読者質問欄

世界中のあらゆる講演において、そして生涯のほぼ毎日、ベンジャミン・クレームは広大な範囲に及ぶ大量の質問を受けてきた。この大量の記録から、過去の年月にベンジャミン・クレームと彼の師である覚者によって提供された回答を掲載したい。

次の質疑応答は、1990年7月12日に米国カリフォルニア州サンフランシスコで行われたベンジャミン・クレームによる講演会からの抜粋である。

Q マイトレーヤは、求められたときのみ現れるとおっしゃいました。ご見解をお聞かせください。

ベンジャミン・クレーム:それは誤解だと思います。マイトレーヤは求められたときだけ現れる、と私は言っていません。マイトレーヤは、求められても求められなくても、人々に現れます。夢の中で現れたり、ビジョンとして現れたり、がっしりした肉体で現れたりします。彼の臨在を実際に求めた人を、私はまだ誰も知りません。こうした三つの方法すべてで彼が現れた人々のことを知っていますが、誰も、特に求めたわけではありません。必ずしも座って「マイトレーヤ、どうかお姿を見せてください」と言ったのではなく、そうした人々自身が内面的に心を開き、準備を整え、心の中で彼に会いたいと願っていたのかもしれません。それは十分にあり得ることです。

Q  一方で、あなたが言われることの真実性を強く感じながらも、他方で、その真実性が顕著な再臨の活動に直接作用することなく、むしろその刺激を別の分野や奉仕の道に応用しようとする人の中に、葛藤やグラマー(幻惑)を見て取りますか。

クレーム:私の考えでは、それはグラマーと言わざるを得ません。お許しください、それはグラマーです。もしあなたが、いかなるレベルであれ――私が持っているような確信や経験は持ち合わせていなくとも――これが真実であると信じるなら、少しでも確信の兆しがあり、それがあなたにとって真実の響きを持つなら、その真実があなたに語りかけているどのようなレベルであれ、それを知らせてください。重要なのは、希望の風潮、彼の到来への期待感を醸成することです。そうすれば、私たちの自由意志を侵害することなく、マイトレーヤは実際に、私たちの生活の中に入ってくることができます。どんなレベルであっても、信じることのできるすべての人が、そうした認識に貢献します。それは期待の風潮を生み出すだけでなく、人類の精神を高揚させます。人々が希望を、未来への希望を抱く条件をつくり出します。人々は戦争が終わったことを理解します。この不平等で不幸な世界において、もし自ら参加すれば、すぐそこに変革の始まりが待っていることを知るのです。ですから、自分のエネルギーを使って行っている他の何かが、これと同等の重要性を持つと考えるのはグラマーです。自分の小さな個人的生活を脇に置き、それを全人類の利益のために捧げる時が来なければなりません。

Q 生きるための三つの原則の一つである「無執着」の定義について詳しく説明していただけますか。

クレーム: 無執着にはさまざまな意味合いがあります。多くの人は、無執着を実際には無関心とみなしています。出来事からあまりにも距離を置いて、冷たく、愛のない、素っ気ない態度で無関心でいることだと捉えています。世界を「切り離して」考えます。

 マイトレーヤが意味し、理解する「無執着」とは、まさにその反対です。無関心の反対です。人生とそれが意味するすべてに完全に没頭しつつ、同時に、真我と正しく関わることによって、真我の器から自分を引き離すことです。彼は「真我のみが重要である」と述べ、私たちの苦しみは、真我ではないあらゆるものと同一化することによって引き起こされると説きます。私たちは肉体や感情構造、エネルギーシステム、マインドやマインドの構築物、信念体系、条件づける内面世界と同一化しがちです。これらと同一化し、それが自分だと思い込んでいます。それは私たちではありません。私たちは肉体でも、マインドでも、感情でもありません。本当の私たちは、不滅の存在、つまり転生している魂として反映している真我です。

 魂は、真我と転生した人間との間の中間段階、神聖な仲介者です。真我としての自己との正しい同一化によって、私たちは喜びと愛のうちに正しく生きることができます。人生と、それが意味するあらゆることに完全に没頭しつつ、同時に執着を持たないで生きることです。この無執着の過程とは、肉体やマインド、感覚、アストラル体などとの関わりから無執着になることです。これは誤った整列、同一化の過程から自分を解き放つ過程です。愛という観点からも捉えることができます。誰かを所有欲を持って愛することも、無執着を持って愛することもできます。それは全く異なる種類の愛です。私たちが愛と呼ぶのは、「あなたが私を愛してくれるなら、私もあなたを愛します。いいですか。取り引きですよ」という関係です。それは所有欲という愛です。「もしあなたがその愛を私から他の誰かへと向けたら、私は怒りますよ」。それは、愛ではありません。所有欲です。無執着の愛とは正反対のものです。

 無執着の愛とは、その本質ゆえに、無条件に続いていく愛です。反応的ではありません。愛し返されることに依存しません。それが無条件の、無執着の愛です。マイトレーヤが意味する愛とは、まさにこのような愛です。無執着の過程とは、自分自身を解放すること、したがって、真我を、その器の罠にとらわれることから解放することです。もし自分を器――つまりマイトレーヤの言われるマインド(心)、スピリット(生気)、ボディー(肉体)――とみなすならば、真我をそうした器の中に閉じ込めてしまいます。そうなると、私たちは条件付けられ、無執着について何も知らないことになります。

 私たちが行うあらゆることは反応的です。私たちが行うあらゆることは運命づけられています。しかし、無執着になれば、自分自身の進化をコントロールするようになり、私たちのあらゆる動き、あらゆる行動は運命づけられなくなります。それは一瞬一瞬の、独創的で、自発的で、創造的な行為であり、あらゆる顕現の背後にある創造的な真我としての自己への気づきから生まれるものです。それがマイトレーヤの新たな教えであり、例えば、人間の魂の本質について語った時にイエスが始めた教えでもあります。

 マイトレーヤは、直ちにその魂になる方法を私たちに教えるために来られます。私たちの人生の次の段階、次の2,000年間に起こることは、これまでは偉大な教師たち、イエス、キリスト、仏陀、グル、ヨギなど、世界の偉大な教師たち、つまり真我を知り、真我となり、一瞬一瞬、真我を実現した偉大なリシたちの特権であった経験が、すべての人々の共有財産となるということです。大多数の人々はこの来るべき時代において、自分自身を神聖なる真我として直接的に、自発的に、創造的に、正しく体験することになるでしょう。これこそが、まさに始まろうとしているこの来るべきアクエリアス(宝瓶宮)の時代の途方もない約束なのです。その過程とは、マインド(心)の正直さ、スピリット(生気)の誠実さであり、真我の器との誤った同一化から自分自身を引き離して無執着になることだ、とマイトレーヤは言われます。

Q バハーウッラーについてご存じでしょうか。

クレーム:バハーウッラーは、世界中の何百万もの人々を助けている主要な宗教、いわゆるバハーイー教を創始した教師でした。バハーウッラーは自分がキリストであると思っていました。バハーウッラーの教えはマイトレーヤの教えでした。彼はマイトレーヤによってオーバーシャドウされました。バハーウッラーは第3段階のイニシエートでしたが、自分よりも偉大な存在がいることに気づいていませんでした。神のみが存在すると考え、自分の教えは神から直接与えられたもので、したがって、自分はキリストであるに違いないと感じていました。教皇や政府の長、国王らを訪ね歩き、自分がキリストであると主張しました。彼は心から、自分がキリストであり、教えが直接神から来ていると信じていました。しかし、それは真実ではありませんでした。神は誰に対しても直接語りかけることはありません。聖書に「神が語られた」とある場合、それは象徴的な表現にすぎません。その人物が神からではなく、何らかの神聖な源から何らかのコミュニケーションを受けたことを示しています。それはマイトレーヤ、イエス、あるいは何人かの覚者だったかもしれません。この場合、バハーウッラーの教え、バハーイー教は、主マイトレーヤから来た教えを体現していました。だからこそ、それは素晴らしいのです。

Q 私たちの惑星ハイアラキーにおいて、仏陀の役割は何でしょうか。マイトレーヤとの関係はどのようなものでしょうか。

クレーム:仏陀とマイトレーヤとの関係は兄弟の関係のようなものです。彼らは兄弟です。彼らは、はるか昔、アトランティス時代の初期の、現れつつある人類において、当時最高のイニシエーションを受けた最初の者たちの中におりました。これは今日では、第3イニシエーションにすぎません。彼らはそれ以来ずっと、私たちの惑星の進化の最前線に立ってきました。絶え間なく共に働き、今日も共に働いています。

 この惑星には三つの主要なセンター(中心)が存在します。人類自体が一つのセンターです。神の知が顕現するセンターです。覚者方とイニシエートたちも一つのセンターです。神の愛が顕現するセンターです。さらに、シャンバラと呼ばれるもう一つの、より高次のセンターが存在します。それはエーテル物質の中にあります。ゴビ砂漠に、物理的に固体ではなく、エーテル物質で存在します。そこには世界の主、サナット・クマラとたくさんの「存在者」が住まわれており、その一人が仏陀です。

 仏陀は偉大な宇宙のイニシエーションを受けられました。仏陀は、弟子であるゴータマ王子を通して、神の知恵の様相の体現者として御自身を示されました。人間における完全なる知恵が、ゴータマを通して仏陀によって示されました。人間における完全なる愛は、イエスを通してマイトレーヤによって示されました。そして今回、マイトレーヤ御自身が到来され、知恵だけでなく、愛だけでなく、さらに高度なもの、意志を示されます。それは愛と知恵を含むものです。彼は、世界がかつて見たことのないような途方もないアバターです。ご承知おきください、彼は、これまでのどのアバターよりも大きな仕事を担われています。

Q イエスが初めて来られた時、私たちの自由意志を侵害しなかったのでしょうか。

クレーム:彼はほとんど知られていませんでした。人々はよく、イエスは数千人に広く知られていたと言いますが、そうではありませんでした。3年間の宣教の後、彼には3人の親しい弟子と12人の他の弟子がいました。内輪のグループは72人、関心を持った人は500人でした。それが2,000年前、イエスに従った人々の総数でした。一般大衆は彼を知りませんでした。実際、弟子の一人であるユダは買収され、賄賂を受け取ってイエスを指し示したことにより、兵士たちはイエスを逮捕できるようになりました。

 イエスは私たちの自由意志を侵害しませんでした。ただ立ち上がって語り、説教し、国中を巡りました。たいていは身を隠して、あちこちを回っていました。非常に困難な状況でした。彼のことを扇動者だと考える者たちがいたからです。

 多くのユダヤ人は彼を戦士王として待ち望み、実際に挙兵してローマ軍を攻撃することを期待していました。福音書によると、彼がロバに乗ってエルサレムに入った時、人々は道に花を敷き、「ホサナ! ホサナ!」と叫びました。彼が挙兵するために来たと考えたからです。だからこそ、人々は拍手を送り、「ホサナ!」と叫びました。だからこそ、花を敷きました。しかし、彼はそうしませんでした。実に単純な話です。人々は彼に失望させられたと感じたので、それを裏切りとみなしました。

Q 集団心理の理論とはどのようなものでしょうか。

クレーム:集団心理は集団意識の結果です。この来るべき時代に、人類は次第に集団意識を発達させ、精妙なテレパシーが至るところで開花するでしょう。誰もがテレパシー能力を持ち、相手の意図を正確に理解するので、嘘をつくことは不可能になります。ですから、心(マインド)の正直さが不可欠となります。

 テレパシーは、今でも覚者方とその弟子たちの間でそうであるように、通常の会話手段となるでしょう。覚者方は言葉を交わしません。無駄な議論をしません。一瞬一瞬、テレパシーを用います。互いに連絡を取り合い、一部の弟子たちとも連絡を取り合っています。この能力の萌芽はすべての人に潜在しています。動物王国にさえ潜在しています。誰もが潜在的にテレパシー能力を有しています。人が磁力的になると、テレパシーは自然に発達します。訓練を重ねることで、よりテレパシー的になり、すべての人に備わっているこの生来の能力を徐々に意識的なものへと変えることができます。これは人々にとっては無意識的なものです。母親と子供はしばしば密接なテレパシー的な接触を持ちます。母親は、子供に何か異常があると本能的に気づきます。何かが起こっていると感じ、実際にそれを知っています。太陽神経叢を通じて感じ取ります。頭の中で明確になれば、それは意識的で、制御可能で、建設的な、マインドとマインドのコミュニケーション手段となります。

Q マイトレーヤがカラチからロンドンまでどのようなパスポート/国籍で旅をされたのでしょうか。税関で面倒なことにならなかったのでしょうか。

クレーム:彼はパキスタンのパスポートをお持ちです。アジア系コミュニティーではいつもパキスタンの服を着ていますが、実質的に国籍はありません。彼はヒマラヤからやって来ました。ヒマラヤ、特に標高約5,300メートルの山は誰のものなのでしょうか。そこへ登頂する登山家はごくわずかです。実際に税関で面倒なことになったと聞いています。彼は普通の男性として入国しました。移民として入国することもできたでしょうが、そうすれば英国では不法滞在者となっていたでしょう。彼は完全に合法で、決して法律を破りません。税関では、職業欄に「教師」と書かれたパスポートを提出しました(彼は世界教師だからです)。

Q 「ハイアラキー(階層)」という言葉は多くの人々を不快にさせます。教会やナチス・ドイツのような権威主義的組織を連想させるからです。ハイアラキーではなく、単に「マスター(覚者方)」と呼ぶのはいかがでしょうか。

クレーム:それは覚者方のハイアラキー(階層)です。実際に階層です。それが肝心な点です。覚者方自身が、ある者は別の者とは異なるレベルにあることを認めています。第5イニシエーションを受けた者は覚者です。第6イニシエーションを受けた者はより高度な覚者、つまりチョハンです。マイトレーヤのように第7イニシエーションを受けた者は、「惑星のいのち」となります。

 私たちが覚者方を仰ぎ見るように、覚者方はマイトレーヤを仰ぎ見ています。それはハイアラキー(階層)です。通常の意味での権威とは全く関係ありません。霊的な権威や、より偉大な経験、個人に授けられるより深い認識に関わることです。だからこそマイトレーヤは、いかなる理由があっても、人間の自由意志を侵害することはありません。それは権威の乱用となるからです。決してそのようなことはしません。崇拝されることも望んでいません。たいていのグルは崇拝されることを望みます。信者を求めています。しかし、彼はそうではありません。彼はこう言われます。「わたしを崇拝してはならない。わたしに従ってはならない。わたしを追いかけてはならない。そうすれば、わたしを見失ってしまうだろう。もしわたしを崇拝するならば、あなたは自分を低めようとしている。しかし、あなたはわたしより下にはいない。あなたはわたしと同等である。わたしたちは共に神である」。そのように、自由意志が侵害されることは決してありません。

 私は、コミュニティーの中にいるマイトレーヤに最も近しい人々を知っています。彼らはあらゆる愚かなことをしていますが、彼は決して文句を言いません。自分の意志を彼らに押しつければ、「権威」になってしまうため、彼らがそうするのを許します。彼はそのように押しつけることは決してありません。マイトレーヤのようなアバターであることがいかに難しいことか、あなたはきっと驚くでしょう。

Q 誰でも過去に何度も転生を経験してきたのでしょうか。それとも、今生きている人の中でこれまで一度も転生したことがない人はたくさんいるのでしょうか。

クレーム:これまで一度も転生したことのない人はいない、という答えになります。動物王国から人間王国への転生の扉は、はるか昔に閉ざされました。この部屋にいる皆さんや、普段の生活で出会うであろうすべての人は、何千、何万回と転生を繰り返してきました。「私は八度目にして最後の転生を終えようとしています」と言う人は、大きなグラマーの下に生きており、次に戻ってきたときにはひどく驚くことになるでしょう。

Q 良いカルマというものは存在するのでしょうか。あなたは、カルマしかないか、あるいはカルマが全くないかのどちらかだと示唆されていますが。

クレーム:カルマの法則は、原因と結果の法則です。私たちのあらゆる思考、あらゆる行動が原因を始動させます。こうした原因から生まれるのが結果です。こうした結果が良くも悪くも私たちの人生を形づくります。ですから、私たちは常に自分自身の人生の条件をつくり出していることになります。何千回、何万回もの転生において、これを繰り返してきました。

 私たちは大きなカルマの結び目をつくり出してきました。それが磁力的に私たちを何度も何度も転生へと引き戻します。こうした大きなカルマの結び目を解きほどくまで、そのようにし続けます。これが本当のところです。カルマの結び目をほどく方法は、世界に奉仕することです。あなたの奉仕が、カルマといわば天秤にかけられ、奉仕活動、世界に奉仕するという意識的な行動がカルマを上回るまで、これは続いていきます。

 しかし、興味深いことに、人がカルマと言うとき、悪いカルマのことを言っています。しかし実際には、悪いカルマよりも良いカルマの方が多いのです。あらゆる見かけにもかかわらず、人々には悪いところよりも良いところの方が多いのです(私は「良い」「悪い」を、単に相対的で非現実的な意味で使っています)。良い行いは良いカルマを生み出し、悪い行いは否定的なカルマを生み出します。実際には、都合の良い(convenient karma)カルマと都合の悪い(inconvenient karma)カルマしか存在しません。