

このうち、『見えない海(The Invisible Ocean)』(1932年)と題した最初の本の中で、アダムスキーは大気圧の例えを用いながら、宇宙の見えない海を地球の物質的な大洋にたとえ、こう述べている。「海底と海表面の間には異なった波動を持つ多くの層があり、様々な生き物がそれぞれの層に生息していることが現在では分かっています」。このことが示唆しているのは、「海の生き物たちが生きている何百万もの異なった意識状態があるに違いない」ということである。唯一の違いは波動にある、と彼は述べている。「より繊細な波動は、圧力があまりかからないため、より明るくより優れています。底辺では、いろいろな物が粗雑で重くなります。圧力が強いからです」
システム科学は、単純なものから複雑なものまで、様々なシステムの性質を研究する学際的な分野であり、量子物理学と密接に関連している。ハンガリーの哲学者でありシステム科学者であるアーヴィン・ラズロ氏は最近、『宇宙の知性(The Intelligence of the Cosmos)』(2017年)と『実在とは何か(What is Reality?)』(2016年)という本の中で、非常に似通った言葉で自らの洞察を提示した。「私たちが現在知っている宇宙は、受動的な空間の中で動き、無頓着に時間の中を流れる物質の領域ではなく、様々なコヒーレント(まとまりのある)波動の海である」。こうした最先端の科学的洞察に照らしてこそ、『見えない海』の中にあるアダムスキーのごく初期の教え──ならびに後年の論文や説明──の真の重要性が明らかになる。
2017年の公共放送サービスのドキュメンタリーで「現代の天才」と呼ばれたラズロ博士は、「時空間」、つまりリアリティ(実在、真実)の濃密物質の領域が、宇宙のリアリティのすべてだということはあり得ないことを、今や科学が認めようとしていることを明らかにしている。「物理学者たちは最近まで、複雑な界層[時空間を超えた次元]を、時間の経過に伴う量子システムの動きを予測するのに役立つ単なる数学的手段と見なしてきたが、物質的リアリティの一つの要素と見なすことはなかった。この見方が見直されている。複雑な界層は、時空間を超えた物質世界の次元もしくは領域であるようだ」
ここで、『シークレット・ドクトリン』(1888年)という重要な作品で知恵の教えを現代世界に再紹介したH・P・ブラヴァツキーが、次のように語ったことに注目すると興味深い。「オカルティズムの科学のすべてが基盤とするのは、物質の幻惑的な性質と、原子の無限の分割性という教義である」。(「オカルティズム」──「隠れた」を意味する「オカルト」から派生した──はここで、進化過程の背後にあるエネルギーについての科学を意味することに着目すると興味深い)

体外離脱の体験

デスモンド・レスリーは、『空飛ぶ円盤は着陸した(Flying Saucers Have Landed)』(1970年、改訂増補版)に寄せたジョージ・アダムスキーに関するコメンタリーの中で、アダムスキーの体験の物質的なリアリティについての議論に触れ、こうした体験の一部は「肉体の外で行われた霊的な体験の印」を持っていたと注釈している。知恵の教えを学ぶ者として、彼は次のように理解している。そうした説明は「次のことのゆえに、なおさら真実である。つまり、真我とは、肉体ではなく、意識であるということである」。意識の性質についての科学的探求は、ようやく追いつこうとし始めたところである。神経科学者のスティーブン・シュワルツ氏は次のように述べてさえいる。「意識が原因であり、物質的なリアリティはそれが顕現したものである」。おそらくそのために、レスリーはこう書いている。アダムスキーの「使命は、訪問者たちの客観的な事実だけを確立しようとすることであった。それ自体、十分に難しい仕事であった。わずかでも秘教的なものによって素人を混乱させてはいけなかったからである」。それでも、アダムスキーは確かにレスリーに対して次のように請け合った。「私たちの誰も現在の肉体の形態や状態のまま、太陽系内の他の惑星に連れていかれ、その住民たちの故郷の世界を見ることは許されませんでした」

拡大する意識

私が以前、『転換期にある惑星』(アルテ、2016年)で例証したように、ジョージ・アダムスキーが多くの他のコンタクティーたちと同様に告げられたのは、人類が歴史上のこの時点において新しい宇宙周期へと移行するのを助けるためにここにいる訪問者たちは、私たちの道徳的、社会的進歩がテクノロジーの進歩と釣り合うようになるまで彼らのテクノロジーをもっと多く分かち合うことはできないということである。つまり、人類にとっての唯一の安全な前進の道は、同胞の人間を自分自身と見なすという、より高度な倫理観に従って生きることを通して、拡大する意識を顕現させることだということである。アーヴィン・ラズロ氏は『宇宙の知性』の中で、システム科学から生まれる新しいパラダイム(枠組み)はこの拡大する意識という概念を支持するということを明確にしている。「進化した意識形態の顕著な特徴は、倫理的で、洞察力があり、霊的である人間の中で生まれる物の見方である」
『見えない海』で提示された例えの中で、アダムスキーはこう述べている。もし私たちが「[私たちの]進化において徐々に引き上げられる」とすれば、私たち一人ひとりが、意識の中にある、低位性質と高位我との間の「境界線を壊して」しまわなければならない、と。そうすれば、私たちを他の人々や彼らの必要から分け隔てている境界線を取り除くことになる。同じように、最新の科学的発見により、ラズロ博士は次のように結論づけるに至った。「自然界のシステムの進化と持続は、競争よりもむしろ協力の中に根づいている」
意識の進化に関して、アダムスキーはこう書いている。「海底で泳ぐ魚は、てっぺんにあるものを理解することができない。それはより高度な意識を得ようと努めているが、もっと高く浮上することができないので、表面の意識はまだ知らない。何がその波動を受け止めるにせよ、それはその特定の層で暮らしている」。私たちはここで、意識の進化の過程における自分自身の段階が、リアリティについての感覚にいかに影響を与えているかを理解する。知覚と理解の領域に落ちてくるものは知覚することができる。それより上にあるもの、より高い波動や周波数の領域に存在するものは必然的に理解が不可能に見えたり恐ろしく見えたりする。そのため、適切に理解されなければ、人々は嘲笑したり反対したりし、歪曲することによって引きずり降ろそうとする。これはジョージ・アダムスキーへの容赦ない攻撃に見られるだけでなく、現在の交通や通信、情報技術の結果として村の大きさまで縮小した世界における急速な変化への人々の反応にも見られる。一方、多くの人々は、グローバル社会や人類をどのように見るかについて同じ変化を成し遂げようとしていまだに心理的に苦闘している。
人間の進化について言えば、すべての男女や子供の基本的必要が同一のものであるということが分からないとしたら、「他者」を包み込むほどに人間性を拡大させる責任が私たちにある。そうするためには、現在身近に感じている意識の海の層のすぐ上の層へと思い切って入らなければならない。そして、意識的な認識と知覚において成長するにつれて、私たちはより精妙な領域に慣れ、より包容的な人生観を通して他者への寛容と敬意を培うことになる。
主流派の科学とそのより頑固な信奉者は、実証による証拠だけが生命を理解するのに役立ち得ると主張する。一方、『見えない海』の中にあるアダムスキーのごく初期の教えは、生命を理解することは私たち自身の生命の理解に関するものだということを理解するのに役立つ。私たち自身の生命についての理解は、私たちの意識の拡大とともにやってくる。したがって、アダムスキーのごく初期の教えは意識の進化そのものに関するものである。最近の本の中で宇宙を「コヒーレント波動の海」として提示したラズロ教授は、科学が今や、アダムスキーの教えが1932年に──『見えない海』として──始まった理解の地点へと到着したことを明らかにしている。

ゲラード・アートセン『見えない海(The Invisible Ocean)』から抜粋。(同書は『見えない海』の複製と、ジョージ・アダムスキーによる二つの未発表記事を収録している)BGA Publications 2019, ISBN 978-90-9031695-6

神と来世

 

ジェフリー・ロング博士へのインタビュー
マクネア・エザード

ジェフリー・ロング博士はアメリカの熟練した内科医であり放射線腫瘍学者である。彼は「臨死体験研究所」の創立者であり、これは無料の公共サービス機関として、15年以上にわたり世界中の4,000人以上の人々から臨死体験を収集し調査してきた。人々は彼らの体験に関する詳細なオンライン調査を完成させることにより研究所の調査に参加する。ロング博士は2011年に出版されニューヨーク・タイムズのベストセラーとなった『臨死体験 9つの証拠』(ブックマン社、2014年)の中で彼の最初の調査結果を発表した。ロング博士の直近の調査結果は彼の著書『神と来世──神と臨死体験についての画期的な新証拠(God and the Afterlife: The Groundbreaking New Evidence for God and Near-Death Experience)』に収められている。マクネア・エザードがシェア・インターナショナル誌を代表して彼にインタビューを行った。
シェア・インターナショナル(以降SI):なぜ臨死体験に関心を持つようになったのですか。

ジェフリー・ロング:何十年も前、私は放射線腫瘍学者としての専門医学の研修訓練を受けていました。最も権威ある医学雑誌『アメリカ医学協会報告書』を読んでいたとき、「臨死体験(NDE)」という言葉をタイトルに含む癌に関係する記事を見つけました。それまでの医療訓練の中では、死んでいるか死んでいないかのどちらかだったので、臨死体験とは何のことだろうと思いました。私はその記事を読んで魅了されました。世界中に、死ぬときの環境がどのようなものであろうと、同じような体験をしている人々がいました。私は「ああ、なぜ人々はこの体験を調査しないのだろう?」と思ったのを覚えています。私は夢中になってもっと多くの本を読み始めました。調査のためのウェブサイト(nderf.org)を立ち上げ、それが出版につながりました。

SI:内科医として、最初はこれらの体験の真実性に懐疑的だったのではないですか。

ロング:まさにそうです。医師として、私は死にそうな人々を蘇生させることを目指してきました。無意識の昏睡状態にある人々が、このような生き生きとした認識を持ち、首尾一貫した体験をしているということが信じられませんでした。私がウェブサイトを立ち上げたのは、むしろ私自身のために、実際に臨死体験をした人々の情報を集めるためでした。

SI:調査を始める前に、あなたは来世を信じていましたか。

ロング:おぼろげには。それはむしろ願望でした。証拠に基づいて来世を信じていたのではありません。今は証拠があるのですべて変わりました。長年の検証と多くの議論を経ています。今では臨死体験により、来世が存在するという強力な証拠があります。それは私たちすべてにとって現実です。

臨死体験の共通要素

SI:あなたは臨死体験の12の共通要素について書いています。それは何ですか。

ロング:同じ臨死体験は二つとありませんが、私は4,000例以上研究してきました。しかし、多くの事例を研究すれば、常に観察され臨死体験中に起こりがちな同じパターンを見いだすことができます。命の危険を感じる出来事があり、無意識と臨床的な死があり、脈拍は停止します。そのとき意識が肉体から離れます。人の意識が肉体の上に行きます。
その優位な立場からすべての地上の出来事を見ることができます。他の人々が懸命に延命作業する様子さえ見えます。それからトンネルを潜り抜けます。トンネルの出口で、とても明るい神秘的な光にしばしば出会います。美しい風景の、地上ではない領域を見ます。
地上で愛していた人々に出会い、多くの交流があります。それまでの人生のすべてか一部を見ます。それは人生の見直しと呼ばれます。非常に肯定的な感情を持ちます。臨死体験について述べるのに最もよく使われる二つの言葉は「愛」と「平和」です。彼らは強烈にそれを感じます。しばしば、体験の終わりに、いわゆる境界、小川や地割れがあり、それを超えることができません。そのときに、しばしば他の人々と共に、この美しい地上ではない場所に留まるか、戻って地上の人生を続けるかを選択します。

SI:臨死体験に関する二番目の著書『神と来世』を出版したのはなぜですか。

ロング:調査の間、私は人々がしばしば神を体験し、神に気づくことに感心しました。彼ら自身が「神」という言葉を使います。その説明は注目すべきものでした。調査の質問にそれについて加えることは適切なことだと感じました。ウェブサイトの直近の調査の中で、「体験の最中に、神または至高の存在が存在するかどうかについて特別の情報または気づきがありましたか」という質問をしています。45.5%の人々が「はい」と答えました。分からないと答えたのは14.8%だけです。40%が「いいえ」と答えています。続いてコメント記入欄があります。「はい」と答えた人が本当にイエスと言っていることは明らかです。
臨死体験の前後での神への信仰について質問しています。高い割合の人々が「はい! 私は信仰を得ました。私は神が存在することを確かに信じます」と述べています。それは信念ではなく個人的体験に基づくものであることは疑いありません。それは人々の考えにおける最も顕著な変化の一つです。

「神はありのままの私たちを
完全に愛している」

SI:調査を始めたとき、特定の宗教の信仰を検証しようとされましたか。

ロング:いいえ。実際、私は調査する医師として事実を求めていただけです。研究の結果が何であろうと受け入れるつもりでした。4,000以上の臨死体験事例が集まりました。私が誤った結論を出したとすれば、同じ資料を読んで私の誤りを指摘する人はたくさんいるでしょう。しかし誰もそうした人はいません。大切なのは、宗教に関して、臨死体験の中で神に出会うとき、それは決して地上の特定の宗教を確証するものではないということです。神は私たちが神についてどう考えるかに関わりなく私たちを包みます。
神に出会った人々が臨死体験から持ち帰った第一のメッセージは、神はありのままの私たちを完全に愛しているということであり、宗教を信じるかどうかには関わりなく、性別や社会的地位やその他のことには関係がないということです。おそらくそれが神が臨死体験の中で私たちに与えていると思われる最大のメッセージです。

SI:人々は神をどのように描写しますか。

ロング:忘れてはならない第一のことは、神は物質的なものではないということです。臨死体験は、独立した地上の物質的な世界で起こるものではありません。それは非物質的な世界です。地上の人生で私たちが知っている多くの法則は当てはまりません。例えば、ほとんどすべての人が、地上で知っているような時間は存在しない、または根本的に違うと言います。神の外見は様々です。臨死体験の中では、神は望むどんな姿も選ぶことができます。最も一般的には、神は光として描写され、深く愛に満ちた光とされます。何らかのやり方で人間の姿を取ることもありますが、単に存在が感じられるだけのこともあります。体験者はそれが神であることを確実に知ります。視覚的または聴覚的に神であることを知る手掛かりがあります。

和合の体験

SI:慈悲や愛という点で神にはどんな特質がありますか。

ロング:彼らが神について述べる第一のやり方は、すべてを愛し全能であるということです。全能とは無限の力を意味します。人々は神について気づくようになり、しばしば神を巨大な創造力と述べます。神は力を持ちますが、恐れるべきものでなく、尊敬すべきものです。
神の別の側面は全知であり、無限の知識という言い方もできます。臨死体験者は、神は圧倒的に知っているということに気づきます。実際、神に会った人も会っていない人も、臨死体験中に「普遍的知識」と呼ばれるものに気づきます。それはすべてを知っているということであり、宇宙のすべての適材適所を知っているということです。しかし彼らは肉体に戻ったときにその知識を何も蓄えておくことはできません。ある人は言いました。「それは知識の大海を地上の頭脳であるティーカップに注ぐようなものだ」。もう一つの側面は遍在です。神は至るところに存在します。それは共通の認識に思われます。全員、この世の私たち皆、すべてと神の間に、神秘的で、非常に現実的なつながりがあります。「和合」という言葉が使われますが、それは驚くべきことです。確かに、私たちはそれについて地上での人生の間に気づいていませんが、人々は非常に共通してその認識について述べます。それは西洋の宗教的教えの中では古典的なものではありませんが、和合の認識は、臨死体験の間に人々が強く感じる二番目に共通のものです。

SI:それは人々に、戻って来たときに、他の人々との和合の感覚を与えるのですか。

ロング:そのとおりです。それは認識であり、実際には認識でさえなく、リアリティの一部を知ることです。地上での人生では、すべてとのつながりの無さや不和を感じることが多くあります。臨死体験者が強い和合の感覚を体験の後にすぐに失ってしまうのは理解できます。

SI:人生の見直しに関して、人々はしばしば彼らの人生で起こったことを見直すときに後悔や恥ずかしさを表現します。そこには神からの裁きの感覚はありますか、そしてその体験に赦しはどのように関わりますか。

ロング:赦しは臨死体験の中ではほとんど言葉になりません。その理由は簡単です。彼らが人生を見直すときに外的な裁きの感覚は事実上存在しないからです。私たちは全員誇りにできないことをしています。前の人生を見るとき、誰もが、愛がなく、他の人々を意図的にせよ無意識にせよ傷つけた時期を見ます。前の人生での行為に対する裁きや見解があるとすれば、それは彼ら自身の人生を見た臨死体験者からのみ来ます。神や他の存在が彼らの周りにいても、外から裁かれている感覚は決してありません。裁きがないので、赦しという概念もありません。

SI:本の中であなたは、多くの臨死体験者は人生の目的についての情報を受け取ると述べています。それについてお話いただけますか。

ロング:直近の調査において私はもう一つの質問をしています。「臨死体験の間に、地上での意味や目的についての何らかの情報を得ましたか」。魅力的な結果は、高い割合の人々が「はい」と答えていることです。彼らは実際にそのような情報に出会っています。私たちは質問の後にコメント欄を設けています。私たちの人生で重要なことについての最も共通した答えは愛です。自分自身への愛、他者への愛、地上への愛です。愛についての教訓や、愛について学ぶこと、愛の中で成長することは最も大きな目的の一つです。教師や医師になるなどの特定の天職についての情報を得る人はほとんどいません。人生の意味と目的は学ぶことだと言う人もいます。私たちは成長する必要があります。理解する必要があります。人々がこのような情報に出会ったときの重要なメッセージは、ニヒリズムや落胆、心配、不満、困難の多いこの地上において、地上の人生は極めて意義深く重要なものだと知ることは慰めになるということです。たとえ困難であろうと、地上の人生にはあらゆる意味で真の意義があるのです。

SI:そのメッセージは自殺を考えている人々にとってとても重要だと思います。

ロング:そうです。臨死体験者の中には、自殺を企てた人々がたくさんいます。興味深いことに彼らは決して自殺を企てません。臨死体験の間に、自殺は大きな誤りであることを理解することが普通です。自殺を企て、臨死体験をしなかった人々は、再び自殺を企てる強い傾向がありますが、臨死体験者はそうではありません。彼らは地上の人生について大切な教訓を学びます。それが彼らを自殺の企てから食い止める最も重要な要素です。

SI:再生誕(生まれ変わり)についての証拠はありましたか。

ロング:興味深いことに、私はそれについての調査を開始したところです。人生の見直しに加えて、臨死体験者の多くは、彼らの地上人生の以前の人生について述べています。それは時には多くの人生です。それは生き生きと述べられています。10人が「私は前世ではクレオパトラでした」と言っても信用できないでしょう。しかしそうではありません。彼らは地に足の着いた前世体験を、何十年か何百年か前について語ります。

SI:宗教的背景によって彼らの臨死体験は異なりますか、同じですか。

ロング:神の描写については驚くほど同じです。神の描写、神の体験の仕方については、宗教による違いは見いだせません。
宗教的信念は臨死体験では重要ではありません。それは驚くべきことです。インドのヒンドゥー教徒と、エジプトのイスラム教徒と、アメリカのキリスト教徒は、臨死体験においては同じです。違いがあるのは無神論者です。少数の人々は臨死体験中に彼らが無神論者であったと述べています。無神論の観点からは、神は存在しません。しかし、それらの無神論者も神に出会っています。ある無神論者は、臨死体験の後で無神論でなくなりました。

SI:あなたは研究することで死に対する態度が変わりましたか。

ロング:それは私をとても変えました。私はより慈悲深い医師になりました。私は命にかかわる病気を扱っています。癌はすべての人にとって恐ろしい言葉です。その病気に屈する人は多いです。私はこの病気に直面している患者やその家族に、より勇気を持って肯定的に関わることができるようになりました。地上の死を迎えた後は素晴らしい来世に行くことを知っているからです。

SI:あなたの著書の読者に何を期待しますか。

ロング:ここには深い希望のメッセージ、すべての人々に対する神の愛の重要性についての深遠なメッセージがあります。それは人類の関係についての考え方を本当に変化させます。私たちはそれを和合と呼びます。文字どおり何百人もの臨死体験者が、私たちは共にこの世にいて、とても重要なやり方でつながっているとこの本の中で語っています。その認識が育つにつれて、それが世界の変化へとつながり、より平和で愛に満ちた協力的な世界ができることを望んでいます。私たちはかつてないほど善を必要としています。人々は、神の深い愛が彼らの自己認識に影響を与えたと述べています。地上で何を行ったとしても、行わなかったとしても、彼らはまだ神の愛し子なのです。死んだ後も来世は続きます。この地上での人生は誰にとっても困難ですが、素晴らしい来世が待っています。死別した愛する人々と再会することができます。それが私たちの真の運命です。これはとても強力な希望と安心のメッセージです。

さらなる情報は:nderf.org

編集部より

 私たちは極端な偏極化の時代に生きている。その影響を免れる者は、たとえいたとしてもほんのわずかである。現代のこの傾向を、やがて必然的に訪れる顕著な善と変容の徴として体験する者たちがいる一方、他の者たちにとって未来は不確かなように思える。

 シェア・インターナショナル誌は希望や着実な励まし、インスピレーション(鼓舞)の源となることを目指している。私たちの信念はまた、一体性と和合の重要性を、単に理想としてではなく、根本的なリアリティ(真実)として広く知らせることであり、そのリアリティはあらゆる生活領域で表現を求める人間性質の一様相として明らかにされる必要のあるものである。和合の達成には個人と集団の双方によって行われる努力と、ファシズム(全体主義)と光が対峙するこの時代において油断を怠らないことが求められる。ファシズムを抑制する社会の最も重要な基準や防壁の多く──国連や司法等の機関、法の支配や基本的人権のような原則、さらには真実そのものさえも──が攻撃にさらされている。商業至上主義は社会の仕組みの中に食い込み、社会を結合させている多くのものが破壊されつつあり、競争と貪欲が普通のこととして考えられている。しかしながら、覚者方と至るところにいる「意識的な(woke)」※  人々の協力により、簡素さと社会正義という新しい規範へと移行するにつれて、はびこる物質主義はほとんどその自然な経過をたどっている。

 前向きな思考をし、自分も他の人間も神聖であることを知り、ベンジャミン・クレームによる覚者との仕事を通して情報と知恵を身につけたすべての者の前途には、多くの教育的な仕事が横たわっている。クレーム氏の独特な貢献は、不朽の知恵の教えを今日の世界にとって現実のものとし、古代のものと新しいものとを融合させたことである。私たちの目標は、耳を傾ける人々にとって身近であり関係のあるものとしてこの情報を提示することである。こうした方法により、すべての人にとってより健全でより良い世界を創造するのを(個人でも共同でも)手伝うと同時に、自分自身の内的発達に積極的に関与することにもなる。

 (不朽の知恵の)教えは、本物であり、適応可能であるためには、内面的にも外面的にも、体験されなければならず、開けた世界を創造するために主観的なものと客観的なものとを一つにしなければならない。この冒険的事業はハイアラキーの計画の一部であり、それ自体の推進力を持つ。マイトレーヤと覚者方はいまだに、彼らの存在について、関与の継続、助けと慰めが提供されているという明らかな証拠を与えておられる。クレーム氏にしても同様である。本誌の「徴と奇跡」の欄がこの主張を裏付けている。シェア・インターナショナル誌はまた、弟子道に積極的に取り組む人々への支援を提供することも目指している。内的な発達と認識を知らせるために与えられた指針として本誌を見なすこともできる。

 覚者方は人間の、惑星の、そして宇宙の影響力の広がりと流れ、実現可能な未来の形に気づいておられる。世界の情勢と可能性を読み取ることによって、状況が要求し許す限りにおいて彼らは反応し進路を変える。クレーム氏がよく言っていたように、「覚者方は楽観主義者」であり、終わりは始めから知られているにもかかわらず、その時点での機会や課題に応じて計画を調整される。もちろん、変化は恐ろしかったり不安を招いたりすることもあるが、私たちがこの仕事を続けていくとき、結晶化と独断的姿勢を避けることが大切である。

 私たちが、76億人すべてにとってより健全な未来を確かなものにしようとするなら、社会正義を確立することが必要不可欠である、と認識する人々がますます増えている。同様に、地球の健康は、私たちが行動を起こし自分の声を届かせることによってのみ保証されることを私たちは知っている。これは比較的新しい現象であり、覚者方自身によって支持され刺激されている。クレーム氏の覚者が言われたように、人類は成年に達しつつある。至るところにいる男女が責任を負い、意識的にせよ無意識にせよ、霊ハイアラキーとの協働者になろうとしている。多くの活動家、政治思想家、著作家が同じ結論に達しようとしている。つまり、現在のシステムは破綻しており、社会全体で新しい方法を創造しなければならないという結論である。

 先頭を切って行くのはしばしば若者(そして心の若い人々)である。奉仕と進化の継続性は、その時代の課題に対処する能力を備え用意を整えた世代が次々に転生するように取り計らう内的な仕組みによって保証されている。また、このようにして、成熟した洞察力と知恵は、沸き起こる革命への情熱にブレーキをかける働きをし、着実な進歩がなされることを可能にする──覚者が助言されるように、革命というよりはむしろ進化だからである。

 シェア・インターナショナル誌の手紙の欄で描写された体験はそれ自体、奇跡であり、癒し、慰め、教え、未来についての示唆、そして覚者方との、覚者方のための、訓練を目的とした継続的なコンタクト(接触)や仕事についての描写など、範囲と内容は限りなく多様である。この手紙の欄を維持することは難なくできる。尋常でない体験を描写する手紙は受信箱に届き続けているからである。読者からの反響により、覚者方とのコンタクトが続いていることを示すこうした証言がいかに大事であるかを私たちは知っている。

 手短に言えば、未来は明るいが、いまだに勝ち取る必要がある。助けは、導きやインスピレーションとともにいつも手近にある。マイトレーヤは「褒美から目を離さない」ようにと言われた──褒美とは人類のことである。2018年が、私たちが「意識的(woke)」になる時として、「振り子が揺れ動く年」として、やがてすべてのいのちに空間と場所と意味をもたらす変容につながる年として知られるようになることを期待しよう。
シェア・インターナショナル誌は好意的な人々やクレーム氏、覚者方、そしてマイトレーヤ御自身に支えられながら、こうした目標に向けて働き続けるであろう。

 「わたしにあなた方を助ける機会を与えてください。そのためにわたしはここに来たのである。もしあなた方がわたしを受け入れてくれるなら、あなた方をあなた方の運命へと導こう、この世の始めから定められている、その運命へと。
 すべてはあなた方にかかっている。あなた方がそれを可能にする歩みを踏み出さなければならない。
 兄弟姉妹たちよ、わたしたちは自分たちをひとつと見なければならない、そしてすべての者のために共に働かなければならない。
 私たちは表面的にどう見えようと、別々な存在ではない。わたしたちはひとつのグループであり、わたしはその一員である。わたしはそのために、わたしのいのちのすべての瞬間を捧げている。
 今この瞬間も、わたしの祝福があなた方の上にあることを知ってほしい。わたしの祝福を受け入れ、シンプルに愛をもって生きなさい。
 これらの特質はわたしのハートに通じている」

(フランス・パリにおいてRadio Ici & Maintenantとのインタビューの最後に伝えられたマイトレーヤからのメッセージ。シェア・インターナショナル誌 2010年5月号掲載)

※「意識的な(Woke)」は社会的認識の代名詞として使われることが多くなってきている。stay woke(意識的であれ)は、自己意識的で、支配的なパラダイム(枠組み)を疑問視し、より良いものを求めて苦闘するアフリカ系アメリカ人の地域社会の一部で警句となっている。活動家たちは意識的(woke)であり、他の人々に意識的になる(stay woke)よう求めた。本流へと取り込まれた多くの他の新語と同様に、wokeはますます幅広く使われるようになってきている。それは今、意識的な人々が親しく語り合う場所を指す形容詞としても使われている。「意識的なツイッター(woke Twitter)」はつい最近、ソーシャルメディア活動家を描写する簡略表現として使われ始めた。

 

明るい未来を築く——助けを受けて

シェア・インターナショナルの協働者によるレポート

 

2017年7月9日にカナダ、エドモントンを拠点に活動する協働者のマイケル&シェリーン・タイルズ夫妻は、アメリカの元大統領、ジミー・カーター氏とどうしたらインタビューの約束が取れるのだろうかと話し合っていた。カーター氏がエドモントンに来ていて、彼が34年間活動している慈善団体「人類の住まい」と共に家を建設していたからである。彼らは「人類の住まい」宛てにその夜 Eメールを送り、カーター氏が市内に逗留されているときにインタビューをさせてもらえないかと要請した。

翌日仕事へ向かう車の中で、マイケルともう一人のシェア・インターナショナルの協働者であるティム・ボーツクとは、このまま仕事をさぼって、カーター氏を探しに出かけようかと冗談を言ったりしたが、もちろんそうしたわけではなく、仕事場へ向かった。午前中の休憩時間に彼らはコーヒーを買いに出かけ、仕事場へ戻る途中、付近に不案内だったので、曲がり角を間違えてしまった。彼らが見慣れぬ通りを数分走ると、突然大きな工事現場に行きつき、そこには『人類の住まい』というサインが掲げられていた。彼らは車を止め、工事現場に行く時にはいつも行う通常の手続きである作業装備を身に着けた。

現場の入り口では、驚いたことに、警備員が彼らを入れてくれた。彼らは、少なくとも写真を23枚撮らせてもらおうと、カーター氏が家を建てる仕事をしているところへ進んでいった。彼らはどうしたらもっと近づいて質問ができるのだろうかと思案していたが、彼らのすぐ後ろには、カーター氏の報道担当官がいて、自分の名前はブライアンだと名乗った。それでマイケルとティムは、自分たちはシェア・インターナショナルのボランティアだが、間もなく行われようとしていた記者会見に出席できるだろうかと尋ねた。報道担当官は、これには報道関係者だけしか出席できないが、聞いてみようと言ってくれた。

マイケルとティムは記者会見が行われるテントへ向かった。するとほどなく、ブライアン氏が現れ、そこに出席してもいいが、質問をできる保証はない、と告げた。この記者会見ではカーター氏の他に妻のロザリン夫人ほか数人が話をした。終わり近くになって、幾人かが質問をしようと挙手をしたが、マイケルも手を挙げた。マイケルとティムだけは報道関係者の名札を付けていなかったが、マイケルが最後の質問者に選ばれた。質問は3人の協働者の間で話し合って決めていたものだった。すなわち、「普遍的ベイシック・インカムについてあなたはどう思われますか? それはどの人も家族も、安全で、こぎれいで、手ごろな家を持つ助けになるとお考えですか」というものだった。

「確かに誰でもが、生活し、生きていけることのできる適正な所得を持っていてほしいと思います。カーター・センターは、世界80カ国にプログラムを持っていて、私たちはエチオピアやその他の収入が非常に少ないアフリカやラテンアメリカ諸国にもよく行きます。例えば、南アフリカに幾つかの家を建てましたし、リベリアでもたくさん仕事をしました。リベリアでは平均的な人でも1日にわずか50セントしか収入がないことを知りました。1日1ドルや2ドルでどうやって暮らしていけるのかを考えてみたら、とても無理だと思うでしょうが、彼らはそれで生き延びてきたのです。

貧困の中で生活している人々を、稼ぐ努力が足りなかったせいだと過小評価しがちです。

しかし、私たちはこの住まい造りの仕事の中で、またカーター・センターの仕事の中でも、時に劣っていると見なしている人々は私同様懸命に働いており、私同様大きな望みもあり、家族に対する価値観は私同様に素晴らしいことを発見しました。ですから、私たちより時に低い位置にいると思っている人々を同等だと認めるには、私たち自身を低く見ることによってではなく、他の人々を高く認めることによってなのです」

ジミー・カーター氏は第39代アメリカ大統領であった。彼は201710月に満93歳になるが、2017年7月には、妻ロザリンとの結婚71周年を祝ったばかりである。

写真:元アメリカ大統領ジミー・カーター氏と元ファーストレディのロザリン夫人は、カナダ、エドモントンの『人類の住まい』の仕事を手伝っている/photo: Habitat for Humanity

 

ベンジャミン・クレーム美術館

特集記事:ベンジャミン・クレームの芸術(5)

オルガ&スコット・チャンピオン

 

 ベンジャミン・クレーム美術館は、南カリフォルニア地域、および広く全米、そして全世界からの訪問者に、ベンジャミン・クレームの絵画を紹介できることを光栄に思う。固定的な美術館にすることを避けたいというクレーム氏の希望を叶えるべく、訪問者はクレーム氏のオリジナル絵画30点を鑑賞する機会があり、そのうち20〜22の作品が常時展示されている。世界教師の出現を知らせる先駆者としての彼の役割について知らない初めての来館者のために、美術館はその中心に「タンカ–到来するマイトレーヤ仏陀」(1965年)を置いて、クレーム氏のより大きなメッセージが伝えられるように展示している。
 美術館にとって、秘教絵画と到来するアバターである世界教師マイトレーヤの教えを合わせて、大勢の参加者に対して定期的に講義するのは楽しく発展的な時間である。これらの講義は好評を得ており、一般大衆のクレームの絵画とメッセージに対する反応を見ることは、心が温まる。これまで、アメリカ国内から来た大勢の人々の他に、イギリス、フランス、ドイツ、ポルトガル、ルーマニア、インド、中国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、グアテマラ、メキシコなど、世界中からの訪問者が訪れた。
 オープンしてから2年間にベンジャミン・クレーム美術館は、初めてやって来た来訪者の反応について、一つの非常に一致した反応を私たちは経験している:つまり、この新しいジャンルの秘教絵画に対する肯定的で、驚きに満ち、勇気づけられる反応である。来館者は、美術館にやって来ると、突然立ち止まって、「一体これは何だ?」「大きいね!」と声を上げるのが、いつものことである。多くの人は、「われわれはどうしてこの人のことを知らなかったのだろうか」と尋ねる。訪問者たちはクレームの高度に熟達した技巧–力強い色、通常ではないが美しいシンボル、美術館を満たしている容易に感じられるエネルギー –についてコメントする。画家やアーティストたちがやって来ると、彼らは独自の方法で反応する。また他の芸術家を一緒に連れて来て、クレームの革新的な絵を見させ経験させる。
 特に記したいことは、数カ月前に美術館を訪れた二人の芸術関係のプロたちの反応である。美術館に入ると、そのうちの一人、美術館の管理者(キュレーター)、が声を上げて、入り口のホールにかかっている感動的な抽象画、Embedded(1968 年)という作品を見て、「この絵はすごい!」と言った。もう一人は、世界でも大きく有名な商業的なギャラリーの一つで展示部門の主任だったが、この訪問から間もなく、ベンジャミン・クレーム美術館に連絡して来て、間もなく行おうとしているロサンゼルスでの展示会に、幾つかのクレーム氏の絵を貸してもらえないかと尋ねてきた。タンカ(1965 年)は美術館に残さなければならないが、メディテーション(1964 年)、ソーラーエンジェル㈽(1990年)は貸し出せると同意した。これはクレームの作品の優れた展示例となるだろう。この主任は、ソーラーエンジェルⅢについてこうコメントした。「これこそ私が探していたもの–エネルギー、いのち、そして光です」。
 これと同様に、シェア・インターナショナル誌の購読者に興味があるのではないかと思うのは、ベンジャミン・クレームが19歳の時に書いた初期の作品で『シブリーン・フィギュア(Sybilline Figure)』(sybilとは一種の神託者の意)が、スコットランド国立近代美術館に最近展示されている。この作品は現在、フランシス・ベーコンの2作品の他、クレームの初期のころの師であったヤンケル・アドラーと同時に、プルネラ・クロー、ロバート・コルクホーン、ロバート・マクブライド、ウィリアム・ターンブルらの当時の同時代の画家たちの作品と共に展示されている。
 ベンジャミン・クレームは美術界で広く認められるようになると私たちは信じており、またいずれ彼は世界の偉大な画家たちの中で認められた地位を占めることになるとも確信しているが、この美術館の目的は単に彼の絵画を展示する以上に、より広い役割を持っている。それは、クレームが彼の人生を完全に捧げたメッセージ–世界教師と知恵の覚者方の再臨–にも関係し、そしてクレームがこの深遠な経験の準備のために世界に提供した膨大な情報の体系に関係する。この美術館の任務を遂行するために、クレームの秘教絵画は「不朽の知恵の教え」として知られる広範な秘教文献に含まれる情報についての導入口として、また大衆の認識の拡大へ通じる道として用いられている。主にクレーム自身の絵と教えに焦点を当てながら、マダム・ブラヴァツキー、アリス・ベイリー、ヘレナ・レーリッヒの秘教文献にも焦点を当てている。美術館についてのクレームとの最終段階の話し合いの一つで、彼はこう述べた。「それは、本当は、マイトレーヤについて、彼の世界教師としての役割について、そして知恵の覚者方と彼らの人類へのアプローチについて、関係するのです」。

このことは、美術館についての以前の話し合いに続いていて、私たちにはその時ベンジャミン・クレームの師が参加してきて、美術館を現在の進路に導く情報を提供されたように感じた。彼は言った。「美術館は単にベンジャミン・クレームの絵に関わるだけではなく、彼の生涯に関係する:彼の仕事、彼のメッセージ、彼の書物と教え、彼のグループ活動、彼の絵、彼が行ったすべてに関するのである。彼は真理を語っている者である」

 

(より詳しくは、benjamincrememuseum.orgをご参照されたし)