「世界中のあらゆる講演において、ベンジャミン・クレームは広大な範囲の領域に及ぶ大量の質問を受けました。この大量の記録から、過去の年月にベンジャミン・クレームと彼の師である覚者によって提供された回答を掲載したいと思います。そのいずれもこれまでシェア・インターナショナル誌に未掲載のものです」
Q マイトレーヤが公に現れた後に変化を欲しない人々には何が起こりますか。例えば、キリスト教原理主義者のような人々です。(アメリカのラジオ・インタビュー、1991年11月27日)
A 変われない人々は、変わらないでしょう。彼らはたぶん次の転生で小さな赤ん坊として生まれ、そのときに変わるでしょう。しかし彼らは彼らのマインドを条件づけ遮蔽(しゃへい)する教えや教義やドグマにあまりにも条件づけられているので、目の前のリアリティを見ることができません。実際、これらのキリスト教団体は最後までキリスト――「彼らの」キリストを認知しないでしょう。彼らはキリストについて間違った考えを持っています。彼は天国の神の右手に座っていると思っています。そうではありません。彼らは、キリストが唯一の神の息子であると思っています。そうではありません。彼らはあなたや私のような人間であり、偉大な霊的存在、一人の神にまで進化した存在です。すべての覚者方は神であり、私たちも潜在的にはそうです。キリストや仏陀、または「普通の」覚者との違いは、彼らはある種の完成を達成していますが、私たちはその途上にあるということです。彼らは私たちがいつかそうなるべき模範です。それは誰にとっても真実です。彼らは既製品の天国から降りて来る神々ではありません。彼らは、ちょうど私たちが神々となるのと同じように、進化のプロセスを経て神々となったのです。今日の人類と初期の動物人間を比べたら、そこには膨大な距離があります。しかし覚者方と比べたら、私たちは何者でもありません。彼らの見地からは、すべての可能性はそこにあります。彼らは潜在的な可能性を知っています。私たちは自分の可能性を知りません。
彼らはこの可能性を私たちに示すためにもっと多く世界にやってきて、私たちがいつかそうなれることを示します。彼らを見るとき、彼らのマインドの輝きが分かるでしょう。彼らのビジョンの広大さ、世界を愛し仕える能力は、計り知ることができません。キリスト教原理主義者たちは、マイトレーヤを恐れ、憎んでいるので、頑かたくなになっています。彼は彼らを傷つけたりしません。彼は彼らを愛しており、愛するのが容易な人々よりも愛しています。なぜなら彼のマインドには、彼と彼らの間に分離がないからです。いつか彼らは、彼が愛の主であり、いかに愛するかを教えるために来たことを知るでしょう。それを学ばなければなりません。
Q どうすれば愛のエネルギーを今、今夜、今日受け取り始めることができますか。それは可能ですか。
A それは受け取るという問題ではありません。それはすでにそこにあります。あなたの本性に本能的に備わっているものです。あなたは転生した魂です。魂の性質は愛です。それは自然なことです。しかし、あなたはそれを放出するかしないかです。ほとんどの人はしません。なぜなら恐れているからです。拒絶されることを恐れます。私たちが強くなければ人々は私たちを愛さないと思っています。私たちは競争しており、お互いに競争している限り、愛を表現することはできません。競争は価値あるものではありません。競争は恐怖の結果であり、恐怖があるところには愛はりません。恐怖を取り除きなさい。そうすれば自動的に愛が表現されるでしょう。
Q 子供には特定のエネルギーがあります。彼らは生き生きしていて、愛の精神に満ちており、私たちもあるレベルでそれを持っています。私たちはどうにかして、最初に転生したときの、この真のフォース、愛の力とつながっていますか。
A 疑いなくそうです。子供たちは世界のあらゆる必要に満たされていません――どうやって生計を立てるか、生活していくかについて知りません。各教師がやってきて、教えを与え、死んで世を去ります。教えを保つために、教師は神へと高められ、彼を天国やニルヴァーナに持ち上げます。そうして私たちは腐敗した日常を続けることができます。彼は私たちの肩越しに私たちが仲間の背中を刺すのを見ていたりしません。子供たちはそのようなことはしません。確かにおもちゃを巡って争ったり、子供たちの中にも利己心はありますが、それは彼らが彼らの問題を備えて転生してくるからです。しかし、彼らは無垢な心を持っています。彼らのマインドは自分たちのために物事をこしらえません。人々を操作したりしません。子供たちは概して他の人々を操りません。私たちは自分の必要を満足させるために誰もかれも操ります。私たちは誰もかれも利用し、それが私たちの有害さです。そうすることで自分を破滅させています。人々が自分を好み、尊敬し、欲するものを与えるべきだと思っています。人生で常に欲望を満足させ続けていますが、進化の道は欲望を殺すことです。仏陀は、「欲望を殺し、真理を悟りなさい」と言いました。私たちが神と呼ぶものは、私たちの裡うちにあります。私たち自身と分離したものではなく、私たちの裡うちに、周りにあります。それ以外のものは存在しません。子供たちはくだらないもので心をいっぱいにしていないので、それを顕あらわします。前世から持ち越した少しのものはあるかもしれませんが、子供たちは素晴らしい無垢さ、不思議を感じる心を持っており、世界は新鮮なものです。子供のころ、クリスマスの前に雪が降ったときのことを覚えているでしょう。今では、雪かきしなければと思うと苦痛に思えます。私たちは不思議を感じる心を失っています。
Q マイトレーヤとイエス・キリストの間の関係は何ですか。
A ロード・マイトレーヤ、キリストは、キリスト原理、神の愛の様相を体現しておられます。彼は弟子イエスを洗礼から磔刑までオーバーシャドウし、イエスは、この3年間、キリストになりました。しかし、キリスト、ロード・マイトレーヤは、つい最近までヒマラヤに留まられました。弟子をオーバーシャドウすることはアバター出現の通常の方法です。イエスは(覚者となった後)モハメッドをオーバーシャドウしました。モハメッドはイエスの弟子でした。イエスはモハメッドを通してコーランを与えました。宗教紛争は完全に人工的で、人為的なものです。ただ一つの教えがありますが、様々な形を取っています。それぞれの宗教が、特定の集団、特定の伝統、思考や感情の様式に向けた時間と空間の中で教えの様相を体現し、彼らは特定のやり方で教えを解釈します。しかし、純粋な形で私たちに与えられた教えは一つもありせん。すべての教えは、多かれ少なかれ、歪曲されています。なぜならそれが普及するのに何世紀もかかるからです――最初は口伝で。必然的に、これらの歪曲が忍び込み、公認の教えと非公認の教えが出てきます。しかし、これらすべての教えの底にあるものは、秘教の伝統であり、この伝統に従う人々以外には隠されています。