編集長への手紙

シェア・インターナショナル誌には、未掲載手紙の保留分が多数あり、それらはベンジャミン・クレームと彼の師によって、覚者方あるいは「代弁者」との本物の出会いであると確認されたものである。その他の掲載された手紙は新しいものであり、覚者が関わっていたかどうかを確認すること、もしくは示唆することもできないが、読者の考慮のために、これらの手紙は提供されている。

顔を合わせて

編集長殿
 たった今、私は驚くべき体験をしました。その経緯からお話しします。2008年にバルセロナのベンチに座っていた、1人の男性の写真を2枚撮影したのですが、その人はその後ベンジャミン・クレーム氏の師から、マイトレーヤのファミリアであったと確認されました。写真の1枚にはマイトレーヤがうつむいていて、わずかに斜めを向いた顔が見えています。私は両方の写真をコンピューターに保存し、そのうち1枚を縮小画像でデスクトップ画面に置くことにしました。驚いたことには、パソコンにその縮小画像を置くと、マイトレーヤの顔がまっすぐに私の方を向いていたのです!
 私は2020年の夏に新しいコンピューターを買いました。写真全部を新しいコンピューターに移動して、古い方でやっていたように、同じマイトレーヤの写真の縮小画像をパソコンのデスクトップ画面に置きました。けれどもこの時には写真は変化せず、元の写真のように顔は私の方を向いていませんでした。
 今夜(2021年3月23日)、マイトレーヤについての広報で活動している友人たちと、ズーム・ミーティングをしていた時、その縮小画像の名前がただの『.jpg』であることに気づきました。「これは良くない!」と思い、その縮小画像名を『Maitreya.jpg』に直すことにしました。ちょうど新しい名前を保存してその画像を見たところ、彼の顔がこちらを向いて、私の正面になっていたのです!
 私には奇跡のように思えました!!
(元の写真2枚と新しい縮小画像の画面コピーを添付しています)
サビーナ・クレシ
カナダ、エドモントン

この写真はベンジャミン・クレームの師によって、ファミリアの姿のマイトレーヤであると確認された。2008年にバルセロナに現れた時のものである。マイトレーヤと覚者方はしばしば扮装をして、または『ファミリア』を使って現れることを選択する。この人物はおそらくマイトレーヤとは似ても似つかないであろう。

喜びの演奏

編集長殿
 2004年の夏の日暮れ頃に、私は公園の南側にあるベンチに座っていました。私の書いた本が出版されることになったので、良い気分でした。ベンチには私の真横に2人の男性が座っていました。私たちはおしゃべりを始めました。彼らはロンドンから来た友人同士でした。背の高い白人の男性と、比較的小柄で『カフェオレ』色の肌をした男性で、その人はザンビア出身だということでした。私たちは私の本の内容について話をしました。
 私はアルメニア・フルート(ドゥドゥク)を持ち歩いていました。ラジオでフルートのことを知りました。この楽器に大変魅了されたので、演奏したくなったのです。背の高い男性が「それこそ人が楽器を演奏し始める、唯一の方法だね」と言いました。日が暮れていく頃の、周りに人が誰もいないか、ほとんどいない時にだけ演奏していると私が言いました。「それは残念ですね」と彼が言いました。小柄な方の男性も私に演奏するように励ましてくれて、典型的なジャズの吹奏パートを口真似して、指でフルートを演奏するフリまでしていました。
 ドゥドゥクは哀愁漂う音色で知られていて、普通は彼が言うようなジャズ風の激しいスタイルで演奏しないものです。どうしてそうなったか深く考えないうちに、その2人の思いやりのある男たちと一緒にいて、とても気楽なうれしい気持ちになりました。日没の2時間前に、公園内で人々が通りかかったり、周囲に座ったりしている中で、時々少しだけ恥ずかしくなりましたが、演奏を始めてしまったのです。背の高い男性が帽子を地面に投げたので、私は笑いました。演奏後も、私たちの会話はしばらく続きました。さようならを言った時、彼らはすでに数メートル離れていて、小柄な男性が再び振り返って、「あなたの本のタイトルは何?」と尋ねてきました。「極性のパラドックス」と私がその距離でも十分聞こえる大声で答えました。彼は「極性のパラドックス」と繰り返して、「極性(ポーラー)」の所が正しい英語の発音になっていました。
 彼らは『ただの』友人たちだったのか、それとも友人である覚者方だったのですか。
クリスティアン・ラインハルト
ドイツ、ミュンヘン
【ベンジャミン・クレームの師は、彼らがマイトレーヤとイエス覚者であったことを確認した】

ハイウェイ救助

編集長殿
(手紙は2006年着)
 あなたの著書、『世界教師と覚者方の降臨』を読んでから数年後に、あなた(ベンジャミン・クレーム氏)が1992年にバンクーバーで講演を行うという、タラ・カナダからの知らせがありました。義理の息子と私は参加することにしました。私たちは(バンクーバーから)450キロメートル内陸に住んでいます。
 バンクーバーから1時間ほど車で走った辺りで、私たちの車は止まってしまいましたが、義理の息子には修理できませんでした。私たちは高速道の脇で、通行する車の誰かが助けてくれるのを待つことにしました。20分ほども経たないうちに、運搬トラックが止まり、運転手が助けを申し出てくれました。彼は運転席に乗り込んで、ステアリングの調整のようなことをしてくれました。それ以降は、ありがたいことに車は動いたのです。
 トラックの運転手は30歳くらいの男性で、きちんとした清潔な作業服を着ていて、きれいに輝く金髪で、気さくで親切な人でした。この人は普通の男性だったのか、それとも、もしかして覚者でしたか。
I.H.
カナダ、アームストロング
【ベンジャミン・クレームの師は、その男性がイエス覚者であったことを確認した】